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忘れへんうちに 旅編では、中央アジア各地、イランの旅に続いて、フランス南西部のオクシタニー地方の旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/07/03

島根県立古代出雲歴史博物館 隠岐の黒曜石


博物館では「隠岐の黒曜石」という企画展が開催されていた(3月23日-5月16日)。

まず、隠岐の島で黒曜石が産出されるに至る地球規模での歴史から、パネルで分かり易く紹介されていた。

① 隠岐は日本列島とともにユーラシア大陸の縁辺にありました。
② 日本列島が大陸から離れ、日本海が形成されはじめた時代です。隠岐の位置は、まだ湖や海の底にありました。
③ 各地で大規模な火山活動が起きました。この時、島後で噴出したマグマによって黒曜石が誕生しました。
④ 半島から孤島へ変わった時代で、隠岐にヒトが登場しました。旧石器時代には海面が低下して一旦は本土と陸続きになりましたが、その後、徐々に温暖化が進み、縄文時代には再び島へと戻っていきました。

そして、黒曜石が火山活動によってできた岩石であることも。
黒曜石は、高温のマグマが火道(マグマの通り道)の壁や地表面などで急速に冷やされることで生まれ、火砕流や熔岩の噴出などによって地上に露出したものです。それがのちに先史人たちの目にとまることとなりました。
隠岐の黒曜石は、ステージ③の火山活動によって、約550万年前に誕生したと考えられています。

隠岐産黒曜石の石器 旧石器時代-弥生時代 島根県西川津遺跡・原田遺跡・畑ノ前遺跡・宮尾遺跡・鳥取県坂長第8遺跡・岡山県東遺跡出土
隠岐の黒曜石は漆黒色で、表面に縞模様が入るものが多く見られます。主に槍先(台形様石器、ナイフ形石器、尖頭器)や弓矢のやじり(石鏃)にどに利用されましたという。

漆黒の黒曜石 Obsidian
黒曜石の表面は凹凸のある礫面に覆われており、礫面を剥ぐと、内側から黒色でガラス質の部分が現れます。石器の素材には、このガラス質の部分を薄く剥いだ薄片が使われていましたという。

隠岐諸島の主な黒曜石産地
噴火は島後の複数の場所で起こっており、そのため黒曜石も島の広い範囲で認められます。黒曜石は、島後の西側から南側に分布する重栖層の中に含まれていて、現在までに20ヶ所以上の地点で見つかっています。これらの地点は、分布や元素組成から大きく久見地域、加茂地域、津井地域の3ヶ所に区分することができますという。

隠岐で最も古い資料は、旧石器時代前半期に使われた黒曜石製の台形様石器です。この頃は、日本列島に初めてヒトが出現、定着した時期にあたり、列島最古の段階から、すでに隠岐の黒曜石が利用されていたことが分かります。
続く縄文時代の遺跡からは、大量の黒曜石を利用した石器群が見つかっています。いずれの遺跡からも、とても一つの集落では使い切れないほどの量が出土し、まだ使えそうな黒曜石の石核や剥片が、無造作に捨てられていることもあります。
このように隠岐では、豊富な黒曜石に支えられた原産地ならではの文化が花開いていましたという。

旧石器時代は、日本列島に最初にヒトが現れた時代です。今から約20万年前、アフリカで誕生したヒトは、偉大なる旅路の果てに、約38.000年前に日本列島へ到着しました。当時、日本列島と大陸は海によって隔てられており、彼らは海を越えてやってきた航海者だったと考えられています。
旧石器時代の人々の生活は、木の枝や皮などに覆われた簡易テントに住み、動物や石材を求めて一定の領域を移動しながら暮らす「遊動」と呼ばれる生活スタイルでした。旧石器人たちは、黒曜石などの石材資源を携えて移動し、各地に点々と遺跡を残していきましたという。

黒曜石の原産地と植民集団の移動推測ルート
隠岐から運ばれてきた黒曜石は、狩りや加工用の道具として利用されました。そして、人から人へと伝えられながら中国地方の各地へ広がっていきました。
狩りの風景は、旧石器時代と縄文・弥生時代で大きく異なります。旧石器時代は、主に槍を使ってナウマンゾウやオオツノヒツジなどの大型動物を狩りましたという。
狩猟の道具
植民集団の細石刃石器群 旧石器時代終末期 島根県面白谷遺跡・正源寺遺跡、鳥取県上神51号墳、岡山県恩原1遺跡・恩原2遺跡出土 島根県埋蔵文化財調査センター・倉吉博物館・岡山大学考古学研究室蔵
東北地方から到来した集団が残した細石刃石器群です。細石刃の製作技術である湧別技法は世界でも広く知られた技術で、典型的な手順は以下のとおりです。
① 尖頭器状の両面調整素材を製作
② スキー状削片を剥がして石核を作り出し
③ 小口面より細石刃を剥がす

