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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/04/06

ムカルナスの起源

前回ムカルナスがどのように展開していったかを『イスラーム建築の見かた』に沿ってみていったので、今回も同様にしてムカルナスの起源を探りたい。
同書は、形の起源を紐解くために、アーチに囲まれた小曲面を探してみよう。まず、9世紀とされるニーシャープールの住宅や11世紀とされるカイロ近郊フスタートのアブー・スード浴場から出土した小片がある。これらはアーチ曲線に囲まれた花びら型のテラコッタ(陶製焼物)で、本来は水平方向に連続して一段の曲面装飾となっていったと推定される。おそらく部屋の上部に列をなす飾りとして取り付けられていたもので、構造的役割を担うことはなかったであろう。
帯状の装飾を作るために、アーチを用いた小凹曲面を反復することが装飾的なムカルナスの祖形となったといえるという。

11世紀初頭 ムカルナス片 エジプト、フスタートのアブー・スード浴場出土 
テラコッタには面の輪郭に沿って連珠文が並び、中央の細い2つに折れた面には蔓草文が描かれていたらしい。
エジプトでこのような花弁の形というと蓮だろう。これは蓮弁なのだろうか。
11世紀に中央アジア、イラン、シリア、エジプトにアーチを用いた小曲面を水平方向に連ね、さらに垂直方向に重ねていくという装飾的なムカルナスがある。塔の軒の部分やミフラーブとして用いられ、一段の高さ30㎝あまりの小規模なものであるという。
それは、アニ遺跡の大モスクのミナレットにそのまま当てはまる言葉だ。

1071-72年 2段のムカルナス装飾 アニ、大モスクのミナレット頂部

上段は曲線的だが、下段は直線的なムカルナスになっている。
大モスクについてはこちら
913-43年 2つのムカルナス サーマーン朝の墓廟
一方、10世紀初頭とされる中央アジアの墓建築サーマーン廟には、ドームを支える四隅のスクインチ・アーチの中に、アーチに囲まれた小曲面が3つある。トンネルを半分にした曲面の両側に、花びら状の小曲面が付くという。
中央の帯状の曲面はムカルナスではない。両側の「花弁状の小曲面」がムカルナス。
ここはドームを載せるための構造的な部分である。まだ1段だけで多層になっていないが、もう一つのムカルナスの祖形と考えられよう。サーマーン廟の小曲面の高さは1.5m、幅80㎝と先のニーシャープール出土の例と比べるとかなり規模が大きい。加えてその材料は焼成煉瓦で、上部に載る半球形のドームを造る前に一つ一つ積み重ねられ、ドームの土台となっているという。
つまり、アニの大モスクのミナレット頂部に取り付けられた2段のムカルナスは、はずしたからといってミナレットが崩れることはないが、サーマーン廟の四隅の2枚ずつあるムカルナスは、外すとドームが崩れてしまう構造体ということだ。
サーマーン廟についてはこちら
尚、以前はイスマイール廟、イスマイル(849-907年)・サマニ廟などとも呼ばれていたが、最近になって、内部の壁の中から、イスマイルの孫、ナスルⅡ世(943)の名前の書かれた木札が見つかった『シルクロード建築考』)ため、サーマーン廟と呼ばれるようになった。
9世紀のニーシャープールの住宅出土のムカルナスの祖形と考えられるものの図版がないので形はわからないが、11世紀のフスタートのアブー・スード浴場出土の装飾ムカルナスは花弁形(蓮弁のようでもある)で、10世紀のサーマーン廟の構造体ムカルナスもまた花弁形をしている。
しかも、スキンチアーチのように平たい焼成レンガを積み重ねるのではなく、蔓草文状のものを周囲に巡らせたり、四角い形にしたり、アーチ窓を開けたりと、非常に細かい装飾を施している。
花弁状ムカルナスが曲面にはなかなか見えないが、真下から見上げると、頂部が四隅から迫り出しているので、間違いなく曲面に構成されている。

サーマーン廟と同じ頃、ドームの移行部だけでなくイーワーンにも同じような曲面が現れる。イランのイスファハーンにあるジョルジール・モスクのイーワーン(前面開放広間)を見ると、サーマーン廟のスクインチ・アーチの内部と同様な構成が見られるという。


