ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2020/03/27
トラヤヌスの建造物 交差ヴォールトと半ドーム
完璧な半球ドームができたのは、ハドリアヌス帝(117-138)の頃に再建されたパンテオンにおいてであった。その前の皇帝トラヤヌス(98-117)はどんな建物を建設したのだろうか。
『世界美術大全集5 古代地中海とローマ』は、首都ローマではすでにギリシア・ヘレニズム時代以来の古典建築を完全に消化し、その取扱いを自家薬籠中のものとした古代ローマ人はトラヤヌス帝時代になって行き詰まりを感じ、新たな方向性を模索することになる。トラヤヌス帝時代は新しい建築意匠への模索の時代、ハドリアヌス帝時代以降は新たな時代の始まりであった。
トラヤヌス帝はローマ市で大規模な公共建築を建設したが、そこには伝統的な建築へのこだわりと新しい建築への挑戦という二つの面が錯綜して現れている。この両者を端的に示すものが隣接して立つトラヤヌス広場とトラヤヌス市場である。しかも、この対照的な二つの建物をシリアのダマスクス出身のアポロドロスという一人の建築家が担当したという事実は、当時の建築の拡散性と流動性、またそのインターナショナル化を示すものである。
まず、この広場と市場はローマ市の都市計画において重要な意味をもっている。それはフォルム・ロマヌムを中心として南・東側に拡がる旧市街とカンプス・マルティウスの新市街を結びつけていることである。カンプス・マルティウスは前1世紀とりわけアウグストゥス時代より市街地として発展してきたが、旧市街との間にアルクスとクイリナリス丘が立ちはだかっていた。トラヤヌス帝はこの二つの新・旧市街地を結ぶために巨費を投じて用地を購入し、この二つの丘の一部を削り取り、広場と市場を建設したのである。
フォルムの入口を円弧状に膨らませる方法もネルウァ広場に由来するものである。このようにトラヤヌス広場の建築はヘレニズム時代以来のローマがかち得てきた建築の集大成ともいえるのであったという。
半ドーナツ状のトラヤヌス市場は、長方形平面の大ホールが突き出ている。その南側がトラヤヌス広場で、西側にバシリカ・ウルピアを併設している。双方とも南北両側にエクセドラ(半円状の出っ張り)が付属されているが、その屋根は円錐形のように描かれている。
大ホールに入ると、1階部分の修復はよくされているが、交差ヴォールトから、その荷重を受ける角柱への移行が滑らかではなく、交差ヴォールトも不格好なのだった。
『inside IMPERIAL ROME』は、32X8mの長方形のホールで、化粧漆喰がはがれている。三層の矩形の部屋に開かれている。ホールの天井は、約2800トンものローマン・コンクリートによる、6つの大きな交差ヴォールトからなり、ホールの側壁のトラヴァーチンの楣石のあるレンガを重ねた隔壁に荷重がかかっているという。
2000年近くの間にきっちりとした交差ヴォールトがこんな風に崩れてしまったのだろうか。中央にある溝のようなものは何?
鳥の腿のような2つの柱の間にも切込のようなものがあるが。
そして、交差ヴォールトの中央部分に丸い形がある。
それは焼成レンガを円弧状に並べたものだった(真下から写せば真円だったかも)。
こういうものが交差ヴォールトの中心部分にあるなんて、ドームを目指したのかななどと思ってしまう。
トラヤヌス市場は大ホール以外見学しなかったので、半円状の市場に交差ヴォールトがあるのかなどは不明である。
『inside IMPERIAL ROME』によると、下階は半円状のところあるホールには半ドームが架かっていた。廊下は円筒ヴォールトだったらしい。
説明パネルの図では、半ドームは2段に見える。
この部分に半ドームが架構されていたが、偏平で、半球の半分には見えない。
トラヤヌス市場の南側には広大なトラヤヌス広場
そしてその西側には5廊式で屋根のあるバシリカ・ウルピアの現代の姿
ガイドブックの推定復元図
広場にもバシリカにも南北両側にエクセドラ(平面が半円状の出っ張り)がある。バシリカに片方だけエクセドラがついた建物が、バジリカ式聖堂と呼ばれるキリスト教教会の型の一つである。詳しくはこちら
完璧な半球状のドームが造られるのは、次のローマ皇帝ハドリアヌスの時代の
パンテオンである。
関連項目
ローマ トラヤヌス帝の市場と広場
バシリカ式聖堂の起源はローマ時代のバシリカ
パンテオンのドームができるまで
参考文献
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」1997年 小学館
「inside IMPERIAL ROME」 2012年 VISION ROMA