ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/05/28
彩釉の容器にも輪郭線
彩釉レンガは前12世紀以来メソポタミアの建物を飾ってきたが、それらを探している内に、彩釉壺というものを見つけた。
彩釉壺 イラク、アッシュール出土 陶器 高10.0㎝口径4.7㎝ 前8-7世紀 大英博物館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、アッシュルからは、青緑色、黄色、オレンジ色、白色などで彩釉した小型の壺が発見されているという。
菱形に近いロータス文のようなものが肩を巡っている。花弁の輪郭線は白く、色ははみ出したり滲んだりしていない。
牡牛文の壺 前8世紀頃 イラン、ジヴィエ出土 施釉ファイアンス 高43.5㎝口径11.0㎝ メトロポリタン美術館蔵
こちらは黒の輪郭線で、肩に4色のロータス文、胴に上下を黒線で区切って、植物と牛のパターンが、おそらく4回繰り返されている。
ジヴィエからは施釉レンガが出土していて、釉薬だけでなく輪郭線まで移動しているようなものだが、この壺は同じ場所から出土したものとは思えないほど完成度が高い。
タイルのように平たいものならば、水平に置いて焼成すると釉薬が流れることはないだろうが、立体的なものなのにこの壺は釉薬が流れていない。ファイアンスという胎土が高温で溶けた釉薬が垂れるのを防ぐ性質があるのだろうか。上のアッシュール出土の彩釉壺も陶器ではなくファイアンスかも。
青釉尖底壺 イラン、ニシャプール出土 ファイアンス 高22.7㎝ 前8-7世紀 岡山市オリエント美術館蔵
同館ホームページは、底が尖った青い地色の壺。肩の部分にはエジプトにはじまるスイレンの花びらの文様、そして、その下には横に連続する矢羽根文様が描かれている。イラン北西部から出土したファイアンス製品。ファイアンスとは粘土の代わりに石英の粉を練ったものに釉をかけた焼き物。当時の釉が粘土からはがれやすかったために行われた技法という。
図版の前1000-800年頃から、ホームページでは前8-7世紀へと下がっているのは、研究が進んだからだろう。
ニシャプールはイラン東北部にある。アッシュールからニシャプールまでかなり広範囲で同じようなファイアンス製の壺が出土している。肩にロータス文があり、アッシュール出土の壺以外は輪郭線は黒い。日用品の土器ならばそれぞれの地で焼かれただろうが、このような彩釉壺は生産地が同じで、隊商によって運ばれたか、あるいは贈り物にされたのかも。
水平のほぞをもつ畝のある小物入れ メソポタミア? ファイアンス(石英フリット) 高さ7㎝直径12.9㎝ 前14-12世紀 ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、ファイアンスは前4千年紀以後メソポタミアで普及していたが、前14世紀から12世紀の間にシリア・パレスチナの地中海東岸地方の職人が専門に生産するようになった。小物入れあるいは美顔料箱は、エジプトからユーフラテス川中流域のマリを経て、メソポタミア、すなわちアッシュールに至るまで、当時非常に需要があった。
胴の周囲は常に花のモチーフで飾られたが、それは成型した花弁の浮彫だったという。
白と黄色の縦縞に見えるが、よく見ると黄色釉の両端には白い線が見え、白色には緑色っぽい釉が剥落したのではないかと思うような痕跡がある。
彩釉レンガには前12世紀よりも以前から黒い輪郭線で色釉を区切るということが行われてきた。上の彩釉容器には白い輪郭線が認められる。
彩釉壺が先か、彩釉レンガが先かわからないが、このように見ていると、どちらも同じようなころに技法が生まれ、お互いに影響しあってきた。というよりも容器もレンガも同じ工房で作られていたのかも。
※参考サイト
岡山市オリエント美術館のホームページの所蔵品検索
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
「岡山市オリエント美術館館蔵品図録」(1991年 岡山市オリエント美術館)
「四大文明 メソポタミア文明展図録」(2000年 NHK)
2010/05/25
彩釉煉瓦の黒い輪郭線
スーサ出土の彩釉レンガ(前522-486年)は青い輪郭線が盛り上がっていた。スーサのダリウス宮殿の彩釉レンガはバビロニア風と言われている。バビロン出土の彩釉レンガ(前580年頃)は線が黒かった。
輪郭線を盛り上げるのはアケメネス朝ペルシアの新しい技術かも知れないが、メソポタミアでは黒い輪郭線のある彩釉レンガは他にも見られる。
人面鳥身 彩釉煉瓦 イラン、ブーカーン出土 前8世紀 34.5X34.5㎝ 松戸市立博物館蔵
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、ブーカーンはイランの北西部、西アーザルバーイジャーン州に位置する遺跡で、山岳地帯に侵入してきたイラン人の一部族であるマンナイ人が建てたマンナイ王国の都と推定されており、発掘調査によって神殿址の存在が知られるようになった。黒色の線で縁取りした後、青や黄色、白の釉薬で埋めて文様を描き出している。図柄そのもの及び筋肉表現などにアッシリア美術の影響が強く認められる。
施釉煉瓦の胎土は、後にスーサで製作された施釉煉瓦の石英質の胎土とは異なり、ごく普通の煉瓦の胎土が選ばれている。そのため釉薬が胎土とあまりなじまず、釉薬のほとんどが剥落してしまっているという。
剥落部分から黒い輪郭線とは別に下書きの線が見えて製造過程がうかがえる。 世界のタイル博物館蔵アッシリア出土の施釉レンガ(前8-7世紀)に似たものもブーカーンで出土しているが、ここまでひどい剥落は見られない。
壁飾りタイル 施釉ファイアンス イラン、スーサ出土 前8世紀頃 高18㎝幅20㎝ ルーヴル美術館蔵
エラム新王国時代にはスーサにインシュシナク神殿が再建され、多彩色の釉薬をかけたタイルや動物の頭部をあしらった建築装飾、容器などファイアンス製品(初期施釉陶器)に見るべきものが残されている。エラム中王国時代(前1500-1000年)に発展した壁飾りタイルの伝統を引くもので、鷲の脚をもつ怪獣がライオンを押さえている図像が描かれている。色釉が混じらないように黒の輪郭線を施す技法は、この時代のアッシリアからイランにかけて広く見られるものであり、アケメネス朝ペルシアの彩釉レンガの技法の原点となるものであるという。
スーサではファイアンスの胎土は前8世紀にすでに用いられていた。スーサに限らず、メソポタミアの広い範囲で、このような彩釉レンガが製造されていたようだ。
黒い輪郭線は色釉が混じらないための工夫だったのだ。
弓と杯を手にする王 彩釉レンガ イラク、ニムルド出土 前865年頃 高30㎝ 大英博物館蔵
アッシュルナツィルパル2世が、廷臣を従えて儀式を行う場面を表現した彩釉レンガ。王と廷臣が身につけた優雅な衣装は、ロゼット文の装飾と裾に房飾りが施された儀式用の長衣である。儀式は天幕の下で執り行われており、護衛のためかヘルメットをかぶった兵士が画面右手に控えている。彩釉に使われた顔料には現在、黄、黒、緑色が認められるが、緑色に見える部分は本来赤色であった可能性が高いと考えられている。レンガの下辺と上縁部には、ギローシュ(縄編文)で縁取りが施されているという。
