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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2020/04/03

仏像 中国・日本展 見られなかった楊貴妃観音


2019年秋に大阪市立美術館で開催された、『仏像 中国・日本展』で是非見たかった仏像は、泉涌寺の観音菩薩坐像だった。楊貴妃観音坐像と通称されるこの仏像には截金が全身に施されているので、それをじっくりと見たかったのだが、展示期間が限られており、残念なことにその間に行くことができなかった。

泉涌寺について『仏像 中国・日本展図録』は、同展図録は、泉涌寺は、鎌倉時代に洛東の仙遊寺を与えられた日宋僧・俊芿が、寺名を改め伽藍の整備をし開山した真言・天台・禅・浄土などを兼学する道場であり、俊芿の弟子である湛海は数度にわたり南宋へ赴いて、様々な経典・仏画・仏像さらには仏牙舎利を奉じ請来している。今日でもその多くが伝存し、さながら既に中国では失われた南宋仏教のタイムカプセルといった側面があるという。
泉涌寺には昔々行ったきりなので、南宋期の仏像でさえ記憶がない。

観音菩薩坐像(楊貴妃観音) 南宋時代・13世紀 木造 像高114.0 京都・泉涌寺観音堂蔵
同展図録は、豪奢で巨大な冠を戴き、伏し目がちで女性的な表情ながら髭の表現もあり、独特な存在感を醸し出す、「楊貴妃観音」として信仰をあつめる観音菩薩坐像である。
そして腹部にみられる渦巻き状の装飾的な衣文表現が本像の大きな特徴のひとつであるという。
古い書物の図版には光背も映っていて、板状の光背には二重の火焔光が巡っている。
極彩色の宝冠は、花を表したらしい文様が繋がって、外側は火焔光となっている。材質もよくわからない。
なで肩で猫背であり、側面からみると体軀に対し頭部がかなり前に迫っていることがわかる。また、しっかりとした体つきながら、両膝はややコンパクトに収まっているという。
型に掛かる細い髪やそれを束ねた紐などは、もうずっと以前に表されなくなった蕨手のよう。

おそらく日本で最も著名な中国舶載の仏像であろう本像は、次のような二面性を有している。まず本像は泉涌寺の日宋僧・湛海が自ら南宋より、普陀山観音信仰にもとづく観音菩薩・善財童子・月蓋長者の三体セットを請来したうちの主尊であり、ながらく普陀山の観音として礼拝されてきた。しかし江戸時代(17世紀)になりそうした信仰が薄れるなかで、本像を唐時代に玄宗皇帝が楊貴妃のすがたに倣いつくらせた観音とする伝承が生まれ、今日に至っているという。 

『日本の美術373截金と彩色』にはその截金について詳しい表現がある。
西川新次先生の言葉を借りると、「直線を交錯させながら、六角形の車輪形を連ねるもの」(上衣)「雪の結晶にも似た文様を繋ぐもの」(裳)などの「直線的幾何学文様ともいうべき文様」と「牡丹唐草繋ぎ文(植物文)」(衣襟)および「雲渦文」(袖裏)の3種に大別されるという。

上衣
余談だが、近頃の展覧会は四方から作品を見られるようになっており、また図録も背面まで記載されていてありがたい。
3本の直線の六角形の中にやはり3本の直線で対角線が3本。その長さを交互に変えて、複雑さを増している。

「雪の結晶にも似た文様を繋ぐもの」は、膝の箇所を見ると、六角形が一辺ずつ接して繋がっているという風にも見えない。
衣襟の牡丹唐草繋ぎ文は、筆で描いたのような曲線で、截金で表すのは直線よりも難しいのではないだろうか。
袖裏には確かに雲渦文が施されている。
そして、僧祇支で良いのかどうか分からないが、左肩から下がって腹部を覆っている布には、カエルの卵状の細かな文様がびっしりと描かれている。
観音堂の中ではどの程度見られるのだろう。

                 →仏像 中国・日本展 南宋の仏たち

関連項目
截金の起源は中国ではなかった

参考サイト
泉涌寺のホームページ観音堂

参考文献
「仏像 中国・日本展図録」 2019年 大阪市立美術館
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