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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/12/15

イーワーンの変遷


せっかくなので、これまで調べてきた建造物の中から、イーワーンのあるものを古い順にみていくことにしよう。

ハトラ聖域神殿 パルティア、前1世紀?
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』は、ハトラ中央の聖域の西部に数基のイワンを南北に併置した建築がある。前庭は障壁によって南北に分けられ、南(左側)イワン中央奧に廻廊でかこまれたシャマシュ神殿がある。この神殿の入口の半月状アーチと内部の壁面には、ヘレニズム風の人頭、動物浮彫が施されているという。
残念ながら、この図版にはイーワーンが写っていないが、解説文から複数のイーワーンを縦に並べた建築であったらしい。

フィルザバード宮殿 サーサーン朝、3世紀前半 イラン
フィルザバードに宮殿を建立したのはササン朝の開祖アルダシールⅠ(在位226-241)だった。
『イスラーム建築の世界史』は、サーサーン朝の建築文化で特に発達したのは、宮殿建築である。宮殿建築は神殿を内包することがある。南イランのシーラーズ周辺、南イランからイラクにかけての一帯、そしてクテシフォンをはじめとするティグリス川流域に宮殿の遺構が残る。宮殿建築は前面に庭園を併設し、あたかも地上の楽園のような空間構成をもつという。
巨大なイーワーンが残っている。
平面図では、中央の大ドームの前に、かなり深いイーワーンがあったことがわかる。
これだけ深いと、ドームに至る玄関というよりも、扉口のない広間である。

シャープール1世宮殿 サーサーン朝、3世紀中葉 ビーシャープール
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』は、近 くの山に要塞設備を王宮、ここを防禦の固めとし、都市は山を背にし、川に臨む美しい町作りを目指した。ここを”美しいシャー(皇帝)の町”の意味をこめて ビシャプールと名づけた。フィルザバードと異なって王宮も街内に作られ、いくつかのイワン状アーチ天井をもつ小部屋にかこまれた大広間をそなえたササン朝建築の特色を示す宮殿を営んだという。
次の王の造った宮殿は、イーワーンを室内に配置した。
ホールは、正方形平面で、四方の中央に小さな正方形平面の窪みがある。それがイーワーンで、ホールに向かって開かれた、大きな壁龕のよう。
その分だけホールは広い。

サルヴィスターン宮殿 サーサーン朝、5世紀?
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』は、ファー ルス地方サルヴィスターンには、その後の王宮建築の発達をよく伝える遺構がある。壁面計画は3列を基本としており、その中軸に東正面から順に、中央イー ワーン、主ドームを戴く中央広間、その奥に方形の中庭、さらに西の奥壁に小イーワーンが連なり、両側にヴォールトを駆使した部屋が配される。フィールザー バードの構成に近いが、当宮殿の方がより対称性を崩しているという。
この正面に見えているのがイーワーンだが、上の方がどのようになっていたのかは分からない。
平面図
小イーワーンの連なる西の奥壁というのは、上写真の左向こうに見えている壁面のことだろうか。平面図では主ドームのある広間の左斜めにある長い部屋にあたる。

ターキ・キスラー宮殿 サーサーン朝、550年 イラク、クテシフォン
『イスラーム建築の世界史』は、幅23mの巨大なアーチを架け、トンネル状の天井を架けた開放的な空間がある。この空間はイーワーンと呼ばれ、サーサーン朝の建築文化の一つの特色であるという。
創建時は、このイーワーンも奥行の深い空間だったのだろうか。

カスレ・シーリーンのうち、イマラーテ・ホスロー大宮殿 サーサーン朝、6-7世紀
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』は、ホ スローⅡ世パルヴィーズ(位590-628)は、贅沢と浪費の限りを尽くしたことでペルシア王の代名詞的存在となった。イラクとの国境にあるカスレ・シー リーンという山間の町は、シーリーンの城、つまりホスローⅡ世が妃シーリーンに捧げた宮殿を意味する。ここには本格的な大宮殿エマラーテ・ホスローと、 「チャハル・カープー」(4つのポーチの意)を中心に置く大建築とがあるという。 
ドームの手前にヴォールト天井の長い部屋がある。これがイーワーンだろう。