ギローシュとは組紐文である。上のスーサ出土彩釉レンガにも同様の帯文様が見られる。
色釉がほとんど残らないのは胎土が土だからか。
輪郭線や髪・ひげなど、黒で描かれたところはしっかりと残っている。黒色はマンガン鉛(『世界美術大全集東洋編16西アジア』より)らしい。
アッシュール、神殿前面を飾る彩釉煉瓦積みパネル 前12世紀
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、神殿建築の外観に、別の方法でアッシリアは色彩を求めようとした。色絵陶器のごとく釉薬を用いて焼きあげた煉瓦を、ジグソウパズルのように組みあげることだった。彩釉煉瓦を日干し煉瓦壁の表面仕上げに採用した最古の例は、アッシリアの古都アッシュールの主神殿にある。神殿正面に造り付けられたベンチ状の張り出しに、アッシリアの軍隊が山道を行く光景を描いた。銘文があるので、前12世紀の作品とわかる。後の修復時に正しく積みなおされず一部の絵柄が不連続になったのは何とも珍妙である。輪郭線に用いた黒のほかに、白、淡青、濃青、黄、緑といった色使いがあり、釉薬の効果を見事に発揮した。すでに長い経験を経た完成度を感じさせる作品であるという。
現在のところ、これが最古の彩釉レンガらしい。色釉の剥落が見られるので、ファイアンスではなく土の胎土のようだ。
また、上の3点は薄く面積の広いレンガだが、スーサ出土彩釉レンガ(前522-486年)のように、小さなレンガの小口に彩釉し、それを並べて1つの文様に仕上げるということが前12世紀にすでに行われていた。しかも、完成度が高いということなので、もっと以前からこのような壁面装飾が存在したようだ。
色釉がまじらないようにマンガンで黒い輪郭線を施す技法は紀元前にメソポタミアで広く見られる技法だった。
14世紀後半から15世紀初期に中央アジアで発達したクエルダ・セカも、マンガンに油脂を混ぜた溶液で描かれた太い黒色の輪郭線(『世界美術大全集東洋編17イスラーム』より)で色釉が混じらないようにしていた。クエルダ・セカと紀元前の彩釉レンガにはどのような違いがあるのだろうか。
『イスラームのタイル』は、古代帝国の消滅とともに彩釉レンガを使う習慣も途絶えた。
1000年以上の間隔をおいて、イスラーム時代に再び彩釉レンガ・タイルが使用されるようになったという。
マンガンを使った黒い輪郭線で色釉が混じらない工夫は前12世紀よりも以前にメソポタミアで広く行われてきた技法だが、それが14世紀後半-15世紀初期に中央アジアで用いられるまで、連綿と続いた技法ではなかったようだ。
※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
「世界美術大全集東洋編 16西アジア」(2000年 小学館)
「聖なる青 イスラームのタイル」(INAX BOOKLET 1992年 INAX出版)
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」(1999年 小学館)
2010/05/21
ジッグラトの起源
ジッグラトは何時頃から造られるようになったのだろう。
チョガ・ザンビールのジッグラト復原図 前13世紀 イラン
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、市壁をはじめ、建材はもっぱら日干レンガ(規格は40㎝四方、厚さ10㎝)だったが、ジッグラトは焼成レンガをふんだんに用いており、当時の建設事業としては大いに贅を尽くしたものだったことがわかるという。
壁面には写真で見るよりも細かい凹凸がある。
ジッグラトはこのように縦に凹凸があるのだろうか。
ウルのジッグラト復原図 前21世紀 イラク
ウルナンム王の時代に様式的に確立したウルのジッグラトには、次のような特徴があった。
ジッグラト自体の足元を固めるテラス(エテメンニグルという別称をもつ)とその前庭それぞれを、凹凸のある二重構造の壁で囲う。
ジッグラト本体にあたる階段ピラミッド状の部分は、粗製の日干レンガを積んで核とする。
本体の外面から2m余りの厚さを焼成レンガ積みの被覆とする。
基底部の輪郭は62.5X43.0mの長方形で、正面前方と左右に長大な階段が取り付く。
上部は3段に築造され、高さは21mほどあったと推定されるという。
日干レンガを核にして外観を焼成レンガで飾ったようだ。『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、焼成煉瓦の場合は、早くにジッグラト(聖塔)の被覆に用いられた例からわかるように、上塗りせずに目地をそのまま見せるのが普通だったという。
やっぱり縦に凹凸があるが、壁面の頂部に達していない凹面がほとんどだ。これは扶壁(バットレス)のように、荷重に耐えるためのものだろうか。
ウルク、白色神殿復原図 イラク、サマワ近郊 前3300年頃
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、シュメール文明を代表するウルクの遺跡では、ウルク文化の後半期にあたる前3500年ごろ以降、豊穣神イナンナを祀る聖域エアンナと天空神アヌの神殿基壇が隣り合いながら発達した。ウバイド期にはエリドゥの神殿に類する三分形平面の神殿が建っていた。それを継承した神殿が幾世代も経た結果、この時期には高い基壇の上に建つようになる。通称を「白色神殿」というように、建物内外の全面を白漆喰で仕上げた。同様な基壇の発達を見たエリドゥの神殿とともに、メソポタミア建築独特の建造物ジッグラトの祖型とみられているという。
この白色神殿と呼ばれているものがジッグラトの祖型らしい。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、日干煉瓦を積んだ建物は、煉瓦の素材と違わない泥や、ときには漆喰で必ず上塗りし、煉瓦目地を隠してしまうのが普通だから、壁面の表情はひじょうに素っ気ないという。
しかし、強度を持たせるためか、視覚効果を狙ったのか、壁面の凹凸はかなりのインパクトのあるものだ。聖塔そのものは縦の凹凸だが、基壇と思われる部分は斜めに凹凸がある。
凸をとらえて「控え壁(バットレス)と表現されることもあるが、造りの上で凸部も凹部もほぼ同等に壁本体であることが多い。凹凸の起源については住宅にはすでに採用されていた控え壁に求める見解のほか、木造や葦作りの家屋にあった柱形に求める説もある。起源はともかく、こういう外壁が陽にあたると凹部の陰りは凸部の輝きをより強調する。もはや構造的に観点をはなれ、陰影のリズムこそ人々の求める建築の装いだったという。
何一つ遮る物のない場所に降り注ぐ太陽の光線は、この白色神殿を白と黒の縞模様に見せていたかも知れない。それは乾いた空気の真っ青な空の下では、真っ白な建物よりも強烈な印象を人々に与えただろう。
