矩形の皿や2方向を折り曲げてフリルのような装飾を施した皿などもある。この形は、一乗谷朝倉氏遺跡出土の箸置きに似ている。
平安時代の緑釉陶器とはどんなものだったのだろう。その前に、『日本の美術235 陶磁 原始・古代編』(以下『日本の美術235』)は私にとって簡潔で明快に「焼物」を定義してくれていた。
『日本の美術235』は、考古学の分野では、「焼物」という用語はあまり使わないが、土あるいはその母岩たる岩石の粉末に熱を加え、化学的に変化させたものを総称して焼物と呼ぶ。
土が熱によって凝固するのは、粘土鉱物の働きもさることながら、珪酸(石英)分がガラス化するからに他ならない。したがって、その純粋成分を素材とするガラス(石英ガラス)も焼物の一種である。珪酸が溶けガラス化する温度は、1713度と言われる。実際のところ、このような高温を常時保持することは極めて困難である。ところで、珪酸は、酸化アルミニウム・酸化カルシウム・酸化ナトリウム等のアルカリ性の鉱物(粘土鉱物)と一緒に存在すると、もっと低い温度で溶け、ガラス化が促進されるという。
化学をやっていた夫にその話をすると、共晶という物理現象だという。
銅を溶かすには高温にしないといけないけれど、低温で溶けるすずを先に溶かし、そこに銅を入れるとするすると溶けていくという青銅をつくる実験を、昔教育テレビのある番組で見たことがある。その時、昔の人は技術も道具ももちろん知識もないのに、あっと驚く創意工夫で青銅をつくってのけたのだなあと、古代に思いを馳せたことを思い出した。青銅をつくるのも共晶だったのだ。
陶器については、焼物は大きく、土器・炻器・磁器の三種に大別されるが、これらの区分は胎土とする粘土中の珪酸と粘土鉱物の含有率とガラス化する度合を基準とする。
他に「陶器」という呼称があるが、これは先の区分とは異なり、器物の表面に上薬を掛け、その表面をガラス化させた焼物をさす。
我国において器物に上薬を掛ける技法、すなわち陶器製作技法が初めて開花するのは、7世紀後半と考えられている。この時代に生産された陶器は鉛ガラスを基調とし、銅を呈色剤とした緑釉単彩陶である。この時代の鉛釉陶は、今のところ畿内地域に限られ、川原寺東回廊及び同寺裏山出土の波文塼、大阪府南河内郡河南町塚廻古墳出土の陶棺等が知られている。施釉の対象となった器物は、塼や陶棺であり、これらは造寺・営墓に際して壮厳性を付与すべく生産されたものであり、この時点では土器工人が鉛釉陶器の生産に関与していなかった点が注目されるという。
緑釉陶棺 復原全長180㎝、幅76㎝、高さ23㎝程 大阪府南河内郡河内町平石塚廻古墳出土 塚廻古墳調查会蔵
『日本の美術235』は、ばらばらに破壊された状況で出土した。内外面とも板の木口と側面を使って表面をなめらかに調整する。底部外面を除く各面に施釉し、釉は淡黄緑色に発色する。底部外面には脚が離れた痕跡をとどめるが、脚部片と思われるものは発見されていないという。
大阪府南河内郡河内町平石塚廻古墳出土緑釉陶棺 『日本の美術235』より |
緑釉陰刻文盤片 平城宮出土 奈良国立文化財研究所蔵
同書は、奈良時代の鉛釉陶器には陰刻文を施す例は極めて少なく、今の所、本例のみである。すべて同一個体と思われ、内外両面に曲線を細かく刻しているが、何を表わしたものかは定かでない。内外両面に施釉し、器壁が1-1.2㎝もあることから、洗面器様の盤になると思われるという。
特別な人だけの盤だったに違いない。
奈良時代に輸入されたもの
唐三彩長頸瓶 口径8.6㎝ 福岡県宗像郡沖ノ島5号遺跡出土 宗像大社蔵
『日本の美術235』は、第一次調査で7号遺跡から出した唐三彩と同一個体と考えられ、合計18の破片からなる。
貼花文を胴部にもつ長頸瓶の口縁部片で、口縁部内面の端部近くに一条の沈線がめぐり、外面の口縁部と頸部の境が低い段をなす。施釉は縁釉を基調とし、内面に白釉で六花弁とその周辺に鹿の子文様を表わす。褐釉は白釉花文の上に鎬風に施されている。この他に、宝相文・葡萄唐草文と思われる貼花文をもつ洞部破片が9片あるという。
以下の奈良三彩に比べると、白色がよく出ているため、色彩が鮮やか。
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唐三彩に倣って奈良時代に製作されたのが奈良三彩である。
同書は、奈良三彩の研究は、正倉院南倉に蔵された「正倉院三彩」からはじまった。研究の最大の関心は、正倉院三彩はどこでつくられたものかという点にある。
