お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2022/09/30

平安宮はこんなところに


珪砂組の個展が開かれたギャラリー・ヘプタゴンはJR二条駅に近い千本通りを上がっていき、下立売通りを東に入った、智恵光院通りに近いところにあった。

久しぶりの京都なので、その近くに何かないかなと探していると、平安京がこの付近にあったことがわかった。学生時代はもっと東の鴨川周辺が活動範囲だったので、そんなことも知らずに過ごしていたのだった。
運良くバスがやってきたので、千本丸太町の北側バス停まで乗って、汗をかかなくて済んだた。その上下車したすぐ近くに大極殿遺址道という大きな石碑があって、

その道に入ると間もなく大極殿遺址が見えてきた。
「大極殿遺址」碑文は、明治時代に入り、東京に都が遷されると、人口が激減し大きな衝撃を受けた京都では、礎となる平安京への関心が大いに高まりました。そこで、平安北回廊京遷都千百年に当たる明治28年(1895)を記念して、大極殿の復元や、桓武天皇を祭神とした神社の創建などが計画されました。大極殿の位置は、平安京の規模や道幅の記載がある『延喜式』を基に、平安時代から続く東寺や堀川を定点として計算され、現在石碑が建つ場所に求められたのです。結果として大極殿は岡崎に建立(現在の平安神宮)されますが、大極殿跡を保存、顕彰するため周辺の土地を買い足して公園化し、石碑が建立されました。これが現在の内野公園です。当時は、平安時代の尺の長さと磁北の変化などが考慮されなかったため、実際の大極殿跡は石碑の南南東約60mの位置(千本丸太町交差点北側)であることが後に分かりますが、初めて測量を基に平安京を復元し、地図に重ね合わせたことで、平安京の研究は大きく進展しました。この成果を踏まえ、昭和34年(1959)に平安京内で初めてとなる本格的な発掘調査が公園内で実施されましたという。


大極殿での朝賀の図(南東から 京都市制作の説明パネルより) 
説明パネルは、朝賀とは、正月元旦に平安宮中央にあった朝堂院の正殿である大極殿に天皇が出御され、皇太子以下文武百官から拝賀を受ける行事で、平安時代はこの場所で行われていましたという。
平安京朝賀のイラスト(南東より 京都市制作の説明パネルより)


平安京の中の平安宮と大極殿の位置(平安京復元イラスト 南東より 京都市制作の説明パネルより)
説明パネルは、平安宮は大内裏とも称し、国政・儀式・年中行事などを行う宮殿や諸官衙(役所建物)と天皇に関わる生活空間からなり、今日の東京の皇居と霞ヶ関界隈に点在する役所を合わせたようなものである。その規模は南北約14㎞、東西約12㎞あり、周囲は築地や蠕地(ぜんち 犬走)・隍(ほう 濠)で厳重に囲み、14の門があった。
平安宮の正門の朱雀門を入ると応天門をもつ朝堂院(8省院)があり、この正殿が大極殿である。東西9間、南北2間の母屋の四面に庇をもち、四周に朱欄をめぐらせ、屋根は緑釉瓦で縁取られ、大棟には一対の鴟尾がのる平安宮最大の建物である。床は塼敷きで母屋中央に玉座の高御座が置かれる。
斎宮が伊勢下向に際して、大極殿において天皇から「別れの御櫛」を額に挿してもらうが、『源氏物語』「賢木」でも朱雀帝が斎宮(後の秋好中宮)に別れの御櫛を挿す描写がある。
大極殿は、安元3年(1177)の大火後は再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移った。
朝堂院の西には饗宴施設である豊楽院、北東には天皇の居所である内裏がある。そのほか平安宮内には、2官8省をはじめとする政治を掌る官衙が建ち並び、内裏の西には宴松原と呼ぶ空閑地があった。
大極殿の発掘調査では、南辺と東軒廊跡、門に取り付く東側回廊跡の凝灰岩の基壇石などが検出され、その成果から現在の「大極殿遺蹟の碑」は、大極殿の北にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが判明しているという。
平安京復元イラスト(南東より 京都市制作の説明パネルより)