建物も景色も、すっきりしない天気の時に見るのと、澄んだ青空で見るのとでは大きな違いがある。そうすると、チョガ・ザンビールのジッグラトが、レンガはかつて青く彩釉されていた(『図説ペルシア』より)なら、青い空に青い建物は目立たなかったのでは。
ウル・ウルクは地図でこちら
関連項目
ジッグラトがイラン高原の山だったとは
※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 1988年 講談社
チョガ・ザンビールのジッグラト復原図 前13世紀 イラン
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、市壁をはじめ、建材はもっぱら日干レンガ(規格は40㎝四方、厚さ10㎝)だったが、ジッグラトは焼成レンガをふんだんに用いており、当時の建設事業としては大いに贅を尽くしたものだったことがわかるという。
壁面には写真で見るよりも細かい凹凸がある。
ジッグラトはこのように縦に凹凸があるのだろうか。
ウルのジッグラト復原図 前21世紀 イラク
ウルナンム王の時代に様式的に確立したウルのジッグラトには、次のような特徴があった。
ジッグラト自体の足元を固めるテラス(エテメンニグルという別称をもつ)とその前庭それぞれを、凹凸のある二重構造の壁で囲う。
ジッグラト本体にあたる階段ピラミッド状の部分は、粗製の日干レンガを積んで核とする。
本体の外面から2m余りの厚さを焼成レンガ積みの被覆とする。
基底部の輪郭は62.5X43.0mの長方形で、正面前方と左右に長大な階段が取り付く。
上部は3段に築造され、高さは21mほどあったと推定されるという。
日干レンガを核にして外観を焼成レンガで飾ったようだ。『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、焼成煉瓦の場合は、早くにジッグラト(聖塔)の被覆に用いられた例からわかるように、上塗りせずに目地をそのまま見せるのが普通だったという。
やっぱり縦に凹凸があるが、壁面の頂部に達していない凹面がほとんどだ。これは扶壁(バットレス)のように、荷重に耐えるためのものだろうか。
ウルク、白色神殿復原図 イラク、サマワ近郊 前3300年頃
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、シュメール文明を代表するウルクの遺跡では、ウルク文化の後半期にあたる前3500年ごろ以降、豊穣神イナンナを祀る聖域エアンナと天空神アヌの神殿基壇が隣り合いながら発達した。ウバイド期にはエリドゥの神殿に類する三分形平面の神殿が建っていた。それを継承した神殿が幾世代も経た結果、この時期には高い基壇の上に建つようになる。通称を「白色神殿」というように、建物内外の全面を白漆喰で仕上げた。同様な基壇の発達を見たエリドゥの神殿とともに、メソポタミア建築独特の建造物ジッグラトの祖型とみられているという。
この白色神殿と呼ばれているものがジッグラトの祖型らしい。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、日干煉瓦を積んだ建物は、煉瓦の素材と違わない泥や、ときには漆喰で必ず上塗りし、煉瓦目地を隠してしまうのが普通だから、壁面の表情はひじょうに素っ気ないという。
しかし、強度を持たせるためか、視覚効果を狙ったのか、壁面の凹凸はかなりのインパクトのあるものだ。聖塔そのものは縦の凹凸だが、基壇と思われる部分は斜めに凹凸がある。
凸をとらえて「控え壁(バットレス)と表現されることもあるが、造りの上で凸部も凹部もほぼ同等に壁本体であることが多い。凹凸の起源については住宅にはすでに採用されていた控え壁に求める見解のほか、木造や葦作りの家屋にあった柱形に求める説もある。起源はともかく、こういう外壁が陽にあたると凹部の陰りは凸部の輝きをより強調する。もはや構造的に観点をはなれ、陰影のリズムこそ人々の求める建築の装いだったという。
何一つ遮る物のない場所に降り注ぐ太陽の光線は、この白色神殿を白と黒の縞模様に見せていたかも知れない。それは乾いた空気の真っ青な空の下では、真っ白な建物よりも強烈な印象を人々に与えただろう。
建物も景色も、すっきりしない天気の時に見るのと、澄んだ青空で見るのとでは大きな違いがある。そうすると、チョガ・ザンビールのジッグラトが、レンガはかつて青く彩釉されていた(『図説ペルシア』より)なら、青い空に青い建物は目立たなかったのでは。
ウル・ウルクは地図でこちら
関連項目
ジッグラトがイラン高原の山だったとは
※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 1988年 講談社
2010/05/18
彩釉レンガは前13世紀のチョガ・ザンビールにも
アケメネス朝ペルシャ、ダリウス(ダレイオス)Ⅰ期に、スーサで彩釉レンガを組み合わせて1つの形を構成するという建築装飾が行われた。それは完成度の高い、色の滲まないものだった。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、釉薬の色は黄色(アンチモン鉛)、青緑色(銅)、黒(褐)色(マンガン鉛)、白色(錫)、明るい青(コバルト)などであるが、純粋の赤色はないという。
メソポタミア展でペルシャの射手は黒い輪郭線だと思っていたが、段々と青く、そして盛り上がった線だとわかった。
植物文の一部? 彩釉煉瓦 イラン、スーサ出土 前6世紀末~5世紀前半 9.0X13.4X3.6㎝ 岡山市オリエント美術館蔵
この彩釉レンガは輪郭線が盛り上がり、しかも青いことがよくわかる遺物だ。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、灰白色の石英質の胎土に釉を施したもので、図柄の輪郭線を描いて焼成した後、その間にさまざまな色彩の釉を施して焼き上げたものであるという。
ということは「上絵付け」になる。この時代に複数回焼成するということが行われていたのだ。
もっと以前に、現イランの地には彩釉レンガがあった。
彩釉レンガ イラン、チョガ・ザンビル、ジグラット出土 エラム中王国時代(前13世紀)
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、前1500年から前1000年にかけてはエラム中王国時代とされている。
ウンタシュ・ナピリシャ王(在位前1275-1240)が新都アール・ウンタシュ・ナピリシャ(現在名チョガ・ザンビール)を建設している。1250X900mにわたる楕円形の都市で、中央にジッグラトを含む聖域があるという。
アケメネス朝ペルシア以前にもスーサに近い都市で彩釉レンガが焼かれていたようだ。
『図説ペルシア』は、レンガはかつて青く彩釉されていたが、一部にそのレンガがはめこまれて保存されている箇所もあるという。
しかも建物全体が青かったらしい。
そう言えば、バビロンの彩釉レンガ(前580年頃)のライオンの背景は色はあせているが青色だった。ベルリン国立博物館西アジア美術館に復原されたイシュタル門は、バビロンにあった頃は、遠くから見ると青い門に見えただろうと想像するほど青い彩釉レンガが多く使われている。
