ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/07/30
クヌム神殿の一番古いところ
展望台へ。ネクタネボの神殿を過ぎ、階段を上がるとそこは日干レンガの世界だった。ヴォールトが近くにもある。
通路は南へ向きを変える。右側には住居跡のようなものが並んでいた。
また右折。ロープで仕切られているのでどこにでも入り込める訳ではない。右向こうの四角いものはレストランの島からも見えていた。
四角いところから外を眺める。あの日干レンガのヴォールト(↓印)が間近に見えた。レストランの島から見ると円筒に見えたが、近くからは半円筒のヴォールトに見える。その南側に日干レンガの何かがあるために、向こう側から遠望すると円筒に見えたのだろう。
レストランの島(↑印)が見える。エレファンティネ島の南端の様々な時代の遺構も見渡せる。下側に目を移すと説明パネルがあった。
最も古い時代の遺構だと思っていたヴォールトのあるところは、プトレマイオス-ローマ時代(前303年~)の住居群だった。ここから見える最も古い時代のものは、左向こうの④岩壁碑文(前3千年紀)や⑤第6王朝の住居群(前2250年頃)、そして左側の②古王国時代の町の周壁(前3千年紀)。古い神殿はここから見える範囲にはなかった。
展望台に上がって見渡す。エレファンティネ島で最も古いのは日干レンガが自然に還っていったようなあの茶色っぽいあたりだろうか。
現在見えている一番古い時代の①は古王国時代の周壁だった。ジェゼル王がイムヘテプと出会ったクヌム神殿は、②の後期のクヌム神殿よりも③のプトレマイオス朝のサテト神殿に近いところにあったらしい(平面図参照)。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(1996年 講談社+α文庫)
2010/07/27
エレファンティネ島のクヌム神殿へ
無理だと思っていたが、自由時間にボートをチャーターしてもらいクヌム神殿を見学することができた。
エレファンティネ島の南の船着き場から上陸、階段を登る途中にチケット売り場とセキュリティ・チェックがあった。登りつめたら以前別荘だった建物がアスワン博物館になっていた。
その前を左に折れて庭のようなところを巡っていくとクヌム神殿の遺跡群が広がっていた。一体どこから見学すれば良いのかわからない。レストランの島から見えた展望台が遠くにあるのはわかったが、どこをどう通って行けばよいのだろう。
目の前の小さな石に名称が記されている。右の角柱の並ぶ新しそうな建物はサテト神殿で、プトレマイオス朝-ローマ時代(前306年~)のもの。クヌム神殿に何故別の名前の神殿があるのだろうと不思議だったが、サテト女神はクヌム神の妻らしい。クヌム神殿の神域に他の神の神殿もあるということだろう。
説明板があったが文字が小さくてわかりにくかった。左の高くなっているところに見える2本の角柱らしきものがクヌム神殿の柱廊玄関でプトレマイオスⅧ期(前2世紀)。どちらもジェゼル王の時代から2000年以上時代の下がった建造物だ。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、クヌム神は牡羊の頭をした人物として表される。アスワンのエレファンティネ島の神で、第1キャタラクトの神。ろくろ台の上で人間をつくりだしたと考えられ、土器づくりの神としても崇められたという。
アスワンダムの上流にあるフィラエ島のイシス神殿(末期王朝~ローマ時代)壁面に、クヌム神がろくろ台の上で人間を創る場面があった。跪いてアンクを差し出しているのはヘケト女神。
赤で示した辺りがレストランから見た展望台や日干レンガの遺構のあるところのようだ。赤い点線が順路らしいので、クヌム神殿址を通って行ってみよう。
クヌム神殿はサテト神殿よりも高いところにある。石段までの所にもたくさんの遺物が並んでいる。
