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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/07/17

四神4 高句麗古墳の壁画2



高句麗の古墳には、同時代、同地域に、異なる玄武図が描かれている。

江西中墓 平安南道南浦市江西区域三墓里 6世紀末~7世紀初築造
大墓の北西95mの所に位置する。墳丘は方台形で、一辺は約45m、高さは7.88mある。
四壁は花崗岩の一枚岩からなり丁寧に平滑に磨かれ、壁画はその面に直接描かれる。天井は二段の平行持ち送りで、その上に平たく大きな頂石が載るという。

玄武
蛇は亀の甲羅を二巻きし、亀の右首から頭部を一巻きしている。顔料が流れてよくわからないが、蛇の頭は、おそらく亀と向かい合っていただろう。
亀は足を止めていて、白い犬に甲羅を載せたように描かれている。
江西大墓 平安南道南浦市江西区域三墓里 6世紀末~7世紀初築造
『世界遺産 高句麗壁画古墳展図録』は、墳丘は方台形で、一辺は約51m、高さは8.79mあり、高句麗の封土墳のなかではもっとも規模が大きい。天井は、二段の平行持ち送りの上に二段の隅三角持ち送りを上げ、頂上には93㎝四方の面をみせる天井頂石をのせている。
壁には漆喰がまったく塗られず、花崗岩の上に直接彩色の絵が描かれる。壁には四神図以外には何もないという。

玄武
亀の後ろ足の間から入った蛇は甲羅を一巻きして前足の間から出てくるりと後方に戻り、尾の輪をくぐって、後ろを向いた亀と向かい合う。
亀は右足をあげている。
同時代に、すぐ近くに築かれていることから、ある一族の墓地だったように思われるが、全く系統の異なる玄武が描かれている。当時の高句麗は様々なところから色んな文化がもたらされたのだろうか。

日本で四神図といえば高松塚古墳とキトラ古墳が思い浮かぶ。高松塚の玄武は中央がはがれてよくわからないが、江西大墓の玄武に似ている。ただ、尾が輪を描いていないように思われる。
高松塚の玄武についてはウィキペディアを参照して下さい。

キトラ古墳はウィキペディアは、壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初めの頃に作られた古墳であると見られているという。
飛鳥資料館の常設展示にあるキトラ古墳のレプリカは、棺を入れるためだけの広さしかないような小さな玄室だった。
玄武
その石室北壁に、小さく小さく玄武が描かれていた。
亀甲ははっきりと描かれ、江西大墓の玄武とよく似ている。日本の玄武と高句麗の玄武の違いは、細部を除けば脚の長さくらいのものだろう(下写真はパネルを写したもの)。
しかし、キトラ古墳の玄武が高句麗からもたらされたとも思えない。何故なら高句麗は668年に滅んでしまっているからだ。
つづく

※参考文献
「世界遺産 高句麗壁画古墳展図録」 総監修平山郁夫 2005年 共同通信社