メソポタミアでは青色の釉薬の原料コバルトが豊富に調達できる地域だったのだろう。
『図説ペルシア』は、古代中近東には神と結びつけて山を崇拝する風習があった。イラン高原の山々をイメージした巨大なジグラットは、メソポタミアの平野に多数建造された。このチョガ・ザンビルにあるジグラットは、アケメネス朝成立以前の紀元前13世紀、エラムの王ウンタシュガルが、スーサより南東40㎞の地点に建造したものであるという。
ジッグラト、ジグラット、ジグラート、その土地ごとに発音が少しずつ違うのだろうが、山をイメージしたものだとは気づかなかった。
1辺が約100mのジグラットは、約400mX450mの2辺の壁にかこわれ、さらに約1200mX800mの城壁に、四方がおおわれている。4段からなるジグラットは、高さ43mという。
43mもあって、青一色だったとすると、土の色しかない平原なら遠くからでも目立っただろう。
チョガ・ザンビールの場所はこちら
復元図
何故ウンタシュ・ナピリシャ王が建設したものだとわかるかというと、銘文入りのレンガが発見されたからである。
ジグラットの外壁に刻まれている楔形文字
刻みこまれているのはウンタシュガル王と20人以上の神の名前という。
『オリエントのやきもの』は、メソポタミアの王は、その在位中に建設した公共建築物に自分の名を残すのがしきたりになっていた。また、シュメール時代や古代バビロニア時代では、土釘などに短い碑文を刻むのが普通だった。このタイプの土釘は、建物のれんがの間に所有の印として差し込まれたもので、家を新しく入手する時に釘を槌で叩き込むというしきたりの延長として使用されたという。
クレイペグから平たいレンガにに文字が記されるようになったのだ。しかも楔形文字を刻むのではなく、印章に刻んで押しつけたらしく、陽刻となっている。表面が歪んでいるので円筒印章だったかも。
今ではチョガ・ザンビールもスーサもイランの領土だが、ジッグラトはメソポタミアに先例があるはずだ。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」 世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「タイルの源流を探って オリエントのやきもの」 山本正之監修 1991年 INNAX BOOKLET Vol.10 NO.4
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 1988年 講談社
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、釉薬の色は黄色(アンチモン鉛)、青緑色(銅)、黒(褐)色(マンガン鉛)、白色(錫)、明るい青(コバルト)などであるが、純粋の赤色はないという。
メソポタミア展でペルシャの射手は黒い輪郭線だと思っていたが、段々と青く、そして盛り上がった線だとわかった。
植物文の一部? 彩釉煉瓦 イラン、スーサ出土 前6世紀末~5世紀前半 9.0X13.4X3.6㎝ 岡山市オリエント美術館蔵
この彩釉レンガは輪郭線が盛り上がり、しかも青いことがよくわかる遺物だ。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、灰白色の石英質の胎土に釉を施したもので、図柄の輪郭線を描いて焼成した後、その間にさまざまな色彩の釉を施して焼き上げたものであるという。
ということは「上絵付け」になる。この時代に複数回焼成するということが行われていたのだ。
もっと以前に、現イランの地には彩釉レンガがあった。
彩釉レンガ イラン、チョガ・ザンビル、ジグラット出土 エラム中王国時代(前13世紀)
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、前1500年から前1000年にかけてはエラム中王国時代とされている。
ウンタシュ・ナピリシャ王(在位前1275-1240)が新都アール・ウンタシュ・ナピリシャ(現在名チョガ・ザンビール)を建設している。1250X900mにわたる楕円形の都市で、中央にジッグラトを含む聖域があるという。
アケメネス朝ペルシア以前にもスーサに近い都市で彩釉レンガが焼かれていたようだ。
『図説ペルシア』は、レンガはかつて青く彩釉されていたが、一部にそのレンガがはめこまれて保存されている箇所もあるという。
しかも建物全体が青かったらしい。
そう言えば、バビロンの彩釉レンガ(前580年頃)のライオンの背景は色はあせているが青色だった。ベルリン国立博物館西アジア美術館に復原されたイシュタル門は、バビロンにあった頃は、遠くから見ると青い門に見えただろうと想像するほど青い彩釉レンガが多く使われている。
メソポタミアでは青色の釉薬の原料コバルトが豊富に調達できる地域だったのだろう。
『図説ペルシア』は、古代中近東には神と結びつけて山を崇拝する風習があった。イラン高原の山々をイメージした巨大なジグラットは、メソポタミアの平野に多数建造された。このチョガ・ザンビルにあるジグラットは、アケメネス朝成立以前の紀元前13世紀、エラムの王ウンタシュガルが、スーサより南東40㎞の地点に建造したものであるという。
ジッグラト、ジグラット、ジグラート、その土地ごとに発音が少しずつ違うのだろうが、山をイメージしたものだとは気づかなかった。
1辺が約100mのジグラットは、約400mX450mの2辺の壁にかこわれ、さらに約1200mX800mの城壁に、四方がおおわれている。4段からなるジグラットは、高さ43mという。
43mもあって、青一色だったとすると、土の色しかない平原なら遠くからでも目立っただろう。
チョガ・ザンビールの場所はこちら
復元図
何故ウンタシュ・ナピリシャ王が建設したものだとわかるかというと、銘文入りのレンガが発見されたからである。
ジグラットの外壁に刻まれている楔形文字
刻みこまれているのはウンタシュガル王と20人以上の神の名前という。
『オリエントのやきもの』は、メソポタミアの王は、その在位中に建設した公共建築物に自分の名を残すのがしきたりになっていた。また、シュメール時代や古代バビロニア時代では、土釘などに短い碑文を刻むのが普通だった。このタイプの土釘は、建物のれんがの間に所有の印として差し込まれたもので、家を新しく入手する時に釘を槌で叩き込むというしきたりの延長として使用されたという。
クレイペグから平たいレンガにに文字が記されるようになったのだ。しかも楔形文字を刻むのではなく、印章に刻んで押しつけたらしく、陽刻となっている。表面が歪んでいるので円筒印章だったかも。
今ではチョガ・ザンビールもスーサもイランの領土だが、ジッグラトはメソポタミアに先例があるはずだ。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」 世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「タイルの源流を探って オリエントのやきもの」 山本正之監修 1991年 INNAX BOOKLET Vol.10 NO.4
