京都大学総合博物館の『シルクロード発掘70年 雲岡石窟からガンダーラまで展』に行った。第二次大戦中に日本軍が大同を占領している時に、雲崗石窟の調査が行われたことは知っていたので、その頃の収集品や写真などが見られるかもと期待した。
大同から武州川沿いに西へと進んで、だだっ広いところで車を降りた。その後崖に向かってかなり歩いたように記憶している。
雲崗石窟付近の航空写真には、我々が歩いたと思われるところには窰洞(やおとん)の住宅街が整然と並んでいる。その北側には、同展図録は、往時の雲岡石窟寺は、石窟の前面や台地上に、木造の仏殿や僧房がならんでいたという。北魏以来絶えることなくお寺があったのだろうか。
雲崗石窟が東西の崖に広がっているのを前にして、いったいこの崖はどこまでまっすぐ続いているのだろうと思ったものだが、武州川がこの先でS字形に蛇行しているのが見える。雲崗石窟の近くに明代の長城が通っているらしいが、崖の下からは見えなかった。この写真でもわからないので、もっと北にあるのかも。

解説から、それが仏像の目であることがわかった。なんと、雲崗石窟を見学しているときに、不思議に思ったあの目ではないか。展覧会には行ってみるものだとつくづく思う。どこに解答が待ち受けているかわからない。
この目自体はそんなに大きなものではないが、それでも数mの仏像にはめ込むつもりで作られたのだろう。

一時は、どの時代かの泥棒がよじ登っていって、仏像の目を盗もうとして目のまわりを掘ったが、取り出すことができなかったのかなとも思ったこともあった。


黒い目については、雲崗曇曜五窟の仏像の目、雲崗石窟の中・後期窟では、黒石象嵌の目は懸空寺にもをどうぞ
※参考文献
「シルクロード発掘70年 雲岡石窟からガンダーラまで展図録」(京都大学人文科学研究所編 2008年 臨川書店)