説明パネルは、延暦13年(794)、桓武天皇によって都が平安京に定められました。その北辺中央にあった平安宮は、天皇が住む内裏(現在の皇居)や、役所が集まる国家の中枢部でした。この内野公園は、天皇が即位の儀式や政治を執り行う大極殿があった朝堂院の北西部で、公園北半は大極殿を囲む北回廊と昭慶門に当たります。北回廊は、基壇の上に築かれ、中央に築地を設けた格式の高い築地回廊で、これまでの発掘調査成果から幅4丈(約12m)、柱間は陽明文庫本『宮城図』の記載から1丈2尺(約3.6m)とされています。ここでは、基壇の両端を縁石、柱位置を礎石風ベンチ、築地の位置を生垣で明示していますという。
平安宮内裏跡 内野公園北半の遺構と朝堂院址 京都市制作の説明パネルより

極めて浅いところから見つかった大極殿院北回廊跡の凝灰岩 (1984年2月、北東から) 
(財) 京都市埋蔵文化財研究所提供
京都市制作の説明パネルより

壇正積基壇 (回廊) の各部名称
京都市制作の説明パネルより

また、説明パネルには、源氏物語ゆかりの地として、小さいながら「源氏物語絵巻・柏木2」(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)の絵も記載されている。
京都市制作の説明パネルより

朝堂院址
大極殿遺址の南に朝堂院址があり、丸太町通りの銀行の片隅に小さな石碑と説明パネルがあった。
平安博物館の説明パネルは、朝堂院は八省院とも呼ばれ、天皇の即位や外国使節の謁見などさまざまな儀礼や国事の行なわれるところで、朝政の中心の場であった。宮城の正面の朱雀門を入ったところに位置し、北は中和院、西は豊楽院、東は太政官や民部省などの官衙に接していた。その規模は、東西約60丈(約180m)南北約150丈(約450m)で、全体が回廊で囲まれていた。
正面には応天門があり、両翼に栖鳳・翔鸞の2楼が建ち、応天門を入ると左右に朝集堂があった。さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司宮人の列した12堂が建ち並び、正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍・白虎の二楼を従えて、朝堂院の正殿である大極殿がその威容を誇っていた。東西11間・南北4間の規模を有する大極殿は、緑彩の瓦葺かれた大屋根の下に朱塗りの柱の並ぶ華やかな殿堂であった。
朝堂院は、平安京造都開始の翌年の延暦14年(795)にまず大極殿が造営され、次々に整備されていった。その後数度の火災に会いながらもそのたびに再建されてきたが、安元3年(1177)の大火で全焼し、以後再び建てられることはなかった。
現在のこの地は、ほぼ大極殿の西端ないしその西側の回廊付近にあたり、昭和50年に平安博物館が発掘調査を行なった。後世の撹乱が著しく、遺構を確認することはできなかったが、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の尾の破片などが出土したという。


平安宮内裏復元図と現在地(京都市制作の説明パネルを編集)
平安宮内裏復元図と現在地 京都市制作の説明パネルを編集

その後、千本通りから京都にしては珍しく名前のない通り(或いは見逃しているだけかも)を東入る。建礼門跡を探しながら見つけられずに浄福寺通りに突き当たると二条城北小学校があった。

平安宮内裏南限と建礼門跡
説明パネルは、内裏外郭に設けられた正門で、規模は正面5間あって内裏外郭門と しては最大である。衛門府が警護し、門を入ると内裏内郭の正門である承明門があり、これを入ると南庭を隔てて紫宸殿に至る。
門前で白馬節会を行ったことに因み白馬陣の名もある。そのほか元日節会・射礼・荷前使派遣の儀などが行われた。 
承和6年(839)、門前に幄舎(テントのような仮屋)を建て内蔵寮の官人や内侍が唐物を並べて交易を行い、「宮市」と称している。建礼門などの姿は、『年中行事絵巻」の「朝覲行幸」「射遺・賭弓」に描写があるという。