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 1988年 講談社
2010/05/14
世界のタイル博物館7 輪郭線のある施釉レンガ
世界のタイル博物館にはメソポタミアの施釉レンガも展示されていた。「四大文明 メソポタミア文明展」で見たよりも古いものだ。
施釉レンガ アッシリア出土 前8-7世紀 332X327X80 世界のタイル博物館蔵
アッシリアは北メソポタミアに興った国だが、そのどこで発見されたものか不明。
かなり細かい輪郭線まで丁寧に描かれている。人面有翼牡牛像(ラマッス)を表している。レンガに黒い線で輪郭を描き、剥落した部分もあるが、白・黒・緑・黄の色釉がほぼ滲まずに焼けているようだ。背景の緑色にまだらに白い釉薬が掛かっているようにも見える。
施釉レンガ イラン、ジウィエ出土 前8-7世紀 164X340X93 世界のタイル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、クルディスタン地方サッケズの東南に位置するジヴィエ遺跡は初期鉄器時代3期(前8-7世紀)の城塞と墓地からなる遺跡である。
この遺跡をアッシリアのサルゴン2世(在位721-705)の遠征記録に出てくるマンナイ人の城塞ズィヴィアに関連づけるフランスの考古学者A.ゴダール博士の説がもっとも妥当と考えられている。「列柱の間」と呼ばれる建物は礎石の上に木柱が並び、壁はアッシリア的な釉薬タイルで装飾されていたという。
広い面と狭い面の2面に彩釉されているので、隅に使われたものだろう。
色釉が滲む以前に、黒い輪郭線自体がゆらゆらとはみ出している。まさか輪郭線をこのように歪めて描き色釉を掛けたとも思えない。焼成中に全体に動いたのだろうか。その割に色釉は混じっていないようだ。
その上、同心円文やロゼッタ文といった文様も揃っていない。このような失敗作としか思えないような彩釉煉瓦さえ、列柱の間に用いられる程当時は珍しく貴重なものだったのだろう。
どちらも黒い輪郭線が用いられていた。ジヴィエとアッシリアは地理的には近い。アッシリアの技法がマンナイ人に伝わったのだろう。
スーサのダレイオスⅠ宮殿の彩釉レンガ(前522-486年)には青い輪郭線が使われていたので、青い輪郭線よりも以前に黒い輪郭線で色釉の滲まないものがあったことになる。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」(世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市オリエント美術館)
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
2010/05/11
クエルダ・セカは紀元前にも?
クエルダ・セカという技法のタイルがあることをうっすらと知っていた頃、「四大文明 メソポタミア文明展」を見に行った。
そこにはバビロニア時代の彩釉煉瓦とペルシア時代のものがあった。そのどちらにも黒い線があって、クエルダ・セカという紀元後のスペインのタイルの技法が(とその当時は思っていた)、紀元前のメソポタミアでも使われていたことに驚いた。
歩行するライオン バビロン、行列道路の煉瓦装飾 彩釉煉瓦 高さ105㎝、長さ227㎝ 前580年頃 ルーヴル美術館蔵
同展図録は、バビロンの新年祭で王とその伴が通った「行列道路」は、全景にわたって歩行するライオンを、両側の煉瓦壁に飾っていた。各ライオンは11段の釉薬を掛けた成型煉瓦から構成された。すべて同じライオンではない。あるものは、このライオンのように白い毛並みと黄色いたてがみをもつという。
ライオンの体全体が浮彫になっていて、たてがみは小さな菱形に区切って、立体的に表現されている。それに黒い線でたてがみの毛並みを強調している。
ペルシャの射手 彩釉煉瓦 スーサ、ダレイオスⅠの宮殿、アパダナ(謁見の間) 高さ197.5㎝、長さ80㎝ ダレイオスⅠの治世(前522-486年) ルーヴル美術館蔵
ダレイオス大王がスーサに建てた宮殿は、ペルシャの宮殿のうちでバビロニアの伝統に最も忠実だった。しかし、スーサの優れた独創性は彩釉煉瓦の荘厳なパネルにとりわけ顕著である。これらのパネルは装飾の一部を成すが、バビロンの北入口を固めたイシュタル門の煌めく正面と、同市「行列道路」を挟んだライオンの装飾から直接着想を得ている。
煉瓦の装飾は、シリカ質の地にさまざまな色の釉薬を掛けているが、宮殿のバビロニア風に建てられた部分の中庭の一つを飾っていたと推測される。
射手は、すべての人物を同じサイズで表す「等頭」法に従って描かれているが、射手の名に値する弓と箙(やなぐい)を装備し、銀の石突のある槍を左足の上に載せている。
ローブは黄色地にロゼッタ装飾があるという。
黄色地のロゼッタ文も、箙の上から垂れ下がった何本かの紐も、黒い線のおかげで他の色と混ざらず、滲まずに焼き上がっている。
年代的には50-100年ほどのへだたりがあるこの2つの彩釉煉瓦の間を行ったり来たりしていて、あることに気がついた。
それはライオンのたてがみの黒い線が必ずしも煉瓦の浮彫のたてがみの凹みに沿っていないこと、そして黒い線が途切れたりにじんだりしていることである。たてがみ自体が単一の黄色であるため、色がはみ出したり、混ざったりということはない。
それに比べると射手の方は線は途切れることなく文様の縁を巡り、色と色の境界線という役目を果たして色が混ざり合っていない。
しかし、見れば見るほど黒と思っていた輪郭線は黒くなくなってきた。どちらかというと青っぽい色だったが、残念ながら図版ではその色がわからない。
そして、ロゼッタ文や、襟元や箙にある鋸歯文などに顕著だが、輪郭線が盛り上がっていて、釉薬はその凹みの中に溜まっていた。
新バビロニア(カルディア)ネブカドネザルⅡ期の彩釉煉瓦も、それを前539年に滅ぼしたアケメネス朝ダレイオスⅠ期の彩釉煉瓦も、クエルダ・セカとは異なるものだった。
しかし、色が混じらない工夫というのは紀元前にすでに行われていたのは確かである。
※参考文献
「四大文明 メソポタミア文明展図録」(2000年 NHK)
2010/05/07
世界のタイル博物館6 クエルダセカのタイル
クエルダ・セカのタイルはスペインのコーナーではなく中近東地域のところにあった。
『世界のタイル・日本のタイル』は、鮮やかな色彩を用いた明快な文様が特徴のクエルダ・セカは、油性の顔料で輪郭を描いたのち、各面を色釉で塗りつぶして焼成したものである。顔料は燃えてしまうため、輪郭線が色釉の部分よりも凹んだ状態で残る。イスラーム支配下にあったスペインでも用いられ、クエルダ・セカという名称もスペイン語から生まれた。本来は「乾燥した紐」を意味するという。
藍地多彩唐草文タイル トルコ クエルダ・セカ 16世紀 272X165X18 世界のタイル博物館蔵
クエンカ技法のタイルと違って線が黒いし、色釉の文様が平板な感じがする。といって黒の輪郭線が凹んでいる風にも見えない。
