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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/10/02

雲崗曇曜五窟の仏像の目



雲崗石窟は北魏の都平城(現大同)の西に開かれた石窟で、最初に曇曜が5つの窟を開いたので、曇曜五窟と呼ばれている。現在は東西に並んだ石窟を東から番号を打ってあり、曇曜五窟は第16窟から第20窟とされている。
ツアーでは受付近くの第5窟から西へと見ていったが、自由見学だったらまず初期の曇曜五窟から見ただろう。

第20窟
前壁が崩壊したため、元は石窟の内部にあった大仏が露天にさらされている。そのためか雲崗石窟といえば第20窟の画像映像が出てくる。
中尊の釈迦如来は『中国の仏教美術』は、いわゆる西方式といわれ右肩を袒(かたぬ)ぐ偏袒右肩(へんたんうけん)式だが、右肩先に大衣の端がかかっており、このかたちは、多く河西回廊の涼州地域にみられるので、涼州式偏袒右肩と称されるという。

インド(マトゥラ)の服装に河西回廊の特徴が加わったものだ。実際に見上げると主尊の黒い目が気になった。しかも、黒い目の周りは、覆っていたものがはがれ落ちたか、黒い目を盗もうと彫ったが諦めたのではないかと思うようなえぐれ方だ。右に立つ未来仏は、釈迦如来と比べるとだいぶ背か低い。着衣は通肩(つうけん)という、ガンダーラ仏の服装である。そのためか、黒目がはがされており、内部の土のようなものが見えている。 左の過去仏は崩壊してしまっている。第19窟
 こちらも三世仏だが、それぞれが独立した窟に入っている。第20窟に最も近い過去仏も窟が崩壊している。その目も黒の象嵌があり、第20窟の主尊と同様まわりがえぐられている。
不思議なことに、曇曜五窟の中でも18・19・20窟は早い時期に造られたはずだが、着衣は通肩でも涼州式偏袒右肩でもない。中国風の双領下垂式である。 釈迦如来は涼州式偏袒右肩で、黒い象嵌の目も、内部の土もなく、造像時に刳り貫いた瞳であったかのようでもある。 未来仏も同様に目が刳り貫かれたような瞳である。着衣は偏袒右肩のようだが、涼州式かどうか不明である。 第18窟
 馬蹄形平面の窟内に三世仏や比丘菩薩が表されている。主尊の釈迦如来は刳り貫かれた目となっている。涼州式偏袒右肩の服装である。  右の過去仏は通肩で、黒い瞳がある。目の周りは輪郭程度に彫られているようだ。中尊との間にほとんど風化してしまったような菩薩の頭部があり、目に空洞があったことが、かろうじてわかる。 右の通肩の未来仏も、黒目の周りが一周彫り込まれている。そして頭部だけ残ったような宝冠をかむる菩薩の目はそのままなのか、すこし剥落がみられる程度である。 第17窟
未来仏の弥勒が菩薩形で表されている。顔全体に風化が目立つが、目は空洞になっている。 そして右には仏立像がある。その目は右が刳り貫かれた痕跡のある空洞となっていて、左目はえぐられてはいるが、黒目が残っているように見える。
第16窟
中国式の服装をした如来である。

『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』で石松日奈子氏が、西方伝来の着衣法を基本としてきた他の4窟では、如来像の袈裟は偏袒右肩か通肩で着用していたが、第16窟本尊像は両肩を覆った袈裟の縁が左右の襟のように胸前を垂下し(双領下垂)、末端部を左腕に懸けている。 広く開いた胸元からは中に着用した僧祇支の斜めの縁とその上に着ている内衣の襟をのぞかせ、襟についた紐を結んで垂らしている。このスタイルは雲崗では中期窟で出現し、  ・・略・・  造像様式の中国的変化を顕著に示す現象である。
したがって第16窟は曇曜五窟の一つとして開始されたものの、本尊像は初期には完成せず、中期に至って新しく採用された中国様式で造像されたものと推定される
という。

私は曇曜五窟の後期(1期後半)になると双領下垂式が出現するのかと思っていた。第19窟の過去仏も同様の服装をしているが、同じように遅れて造像されたのだろうか。
この釈迦如来の目も空洞となっているが違和感はない。
北魏前期に造営された雲崗石窟の、それも第1期(文成帝の460-465年)の曇曜5窟に黒い象嵌の目というのがどうも違和感がぬぐえない。北魏時代に仏像の目を黒い石で象嵌するということが行われていたのだろうか。そんなにたくさんの仏像を見てきたわけではないが、そのような記憶はない。
仏像の目について書かれたものはほとんどなく、石窟の売店で買った『雲崗石窟』 に、第18窟の大仏について、李治国氏が、尊像の瞳は、もともと生命のない彫刻に深い感情が宿っているように感じられるほどうまく造られていると述べているのだが、それは黒い象嵌のない目を指しているものと思われる。
ひょっとして、曇曜五窟の仏像は造像時には、第18窟の釈迦如来像のように、刳り貫いた瞳だったが、後の時代に黒い石の瞳が入れられ、その後でえぐり取られたのではないだろうか。
目を象嵌するといっても、眼球を入れるのではなく、コンタクトレンズのように瞳の部分に薄い石をはめ込むもののように思うので、空洞のある目が象嵌を抜き取られたものとも思えない。造像時に空洞の瞳であったからこそ、象嵌の目をはがされた第20窟の未来仏が、象嵌をする時に空洞に詰めた物が残っているのではないだろうか。

※参考文献
「世界美術双書006 中国の仏教美術」 久野美樹 1999年 東信堂
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社