『イスラーム建築の見かた』は、イーワーンは建築の焦点という意味、そしてその構築技法の上からもドームと深い関係をもつ。ドームが覆う空間は閉じているのに対し、イーワーンは部屋の四辺のうち一辺を戸外、時にはドーム室などより大きな空間に向かって開いている。正面に大アーチが設けられることが多い。しかも普通の部屋よりもかなり大きく、天井が高い開放的な広間となる。こうした空間をペルシア語でイーワーンと呼び、アラビア語でもリーワーンあるいはエイワーンなどと呼ぶ。普通は、前面に開く大アーチをトンネル状に延長させたような天井をもつ。
日本語にするとあまり適当な訳語ではないけれど、便宜的に「前面開放空間」という言葉を当てておきたいという。
「前面開放空間」というのは、イーワーンを非常にイメージしやすい言葉だ。

ウハイディル宮殿の中庭 アッバース朝、778年頃 イラク
『イスラーム建築の世界史』は、アッバース朝時代になると、迎賓施設としての浴場、三廊式の玉座の間など地中海世界を起源とする要素は姿を消し、複数の中庭からなる巨大な構成やイーワーンやドームを用いた玉座の間などオリエント世界を起源とする側面がより発展する。
ウハイディル宮殿の中庭は、右手のイーワーンに続いて玉座の間が位置するという。
玉座の間へと至る装置として、長いイーワーンが適している。きっとこのウハイディル宮殿でも、イーワーンは長い空間だっただろう。

バルクワラ宮殿平面図 アッバース朝、847-61年 イラク、サーマッラー
『イスラーム建築の世界史』は、図の下部の入口から2つの中庭を通り抜けると、公的謁見の大中庭に達し、さらに四方にイーワーンをもつ玉座の間に達する。その背後は、大庭園を介してティグリス川へと至るという。
よくは分からないが、この平面図から、広大な中庭を2つ通り、やっと公的謁見の大中庭(その前の2つの方が広いが)を経て、長いイーワーンを通過し、やっと到達できた玉座の間にも、十字形をなす4つのイーワーンがあるようだ。玉座はこの十字形の部屋の中心部に置かれたのかな。

『イスラーム建築の世界史』は、イーワーンやドーム、庭園などオリエント世界に根付いた要素や技法を、のちにイスラーム建築は取り入れていくことになる。加えて、正倉院御物に顕著なサーサーン朝期の工芸における装飾化された繁縟な文様などの特色も、イスラーム文化の下地となるという。

ニーリーズの金曜モスク ブワイフ朝、973年 イラン
『イスラーム建築の世界史』は、イラン高原にも新傾向が現れる。サーサーン朝建築に根付いていたイーワーンをモスクとして利用する例である。トンネル形の大空間は、奥に向かう軸線を設定するので、奥壁にミフラーブを付けることで、礼拝空間に適当であるという。
建物の入口、あるいは中庭に面したイーワーンが、ドームのあるモスク主室を示す玄関のようなものをサマルカンドでは見てきたが、その発生は、イーワーンという天井の高い奥行のある空間そのものを礼拝空間にしていたのだった。

