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忘れへんうちに 旅編では、南イタリアの旅を再開しました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/11/02

ロカマドゥール 聖母礼拝堂の黒い聖母子像


ロカマドゥールの聖域には、④サンソヴール(救世主)教会(12-13世紀)の南面に付け足したような⑨聖母(ノートルダム)礼拝堂がある。
『Rocamadour』は、何世紀にもわたる度重なる修復で変わってしまった。
1479年に岩の崩落で建物は押しつぶされ、Denys de Bar(ドニドバル)によって完全に再建され、大きくなった。彼の紋章は扉口のタンパンの上にある。
1562年、ユグノーによる略奪と火事でヴォールトが再建された。
結局建物の破損は宗教戦争まで続き、19世紀のChevalt(シュヴァル)大修道院長によって再建が完了し、高さと長さが倍になり、扉口と南壁だけがオリジナルであるという。
⑨聖母礼拝堂の向かいには⑩聖ミシェル礼拝堂(ミカエル、12-13世紀)。

聖母礼拝堂の祭壇に祀られているのは小さな聖母子像で、しかも立派な衣装を着せられているので、像自体はよく見えなかった。
黒いということだけがわかる程度。
聖母子像
『ROCAMADOUR』は、先史時代の女神像が聖母に置き換わったのか?シャルトル(Chartres)やルピュイ(Le Puy)のようにケルトの神か?それを立証することはできない。
今日我々が観察するものはオリジナルの像で最初のものだろうか?その古さ(12世紀)ゆえに、300体の黒い聖母のうち、150体はフランス、特にオーヴェルニュとルシヨン地方にある計り知れない宝物の一つである。同時代のモンセラート(Montserrat)の、オルシヴァル(Orcival)の、革命の時に焼かれたルピュイやシャルトルの聖母のように、本像は小さい(68㎝)。クルミ材で、背中は出所不明の聖遺物を収めるためにくり抜かれているが、椅子に坐った状態で表されて、「玉座」に坐っているようだ。幼子イエズスは小型の大人の顔立ちで、聖母の左膝で自力で坐っているようだ。オーヴェルニュやカタルニアの多くの黒い聖母との違いは、ヴェールを着けていないことだ。簡素な金の首飾りが、控えめな折り目で質素な衣装を飾っている。
体の線は華奢で、軽く傾いだ姿勢が、椅子の肘掛けに置いた細い腕と相まって、より女性的でか弱く見せている。その王冠は木材を彫ったものだが、金製のディアデムを支えるために損なわれている。
他の黒い聖母像との共通点が多いにもかかわらず、ロカマドゥールの信者にとって、唯一で比類のないものであるという。
幼子イエズスは膝は揃えているが、左足だけは少し出ている。