クヌム神殿址らしい広い空間に出た。右手には修復された壁があり、ところどころに浮彫が残っている。これがプトレマイオスⅧ期のクヌム神殿だとすると床の部材の下に見えている刳りのある円柱のドラムは、プトレマイオスⅧよりも前の時代の遺構ということになる。
クヌム神殿は古くからあったために、神殿がいたむと後世の王が改築したり、取り壊してならし、その上に再建したりということが繰り返されたのだろう。ジェゼル王が神官イムヘテプに出会い、建て直した神殿もこの位置のずっと下の方にあったのだろうか。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、貴重な手がかりとなる碑文がアスワンの第1キャタラクトにあるサーヒル島で発見されている。
「ジェゼル王の治世のとき、7年間にわたってナイル川が氾濫しなかったため、耕地に水がいきわたらず、大飢饉となった。そこで、ジェゼル王は、アスワンに赴き、エレファンティネ島にあるクヌム神の祭壇で、クヌム神官であったイムヘテプの仲介により、多くのいけ贄を供物を捧げ、祈禱を行った。するとクヌム神のお告げがあり、荒廃した神殿を立て直せとのことであった。神の命にしたがってジェゼル王は、クヌム神殿を修復したところ、そのおかげで翌年からはナイル川に氾濫がよみがえり、エジプトの大地は豊かな実りをとりもどした」という。
紀元前27世紀にあったクヌム神殿は、すでに荒廃するほどの歳月を経ていたらしい。
このイムヘテプこそが、のちにジェゼル王の宰相として、階段ピラミッドの設計・施工をした人物だからである。イムヘテプはこの業績をきっかけに、ジェゼル王によって都メンフィスに迎えられたものと思われるという。
そして、イムヘテプは階段ピラミッド、いやピラミッド複合体を、エジプトの従来の日干レンガではなく石材で造ったのだった。エレファンティネ島のクヌム神殿は日干レンガで建て直されたのか、それともここでも石材を使ったのだろうか。テラスからクヌム神殿の南側を眺める。急に落ち込んでいて、下側にもたくさんの遺物が並べられている。レストランの島が正面に見える。その向こうがイシスアイランドホテルで、ずっと向こうの小高いところが西岸。
プトレマイオスⅧの柱廊玄関へ。クヌム神殿址はは膝くらいの高さの柱頭の残骸がところどころに残っていた。日を避けるものがないので暑い。
柱廊玄関を過ぎて振り返る。ルクソールの神殿のように見上げながら歩いて回る、あるいは、屋根の残るアビドスのセティⅠ葬祭殿や、地下にある王墓・王妃墓のように暗い空間を見学するといった場合が多いので、このように遮るものがなく遠くまで見渡せる遺跡というのはエジプトでは珍しい。
この柱廊の南側に、レストランの島からも見えた門があった。アメンホテプⅡ(前15世紀)の門で、浮彫も部分的に残っている。
続いてネクタネボ(末期王朝時代、第30王朝、前4世紀、Ⅰ・Ⅱは不明)が造った神殿址。地震で倒壊したのだろうか、右向こうの小祠堂のようなものが倒れているのに目を奪われる。倒れても崩れていないのは大きな石を丸彫りにしているから。
展望台まであと少し。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(1996年 講談社+α文庫)
2010/07/23
ジェゼル王がイムヘテプと出会ったアスワン
ジェゼル王の階段ピラミッドは、エジプトで最初に造られたピラミッドだ。同時にエジプトで初めて石が用いられた建造物でもある。それまでは日干レンガのマスタバだった。それを設計したのは宰相のイムヘテプだったと言われている。イムヘテプについて吉村氏は、メソポタミアから渡来した帰化人、またはその子孫ではないか(「吉村作治の古代エジプト講義録上」より)と考えているようだ。
イムヘテプは元々ジェゼル王の宰相だったわけではない。第3王朝の都はメンフィスだったが、2人が出会ったのはアスワンだった。同書は、最初のピラミッドを建設した第3王朝のジェゼル王は、はるばるアスワンまで出かけて、祈禱祭を行ったことが記録に残されているという。