青地多彩花鳥文タイル イラン クエルダ・セカ 17-18世紀 242X233 世界のタイル博物館蔵
イランではかなり時代が下がるまでクエルダ・セカ・タイルが作り続けられたようだ。描かれているものもモスクや宮殿ではなく、一般家庭などに貼られたのではないかと思うような意匠だ。
しかし、このトルコのクエルダ・セカ・タイルは16世紀、イランのタイルは17-18世紀と、スペインの15世紀のクエンカ技法タイルよりも時代の下がる作品だ。
クエルダ・セカがクエンカ技法よりも早く現れた技法なら、スペインのものよりも古いクエルダ・セカ・タイルが見てみたい。
クトゥルク・アカー廟またはトゥマン・アカー廟のタイル ティームール朝(1404/05年) サマルカンド、シャーヒ・ズィンデ墓廟群内 ウズベキスタン
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、15世紀のティームール朝に発達したタイルの技法の例は、すべてシャーヒ・ズィンデ墓廟群に見ることができる。14世紀後半から15世紀初期に中央アジアで発達したクエルダ・セカなどが継続して使われた。
スペイン語で「乾いた線」を意味するクエルダ・セカとは、マンガンに油脂を混ぜた溶液で描かれた太い黒色の輪郭線が、さまざまな色彩の釉薬の混じり合いを防ぎ、一つの面に多色の釉薬を混在させることを可能にする施釉技法を指した美術用語であるという。
クエルダ・セカは14世紀後半に中央アジアで確立された技法のようだ。
この図版のなかでクエルダ・セカが使われているのは、アラビア文字を縦に並べた部分である。確かに黒い輪郭線がある。
ウスタード・アリーム廟 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダー廟内
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、何といっても注目せねばならないのは、ハフト・ランギー技法の出現で、その初現は管見の限りシャーヒ・ズィンダーに見うけられる。シャーヒ・ズィンダーとは、サマルカンド北郊にある聖者廟を核とする墓廟群で、14世紀を通して造営が重ねられ、ティムールの女系家族が葬られたという。
輪郭線も黒くてクエルダ・セカかと思ったが、ハフト・ランギーというらしい。どんな違いがあるのだろう。
ハフト・ランギーとは、ペルシア語で七色を意味し、となりあう色と色が交じり合わないように、まず境を溶剤で線描し、線に囲まれた面に色を発する釉薬を挿して焼き上げる方式であるという。
黒色の輪郭線がどのような成分かは記されていないが、クエルダ・セカと同じ技法のようだ。ペルシア語のハフト・ランギーがスペインに入ってクエルダ・セカと呼ばれるようになったのではないだろうか。
1397年にティムールが首都としたサマルカンドは、次々と建立された大建築を覆うタイルの色から「青の都」ともよばれる。彼の建設活動を円滑に進捗させた要因には、ハフト・ランギーの技法の他に、長方形のタイルを切断することなしにそのまま用いたモザイク・タイルがある。彼は大建築を短期間に美しく覆い尽くすために、とりわけ装飾プログラムをパネル化する際に、大壁面に適応可能なこれらの技法を積極的に採用したという。
長方形のタイルによるモザイクは、シャーヒ・ズィンダーのどちらの壁面にも見られる。確かに色付きタイルをそれぞれの形に刻み、壁面に貼り付けて文様をつくるモザイク・タイルよりもずっと時間を節約できる技法である。
また、ハフト・ランギーなら、ウスタード・アリーム廟の中央のパネルのように大きなタイルにも適した技法で、同じく小片に切ったタイルを組み合わせる手間が格段に省ける。
やっぱりハフト・ランギー、スペインではクエルダ・セカと呼ばれたものは、作業の省力化を図って出現した技法だったのだ。
※参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」(編者世界のタイル博物館 2000年 INAX出版)
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」(1999年 小学館)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市立オリエント美術館)
『世界のタイル・日本のタイル』は、鮮やかな色彩を用いた明快な文様が特徴のクエルダ・セカは、油性の顔料で輪郭を描いたのち、各面を色釉で塗りつぶして焼成したものである。顔料は燃えてしまうため、輪郭線が色釉の部分よりも凹んだ状態で残る。イスラーム支配下にあったスペインでも用いられ、クエルダ・セカという名称もスペイン語から生まれた。本来は「乾燥した紐」を意味するという。
藍地多彩唐草文タイル トルコ クエルダ・セカ 16世紀 272X165X18 世界のタイル博物館蔵
クエンカ技法のタイルと違って線が黒いし、色釉の文様が平板な感じがする。といって黒の輪郭線が凹んでいる風にも見えない。
青地多彩花鳥文タイル イラン クエルダ・セカ 17-18世紀 242X233 世界のタイル博物館蔵
イランではかなり時代が下がるまでクエルダ・セカ・タイルが作り続けられたようだ。描かれているものもモスクや宮殿ではなく、一般家庭などに貼られたのではないかと思うような意匠だ。
しかし、このトルコのクエルダ・セカ・タイルは16世紀、イランのタイルは17-18世紀と、スペインの15世紀のクエンカ技法タイルよりも時代の下がる作品だ。
クエルダ・セカがクエンカ技法よりも早く現れた技法なら、スペインのものよりも古いクエルダ・セカ・タイルが見てみたい。
クトゥルク・アカー廟またはトゥマン・アカー廟のタイル ティームール朝(1404/05年) サマルカンド、シャーヒ・ズィンデ墓廟群内 ウズベキスタン
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、15世紀のティームール朝に発達したタイルの技法の例は、すべてシャーヒ・ズィンデ墓廟群に見ることができる。14世紀後半から15世紀初期に中央アジアで発達したクエルダ・セカなどが継続して使われた。
スペイン語で「乾いた線」を意味するクエルダ・セカとは、マンガンに油脂を混ぜた溶液で描かれた太い黒色の輪郭線が、さまざまな色彩の釉薬の混じり合いを防ぎ、一つの面に多色の釉薬を混在させることを可能にする施釉技法を指した美術用語であるという。
クエルダ・セカは14世紀後半に中央アジアで確立された技法のようだ。
この図版のなかでクエルダ・セカが使われているのは、アラビア文字を縦に並べた部分である。確かに黒い輪郭線がある。
ウスタード・アリーム廟 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダー廟内
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、何といっても注目せねばならないのは、ハフト・ランギー技法の出現で、その初現は管見の限りシャーヒ・ズィンダーに見うけられる。シャーヒ・ズィンダーとは、サマルカンド北郊にある聖者廟を核とする墓廟群で、14世紀を通して造営が重ねられ、ティムールの女系家族が葬られたという。