源氏物語絵巻・柏木一の場面の写真 京都市立芸術大学芸術資料館蔵
京都市制作の説明パネルより


浄福寺通りを上がって
下立売通りを西入る。小田政酒店の手前に説明パネルがあった。

平安宮内裏紫宸殿跡
説明パネルは、内裏の正殿で公的な行事の場。中央の御帳台に天皇が出御して国家の重要な儀式が執り行われた。御帳台の背面、北庇との間仕切りには賢聖障子(中国古代の名臣32名の肖像画)があった。母屋は東西9間、南北3間で四方に庇があって周囲を簀子がめぐり、正面中央部の階段の左右には桜と橘が植えてあった。北の仁寿殿を北殿・後殿と呼ぶのに対して紫宸殿を南殿・前殿と称した。紫宸殿では大極殿で行われていた即位や東宮元服・朝賀・節会などハレの行事が行われ、仁寿殿はケの行事に用いられたという。

源氏物語絵巻・鈴虫2 京都市立芸術大学芸術資料館蔵
『源氏物語』では東宮の元服を紫宸殿で行っており、光源氏の清涼殿に対して威儀の高さを暗示する。
『年中行事絵巻』「朝覲行幸」の冒頭に紫宸殿を出立する天皇の描写があり、庇、階段、桜・橘の木など南面から承明門、礼門に至る様子が分かるという。
京都市制作の説明パネルより

内裏承明門跡北の地鎮め遺構から出土した遺物(珊瑚・ガラス玉・ガラス片・瑪瑙など)11世紀後半 〔京都市指定有形文化財) (財)京都市埋蔵文化財研究所提供
京都市制作の説明パネルより


そのほぼ南側にあったのは、

内裹承明門跡
説明パネルは、この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80cmの東西方向の新旧溝跡が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あまおちみぞいせき 雨水の排水溝)と判明した。
この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたことも明らかになった。また、この雨落溝跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め(じしずめ)遺構が検出され、このうちの1基は、11世紀中頃の輪宝に概が打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス片、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法による儀式で執り行われたことを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷御の時のものと考えられている。 
これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や安鎮の祭祀を考える上でも貴重な発見である。なお、輪宝・ほか関係遺物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落溝跡も地中の元位置で保存されているという。


下立売通りを更に西へ。

平安宮内裏蔵人町屋跡 集合住宅の壁面に小さな説明パネルがあった。
説明パネルは、清涼殿の西南に置かれた蔵人所とその関連施設。建物の北端に蔵人頭、南面に五位蔵人、西面に六位蔵人の宿所が置かれた(『拾芥抄』)。蔵人とは元来、皇室の蔵である納殿を管理する役人であったが、嵯峨天皇は即位直後に起きた薬子の変に際して、天皇側の機密が漏れるのを防ぐために、腹心の藤原冬嗣らを蔵人頭に任じて蔵人所を設置し、天皇の側近として詔勅の伝宣、殿上での事務や天皇の私生活に互っての重要職務に関わらせた。頭には弁官兼務の頭弁と近衛府の中将兼務の頭中将がおり、重責は頭弁であった。
光源氏の正妻、葵上の兄は頭中将である。
1987年の発掘調査では蔵人町屋の敷地内東側で、基壇状の高まりとそれに伴う雨落溝跡が検出されているという。

源氏物語絵巻・横笛
京都市制作の説明パネルより

京都市制作の説明パネルより

そのすぐ先に

内裏内郭回廊跡(北東より)
説明パネルは、天皇の居所である内裏は、内外二重の郭で囲まれ、内側を内郭回廊と呼び、築地を挟んで内と外に回廊がめぐり、衛士らが厳重に警護していた。
発掘調査では、下立売通の北と南側で内裏西面内郭回廊跡の西・東辺の一部が 見つかり、凝灰岩で構築された回廊基壇石や河原石を敷き並べた雨落溝を検出、さらに南面内郭回廊跡では、内裏内の水を外へ排水するための暗渠跡も見つかっているという。

北より
発掘調査で、ここには内裏内郭の築地回廊の西南部が埋もれており、その基壇西線の凝灰岩羽目石東石地震石が遺存し、約30mの長さにわたって南北方向に延びていることが確められた。この回廊の幅は約35尺(10.5mである、平城宮、長岡宮の内裏地回廊と同規模である。 
この回廊跡は現在知られている、内裏の確実な遺跡としては唯一のものであり、朝堂院、豊楽院における遺跡の一部と共に、平安京研究上重要な基準となるものであるという。

