お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2021/03/05

西方にいた秦は国力をつけて中原へ


戦国秦の長城を調べていると、秦という国はずっと西の方から長い期間に徐々に国力を付けていき、遂には中国の統一を果たしたことが分かってきた。

『歴史アルバム 万里の長城』(以下『万里の長城』)は、秦が興った地は現在の甘粛省礼県といわれ、秦の祖の陵墓と目されるものが発見されている。紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷したとき、襄公が周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、それから諸侯の列に加わる。襄公が開国の君主といわれているという。
礼県は天水市より南の山岳地帯に位置する。

同書の秦系図(今回記述のある公・王に赤い印を付けた)
秦系図 『図説中国文明史3』より

『図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明』(以下『図説中国文明史4』)は、

 前16-11世紀 甘粛省東部天水・甘谷一帯
  ここが秦人発祥の地
  『万里の長城』は礼県といい、『図説中国文明史4』は天水・甘谷一帯というけれど、 
  広い意味で天水市近辺というところかな😃

 前1100- 西周初期 西犬戎
  秦人は周王に帰順して臣民となり、この地に封じられた。砦を築き辺境守備を任とした

 -前771  西周後期 秦亭甘粛省渭水県一帯
  秦人の造父と非子は周王室のために馬を生産した功績により、秦亭の地を与えられた
  周の宣王は秦の荘公を「西垂大夫」に封じた。この地に砦を築き、なかに宮殿を建てた

 前776-762 汧
  秦の襄公は汧水のほとりの磨児原に遷都した。ここは秦人が陝西省につくった最初
  の首都であり、秦はこの地に14年間都を置いた
  秦はここを東方進出の根拠地とし、軍事上きわめて重要な場所であった

 前762-714 汧渭の会(汧水と渭水の合流点)
  文公の時にここに遷都し、48年間この地に都を置いた
  ここは秦が渭水北岸に築いた最初の首都であり、軍事上の砦でもある

 前714-677 平陽
  寧公の時にここに遷都し、37年間この地に都を置いた
  秦は東方進出の過程で、絶えず周王朝の文化や儀礼を吸収し、諸侯だけが楽しむこ
  とのできる礼楽の儀式をしばしば催した

 前677-383 雍城
  徳公の時にここに遷都し、294年間この地に都を置いた
  雍城はもともと西周の中心地で、経済や文化が発達しており、地理的にも有利な位
  置にあった
  秦はここに都を置いてから、中原の覇権を争う戦闘に乗り出した

 前383-350 擽陽
  献公の時にここに遷都し、33年間この地に都を置いた
  ここは交通・軍事の要衝であり、また手工業の中心地でもある
  秦はこの地で6国を統一する軍備を整えた

 前350-206 咸陽
  孝公が陝西省の咸陽原に遷都してから、144年間ここを都とした
  ここは関中の中心地であり、土地は肥沃、物産は豊かで、守るに易く、攻めるに難い
  始皇帝が統一王朝の秦をうち立ててから、多くの壮麗な宮殿を造営し、それは200
  里(1里は約405m)四方におよんだ。中国史上もっとも壮大な首都のひとつ
秦の9度にわたる遷都 『図説中国文明史4 秦漢』より

春秋時代(前771-476)

『万里の長城』は、やがて春秋時代に入り、代々の秦侯はよく西戎と抗争し領土を広げ、法律を整備し国作りをしていった。紀元前677年に都を雍(よう、現在の陝西省鳳翔県)に置いた。9代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用、巧みな人使いと信義を守って西戎を大破し、周辺の小国を併合して領土を広げ、隣の大国晋に対抗できる国力を付けた。その後晋を撃破して、秦の領土をさらに広げ、穆公は春秋五覇の一人に数えられるという。

戦国時代(前475-221)

『万里の長城』は、中国の戦国時代は、魏、趙、韓、楚、斉、秦、燕の七国が勢力を強めていた。その中で今の陝西、山西、河北と内モンゴル草原あたりにいた少数民族も勢力を強め、絶えず秦、趙、燕の北部国境を侵し、略奪していた。秦国の北には義渠が、また匈奴がいた。
義渠は農業を主にしていたが、西北の黄土高原上の強国で、春秋から戦国時代まで、秦と100年余にわたって対抗してきた。匈奴、東庫などの遊牧国家はさらに軍事的素質に富み、戦闘能力は高かった。そしてたえず秦、趙、燕に攻め込み、牧畜や財物、人を略奪した。
古い中国の都市はみな城壁によって囲まれており、夜には門が閉じられ、朝になると、城壁を出て生業についた。長城を造る考えもこれが発想の原点であろうという。
戦国七雄の国々と改革者たち 『中国歴史地図』より

