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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/06/26

島根県立古代出雲歴史博物館 出雲大社の模型


宍道湖では雨でもシジミ漁の船が行き交い、それぞれに陣取っては長い竿でバランスしながらシジミをとっていた。中には船から下りている人もいた。
カルガモではなさそうだが、アカツクシガモではもっとなさそう。

宍道湖を左手に、一畑電鉄の線路を右手に見ながら日御碕へ向かう。
30年ほど昔にこの道を通ったのはGWの頃で、天気も良かったので、宍道湖に浮かぶ水鳥もよく見えた。特にキンクロハジロ(目が金、体が黒、羽根が白)を初めてみたのをよく覚えている。
この日も季節が同じなので、キンクロハジロが見られるのを期待していたが、あいにくこの日は大雨で、窓ガラスに叩きつける雨粒のためよくは見えなかった。それでもキンクロハジロやウミアイサ(頭頂部の毛が逆立っている)がいるらしい程度には見えた。

その途中に、出雲大社の東隣に島根県立古代出雲歴史博物館がある。
最近の美術館博物館でときどきみられる現象だが、同館も禁止マークのないものは撮影可だった。

中央ロビーの真ん中にどんと展示されているのは、
 
宇豆柱(うずばしら) 鎌倉時代(1248年) スギ材 直径平均約130㎝ 年輪の鄒最大195年 出雲大社境内遺跡出土
説明パネルは、国譲り神話では「大国主神が治めてきた葦原中国(あしはらのなかくに、地上の世界)の統治権を高天原(天上の世界)の神々に譲る代償として、壮大な神の宮を造営」したとされる。
千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」には、3本を一つに束ねた柱の直径1丈(約3m)、昇殿する階段の長さ1町(約109m)と記されている。古代には本殿の高さが奈良の大仏殿より高い16丈(約48m)あったという伝承もある。
2000年に出雲大社境内で行われた発掘調査において、地表から1.4m掘り下げたところから、径約1.4mのスギ材が3本かたまって出土した。
想像を絶するこの巨大な柱はどのような神殿を支えていたのだろうかという。
このような巨木を束ねた柱が出土したことは知っていたが、もっと古いものだと思っていた。
柱の一つ。

三瓶山の噴火でうまった縄文スギ 縄文時代(3600年前) 三瓶小豆原埋没林 輪切り標本 島根県立三瓶自然館蔵
宇豆柱と変わらないくらい大きな木の標本だった。

弥生土器にも高い建物が線刻されていた。

出雲大社の復元模型も、こんな風に高床!?に長い階段がついているらしいが、弥生時代にすでにそんな神殿?があったとは。

常設展示室に入ると、まず「出雲大社と神々の国のまつり」のコーナー。

1998年から2002年にかけて行われた出雲大社境内遺跡の発掘調査では、古墳時代から江戸時代にかけての祭祀のあり方や社殿建築の歴史的な変遷を知るうえで重要な数々の発見がありました。図は、現在の本殿と拝殿の間にある調査区周辺で検出されたおもな遺構を表したものですという。
巨大柱の顕現。2000年から2001年にかけて、出雲大社境内から13世紀前半の巨大な柱が3か所で発見されましたという。
出土状況
心御柱と宇豆柱は同じくらいの直径。

巨大本殿の設計図 金輪御造営差図複製 鎌倉-室町時代(13-16世紀) 千家尊祐氏造
昔の本殿の平面図と伝えられる。巨木3本を束ねて1本柱とし、階段の長さを1町(約109)とする。2000年から翌年にかけて、同じ構造の巨大柱が境内から出土したという。
柱の配置や構造は、いにしえの巨大本殿設計図とされる「金輪御造営差図」に描かれたものとよく似ています。柱を埋めた大きな穴には、ひとかかえもあるような大きな石がぎっしりとつめてありました。このような掘立柱の地下構造は、史上最大で世界に例をみないものですという。
巨大本殿を描いた絵図 出雲大社并并神郷図 鎌倉時代(13-14世紀) 複製 出雲大社蔵
朱塗り柱の本殿は現在の本殿よりも床がとても高く、ほかの建物よりもひときわ大きく描かれていますという。