昭和37年から昭和39年に至るまで秋の宝庫開封時に際して、各専門家による院蔵陶器の総合学術調査による調査の結果、すべて我国で作られたものであるという結論に至り、論争に終止符が打たれた。
奈良三彩は唐三彩の影響下に成立したものであることは衆目の一致するところであるが、奈良三彩と前代すでに成立していた鉛釉陶(緑釉単彩陶)の関係をどう理解するかが課題となっている。
奈良三彩で実年代が知られる例は、神亀6(729)年の墓誌を伴った小治田安万呂墓出土の三彩小壺片である。また、実年代は比定しえないが、平城京左京一条三坊十五坪の溝から、8世紀初め頃と考えられる土器群に混じって二彩・三彩片が検出されている。したがって、平城京遷都後、まもなく奈良三彩の生産が開始されていたことは、ほぼ間違いないという。
奈良三彩鉢 口径26.9㎝、器高16.0㎝ 正倉院蔵
同書は、院蔵には鉄鉢形器形25点中、三彩は2点あり、この例は磁鉢内4号と称されるもの。
外面は緑釉の地に、V字状もしくは鋸歯状を呈する白釉列を縦に4段配し、各段の白釉の間に黄褐釉を小さくあしらう構成をとる。内面の口縁部周辺のみに緑・褐・緑の縦の斑文帯を間隔をあけて施釉した後、斑文帯の間及び口縁部下半部に白釉を施す。施釉は緑・褐・白の順で行い、筆で施釉した痕跡が観察できるという。底部外面には三叉トチンのあとをとどめるという。
トチンは、陶器を焼成する時にのせる小さな台のような窯道具。
正倉院蔵三彩鉢 『日本の美術235』より |
奈良二彩大皿 口径37.8㎝、高さ6.4㎝ 正倉院蔵
同書は、正倉院蔵の二彩大皿は総数9点あるが、この例も含めうち4点は、内面全面にわたって緑釉・白釉を鹿の子文様風にあしらうタイプで、他は底部内面に白釉のみを施すタイプであるという。
正倉院蔵二彩大皿 『日本の美術235』より |
青磁四耳壺 平城宮東院出土 越州窯 奈良国立文化財研究所蔵
同書は、奈良時代に唐から輸入された珍しい越州産の青磁四耳壺片で、肩部に背が盛り上がる横方向の耳を持つ。肩部から胴部上半部には暗灰緑色の釉が掛るが、胴部下半及び内面は露胎で暗茶褐色に発色する。この例の他、平城京東市付近の掘河から同様な四耳壺が出土しているが、この例に較べやや大きいという。
平安時代になると緑釉陶器が造られるようになる。
『日本の美術235』は、唐三彩の影響下に成立した鉛釉陶器は、9世紀初頭、多彩釉の施釉技法を捨て、緑釉単彩陶へと変化する。
緑釉単彩化の傾向は、すでに奈良時代後半にそのきざしが見られる。正倉院南倉の奈良三彩は、もともと絹索院にあった儀式用の調度品の一つであり、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会、同7年(755)聖武天皇御生母中宮御斎会、同8年(756)の聖武天皇御葬儀等の儀式に使用されたものである。院蔵の奈良三彩57点中、単彩陶は12点あり、二彩陶の35点に次ぐ量である。三彩陶は僅か5点しかなく、すでに8世紀中頃から単彩化の傾向が指摘できる。
平安時代初期に成立する緑釉単彩陶は、前代の鉛釉陶とは明らかに異なる側面をもっている。まず、生地の焼成面では、前代と同様に800度前後の温度で白色に焼き上げたもの(軟陶)の他に、須恵器と同様に1200度程度の高温で焼成された硬質のもの(硬陶)が出現する。
また硬陶緑釉の出現は、緑釉陶器の量産化と深く係わる。硬陶緑釉の生地は、須恵器工人の手になるものである。前代の奈良三彩の場合も、生地は須恵工人によって製作されたが、彼等が生産に動員された理由は、彼等の持っていたロクロ技法に他ならない。須恵器のロクロの精度についてはすでに述べたとおり、必ずしも量産化とつながるものではない。須恵器技術のうち、量産化につながる技法は窖窯焼成法であり、平安時代初期、須恵器工人が鉛釉陶器の生産に従事するようになった一つの理由である。
もう一つの理由としては、積極的な証左はないが、須恵器がより磁器に近い硬度を保持していたことである。より忠実に磁器を模倣しようとする際に、この点が重要視される事になり、硬陶の出現となった可能性もある。
平安時代の緑釉陶器は、仏寺・祭祀遺跡のみならず、都城跡、地方官衙はもとより、一般の集落址からも少なからず出土し、ほぼ全国的な出土分布を示す。量も多く出土するのは前述した磁器系器形の椀・皿類である。こうしてみると平安時代の食器の様式転換は、つまるところ、祭器から日常什器への転換であったと言えようという。
緑釉手付瓶 10世紀 口径8.2㎝ 高さ22.1㎝ 愛知県猿投窯産 埼玉県深谷市西浦北4号住居址出土 岡部町教育委員会蔵