源氏物語絵巻・宿木1 京都市立芸術大学芸術資料館蔵
京都市制作の説明パネルより

下立売通の北側民家で検出された内裏内郭回廊跡 (北より) 
内裏南面内郭回廊の下を通す排水用暗渠
内裏跡(内郭回廊跡) (財) 京都市埋蔵文化財研究所提供
京都市制作の説明パネルより

内郭回廊の基壇は、調査の結果から幅 が10.5mと判明し、内裏の南西にあった朝堂院の回廊(11.58m)よりも狭いことが分かっている。現在、当該地は国の史跡に指定され遺構が保存されているという。
回廊は外側にも屋根がかかっているとは、この図を見るまで想像だにしなかった。
京都市制作の説明パネルより

基壇は加工のしやすい凝灰岩が使われている。どこで採石したのだろう。
京都市制作の説明パネルより


その後、浄福寺通りを越えて東へ進むと、山中酒店があった。200年も続く油の専門店なので、建物にその歴史が感じられる。

南側には
石畳の空間。お店の駐車場で、そこに説明パネルがあった。

平安宮内裏跡
説明パネルは、延暦13年(794)の平安京遷都とともに 造営された内裏は、天皇や后たちの居住空間で平安宮(大内裏)の中心的な施設。その構造は、陽明文庫蔵の「内裏図」などによると、外郭築地と内郭回廊の2重構造で厳重に区画され、内郭が東西57丈(約171m)、南北72丈(約216m)、外郭築地は東西73丈(約219m)、南北100丈(約300m)の規模であった。
内郭の南辺には紫宸殿・仁寿殿・永香殿・清涼殿などハレの場があり、北辺には弘徽殿・飛香舎(藤壺)・淑景舎(桐壺)といった七殿五舎からなる後宮が存在し、それぞれの建物は回廊や透渡廊で繋がり、雅な宮廷生活が繰り広げられ、『源氏物語』の中心舞台であった。
初焼亡は村上天皇の天徳四年(960)であるが、里内裏が用いられたのは16年後の2度目の火事の時であり、歴史から姿を消すのは安貞元年(1227)の焼亡である。
古絵図や発掘調査により、内裏内の主要な建物の位置は、ほぼ地形図上に落とすことが可能となっているという。

源氏物語絵巻・宿木一
京都市制作の説明パネルより

奥の方にはこんな池が。

駐車場から山中酒店


山中酒店の建物の続きを見に行く。


どんなお庭や建物があるのか知りたかったが、結界があるのでこの程度。


水車もあったりして。


橋の向こうに石碑と立て札

平安宮一本御所跡
立て札には説明が記されていたが、風化してとても読めないので、京都市のホームページから一本御所跡の説明文を採用させていただいた。
一本御書所は、平安宮(内裏)の東側、侍従所の南にあった施設。
役割については、①世間に流布する書籍をそれぞれ「一本」(一部)ずつ書き写して保管していた
②「一本書」(1冊しかない稀覯本)を納めさせ保管していた
という2つの説があり、「一本」の解釈によって意見が分かれている。
10世紀半ばから記録に見えはじめ、平治の乱(1159年)の際に後白河院が押し込められた場所としても知られる。なお御書所・内御書所とは別の組織であるという。
東側の板塀の下から水が少しだけ流れ出ている。ここから流れた水で先ほどの水車が回っていたのだろう。

池にはアメンボがたくさんいた🤗



浄福寺通りまで戻り、上がっていくと、駐車場の脇に石碑が。

平安宮内裏宜陽殿跡
説明パネルは、内裏紫宸殿の東にあって軒廊でつながる。
南北9間、東西2間の母屋の南北と東に庇がある建物で、内裏造営当初からあったものと思われる。
母屋は累代の御物を納める納殿で、『枕草子』には累代の楽器をほめて「それは宜陽殿の一の棚に置かれるもの」とある。
このように宜陽殿には当時の一級品が納められていた。また、西庇は公卿座、北庇は脇陣と次将座、東庇に大臣宿・上官侍などが置かれ、南庇には議所があって叙位・除目など公卿会議が行われたという。