ラシュカリ・バーザール宮殿平面図 ガズナ朝、1030年頃 アフガニスタン
『イスラーム建築の世界史』は、10世紀末、ガズナ朝の創始者サブクタギーン(977-97年在位)は、サーマーン朝に仕えるトルコ族の軍人であった。彼の息子のマフムード(998-1030年在位)は、豊かなインドへと遠征を繰り返し、ガズナやラシュカリ・バーザールに壮大な宮殿建築を造営した。その一つが、南北に大きなイーワーン、東西に小さなイーワーンが配されたチャハール・イーワーン(4イーワーン)形式をとる。チャハール・イーワーン形式は、イスラーム以前のメソポタミアの宮殿建築に確認でき、ホラサーン地方の住宅形式として定着していた。この形式は、ペルシアのモスクやイスラーム教の神学や法学を伝授する高等教育機関(マドラサ)に好んで使われ、西はアナトリアやエジプトまで、東はインドまで波及する注目すべきものであるという。
確かに、ウズベキスタンでもチャハール・イーワーン形式のメドレセなどを見てきた。メドレセは規模が小さいので、幾つかのフジュラ(学生寮)の間にイーワーンがあった。ブハラのカリャン・モスクでは、広い中庭には列柱の間にイーワーンが4つあった。


アルディスタンの大モスク 12世紀中葉
『イスラーム建築の世界史』は、チャハール・イーワーン形式がモスクに使われ、様式として定着するという。
ここでも正面の深いイーワーンの奥に見えているのはミフラーブだろうか、それとも、大ドーム室のモスクへの入口だろうか。
二階建てのフジュラよりも、イーワーンに重きを置いた建物といった感じ。

ヌーネッディーン病院の中庭 ザンギー朝、1154年 大シリア、ダマスカス
『イスラーム建築の世界史』は、大シリアでは、ボスラをはじめとし、数多くのマドラサが残る。ダマスカスを首都としたザンギー朝のヌールッディーンは、首都にマドラサと病院を建立した。ともにイーワーンを有する形式という。
中庭にイーワーンが開かれたチャハール・イーワーン形式らしい。おそらく縦軸のイーワーンは長いのだろうが、横軸のイーワーンは浅い。

アイーシャ・ビビ廟 カラ・ハン朝、12世紀 カザフスタン、タラス
同廟はシャーヒ・ズィンダ廟群のファサードに近い形になっている。
浅い扁平型イーワーンに見えるが、ムカルナス風のものもある、それに、ブハラのサーマーン廟のスキンチにあったように、頂部から中央に帯状のものが見える。いったいどうなっているのだろう?
私が深見奈緒子氏の次に頼りにしているイスラムアート紀行さんの土族の思い、「アイシャ・ビビ」から「ウズゲン」へというページには、かなり修復の手の入ったアイシャ・ビビ廟の写真があった。それによると、ムカルナスに見えるのは、平レンガを積んだ直線的なもので、その段の上に、サーマーン廟のスキンチに似た曲面を、様々な浮彫タイルで構成している。
それは、同じく12世紀のものという、ブハラのマゴキ・アッタリ・モスクのイーワーン頂部にもあったものだ。

シルジャリ・マドラサ ルーム、セルジューク朝、1242年 トルコ、コンヤ
『トルコ・イスラム建築紀行』の平面図でみると、東側の入口から入って、長い中庭があり、その最奥部にこのイーワーンがある。両側はドーム室となっている。

ナタンズの大モスク 1299-1312年 イラン
『イスラーム建築の世界史』は、チャハール・イーワーン形式が用いられ、前時代に比べるとドームの高さが高くなり、中庭のイーワーンとその間を繋ぐ回廊も高さを増すが、中庭の大きさにさしたる変化はないという。
このように、中庭を囲むチャハール・イーワーン形式のものが、ウズベキスタンでも採り入れられることになるのだが、墓廟ファサードの浅いイーワーンは、現カザフスタンのアイシャ・ビビ廟や、ブハラのマゴキ・アッタリ・モスクのものから発展していったのだろう。

           ウズベキスタンのイーワーンの変遷

関連項目
サーマーン廟1 入口周りが後の墓廟やメドレセのファサードに
サーマーン廟2 建築の起源は?
ササン朝は正方形にスキンチでドームを架構する
スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる


※参考サイト
イスラムアート紀行さんの土族の思い、「アイシャ・ビビ」から「ウズゲン」へ
2015年3月以来更新がないのが残念でもあり、心配でもある。

※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団

「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「トルコ・イスラム建築紀行」 飯島英夫 2013年 彩流社