輪郭線も黒くてクエルダ・セカかと思ったが、ハフト・ランギーというらしい。どんな違いがあるのだろう。
ハフト・ランギーとは、ペルシア語で七色を意味し、となりあう色と色が交じり合わないように、まず境を溶剤で線描し、線に囲まれた面に色を発する釉薬を挿して焼き上げる方式であるという。
黒色の輪郭線がどのような成分かは記されていないが、クエルダ・セカと同じ技法のようだ。ペルシア語のハフト・ランギーがスペインに入ってクエルダ・セカと呼ばれるようになったのではないだろうか。
1397年にティムールが首都としたサマルカンドは、次々と建立された大建築を覆うタイルの色から「青の都」ともよばれる。彼の建設活動を円滑に進捗させた要因には、ハフト・ランギーの技法の他に、長方形のタイルを切断することなしにそのまま用いたモザイク・タイルがある。彼は大建築を短期間に美しく覆い尽くすために、とりわけ装飾プログラムをパネル化する際に、大壁面に適応可能なこれらの技法を積極的に採用したという。
長方形のタイルによるモザイクは、シャーヒ・ズィンダーのどちらの壁面にも見られる。確かに色付きタイルをそれぞれの形に刻み、壁面に貼り付けて文様をつくるモザイク・タイルよりもずっと時間を節約できる技法である。
また、ハフト・ランギーなら、ウスタード・アリーム廟の中央のパネルのように大きなタイルにも適した技法で、同じく小片に切ったタイルを組み合わせる手間が格段に省ける。
やっぱりハフト・ランギー、スペインではクエルダ・セカと呼ばれたものは、作業の省力化を図って出現した技法だったのだ。
※参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」(編者世界のタイル博物館 2000年 INAX出版)
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」(1999年 小学館)
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」(2001年 岡山市立オリエント美術館)
2010/05/04
世界のタイル博物館5 クエルダ・セカとクエンカ技法
クエルダセカというタイルの彩色法を聞いたことがある。黒い輪郭線があることで他の色と混ざらないので彩色豊かなタイルを焼くことができるという。
白地多彩草花文タイル スパニッシュ・マジョリカ 18世紀 113~115 世界のタイル博物館蔵
『世界のタイル・日本のタイル』は、マジョリカ陶器とは、狭義には15-16世紀のイタリア製軟陶上絵陶器を指す。その源流は、イベリア半島経由でヨーロッパにもち込まれたイスラームのやきものだという。
けれども、スパニッシュ・マジョリカと呼ばれるスペインの手書きタイルが、イスラーム起源かどうかはっきりしない。16世紀以降に、イタリアもしくはフランドルの画工からもたらされたともいわれている。
いずれにせよ、18世紀頃のスペインではタイル絵が盛行し、ここに挙げるようなさまざまな手書きタイルがつくられたという。
典型的なスペインのタイルで、輪郭が黒い線だが、色が外に滲んでいる。これはクエルダ・セカではない。
クエルダセカはスペイン語なのに。
スペイン製のタイルには、黒くはないが輪郭線のあるタイルがある。クエンカ技法というらしい。クエンカは地名から付けられた名称だろう。
8世紀半ば以降、イベリア半島南東部を支配したイスラーム教徒によって、新しい製陶技法がヨーロッパ大陸にもち込まれた。15世紀後半には、油性顔料で輪郭線を描くクエルダ・セカ技法が、続いてクエンカと呼ばれる技法が伝わった。
クエンカ技法は、型を使い、輪郭を残して文様部分を凹ませ、この凹部に色釉を詰めて焼成するもの。モザイクに近い効果が得られる。16世紀初頭に、セヴィリア地方で量産されたという。
クエルダ・セカもクエンカもイスラームから伝えられたものだった。
スペイン製のクエルダ・セカ・タイルはなかったが、クエンカ・タイルはいろいろと展示してあった。
ラスター・コバルト彩タイル クエンカ技法 16世紀 413X413 世界のタイル博物館蔵
なんといっても大きいので目立つ。そしてこの色彩と文様。ラスター彩の金属的な光沢の組紐がコバルト色の輪っかをつなぎ、間地にコバルト色の花十字がある。輪っかの中には双方を組み合わせた花文が配される。
『聖なる青 イスラームのタイル』は、光の角度によって玉虫色のように微妙な輝きをみせるラスター彩は9世紀から13世紀の間に中近東地域でのみ生産された。幻の名陶である。
一見、金彩のように見えるが釉薬や顔料の金属酸化物が表面に皮膜をつくって虹のような光彩をつくりだしているという。
ラスター彩はイスラーム世界ですたってしまったが、スペインでは今もあるというのは聞いたことがある。
確かに色のついたところが白地よりも凹んでいる。「輪郭を残して文様部分を凹ませ」ると文様の周辺に輪郭線のようなものが残るのだろうか。
多彩幾何文タイル 15世紀 クエンカ技法 143X142X22 世界のタイル博物館蔵
白い帯が表に出たり、くぐったりしながら、複雑な幾何学文の輪郭となっている、これだけ見たらイスラームのタイルかと思ってしまう。
おそらく4枚を左下隅の緑色の部分中心に並べると、中心に多角形ができて、そこからこれらの幾何学文が花が開いたように派生して見えるだろう。
色のついた所よりも白の帯に赤っぽい輪郭線があるように見える。釉薬の部分が凹んでいるとしたら、輪郭線は胎土そのものの色ということになる。
白地多彩幾何文タイル 15世紀 クエンカ技法 140X140 世界のタイル博物館蔵
8点星八角形の凸角に変則的な六角形が付いて、2種類の開いた花のように見える。
こちらもイスラーム的な意匠のタイルだ。スペインでは1492年にグラナダが陥落するまでイスラームの王朝が存続していたので15世紀にこのような幾何学文があっても不思議ではない。
こちらにも赤っぽい輪郭線が見える。やつぱり輪郭線だけ素焼きになるのだろう。
白地多彩草花文タイル スパニッシュ・マジョリカ 18世紀 113~115 世界のタイル博物館蔵
『世界のタイル・日本のタイル』は、マジョリカ陶器とは、狭義には15-16世紀のイタリア製軟陶上絵陶器を指す。その源流は、イベリア半島経由でヨーロッパにもち込まれたイスラームのやきものだという。
けれども、スパニッシュ・マジョリカと呼ばれるスペインの手書きタイルが、イスラーム起源かどうかはっきりしない。16世紀以降に、イタリアもしくはフランドルの画工からもたらされたともいわれている。
いずれにせよ、18世紀頃のスペインではタイル絵が盛行し、ここに挙げるようなさまざまな手書きタイルがつくられたという。
典型的なスペインのタイルで、輪郭が黒い線だが、色が外に滲んでいる。これはクエルダ・セカではない。
クエルダセカはスペイン語なのに。
スペイン製のタイルには、黒くはないが輪郭線のあるタイルがある。クエンカ技法というらしい。クエンカは地名から付けられた名称だろう。