『源氏物語』「若菜上」で兵部卿宮が弾いた琴は宜陽殿の御物という。
京都市制作の説明パネルより

右京八条二坊跡出土の木履(平安時代前期)
京都市制作の説明パネルより


その北側には綾綺殿跡の石碑があった。

平安宮内裏綾綺殿跡
説明パネルは、綾綺殿殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物である仁壽殿の東にあった南北に長い建物で、東側は庭を挟んで温明殿、南には宜陽殿があった。
わゆる内十七殿の一つで、宮中の舞などが行なわれ、「年中行事絵巻」にも女楽人や6名の妓女がやかに舞う姿が活写されている。
身舎は東西2間で、南北9間のうち南5間を納殿として使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが納められていたという。
現在では同名の古民家カフェとなっていて、経営は、さきほど店舗を見た山中酒店である。
見学後にお昼とかき氷をいただくことにしている😊

次の交差点で新出水通りを西に入ると、京町家が並んでいた。


中には、改装して町家の宿となっている家屋もある。
山中酒店のホームページには、平安宮内裏の宿で各家屋の中が紹介されている。
コロナ禍で会えない皆さ~ん、こんなところでわいわいするのはいかが?

話がはずれてしまった。

平安宮内裏承香殿跡
説明パネルは、内裏の後宮七殿五舎の一つ。仁寿殿の北にあり、東西7間、南北2間の母屋に庇がめぐる。9世紀初頭の嵯峨天皇のころに創建された。
中央の馬道により東西にわかれ、東庇には天皇の書物を保管する内御書所があり、10世紀初頭の醍醐天皇の命による最初の勅撰集の『古今和歌集』が紀貫之らによって編纂された。また内宴や東遊なども催された。
歴史上、承香殿女御は数人いるが、なかでも村上天皇女御の徽子女王(醍醐天皇孫、斎宮女御)は歌人として知られ、『斎宮女御集』がある。彼女は『源氏物語』に登場する六条御息所のモデルと言われている。『源氏物語』では朱雀院妃の承香殿女御が今上帝を生んでいるという。

源氏物語絵巻・東屋一
京都市制作の説明パネルより

内裏の火災を物語る焼けた壁土の破片 (財) 京都市埋蔵文化財研究所提供

京都市制作の説明パネルより


平安宮内裏清涼殿跡
説明パネルは、天皇の居所。母屋は東西2間、南北9間で周囲に庇、東側には孫庇を持ち、簀子がめぐり、西の後涼殿(納殿、御厨子所など)、北の飛香舎(藤壺)とは渡殿で繋がっていた。清涼殿の東の前庭には呉竹、河竹が植えられていた。清涼殿東面の庇簀子・御溝水・呉竹・河竹などの様子は『年中行事絵巻』の「御斎会内論義」の場面に描写がある。文献上の初見は9世紀初めの嵯峨天皇の時で、後宮の拡大に伴って新設された建物と考えられるが、天皇の常住の御所となるのは宇多天皇の時からであり、庭を隔て東の仁寿殿の機能を引き継いだ。
清涼殿では叙位・除目などの政務や四方拝などの年中行事が行われた。長暦3年(1039)の後朱雀天皇の時の内裏火災以降は里内裏の活用が増え、清涼殿はほとんど使用されなくなった。
建物は、天皇の日中の御座所であった昼御座など南半分が公的施設、夜御殿と呼ばれる寝所など北半分が私的生活の場に分かれていた。夜御殿の東には夜居の護持僧の間があり、この北には后妃の伺候した弘殿上御局・藤壺上御局などがあった。一方、西庇には鬼間、台盤所、朝餉間、御手水間、御湯殿上など日常生活に欠かせない施設があり、南庇には公卿・殿上人の詰め所の殿上間があった。
『源氏物語』に登場する清涼殿は、冒頭の「桐壺」で帝が愛する桐壺更衣を亡くし、悲しみのあまり食事に手を付けなかった様子が描かれ、「紅葉賀」では清涼殿の東庭で身重の藤壺女御を前に、光源氏が頭中将とともに青海波を舞う描写がある。光源氏の元服は清涼殿の東庇で行われているという。