アスワンはどんなところだろう。ハルツームとアスワンのあいだには、6つのキャタラクト(急湍)がある。これは、このあたりの地盤がほとんど砂岩や石灰岩などの柔らかい岩石でできているにもかかわらず、ところどころに隆起活動によって深層部の花崗岩の堅い地層が顔を出しているためにできたものだ。ナイル川の流れによって、砂岩や石灰岩はどんどん削られていくが、堅い花崗岩のあるところだけは、あまり削られずに残っている。したがって、その部分は川幅が急激に狭くなるとともに、浅瀬になり、花崗岩が露出することから急流となる。
これら6つのキャタラクトのうち、最も下流にあるのが、アスワンであり、第1キャタラクトとよばれるという。
第1カタラクトが実際にどこなのかよくわからなかった。アスワンダムの上を通っている時、下流側を眺めると、ダムと下流側とが大して高低差がなかった。赤い岩は削られずに残った花崗岩だろうが、岩の下の方が真っ白なのだった。まさか塩分ではないだろう。ここが第1カタラクトなのだろうか。
古代エジプト人は、このアスワンをナイル川の源頭とみなしていた。
古王国時代には、元来はこの地域の地方神であったクヌム神が、その水量を調節していると信じられていたことから、エレファンティネ島のクヌム神殿で、たびたび祈願が行われていたという。
どこまでが第1カタラクトなのだろう。ダムの両側の島が見える辺り一帯のことだろうか。アスワンダム付近の地図(『地球の歩き方E02エジプト』より)。
ツアーの日程では切りかけのオベリスクを見学後、島のレストランで昼食をとることになっていた。船着き場でボートに乗り込んだ。正面に見える大きな島がエレファンティネ島で、その南端にクヌム神殿があるはずだ。
ボートはどんどんエレファンティネ島へと近づいていき、縁を通って上流へと向かう。ひょっとしてクヌム神殿が見えているのでは。
冬は水位が低いが、増水期には岩や石壁の黒い線のところまで上昇するのだそうだ。
レストランはエレファンティネ島のすぐ南の小さな島にあった。到着するとみんなが川を撮している。何だろうと見ると甌穴のたくさん空いた岩が目の前に顔を出していた。上流にダムができるまではここもカタラクト(急湍)だったのだ。
そしてエレファンティネ島に目を向ける。やっぱり見えているのはクヌム神殿に違いない。
食後改めてクヌム神殿の方を見ると、日干レンガで造られたヴォールトが見えた。それだけではない、半円ではなく円形(筒状、↓印)になっているのもある。その下には日干レンガの遺構が積み重なっているようだ。
石で造ったところよりも、日干レンガで造られたところの方が古いのだろう。そして何度も修復や建て直しが行われて、現在見えるように高くなっていったのだろう。ジェゼル王が来た頃のクヌム神殿は、かなり下の方だったに違いない。行って確かめたいなあ。
その右上に展望台のようなものが見えた。見学者の姿も時折見かける。ツアーの予定には入っていないので、せめてカメラに収めておこう。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(1996年 講談社+α文庫)
「地球の歩き方E02 エジプト」(2008年 株式会社ダイヤモンド・ビッグ社)
2010/07/20
サッカラのピラミッド複合体8 周壁
ピラミッド複合体の南周壁は、内側は低かったが、外側は場所によっていろんな高さに修復されている。その間には日干レンガではなく切石がほぼ一定の高さに積まれている。
屋根がついているところは列柱室で、その右側には東周壁が見えている。天井には丸太のような石が並んでいた。通った長さは周壁の厚みの部分だったのだ。
これが南側から見た東周壁。厚さは4-5mくらい。外壁の下には大きな切石が敷かれていたようだ。
河岸段丘の岩の層の上に建てられたはずだが、その岩盤はあまりしっかりしたものでもなさそうだ。