10世紀 小曲面 イラン、イスファハーン、ジョルジール・モスクのイーワーン 
イーワーンの奥壁と側壁の境目に造られたのだろうが、このムカルナスはどのようにイーワーンの上方へと繋がっているのだろう。
後年、現地見学を果たした。それについてはこちら
モスクの表門だけが残っていて、そのイーワーンは小さなものだった。

各地にみられる自然発生的で装飾的役割を起源とするものと、東方イスラーム圏に生じた10世紀の構造的役割を起源とするものが融合したことによって、はじめて本格的なムカルナスが東方で11世紀末から12世紀に誕生したと考えられるという。
そのように展開するムカルナスだが、アニ遺跡では11世紀のものが複数残っている。
それについてはこちら
ムカルナスの歴史をたどってみると、12世紀に東の果てから西の果てまで達した。西の果ての代表はアル・ハンブラ宮殿 ・・略・・ 。既に持ち送り装置という構造的役割から離れ、イーワーンやドームをいかにイスラーム建築らしく造るかという一つの装飾手段となっていることがわかるという。

1354-91年 天井のムカルナス スペイン、グラナダ、アランブラ宮殿二姉妹の間 SALA DE DOS HERMANAS
アルハンブラ宮殿の蜂の巣のような天井を凝視すると、あんなに複雑でありながら、決して無作為な造形ではないことが次第に理解できる。ムカルナスには何種類かの部品があり、それを反復して用い、そしてその方法にも規則があるという。
30数年前、何の知識もなかった私はこの天井を見上げて、これは一体何だろう、どこから来たものだろうと思った。しかし、購入した仏語版のガイドブック(当時は日本からの観光客は少なかった)には下写真は載っているものの、説明がなかった。このような装飾を鍾乳石飾り stalactiteということくらいしか分からず、そのままになっていた。
これをムカルナス muqarnasと呼ぶことを知ってから約10年、やっとこのようにまとめることができた。だから、自分史的にはムカルナスの原点はこのアランブラ宮殿の天井ということになる。
ついでに言えば、フランスの城館などで、床も壁も天井も色彩豊かに装飾されている中に居て、当時の人はよく気が変にならなかったなあと思ったが、アランブラ宮殿も同じく過剰装飾なのに、何故こんなに気分が落ち着くのだろうと不思議な気がした。それがイスラーム美術との出会いでもあった。
反復の規則は、断面図や平面図に写し取ることによって、幾何学性に支えられていることがわかる。ちなみに、この天井を平面図(天井伏図と呼ぶ)に写せば、対角が45度の菱形と正方形、直角二等辺三角形など限られた単純な図形からなる。
高さの等しい部品を水平方向に組み合わせることによって、ある高さをもった一段の持ち送りが造られる。この一段の持ち送りの上にさらにまた同様な持ち送りを重ね、それを何段も積み重ねていく。大半のムカルナスに共通する特色として、各段の高さが等しいという。
アランブラ宮殿にはもう一つムカルナスの天井がある。

それはアベンセラヘの間 SALON DE ABENCERRAJESの天井だ。
グーグルアースで見ると、中央の十字に白い通路のあるライオンの中庭 PATIO DE LOS LEONESは、中央には丸く並んだライオンの噴水は表されていないが、その北側の八角形の屋根が二姉妹の間で、南側の傘を少しすぼめたような八角形の屋根がアベンセラヘの間になる。

大きな地図で見る

そのムカルナス天井を図で表すと、1/4がこのような平面図になるらしい。八点星の天井を見上げて、細かい装飾に気の遠くなる思いをしたが、平面図にするとこんな風なのか。
深見奈緒子氏は、各地に残る天井伏図について、立体的なムカルナスを平面図に表すことは各地に広がっていたことがわかり、ムカルナス伝播を解く鍵となる。現在でも、イランのキルマーンで私が訪れたムカルナスの修理工事現場では、ドーム下の床上に石膏を塗り、その上にドームを1/8に割った幾何学的な図面を描いて、棟梁がムカルナス作成に勤しんでいたという。
それにしても、このような平面図で、何層もの立体的なムカルナス天井を造ることができるイスラームの工人の頭ってどんなん?

    ムカルナスとは←    →サーマーン廟のスキンチはイーワーンに


関連項目
スキンチ部分のムカルナスの発展


※参考文献
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「聖なる青 イスラームのタイル」1992年 INAX BOOKLET
「LA ALHAMBRA DE GARANADA」LUIS SECO 1978年 EDITORIAL EVEREST
「シルクロード建築考」岡野忠幸 1983年 東京美術選書32