8世紀半ば以降、イベリア半島南東部を支配したイスラーム教徒によって、新しい製陶技法がヨーロッパ大陸にもち込まれた。15世紀後半には、油性顔料で輪郭線を描くクエルダ・セカ技法が、続いてクエンカと呼ばれる技法が伝わった。
クエンカ技法は、型を使い、輪郭を残して文様部分を凹ませ、この凹部に色釉を詰めて焼成するもの。モザイクに近い効果が得られる。16世紀初頭に、セヴィリア地方で量産されたという。
クエルダ・セカもクエンカもイスラームから伝えられたものだった。
スペイン製のクエルダ・セカ・タイルはなかったが、クエンカ・タイルはいろいろと展示してあった。
ラスター・コバルト彩タイル クエンカ技法 16世紀 413X413 世界のタイル博物館蔵
なんといっても大きいので目立つ。そしてこの色彩と文様。ラスター彩の金属的な光沢の組紐がコバルト色の輪っかをつなぎ、間地にコバルト色の花十字がある。輪っかの中には双方を組み合わせた花文が配される。
『聖なる青 イスラームのタイル』は、光の角度によって玉虫色のように微妙な輝きをみせるラスター彩は9世紀から13世紀の間に中近東地域でのみ生産された。幻の名陶である。
一見、金彩のように見えるが釉薬や顔料の金属酸化物が表面に皮膜をつくって虹のような光彩をつくりだしているという。
ラスター彩はイスラーム世界ですたってしまったが、スペインでは今もあるというのは聞いたことがある。
確かに色のついたところが白地よりも凹んでいる。「輪郭を残して文様部分を凹ませ」ると文様の周辺に輪郭線のようなものが残るのだろうか。
多彩幾何文タイル 15世紀 クエンカ技法 143X142X22 世界のタイル博物館蔵
白い帯が表に出たり、くぐったりしながら、複雑な幾何学文の輪郭となっている、これだけ見たらイスラームのタイルかと思ってしまう。
おそらく4枚を左下隅の緑色の部分中心に並べると、中心に多角形ができて、そこからこれらの幾何学文が花が開いたように派生して見えるだろう。
色のついた所よりも白の帯に赤っぽい輪郭線があるように見える。釉薬の部分が凹んでいるとしたら、輪郭線は胎土そのものの色ということになる。
白地多彩幾何文タイル 15世紀 クエンカ技法 140X140 世界のタイル博物館蔵
8点星八角形の凸角に変則的な六角形が付いて、2種類の開いた花のように見える。
こちらもイスラーム的な意匠のタイルだ。スペインでは1492年にグラナダが陥落するまでイスラームの王朝が存続していたので15世紀にこのような幾何学文があっても不思議ではない。
こちらにも赤っぽい輪郭線が見える。やつぱり輪郭線だけ素焼きになるのだろう。
そういえば、30数年前スペイン旅行をした時にもらった観光用パンフレットにグラナダのアランブラ宮殿のタイルが紹介されていた。
長年不思議な文様で、調べても幾何学文ということしかわからなかった。数年前にイスラーム建築について深見奈緒子氏の講演を聴いた時に質問してやっと名前がわかった。上の2点はそのタイルによく似ている。
12点星ロセッタのある幾何学文 14世紀
深見氏は、幾何学文と総称されるものです。細かくいうと、上の方は中心の星が12の角を持っているので12点星、そしてロセッタという甲虫のような6角形があるので「12点星ロセッタのある幾何学文」と呼ばれているという。
「白地多彩幾何文タイル」で「変則的な六角形」と表現したものは「ロセッタ」というのだった。
20点星組紐文のある幾何学文 14世紀
中心の星が20の角を持っているので20点星、そして各色タイルの間に白い帯状のものが輪郭を描いているので組紐文ということで、「20点星組紐文のある幾何学文」という風に呼ばれている。
イスラーム以前からあった文様で、建築装飾に使われる前から、象嵌や寄せ木細工などの木製品にあるのではないかという。
このタイルは「多彩幾何文タイル」が縦横2枚ずつ組み合わせてできる文様のパターンだ。
アランブラ宮殿のタイル(14世紀)は、よく見るとクエンカ技法のように1枚のタイルにくぼみをつけて作ったのではなく、色の異なるタイルをそれぞれの形に切って組み合わせたものだ。クエルダ・セカもクエンカ技法も、そのような気の遠くなるような作業を簡便にするための工夫だったのでは。
※参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」(世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版)
「聖なる青 イスラームのタイル」(INAXBOOKLET 山本正之監修 1992年 INAX出版)
「グラナダの観光用パンフレット」(スペイン語ではHを発音しないのでアルハンブラではなくアランブラにしました)
深見奈緒子の著作は「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」(2003年 東京堂出版)・「世界のイスラーム建築」(2005年 講談社現代新書1779)など
長年不思議な文様で、調べても幾何学文ということしかわからなかった。数年前にイスラーム建築について深見奈緒子氏の講演を聴いた時に質問してやっと名前がわかった。上の2点はそのタイルによく似ている。
12点星ロセッタのある幾何学文 14世紀
深見氏は、幾何学文と総称されるものです。細かくいうと、上の方は中心の星が12の角を持っているので12点星、そしてロセッタという甲虫のような6角形があるので「12点星ロセッタのある幾何学文」と呼ばれているという。
「白地多彩幾何文タイル」で「変則的な六角形」と表現したものは「ロセッタ」というのだった。
20点星組紐文のある幾何学文 14世紀
中心の星が20の角を持っているので20点星、そして各色タイルの間に白い帯状のものが輪郭を描いているので組紐文ということで、「20点星組紐文のある幾何学文」という風に呼ばれている。
イスラーム以前からあった文様で、建築装飾に使われる前から、象嵌や寄せ木細工などの木製品にあるのではないかという。
このタイルは「多彩幾何文タイル」が縦横2枚ずつ組み合わせてできる文様のパターンだ。
アランブラ宮殿のタイル(14世紀)は、よく見るとクエンカ技法のように1枚のタイルにくぼみをつけて作ったのではなく、色の異なるタイルをそれぞれの形に切って組み合わせたものだ。クエルダ・セカもクエンカ技法も、そのような気の遠くなるような作業を簡便にするための工夫だったのでは。
※参考文献
「世界のタイル・日本のタイル」(世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版)
「聖なる青 イスラームのタイル」(INAXBOOKLET 山本正之監修 1992年 INAX出版)
「グラナダの観光用パンフレット」(スペイン語ではHを発音しないのでアルハンブラではなくアランブラにしました)
深見奈緒子の著作は「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」(2003年 東京堂出版)・「世界のイスラーム建築」(2005年 講談社現代新書1779)など
登録:
投稿 (Atom)