『万里の長城』は、戦国時代が近づく紀元前5世紀に入り秦は一時国力が弱まるが、たえず魏国に侵攻を受ける。このため秦は厲共公(?-前443)の16年(前461)、黄河に沿って塹を造り、西岸の重泉に長城を建設して自衛した。これを塹洛長城という。『史記・秦本紀』に、厲共公16年(前409)、洛水に塹を掘り、重泉に城を築く。塹(ざん、大きい堀)とは長城の別称である。『史記』にある秦の厲共公と簡公の長城建設の時期を推算すると、秦の黄河西の長城は魏の河西長城より100年早く建てられている。洛河長城は魏の56年、目的は魏の攻略を防ぐためである。塹洛長城は洛水の提岸と岸辺の山崖を利用改修した比較的簡単なものであったという。
戦国時代の主な長城の分布図 『図説中国文明史3 春秋戦国』より

秦の統一過程と長城

 前230 6国の中で最弱小国である韓が滅亡

 前229-228 趙で発生した天災地変に乗じて、首都邯鄲を攻撃し、趙王を捕虜とする
  趙の公子は代都に移動して代王を称す

 前227 燕の太子丹が荊軻を遣わし、秦王政を殺害しようとしたが失敗
  前226 秦は燕を攻撃、翌年薊城が陥落し、燕王は遼東郡へ逃亡

 前225 黄河を利用して魏の都城を水攻めにする。これによって魏は滅亡 

 前224 60万の軍を出兵し、最強国の楚を攻撃 戦争が2年余り続き、
       秦王政は国内の人力と物資を総動員して最前線へ供給   
  前223 楚が滅亡 

 前222  遼東郡を攻撃、燕が滅亡 

 前222 代郡を攻撃、趙が滅亡 

 前221 斉が戦火を交えずに降伏
秦の統一過程と長城 『中国歴史地図』より

始皇帝時代に各国の長城を繋いだとされている。
『万里の長城』は、紀元前221年、秦は6国を滅ぼし中国の歴史上初めてとなる統一された中央集権の封建制王朝を建立した。秦の統一後、統治形制の脅威となった主なものは北方の匈奴であった。中原地区の維持と安全のため、匈奴の南下と略奪や騒乱の防禦のため紀元前214年ころ始皇帝は万里長城建造の命令を下した。
『史記・蒙恬列伝』にいう。「秦すでに天に広くならび、蒙恬は将士30万で北に夷狄を追い、黄河の南を治める。長城を築き、地形により塞を造る。臨洮から遼東に至り、延々と万余里。川を渡り、陽山により、長くうねり北へ、閲兵し外に威容を示すこと十数年」
歴史資料とここ数年の考古発見によれば、始皇帝の築いた長城は、ほぼ燕の北の長城の上で、趙の武霊王の築いた長城の北の長城と秦の昭王が築いた長城のもとの所に大規模な修復を行い、もともと燕、趙、秦の長城が連続していない部分に城壁を築き、臨洮から遼東までの長城を連続した一本の防御線としたのである。
秦の始皇帝は長城の大規模な建造と修復をすると同時に、戦国時代に各諸侯が自衛のために築いた長城をすべて取り除くように命令を下したという。
秦始皇帝の長城略図 『歴史アルバム 万里の長城』より

『万里の長城』は、寧夏・南長灘付近の黄河岸辺に秦始皇帝長城の一部が残っているという。
土の多い土地柄、版築で築かれたようだ。遠方に黄河の濁った流れが見えている。
寧夏・南長灘付近 黄河岸辺の秦始皇帝長城の一部 『万里の長城』より

しかしながら、これだけの歳月を掛けて、先祖たちが西方から中原へと進出し、国力を高めていった秦なのに、始皇帝が統一した前221年からわずか15年で滅亡してしまった。
秦公・秦王・皇帝系図 『図説中国文明史4』より


                            →麦積山石窟 43・44窟

関連項目

参考文献
「歴史アルバム 万里の長城巨龍の謎を追う」 長城小站編・馮暁佳訳 2008年 恒文社 
「中国古代文明史4 秦漢 雄偉なる文明」 稲畑耕一郎監修・劉煒・何洪著 2007年 創元社
「中国古代文明史3 春秋戦国 争覇する文明」 稲畑耕一郎監修・劉煒・何洪著 2007年 創元社