ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/07/10
大同、上華厳寺は遼代?金代?
上華厳寺の大雄宝殿は階段を上っていくと、やっと入口が見えてくるのだが、全体を見るのが困難なくらい大きい。
『中国建築の歴史』は、いままで発見された単層の木造建築のうちでは、規模のもっとも大きなもののひとつという。
それで、パノラマ合成できるように撮ったのだが、あまりにも幅が広いため、合成しきれなかった。
正面は「大雄宝殿」という扁額(亀の形だそうだ)と横一文字の「調御丈夫」という扁額の下に出入口があるのだが、階段からは清代の大きな香炉がじゃまをして見えない。 右側を見ると閉鎖された木造の扉口の両側の土壁が台形に突き出ているので、大きいだけでなく、ずっしりと風格がある。
遠くからの方がよく見えた屋根は反りがなく、すっきりとしている。そして軒の下に並ぶ巨大な組物の力強いこと。
『中国建築の歴史』は、軒まわりの斗栱は、二手先(双抄)の重栱計心形式で、前面と背面の中央間の中備組物には60度方向の斜栱を用い、柱筋にたいして直角になる肘木(華栱)を跳ね出さず、また左右の脇の間では45度の斜栱を用いながら、柱筋に直角になる肘木もいっしょに跳ね出している。隅の組物は、それぞれ両隣に隅の大斗(角斗)を加え、組物を一筋ずつ継ぎ足して、纏柱造にしている。あらゆる斗栱が変化しているこの手法は、自由そのものであるという。 左側も同様である。
ガイドの屈さんは、上華厳寺は遼の時代(916-1125年)に建てられました。約千年の歴史があります。遼の時代、大同は遼の都でしたと説明してくれた。
下華厳寺で買った『華厳寺』という写真集にほぼ全体写った作品があったが、少し離れた、下華厳寺から撮ったものだった。それくらい大きな建物なのだ。 同じく下華厳寺で買った『山西古建築通覧』には、 天眷3年に重修とあり、下の写真が掲載されていた。屋根もゆがみ、壁の色も上の写真とはかなり違う。
『中国建築の歴史』は、大殿は、遼の清寧8年につくられ、金の天眷3年に再建されたという。
『中国の古建築』には、再建についての文もあるのだが、殿内の諸像が明代以降の作ばかりであるのは、かつて大破したことがあるのを物語るらしい。金の大定2年(1162)の碑文によれば、遼の終末にあたり金軍が攻略したとき、華厳寺の諸建築は大半が破壊されて、金代の初期に9間に7間の大殿を建てたとあり、いまの大雄宝殿と大きさが少し異なるが、おそらく同じ建築であろうと推定して、いまの建築を金初の建築とする説が一部にある。しかし建築様式からみて遼代とすべきであるから、たぶん遼代の建築を金初に修理したものと私は考えたいという田中淡氏の文があり、どちらが本当なのかと思ってしまう。
沢村仁氏の「大同の古建築 華厳寺と善化寺(主集 中国建築の現状)」というウェブサイトは、大雄宝殿と薄伽教蔵殿(下華厳寺)を比較すると両者を同年代とすることには疑問がある。金初の再建かどうかは発掘を伴う調査が必要であろうが、建物細部自体を比較して、大雄宝殿の方が新しい要素が多く営造方式に近いように見えるという。
沢村氏は再建説のようだ。しかし、この文は1975年のものなので、今まで参考にしていたものよりも古い。
『華厳寺』は、1997年から2001年にかけて架構を下ろし、重修したが元来の風格は保持しているとある。発掘調査をしたのではないようだが、修復後に出版された同書(中国語と英語の文を適当に翻訳)は、大雄宝殿の創建は遼代清寧8(1062)年、遼末期に戦乱により焼失。金代の天眷3(1140)年、寺址上に再建されたという。
今回の旅行前に書店にはなく、帰ってきたら出ていたのに、出版年が2006年という不思議な『図説中国文明史8 遼西夏金元』 には、上華厳寺について、創建のままとも、再建とも明記していないので、今のところ一番新しい説として、金代の再建ということにしようと思う。
※参考文献
「華厳寺」 張宏斌 2004年 華厳寺
「山西古建築通覧」 1987年 李玉明主編 山西人民出版社
「世界文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「中国建築の歴史」 田中淡訳編 1981年 平凡社
「図説中国文明史8 遼西夏金元」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社