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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/10/10

法隆寺金堂四天王像の先祖は

法隆寺金堂の四天王像は法隆寺にある他の仏像や、他の飛鳥時代の仏像にも似ても似つかぬ姿をしている。また、四天王像とは思えない物静かな雰囲気だ。
『国宝法隆寺金堂展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、持物のちがいを除けば4体の姿勢にほとんど差がなく、いずれも邪鬼の背上に足をそろえて静かに佇立しており、奈良時代以降の四天王像とは大きく異なった印象を受ける。
同じ金堂の釈迦三尊像や夢殿の救世観音像などの飛鳥前期の彫刻が正面観照性を顕著に示していたのに対し、本四天王像では体部の厚みを増し、腰脇から体側を垂下する天衣がその広い面を側方に向ける点に明らかなように、側面観照性を充分に顧慮した造形で、立体として一歩進んだ様相を見せている
という。縄のようなベルトは、慶州四天王寺址出土の彩釉磚の四天王像にある。それが数年前、中国国宝展で見かけた天王像を見て、法隆寺の四天王像に似ている、というよりは源流に行き当たった気がした。 

天王立像 砂岩 四川省成都市万仏寺址出土 南朝時代(6世紀) 中国国家博物館蔵 
『中国国宝展図録』は、襟の立った長袖コート状の鎧を身につけ、腰にベルトを締める。裾に規則的に刻まれた下衣の襞がのぞいている。大きな肩布をはおり、その下に胸甲らしいものの輪郭線が表される。
法隆寺金堂四天王像(飛鳥時代)は、上に述べたような形式を備えており、その関連が注目される
という。この像を見て以来、法隆寺の四天王像を見てみたいと思っていた。
比べてみると法隆寺のものは甲冑の小札が表されているが、万仏寺のものにはないように見える。
『法隆寺展図録』は、甲冑の形式も古風で、正面中央縦に合わせ目がくる胴丸式挂甲と呼ばれる鎧を身につけ、長い袖を垂下させる。奈良朝以降の神将形像が唐時代の像を範とした西域風の軽快なスタイルであるのに対し、本四天王の甲冑・服制は一時代前の六朝時代の風にのっとったもので、法隆寺の玉虫厨子の宮殿部扉に描かれた二天王像の図様もこれに相近いという。  康勝釈迦諸尊像 石造 四川省成都市出土 梁、普通4年(523) 成都市四川省博物館蔵
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』(以下『南北朝』)が、左前方には大袖の衣に鎧をつけ長靴を履いた神将像という像が、部分的にだが、法隆寺のものに似ている。また、この神将の襟がくるりと返っている表現は、当麻寺の四天王像(白鳳時代=飛鳥後期)の方が近い。 門衛武士図(拓本) 画像塼 江蘇省丹陽市建山金家村墓(帝陵)出土 南斉(5世紀後半) 江蘇省南京博物館蔵
『南北朝』は、金家村墓は明帝蕭鸞の興安陵に比定される。甬道第一石門、第二石門の前の天井両壁には鎧で肩を覆い長剣を杖にした「門衛武士図」があったという。杖が一直線になっていないのは、南斉末期の政情の混乱を反映したものらしいが、甲冑は中央に合わせ目があるようには見えない。万仏寺址出土の天王像よりも古い様式の甲冑はこんな風だったらしい。 ついでなので北朝の甲冑をつけた俑です。

鎧甲武人俑 灰陶加彩 河南省偃師市聯体塼廠2号墓出土 北魏(6世紀前半) 河南省偃師商城博物館蔵
北朝でも武人は太めの体型に表されているなあ。太っていると強そうに見えたのかなあ。 


           国宝法隆寺金堂展には四天王像を見に行った

関連項目
白鳳展8 當麻寺四天王像は脱活乾漆

※参考文献
「国宝法隆寺金堂展図録」(2008年 朝日新聞社)
「中国国宝展図録」(2004年 朝日新聞社)
「世界美術大全集東洋編3三国・南北朝」(2000年 小学館)