源氏物語絵巻・宿木一
京都市制作の説明パネルより

平安時代を代表する緑釉陶器 
京都市制作の説明パネルより


町家の並びが途切れるところに石碑、南側のお家の窓柵に説明パネルがあった。

平安宮内裏弘徽殿跡
説明パネルは、内裏の後宮七殿五舎の一つ。当初は北の登華殿とともに女御・更衣の共同居住区の西町にすぎなかったが、後宮の中心であった常寧殿の機能を引き継ぎ、清和・陽成天皇時代には一時的に天皇の居所にもなった。南北7間、東西2間の母屋の中央東西に馬道が通り、その北に塗籠があった。
後宮の中でも重要な殿舎であり、『源氏物語』では朱雀院の母の弘徽殿女御が住み、女御は、光源氏の母の桐壺更衣が帝の寵愛を受けているのを恨んで執拗な嫌がらせをして死に至らしめた。後に女御の妹の朧月夜がここに住み、光源氏と塗籠で結ばれたことが源氏の須磨隠棲の原因となったという。

源氏物語絵巻・宿木二
京都市制作の説明パネルより

京都市制作の説明パネルより


その後は土屋町通りを上がっていき、藤壺跡・梅壺跡を探したがよく分からず、出水通り気が付くと聚楽城武家地豊臣秀吉に来ていた😅 聚楽第の方がよく耳にするけれど。

聚楽城武家地豊臣秀吉
説明パネルは、このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだった内裏跡にあたります。なかでも当地は、陽明文庫蔵「内裏図」により、蘭林坊跡と考えられています。蘭林坊とは、天皇一代の大イベント大嘗祭などに使用される品物の保管場所です。
1974年(昭和49)、平安博物館の行った発掘調査によって、蘭林坊の東南隅の築地に関わる溝のような痕跡などがみつかっています。
その後、火災などにより内裏は別の場所に営まれ、この地は荒野となりました。内裏跡ですので「内野」とよばれました。天皇への遠慮(タブー)があったようで、ながくここに住居などが建てられることはありませんでした。
この地の再利用に着手したのは、豊臣秀吉でした。ながい戦国時代をおわらせ、天下統一の実現が求められていました。秀吉は関白となり、天皇の伝統的権威をかりての政権構想をもちます。そのため本拠は、大坂ではなく京都に定まりました。それが内野に建設された城郭、聚楽城です。
聚楽城はながく正確な位置が不明でした。が、森島康雄さんや百瀬正恆さん、馬瀬智光さんたちの考古学的研究により、全貌が明らかになりつつあります。
聚楽城の周囲には全国の大名の屋敷がいとなまれました。安芸広島浅野家旧蔵の「諸国古城之図」の聚楽城図には具体的な人物の名前が記されていますという。

説明パネルは状態のよいものではなかったが、復元図や
京都市制作の説明パネルより

洛中洛外図の聚楽第の図などが紹介されていた。
京都市制作の説明パネルより


次に桐壺を目指して、出水通りまで下がり、東へ。

平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡
説明パネルは、内裏の後宮七殿五舎の一つ。庭に桐を植えていたことから桐壺と呼ばれた。南北2宇並び、南の正舎は東西5間、南北2間の母屋の四方に庇、東には孫庇があって南・北・西には簀子がめぐる。内裏内郭の東北角にあって清涼殿からもっとも離れており、后としての身分の低さを表わす。
『源氏物語』で桐壺更衣の居所をここに想定していることがその証である。その子、光源氏がここに住み、宿直の時に「雨夜の品定め」の舞台ともなり(「帚木」)、また明石姫君もここに住んだ。
歴史上で淑景舎女御と呼ばれた人に三条天皇女御の藤原原子(道隆娘で一条天皇中宮定子の妹)がいる。という。
やっと探し当てた桐壺跡だが、個人の駐車場に入り込まねばならない位置に説明パネルがあった。たまたまご主人が帰ってこられたので、許可を伺うと快諾して戴けた。
体験工房雄彩さんは何を作られているのか知りたい方はこちら