東南の角を曲がると、東周壁が見えてきた。凹凸のある周壁から入口の部分が突き出ている。
このような高さの周壁が巡っていたら、階段ピラミッドはここからは上の方しか見えなかっただろう。
東周壁の端に行ってみると、列柱廊の屋根が見えた。そして、外壁の上の方には青いファイアンスタイルを貼り付けるための凹みがあるが、下の方にはない。
列柱廊の北側にはいろんな施設が建てられていた。それを復元している様子。
ピラミッド複合体の復原図はこちら
列柱廊はかなり長かったがいろんな建物を東周壁沿いに集合させるために必要な幅だったのだ。
創建当時、この途中まで復元された列柱が、奥にあるもののような高さだったとすると、この長い空間も真っ暗だったのだろう。
『吉村作治の古代エジプト講義録上』が、それをくぐり抜けると、いきなり明るい光に満ちた広い中庭が目に飛び込んでくる。そして、目を北に向けると、中庭をはさんだ向かいには、好きとぉルような青空を背景に、巨大な階段ピラミッドが、強烈な太陽の日差しを浴びて、さんさんと輝いているというのが想像できる。(絵はがきより)
闇から光へのあざやかな転換。それは、天才イムヘテプによって見事に計算され、演出された効果であったに違いないという。吉村氏はイムヘテプをメソポタミアからの帰化人と考えているのである。
※参考文献
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
2010/07/16
サッカラのピラミッド複合体の外2 ウナス王のピラミッド
ウナス王は古王国第5王朝(前2494-2345年頃)最後の王である。ピラミッドはサッカラのジェゼル王のピラミッド複合体周壁の南西角にある。
近づくと東側にテラスのように石を敷き詰めたところがあった。ごろごろと転がっているのはピラミッドから落ちた石材だろうか。それともギザのカフラー王(第4王朝)のピラミッドのように葬祭殿が造られていたのだろうか。
ピラミッド本体は崩れた砂山のようで、内部にピラミッドテキストが初めて刻まれたピラミッドですと説明されても想像しにくい外観だ。
ここにも深い竪坑があった。ピラミッドと離れているので、別の墓のものだろうか。
『世界美術大全集2エジプト美術』は、下降通路の突き当たりに入り口の間、そして3つの落とし格子戸を含む水平通路を通ると前室、そしてその左手に3つの小室、右手奥には棺の置かれた玄室を設けるというものである。それと同時に、ウニス王のピラミッドにおいて初めて、玄室など内部の墓室壁面一面に「ピラミッド・テキスト」と呼ばれる宗教上の呪文が記されたヒエログリフや、当時の宮殿のファサードを模した偽扉、そして天井には星を象った模様などが刻まれるようになったという。
ピラミッド・テキストだけかと思っていたが、天井には後の時代にも表される星形が整然と並んでいる。時代によっては星が「大の字」のように表されていることもあるが、ここでは5等分の角度になっている。
右壁奥から奥壁にかけて幾何学的な装飾が施されている。全体に長短の四角形が並んでいて、その中に市松文様(石畳文)やジグザグ、大小の菱形が表されている。彩色も何色かあるようだ。葦の茎などに色をつけて編んだものなど、宮殿の室内装飾を表しているのだろうか。
このような格子状のものは他にもある。
ジェト王の石碑 石灰岩 浮彫り 初期王朝、第1王朝、前2900年頃 アビュドス、ジェト王の墓出土 高さ145㎝ ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、王の石碑には、アビュドスの各王墓から2体ずつ出土したものがあり、おのおのに宮殿を象った四角い枠の上に隼が留まった形の「セレク」に囲まれた「ホルス王名」が刻まれているという。
宮殿は、縦に何本もの溝のある3つの壁と、その間に刳りのある門が2つ表されている。このような王の住まいをウナス王のピラミッド内部の壁面に表現しているのだろうか。