さていよいよ巨大な神殿の復元模型、とコーナーを曲がると、そこには小さな復元模型が5つ並んでいた。
ここに並ぶ建築模型は、現代を代表する建築学者が発掘成果をもとに限られた文献や絵画史料を駆使し、建築学のあらゆる知識を総合して上屋構造を推定復元したた研究成果です。現在の学問の到達点を物語る貴重な学術資料です。みなさんはどう考えますか?という。
すべて鎌倉時代・13世紀の復元模型(縮尺1/50) 左より
1 三浦正幸博士の復元案  
復元寸法 全長37.385m 最大幅22.141m 総高27.272m 垣高2.424m 階段角度45° 檜皮葺き

2 浅川滋男博士の復元案 
復元寸法 全長42.064m 最大幅23.336m 総高41.814m 基壇高2.121m 階段角度55° 檜皮葺き

3 黒田龍二博士の復元案
復元寸法 全長49.601m 最大幅24.95m 総高43.765m 基壇高3.636m 階段角度45° 檜皮葺き

4 宮本長二郎博士の復元案
復元寸法 全長12.73m 最大幅23m 総高47.9m 基壇高1.2m 階段角度17° 茅葺き

5 藤澤彰博士の復元案 全高は平安時代の復元模型と同じ
復元寸法 全長129.59m 最大幅20m 総高48m 基壇高3m 階段角度16°
檜皮葺き

で、見たいと思っていた復元模型はその左、展示室の中央にあった。

出土した3本を束ねた柱(鎌倉時代)よりも古い平安時代の本殿だった。
縮尺1/10 全高16丈(約48m) 
心御柱:直径1丈2尺(約3.6m)高12丈(約36m) 
宇豆柱:直径1丈(約3m)高14丈(約42m)
10世紀 出雲大社蔵 福山敏男監修、大林組プロジェクトチームによる1989年公表の設計案に基づく復元模型
10世紀に、「雲太」とも呼ばれる高さ16丈(約48m)という日本一高大な本殿があったという学説に基づく模型です。
見上げると八雲立つ出雲を象徴する美しい雲と光のうつろい、耳を澄ませば境内で聞こえたであろう様々な音の情景・・・という。
大社造で宇豆柱が正面中央にあるため、階段はその左側に造られている。
巨大柱が支えた鎌倉時代前半(1248年造営)の神殿はどのような姿だったのでしょうか。出雲大社本殿建築の復元研究とその高さをめぐる論争は、すでに100年におよびます。
平安時代の復元模型の階段の上り口 段差は板の厚み程度
階段を登っていく2人の神主の身長は170㎝として縮尺している。階段の壮大さがうかがえる。
この高さ!
説明パネルに柱の断面構造図があった(はっきりとピンボケ)。
木材3本を中心にし、その間に補助材を組み合わせて円柱にしているという。
補助材は扇形で、中心となるの木材も、補助材に密着するように削られている。計6本の木材を集合材にし、金輪で束ねている。

その奥には巨大な千木と勝男木。
出雲大社の屋根にあった千木と勝男木 明治14年(1881)遷宮の御用材 スギ
千木:長830幅62厚24㎝ 勝男木:長545最大径67㎝重700㎏
こんな巨大な千木と勝男木がのっていたのだった。

雲太、和仁、京三の比較図
平安時代中頃(970年)に書かれた貴族子弟の教科書『口遊』には、当時の大きな建物として「雲太」「和仁」「京三」が挙げられています。それぞれ、出雲の大社、大和の大仏殿、京の大極殿を指します。当時、大仏殿の高さは15丈(約45m)あったとされます。出雲大社はそれ以上の高さをほこったのでしょうか?伝承では、かつては16丈(約48m)の高さがあったともいい、古代に高層神殿が存在した根拠の1つとされていますという。
法隆寺五重塔(708-715年再建)の高さが32.5mなので、柱の長さが技術でカバーできれば、造立できない建物ではないのでは。

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関連項目
島根県立古代出雲歴史博物館 隠岐の黒曜石

参考にしたもの
島根県立古代出雲歴史博物館の説明パネル