同書は、我々が守ってきたロカマドゥールの聖母像は元々黒かったのだろうか?1172年の「奇蹟の書」にも、同時代の書物にも何も記されていない。「奇蹟の書」だけが、奉納されたろうそくが像の足元で燃やされていることに注目している。その煤が材料のクルミの木を黒くし、自然にくすんだと結論づけるべきだろうか?
隣のボーリュー(Beaulieu、コレーズ県)の聖堂の像と同じく、本像は銀の板の間から発見された。像は1562年のような略奪を逃れるために動かされ、手荒な扱いを受け、或いは隠され、おそらく埋められた。銀や湿気などで劣化して現在の状態になった。
オド・ド・ジセ(P.Odo de Gissey)は17世紀に、ロカマドゥールの聖母はモンセラートやルピュイの聖母に似ていて、それらよりも黒いと記している。
近年の修復では、黒い聖母と呼ばれる他の像は、最初は彩色されていたことが判明した。有名なオルシヴァルの聖母像(12世紀)のように。
これらの像は進んで黒く塗られたのか、何のために、どの時代に?エフェソスのアルテミスのように、神像が黒かった異教を排除するために?シバの女王のように「黒いが美しい」雅歌の婚約者をマリアと繋ぐためか。
疑問はまだ解けていないという。
聖域の売店で買った栞では聖母子像は真っ黒ではない。そして、、あちこちの色が剥落していることから、炭化ではなく彩色したものであることは明らかだ。
「黒マリアの謎」は、黒マリア信仰がもしこのケルト的な「他界」信仰を継承しているのであれば、その起源はキュベレ信仰でもアルテミス信仰でもイシス信仰でもなく、まぎれもないガリヤの地母神信仰だと断定できるのであるが、ただ問題は、この「他界」信仰はやがてキリスト教の来世の思想と習合してしまったため、黒マリア信仰の場合も、それがケルト起源なのかキリスト教起源なのか見分けるのが難かしいということであろう。しかしながら、少なくとも一つ、この両者をはっきりと区別できることがある。それはキリスト教の来世が天上的なものであるのに対し、ケルト的来世は、元来が地下的なものだということである。そして、黒マリア信仰が示しているのはまさしく、この地下的性格なのだ。
まず第一に黒マリアが発見されたり祀られたりしている場所であるが、それは極めてしばしば他界への通路と考えられていた洞窟や墓地なのである。
かつてガリヤの庶民が彼らの地母神に捧げていた信仰を、中世の農民がそのまま継承していたとしても少しも不思議ではない。キリスト教時代の農民は、彼らの発見した地母神像を聖母子像と思い、この像に対して彼らの昔ながらの祈りを捧げた。黒マリアと黒マリア信仰の起源は、おそらくはそこにあるのではないだろうか。
黒マリア信仰とゴシックの聖母崇敬とのつながりは明らか。
聖母に捧げられたゴシック教会がすべて聖母マリア教会ではなくノートル・ダム教会と呼ばれている。多くのゴシック大寺院の呼称となったノートル・ダムという言葉は、元来、民衆が彼らの女主人であるそれぞれの黒マリアを古くから親しみをこめて呼んできた名前だったのだ。ゴシック寺院以前にもすでに、クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュ・ポール教会のように、ノートル・ダムの名を冠した教会は存在したが、それらはみな黒マリアが祀られている教会だったのである。このことはゴシックの聖母崇敬の起源が黒マリア信仰にあったことを示す何よりの証拠だとは言えないであろうかという。
ロカマドゥールでも、聖母子像が祀られているが礼拝堂の名称はノートル・ダムである。キリスト教なのに幼子イエズスは崇敬の対象外なのだった。
船乗りの守り神とされる聖母は、祭り(8月15日の被昇天の日?)の時には船形の神輿に乗せられて町に出たようだ。

同書は、巡礼はただサンチャゴ・デ・コンポステラにだけ向ったのではない。それと同時に地域的な黒マリア巡礼もはじまっていた。その代表的なものが、聖王ルイをはじめ多くの名士たちが足跡を残したル・ピュイからサン・フルール、オーリヤック、ラ・ロックブルーなどを経てロカマドゥールの黒マリアに到る巡礼路なのである。
もし黒マリアが地母神像であったとすれば、その多くが牡牛によって発見されているのも決して偶然の一致ではない。それは事実というよりはむしろ、古代祭儀の遠い記憶が生み出した神話なのである。
同じことは、黒マリアと密接な関係を持っているように思われる聖人たち、聖アンナ、聖ミカエル、聖ボネ、聖ブレーズなどについても言えるだろう。なぜなら、これらの聖人たちは実はみなガリヤの神々の化けたものなのであり、牡牛と同様、むガリヤ人の宗教の中でもともと地母神信仰と結びついていたものなのだからである。
ロカマドゥールの黒マリアの祠のすぐ下には、聖アンナをはじめ聖ミカエル、聖ブレーズ、洗者聖ヨハネを祀った礼拝堂があるが、この聖アンナがケルトの大地母神アナのキリスト教化したものであるという。
⑤の建物には聖ブレーズ礼拝堂と聖アンナ礼拝堂があった。ロカマドゥールは聖アマドゥールの名から付いた地名であるが、これほどケルト色の強い聖域だったとは。

また、ロカマドゥールにはもう一体の黒い聖母像がある。時代は不明だが、顔だけが黒く、幼子イエズスを膝に乗せていない。玉座に坐っているので、別材の幼子イエズス像があったのかも知れない。

       ロカマドゥール 聖ミシェル礼拝堂

関連項目
ロカマドゥール2 聖域

参考文献
「ROCAMADOUR admirer contempler prier」 P.Clément Nastorg 2005年 Édition du Signe
「Rocamadour Haut Lieu de Pèlerinage」 Didier 2006年 APA-POUX-ALBI
「黒マリアの謎」 田中仁彦 1993年 岩波書店