さて、この石製三重塔はどんなものか。
『日本の美術45 石造美術』は、石段をのぼりつめると一基高くそびえる三重塔を中心に無数の五輪塔がめぐっているのは壮観である。第一層が高く、他は方形に近くて、屋根の出が深い。相輪は当初のものではないが、全形は異国調が感ぜられる。天智8年(669)に百済人が蒲生郡に移住したと「書紀」に見え、彼等にまつわる記念のものであることを肯かせる。高さ約7.5m。花崗岩製。飛鳥時代という。
昔この文を読んだからか、そういう風に言われてきたからか、朝鮮半島風のものだと思ってきた。同書では、飛鳥時代は592年の推古天皇即位から710年の平城京遷都まで、白鳳期を含んでいるようだ。
相輪が後補というのは見るとすぐにわかるので、この柔らかい雰囲気に満ちた石塔を一巡してみてみよう。
まず、正面から。法然院の墓を見て石塔寺に行きたくなったで古い写真に写ったお堂は、宝形造りの屋根と4本の柱だけのものがこの塔の正面に建っていたことが同書からわかった。そのように見ると石塔寺の頂上巡りは石仏が並んでいて面白いの写真では、正面が一段高くなっている。









『図説韓国の歴史』に写真があったのは、扶余定林寺跡五層石塔(7世紀 高さ8.33m)で、同書は、現存唯一の典型的な百済石塔である。初層塔身四面に唐の蘇定方が刻んだという大唐平百済碑銘がある。解放前の発掘によって日本でいう四天王寺式伽藍であったことが確認されたという。

扶餘の町から車で二十分、長蝦里という農村の小高い丘にこの石塔はきりりとした姿で立っていた。
軸部が一石でない、屋根が板状の石を重ねて出来ているなど、細部の相違はわずかに有る。しかし、上の層へと軸部の大きさが低減する比率がかなり近いし、総体的なシルエットはほぼ同じと言ってもよいほど似ている。
百済式と呼んで良いだろうと思うが、現存する石塔は稀少で、この形式の石塔は他には扶餘の定林寺址の五層石塔しか見ることが出来なかった。
新羅式の塔は、統一新羅以降も含め、かなりの数が現存していたが、やはり滅亡した国の悲哀とでも言うべきか。その意味では、日本の石塔寺三重石塔は、貴重な百済式石塔の遺構ということになる。
新羅式のどっしりとした塔と比べると、心なしか華奢で、今にも崩れてしまいそうな情緒が感じられてとても良いという文と共に、写真が載せられている。
そう言われると似ているが、屋根を持ち送りで表さない石塔寺の三重塔は、簡略化して造ったものかも知れないが、私の好みとしては石塔寺の方である。少しは和様化したのだろうか。
せっかくなので、新羅式の石塔も載せておく。
感徳寺跡三重塔は、新羅神文王が父の文武王の冥福を祈るために682年に建立した。創建当時は寺の前に船着き場があり、海中陵とつながっていたとされるという。
また、ほあぐらさんが見た感想は、三国統一を成した新羅の文武大王が創建したこの寺は、現在は完全に廃墟となってしまい、残っている建造物はこの東西両三層石塔のみとなっている。
先ほど松林寺で述べた石塔に対する従来からの既成の美意識に、これほどぴったり該当する石塔もまた珍しいだろう。屋根の反り具合や、上へ向かうほど小さくなる屋根と塔身の大きさの低減率などが、日本人の見慣れた法起寺や当麻寺や明通寺などの木造三重塔のシルエットにぴったりなのである。
塔の周囲に礎石が見られることから、おそらく感恩寺の伽藍を形成していた塔と思われるが、慶州仏国寺の三層石塔と多宝塔のような存在だったのだろうかと、こちらもまた日本人好みの塔であるらしい。

※参考文献
「日本の美術45 石造美術」 小野勝年編 1970年 至文堂
「図説韓国の歴史」 金両基監修 1988年 河出書房新社
※参考サイト
ほあぐらの美の世界紀行韓国の石仏と石塔