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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/07/13

四神3 高句麗古墳の壁画1



四神といえば、『世界遺産 高句麗壁画古墳展』で見たものが印象に残っている。同展図録は、北方の前燕という国の王である慕容皝が高句麗の王都に侵入し、故国原王の前王である美川王の墓をあばき宮殿を焼き払った。さらに371年には南方の百済が平壌を攻撃し、迎え撃った故国原王は流れ矢に当たって戦死した。
このような戦乱のなかで、中国の華北や遼東から多くの人が楽浪の故地である平壌に移ってきたと考えられる。安岳3号墳の被葬者もその一人であり、高句麗壁画古墳の源流を遼東の古墳に求める考えが強い。
戦死した王の後には小獣林王が即位し、国力が充実してきた頃に王位についたのが広開土王(391-412年)であるという。
しかしながら、4世紀後半に築造された安岳3号墳には四神図はなかった。同展図録で最も古い四神図は薬水里古墳にあった。

墓主夫妻と玄武 薬水里古墳奥室の北壁 平安南道南浦市江西区域薬水里 4世紀末~5世紀初築造
図録は、墳丘は円形を呈しているが、本来の姿はわからない。石室は前室と奥室がある二室墓。壁画は、壁、穹窿天井に厚く漆喰を塗った上に描かれる。奥室各壁の下半部には柱と梁が描かれ、上半部に北壁の墓主夫妻と玄武の図をはじめ、四神図がみられるという。

玄武
図録には四神の内、「墓主夫妻と玄武図」しか載っていない。
広い壁面に余白を残しながら、梁の上に坐る墓主夫妻。小さな侍者たちに囲まれ、天蓋の下の牀座という台に坐っている。上には星座が描かれる。
天蓋の外に、夫妻に向かって表される玄武は、長い脚は虎のような縞があり、胴体は大きな翼のある犬のようだ。甲羅は背中にわずかに見える。赤い蛇は亀の胴体と首に巻きつき、自分の尾くぐらせて前方に弧を描き、亀と頭を突き合わせている。
ところが、図版には長川1号墳の四神図は載っていなかったが、『図説中国文明史5魏晋南北朝』に玄武図があった。

長川1号墳 吉林省集安市 5世紀中葉
鴨緑江に面する小さな盆地の低い段丘の上に立地するという。
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は下図を、冬寿の墓に描かれた玄武の像としているが、冬寿の墓に描かれた高句麗貴族の狩猟姿とする図が、『世界遺産 高句麗壁画古墳展図録』の長川1号墳前室左側壁の狩猟図の一部とそっくりなので、この玄武図も長川1号墳のものだろう。
亀の顔は獣のようで、足も長いが、薬水里古墳の玄武と比べると、亀甲も表されて約半世紀の進歩がうかがえる。
しかし、蛇は依然としてロープのような描き方で、この図からは、頭部も尾の端もわからない。
もう少し時代が下がると、蛇は輪をつくらず、亀の甲羅に幾重にも巻きつくようになる。

湖南里四神塚 平壌市三石区域聖文里 5世紀末~6世紀初築造
この区域は高句麗時代の大城山城の東側に位置し、壁画古墳が分布する。
墳丘は方台形を呈し、墳丘の裾に一段の石列とその外側に幅3mの石敷がまわる。石室は横長の玄室南壁中央に羨道がつく単室墓で、壁は横長の石を六段に積み上げるが上部がわずかに内傾する。天井は二段の平行持ち送りと二段の隅三角持ち送りをのせて、最上部に頂石を被せる。
壁画は、北壁に玄武、東壁に青龍、西壁に白虎、南壁左右に向かい合う一対の朱雀が描かれる。
四神図は壁面全体にではなく上半部に描かれ、下半部は水が浸食した痕跡が残っているので、他の壁画があったとしても消え失せているようだという。

玄武
亀の下半部は残っていない。頭を上に向け、甲羅部を四重に蛇が巡る。蛇と亀の頭部は向かい合わない。
この古墳の四神図の特徴として、青龍と白虎が後ろを振り返っていることがあげられるという。

青龍
角が赤い輪郭線で表され、はっきり龍とわかる。
壁には、石と石のつなぎ目のみに漆喰が塗られているところをみると、まだ石面を完全な平滑には磨いていないようだという。
下半部の浸水跡が木目のようにも見えて不思議だったが、切り出した石の表面の凹凸だったのだ。

白虎
龍の首にも縞があること、虎なのに龍と同じくらい胴体が長いことなどから、龍と見分けにくい。
朱雀
朱雀は駝鳥のような姿に見えるという。
脚が長く描かれていることをいっているのだろうか。

つづく

※参考文献
「世界遺産 高句麗壁画古墳展図録」 総監修平山郁夫 2005年 社団法人共同通信社