内酒殿出土の木簡 弘仁元年(810) 

京都市制作の説明パネルより

源氏物語絵巻・柏木三
京都市制作の説明パネルより

平安宮内裏昭陽舎(梨壺)
説明パネルは、内裏の後宮七殿五舎の一つで、淑景舎の南に位置する。庭に梨を植えたことから梨壺と呼ばれた。建物は南北に2宇並び、南の正舎は東西5間、南北2間の母屋の四方に庇、北に孫庇があって四面に簀子、北舎は東西5間、南北2間の母屋に東西に庇が付き四面に簀子がめぐっていた。
10世紀前半に東宮敦良親王(後朱雀天皇)の居所として用いられて以後、東宮御所として使用されるようになった。歴史上の梨壺女御として有名な人は村上天皇中宮の藤原安子である。
10世紀中頃、梨壺の一郭に村上天皇の命で撰和歌所が置かれ、大中臣能宣、清原元輔(清少納言の父)らによって『後撰和歌集』が編纂されたので、編纂者たちを「梨壺の五人」と呼んだという。

源氏物語絵巻・鈴虫一
京都市制作の説明パネルより

和歌が墨書された土師器
京都市制作の説明パネルより


 平安宮内裏東限と建春門跡
説明パネルは、松林寺境内の西域は、『源氏物語』の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築地に設けられたのが建春門である。この門を入り、次の内郭回廊に設けられた宣陽門をくぐると、温明殿・綾綺殿を経て紫宸殿に至る。またこの門には、左衛門府の官人が詰めていたことから、左衛門陣とも呼ばれた。
天長10年(833)、建春門の北側に雌雉が集まり、衛士に射獲されたこと、延喜七年(907)、醍醐天皇が仁和寺への行幸に際して建春門から出御したことなどが文献に見える。
なお、後世に建てられた松林寺境内が周辺より一段低くなっているのは、安土桃山時代に築かれた聚楽第(1586年に着工し、1595年に破却、松林寺北門東に石柱あり)の南外濠跡に当たることによるという。
確かに段差がある。

源氏物語絵巻・東屋二(スマホのバッテリー容量がどんどん少なくなってきたので拡大撮影をしなくなった。すると案の定画室が劣化してしまった😆)
京都市制作の説明パネルより

内裏の火災を物語る焼けた土器や壁、 建物基壇石 (凝灰岩) などの遺物 (財) 京都市埋蔵文化財研究所提供
京都市制作の説明パネルより


平安宮内裏温明殿(内侍所)跡
説明パネルは、内裏内郭の宣陽門の内にある建物。母屋は東西2間、南北9間で中央に馬道を挟み、北に内侍の候所、南に三種の神器の一つである神鏡を安置した賢所があったことから温明殿全体を賢所、または内侍所と呼んだ。当初、内侍所は清涼殿に置かれていたが、人の出入りを恐れて温明殿に移された。
清和天皇女御の源厳子は、この殿舎に住み温明殿女御と呼ばれた。
『源氏物語』「紅葉賀」では、内侍所で琵琶を弾く源典侍に心をとめた光源氏が、頭中将と騒動をおこす舞台になっている。建春門・宣陽門・温明殿の姿は『年中行事絵巻』「内宴」にみえるという。

平安時代の須恵器 平瓶

京都市制作の説明パネルより

源氏物語絵巻・御法
京都市制作の説明パネルより


というところで平安宮跡巡り終了。綾綺殿に戻って昼食
待つ間に京町家内を撮影させてもらった。坪庭の向こうに五右衛門風呂のフタが見えた。

座席から見ると、植わった木がオリーブに見える。


2階への階段
おくどさんや低い流し台、そして神棚

京丹波高原豚のヒレカツ定食と、左上のお惣菜重をがっつり😋


食後に山中油店のお庭で採れた樹齢数百年のあんずを使ったかき氷🤩
杏が濃厚で、エスプーマを使ったいまどきの映えかき氷とはまた違ったものでした。


   珪砂組 結界をむすぶ 境界をほどく展← →平安時代の陶器


参考サイト