地図にも載っているようにピラミッドから参道がついている。周りにはマスタバが並んでいるのはウナス王の家族のものだろうか。イドゥトは娘だったらしい。
偽扉の発見されたイイカーや書記イメムの墓も参道の下や周辺にあったが、ピラミッドや参道を造る時に取り壊されたのだろう。
そして、参道は河岸段丘を下り、河岸神殿へと繋がっている。来る時に見た遺跡のようなものがその河岸神殿だったようだ。参道と河岸神殿が付属しているのもカフラー王のピラミッドに似ている。
ジェゼル王のピラミッド複合体は周壁の内側や地下に複雑な建造物があるが、このような参道や河岸神殿はなかったようだ。
※参考文献
「世界遺産を旅する12 エジプト・アフリカ」(1999年 近畿日本ツーリスト)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「原色世界の美術12 エジプト」(1970年 小学館)
2010/07/13
サッカラのピラミッド複合体7 南周壁の外へ
南の墓の竪坑を見下ろして、そのまま南周壁の上に回ると、晴れている訳でもないのに、はるか南方にダハシュールの赤いピラミッドと屈折ピラミッドが見えた。どちらも第4王朝初代の王スネフェル(前2613-)が建造したもの。
もっと近くの低いピラミッドはペピⅡ(第6王朝最後の王、-前2181年頃)のもの、四角いマスタバはシェプセスカフ王(第4王朝最後の王、-前2494年頃)のものらしい。
寝そべっているラクダは警備員のもの。
南周壁の近くを見渡すと、左(東)側の凹んだところから緑地帯が少し見えている。マスタバがたくさんあるはずだが、マスタバ=日干レンガと思っていたために、石造りの遺構があちこちに見えて混乱してしまった。
南西にはウナス王のピラミッドがある。ウニス王と記されていることが多い。
南周壁は修復の途中で、入口付近の周壁と同様に複雑に凹凸を組み合わせているのが足元に見えた。
周壁を歩いて外側に下りていく。ラクダが待機しているところは貯蔵庫跡のはず。
ピラミッド複合体の平面図はこちら
すぐ近くのマスタバは日干レンガで造って土を塗ったのがよくわかる。アーチ状の凹みが2つあるが、開口部ではなく、壁龕だった。
このマスタバが何時頃のものかわからないが、古王国時代(前2686-2160年頃)のものだろう。メソポタミアでもアーチ形の開口部がウルのジッグラト(前21世紀)にみられる。どちらで先に造られるようになったかわからないが、かなり古い時代からあるものだ。
地上に下りるとさきほどのマスタバを左に見ながら進む通路がついている。ウナス王のピラミッドは右側。
石造りのマスタバは現実にあった。そのしっかりとした石造物を見ながら歩いて行くと中が見えた。このマスタバには天井が残っておらず、向こうに見えるのは、先ほど見た南の墓の柵だった。
天井のないマスタバの角を左折すると階段ピラミッドが顔を出していた。手前にあるのもマスタバで、外壁は先ほどの物と比べて石が小さいので修復だろう。
イドゥトの墓という第5王朝、前2360年頃のマスタバらしい。ガイドさんが見学できますよと教えてくれたので入ってみた。
入口からいきなり左(西)側への狭い通路となっていて、すぐに右折する。そのような狭い通路を曲がりながら進むと一番奥が至聖所のようになっていて、1グループが説明を聞いていたのでその中まで入ることができなかった。
通路は白い石壁で複雑に構成され、浅浮彫彩色された壁画がびっしりと描かれていた。牛に関するが多かったかな。見学している時はまだマスタバは日干レンガで造られていると思っていたので、日干レンガの壁の中に石の壁があるというギャップと、壁画の完成度の高さに違和感を持ち続けながら帰国したのだった。
道はここで右へ折れていて左右にいろんな遺構を眺めながら東へ向かう。
日干レンガに石板が組み合わされているようなものもあった。
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