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忘れへんうちに 旅編では、中央アジア各地、イランの旅に続いて、フランス南西部のオクシタニー地方の旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/06/29

島根県立古代出雲歴史博物館 大量の銅鐸と銅剣


続いて『出雲国風土記』が書かれた奈良時代の人々の暮らしのコーナー。

須恵器を焼く様子
説明パネルは、この模型は今から焼く1300年前、奈良時代の須恵器の登窯を再現したものです。現在の松江市東部に位置する朝酌郷大井地区では古墳時代から平安時代までの約400年にわたって、須恵器が生産されていました。ここでは、瓦や硯をはじめとする製品の他、土馬などの「神まつり」の道具も作られていました。
『出雲国風土記』より
大井浜。即ち海鼠(こ)・海松(みる)あり。又、陶器(すえもの)を造れりという。
須恵器は半地下式の窖窯(あながま)で焼成されていたとかなり以前に聞いたことがあるが、登窯もすでにあったのだ。
屋根の架かったところで容器を作り、乾燥させて窯に詰めていく様子がジオラマで紹介されていて興味深い。更に、左下には不良品を捨てた物原までがある。

磚 古墳時代(7世紀) 須恵器 松江市教育委員会蔵
古代の陶製レンガという。
湾曲して平らではないが、寺院などの床に敷き詰めたものだろうか。 
鴟尾 奈良時代(8世紀) 須恵器 松江市教育委員会蔵
寺院の屋根を飾る瓦という。
不良品(杯・托) 奈良時代(8世紀) 松江市池ノ奥窯跡出土 松江市教育委員会蔵
高温の窯内でゆがんだ須恵器という。

次のコーナーはもっと時代を遡る。
弥生式土器や農具に混じって、
銅製の剣や鐸(レプリカ)も。
輝く銅鐸、銅戈、銅矛、銅剣は、出雲地方で見つかった青銅器をモデルに2000年前の作られた直後の姿に再現したものですという。
銅鐸
その裏側にも
23号銅鐸 弥生時代(前2-1世紀) 雲南市加茂岩倉遺跡出土 文化庁蔵
この銅鐸には、シカや四足獣、四頭渦文などの文様が描かれています。他地域出土の銅鐸にはない文様を持つことから、出雲周辺で作られたものとも考えられていますという。
29号銅鐸
吊り手(鈕)には顔面が描かれています。眉、瞳のない目、鼻、口が描かれ、頬には入れ墨と思われる弧線が鋳出されていますという。 
銅鐸 加茂岩倉遺跡出土
加茂岩倉銅鐸には、吊り手に「X」が刻まれた銅鐸が14箇あります。すべて吊り手にタガネのような鋭い工具で打ち込まれています。「X」は、荒神谷遺跡の344本の銅剣でも見つかっていますという。
吊り手の穴の真上にX印があるが、よく写せなかった。
様々な大きさの銅鐸

そして大きな壁面にずらりと並んだ358本の銅剣。これが出雲大社の復元模型の次に見てみたかったのだが、あまりにもたくさんで、一つ一つを見る余裕はなかった。
出土した銅剣、すべてです。1本の長さは50㎝前後とそれほど大きなものではありませんが、こうしてみると、その量がいかに膨大であるかがよくわかります。壁を飾る黄金色の銅剣は、出土銅剣をもとに2000年前作られた当時の色や輝き、形を再現したものですという。
銅剣 弥生時代(前2-後1世紀) 斐川町荒神谷遺跡出土 文化庁蔵
大量埋納のなぞ
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡にみられるように、青銅器のほとんどは意図的にうめられたと考えられています。これらの青銅器は弥生時代の社会において重要な役割を果たしていたにもかかわらず、どうして地中にうめられてしまったのでしょうかという。
荒神谷遺跡では、358本もの銅剣が斜面に作られたテラスに整然と並べられていました。また、7mほど離れた別のテラスには、銅鐸と銅矛がまとめてうめられていました。銅鐸と銅矛が同じ遺跡から見つかったのは全国でも初めてのことですという。
刃を立てて、丁重に並べられている。
銅剣と銅矛は刃を立てた状態、銅鐸はひれ(側面のうすい張り出し)を立てた状態で、すき間なく並べられていることがわかりますという。
青銅器のうめ方をみてみると、刃やひれを意図的に立ててうめている例が多くあります。そしてこのうめ方は、山陰地域に限らず各地で採用されています。つまり、青銅器は地域をこえた共通の決まり事にしたがってうめられた可能性があるのですという。
日本では青銅器時代の次に鉄器時代になったのではなく、ほぼ同時期に青銅器も鉄器ももたらされている。
そんな時代に、武器としては青銅器よりも鉄器の方が優れているため、青銅器を使用するのをやめて鉄器にしようということで、大切な青銅器の品々を地中に埋めたのかも。もちろん、何の根拠もありません。

さて、総合展示室の「島根の人々の生活と交流」には古墳が幾つか紹介されていた。

岩屋後古墳模型 縮尺1/10 松江市大草町 6世紀後半
出雲東部を中心として活躍した豪族が葬られた古墳です。石室は、加工した一枚石を用いて壁や天井を造ったもので、石棺式石室と呼ばれています。
出雲東部の有力者の古墳では石棺式石室が採用され、さらにこれをまねた石室や横穴墓が数多く造られました。出雲東部の有力者の古墳では、ほかにも土器(子持壺)や形象埴輪も共通する特徴をもつことが知られていますという。
玄室と外界をつなぐ羨道も板石を並べ、石室の天井は屋根のように傾斜がある。
上塩冶(かみえんや)築山古墳模型 縮尺1/10 6世紀後半
石室は細長い平面形をもち、切石を丁寧に積み上げた横穴式石室です。これは、先行する今市大念寺古墳の石室の形態を引き継いで、切石を用いてより精美なものになっています。出雲西部では今市大念寺古墳や上塩冶築山古墳の石室をまねた、小規模の横穴式石室が多く造られましたという。
石室の中に家形石棺が2つ安置されている。
石室自体を家形にする出雲東部と、石室の中に家形石棺を埋納する出雲西部、異なった勢力圏があったのだろう。

波来浜遺跡A区2号墓模型 縮尺1/25 弥生時代(前1世紀) 方形貼石墓 江津市
四隅突出型墳丘墓の誕生直前の方形貼石墓です。弥生時代の中頃には日本海沿岸で、西は益田市から東は京都府の丹後半島までこのような方形貼石墓が造られました。まだ、四隅が突出せず、長方形の墳丘であることが共通していますという。
一つの墳丘に2つの穴がある。

島根県邑南町瑞穂の順庵原1号墳 縮尺1/25 弥生時代(後1世紀)

最初に発掘された四隅突出型墳丘墓。
1968-69年にかけて発掘されまたもので、発掘当時は地方色豊かな「古墳」と考えられていました。後に同じような墳墓が山陰各地で発見されたことから、「四隅突出型墳丘墓」の第1号の発見例として著名になった墳丘墓です。発掘当時の様子を関係者の記憶や写真、調査日誌などから再現しましたという。
穴は3つ
その復元模型
いつの間にか弥生時代に入っていた。

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参考にしたもの
島根県立古代出雲歴史博物館の説明パネル