『日本の美術235』は、徳利形の瓶で頸部から胴部に板状の把手を貼り付けている。釉下には丁寧なヘラ磨きのあとが観察できる。釉は全体的に薄緑色に発色するが、釉の磨りが不十分だったためか、濃緑の斑文がいたるところに見られるという。
緑釉手付瓶 猿投窯 『日本の美術235』より |
緑釉四足壺 高さ16.6㎝ 出土地不詳 名古屋市博物館蔵
同書は、短頸壺の胴部に削り出しによる横方向の三条の突帯を配し、肩部から底部にかけて粘土紐を貼り付け四足を作る。底部及び足の裏を除く外面に淡緑色の釉を施す。 素地は須恵質の硬陶で畿内産と目される。この器形は灰釉陶器にもみられ、双耳壺とともに平安時代を代表する蔵骨器という。
緑釉四足壺 『日本の美術235』より |
緑釉手付水注 10世紀 高さ24.4㎝ 群馬県前橋市総社町山王廃寺出土 群馬県立歴史博物館蔵
同書は、寺域の一画から銅鋺・土師器・緑釉の椀・皿とともに出土した。
手付水注は中国の磁器のそれに由来するとみられているが、瓶のプロポーションや頸部に一条の突帯をめぐらす点など金属器の水注を模したものであろうという。
金属器への憧れがこのような水注を作らせたのだろう。
緑釉手付水注 『日本の美術235』より |
緑釉手付瓶 9世紀 残存高11.6㎝ 平城京東一坊大路西側溝出土 奈良国立文化財研究所蔵
同書は、徳利形の手付瓶の肩に注口を付した形態で他に類例がない。素地は灰白色を呈する硬陶で、釉は銀化し、灰黒色を呈すという。
緑釉手付瓶 『日本の美術235』より |
緑釉皿 平安時代初期 平城宮出土 奈良国立文化財研究所蔵
同書は、平城上皇の崩御の後に掘られた塵介処理用の土壙から出土したもので、軟陶・硬陶の両種がある。高台の形態にも、輪高台と蛇ノ目高台の2種がすでにみられる。後続する時期の緑釉陶器の椀・皿に比べ、口縁部の引き出しはするどく、釉もたっぷりとかかり、灰緑色に発色するという。
緑釉皿 平安時代初期 『日本の美術235』より |
緑釉緑彩輪花花文椀 10世紀 口径13.8㎝、高4.3㎝ 猿投窯産 宮城県多賀城跡出土 多賀城跡調査研究所蔵
同書は、口縁部上端を外側から押して花弁を表わす輪花碗で、底部内面中央に円形の沈線を施す。全面に淡黄色の釉を掛け、さらに内面の底部と口線部に濃度の高い緑釉を使って花文を描くという。
緑釉皿 平安時代初期 『日本の美術235』より |
椀・稜椀・段皿・皿・蓋等 緑釉及び素地陰刻花文器 名古屋市緑区鳴海町熊ノ前古窯群出土 荒木集成館蔵
同書は、刻された花文は、猿投窯の9世紀後半を代表する型式(黒笹90号窯式)に属す。花文の型式は先行する黒笹14号窯式に較べ、退化しているとはいえ、手なれた筆致でのびのびと描かれているという。
緑釉皿 平安時代初期 『日本の美術235』より |
緑釉だけでなく、灰釉陶器も出現する。
『日本の美術235』は、平安時代初期の緑釉陶器の器形には、須恵器形と共通するもの、金属器器形に由来するものの他に、中国の青磁、白磁を写した器形が新たに出現する(以下磁器系と呼ぶ)。生産の比重は、当初からこうした磁器系器形にあり、前二者の器形は次第に消失する方向をたどる。磁器系の器形の中でも量産されたのは椀・皿類の食器である。
このように、9世紀初頭に継起する多彩陶から単彩陶への転換は、金属器を志向した食器から磁器系器形志向の食器への様式転換を伴っていることを意味するもので注意をはらう必要があるという。
それは金属器から磁器へと憧れるものが違ってきたからだった。
灰釉陰刻文浄瓶 高さ30.7㎝ 猿投窯産 千葉県市原市荒久遺跡竪穴住居址出土 国分寺台遺跡調査会蔵
同書は、頸部から肩にかけて四弁花文を、胴部には雲文を四方に段違いに配する。胎土には白色の緻密な粘土を使用し、透明度の高い淡い灰釉が掛るという。
灰釉陰刻文浄瓶 『日本の美術235』より |
灰釉双耳壺 高さ21.7㎝ 京都市上桂出土
同書は、短頸で下脹れする縦長の体部の肩に双耳を、底部に裾の張る脚台を付す。外面全面に刷毛塗りで施釉し、釉は淡黄緑色-青味を帯びた緑色に発色する。
この手の双耳壺は蔵骨器として作られたもので、本例も火葬骨が納められていて、京都産と目される緑釉皿が蓋として使われているという。
緑釉皿 平安時代初期 『日本の美術235』より |
日常的に磁器の器を使っている現代の人々にとっては、とても磁器に見えない作品ばかりだが、当時の人たちは喜んで使ったのだろう。
関連項目
参考文献
「日本の美術235 陶磁[原始・古代編]」 巽淳一郎 1985年 至文堂