縄文時代になると、多角的な生業が行われるようになり、イノシシやシカなどの動物資源の他に、トチやドングリといった植物資源や魚介類などの水産資源も積極的に利用されました。それに伴い、石器の種類が増え、土器の利用も始まりました。
また、長い移動生活が終わり、堅牢な竪穴住居に定住する生活が始まりました。定住といっても、一年を通じて同じ場所に住み続ける通年定住と、季節によって住む場所を移動させる季節的定住などがあり、環境や社会の状況に応じて使い分けにれていたと考えられています。定住生活を基本とする縄文時代には、黒曜石は集落から集落へと交換や分配されることで流通しました。今回の研究で、縄文時代の黒曜石流通は大きく3つの時期に分けられることが分かりましたという。
黒曜石の鏃
大型動物が絶滅すると、シカやイノシシといった中型・小型の動物を狙うようになりました。縄文時代に登場する弓矢は、森の中で逃げ回る中小動物を射止めるため開発されたと考えています。

縄文時代の終わり頃になると、黒曜石の利用が大幅に減少し、かわりに香川県の金山産のサヌカイトが持ち込まれるようになります。そして、地域ごとの石材利用に個性が現れはじめ、山陰地方全域に細かな「地域性」が形成されます。黒曜石は、隠岐から中海・大山付近にかけて多く利用されました。
また、それぞれの地域では、石材利用に加えて石鏃や石錐の形にも違いが認められます。このことは、地域ごとに独自の石器作りの伝統を持った集団がいたことを示しています。
弥生時代になると、大陸・朝鮮半島から水田耕作が伝わり、人々の生業は狩猟採集から米作りへと変化しました。より多くの労働力の集約が行われ、地域の中心となる大規模な拠点集落は、濠で囲まれ長期間存続しました。また、様々な道具や装飾品が生産され、他地域との交流も行われました。水田耕作が伝わるのに伴い、農耕具として石包丁や石鎌などの磨製石器が日本列島にもたらされました。
この頃の黒曜石は、石鏃や石錐、削器といった鋭さを活かした道具に加工され、磨研石器とともに利用されました。一方で、青銅や鉄で作られる金属器も使用されるようになりますという。

鉄鏃とヤリガンナ 弥生時代後期 島根県塩津山遺跡・上野Ⅱ遺跡出土 島根県埋蔵文化財調査センター蔵
銅鏃 弥生時代後期 島根県波来浜遺跡出土 江津市教育委員会蔵
青銅器や鉄器などの金属器は、弥生時代前期に大陸・朝鮮半島からもたらされました。しかし、青銅器はしだいに祭祀具に変化し、また鉄器は素材が乏しかったことから、素材の転換には至らず、引き続き石器が利用されました。
その後、弥生時代中期後半から後期にかけて大陸から鉄素材の流入が増えると、状況が大きく変化します。山陰地方では、鉄器の増加と歩調を合わせるように石器が減少しました。隠岐の黒曜石も例外ではなく、石鏃削器は比較的少量の鉄素材で容易に製作できることから、本格的な製鉄が始まる以前に素材が鉄に変わったと考えられます。
こうして、約3万年にわたって利用された黒曜石は、弥生時代後期にはそのほとんどが金属器に移り変わっていきましたという。
こんな風に、日本では黒曜石が利用されなくなっていったのだった。

この黒曜石については、東トルコの旅の後半に、カルスからエルズルムへと向かっているて、道路工事現場の崖に、赤い黒曜石と黒い黒曜石が縦縞のようになって露出しているところがあった。そこで赤いのと黒いのを記念に?持ち帰ったことを思い出す。

島根県立古代出雲歴史博物館 大量の銅鐸と銅剣
                     →出雲日御碕は灯台だけではなかった

関連項目
島根県立古代出雲歴史博物館 出雲大社の模型

参考・引用したもの
「隠岐の黒曜石」展での説明パネル