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2015/12/11
ウズベキスタンのイーワーンの変遷
ヒヴァで見たモスクやメドレセのイーワーンは、今までに見てきたものとは様子がちがっていた。
ムハマド・アミン・ハンのメドレセ 1845-55年
ヒヴァで最古のものかどうかわからないが、最初に見学したメドレセのイーワーンだった。
『ウズベキスタンの歴史的建造物』は、中世ヒヴァの最も大きいメドレセであったムハマド・アミン・ハンのメドレセ、面積は78X60mである。メドレセには125室のフジュラがあって、260人の生徒を受け入れることができた。入口の頂上には5つのドーム、各角には塔があった。碑文には「この完全な建物は永遠の間、子孫を輝かせながら、立つだろう」と書いてあったという。
半ドーム状のイーワーンは、ブハラのミリ・アラブ・メドレセのファサードに似ているが、イーワーンの途中に通路があって驚いた。
それでも、ヒヴァのタイルの文様は独特で、見応えがある。
これまで見てきたサマルカンドやブハラのイーワーンは、平らでアーチの厚みの分だけ凹んでいるか、半球に凹んでいて、その移行部がムカルナスになっていたり、曲面だけだったりしたものだ。
それをウズベキスタンで見学した墓廟・モスク・メドレセの主なイーワーンで、年代順に辿っていくと、
マゴキ・アッタリ・モスク 10世紀創建、12世紀再建 ブハラ
『中央アジアの傑作ブハラ』は、マゴキ・アッタルはブハラの最も古いモスクであり、 都市の中心部、リャビ・ハウズの西側に位置する。中世初頭に、当地ではモフ・バザール(月の市場)があって、その横に月の寺があった。春のナブルーズの日 (春分の日)に、ここで、異教の神の彫像と絵が販売されていた。アラブ人がブハラを征服したとき、彼らは月の寺院の場所に最初のモスクのひとつを設立し た。モスクの中の発掘調査では、10世紀にさかのぼる彫られた装飾と地盤の断片が発見されたという。
10世紀のサーマーン廟にはイーワーンと呼ぶほどの奥行はないので、マゴキ・アッタリ・モスクがウズベキスタンではイーワーンの最古かも。
ホジャ・アフマド廟 14世紀半ば サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、14世紀の半ば頃、クサム・イブン・アバス記念館の北方にホジャ・アフマド廟が建設された。ホジャ・アフマドという人についての歴史的記録は何もない。しかし、彼がサマルカンドにとって、非常に意義 のある人であったことは確かである。廟の表玄関は幾何学的な模様で装飾されている。
その廟の左側に、次の言葉が書かれている。「彼の心の美しさによって、彼の墓も幸せで光輝くように」という。
ファサードが狭いのに合わせたかのように、細長いイーワーンが造られている。浅い扁平型。
イーワーン両脇の付け柱は細く、その柱頭と礎石の形は、マゴキ・アッタリ・モスクのものに似ている。
クトゥルグ・アガ廟 1360-61年 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、ホジャ・アフマド廟の右側に、新しく同じスタイルの廟が建設された。その独特な色は、青緑色や灰緑色、マンガンの色である。ホジャ・アフマド廟は白と青のマジョリカで装飾されていが、こちらの新しい廟は、彫刻の上薬に塗られたテラコッタの装飾で飾られているという。
イーワーンは浅いが頂部がムカルナスとなっている。
トグル・テキン廟 1376年 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群
同書は、アムール・チムールの支援者であるアムール・フセインは、母親のためにトグル・テキン廟を建築した。20世紀に、この廟のドームは完全に崩壊したが、現在は修復されているという。
ホジャ・アフマド廟のイーワーンをもっと浅くしたようで、全く奥行が感じられない。
シリング・ベカ・アガ廟 1385-86年 サマルカンド、シャーヒ・ズィンダ廟群
同書は、シャディ・ムルク廟の向こうに、1386年に亡くなったアムール・チムール の妹シリン・ベク・アガの廟がある。その廟の特徴とされるのは、表玄関の装飾性にある。その銘の著者はソクラトと推測されている。この廟はイラン式で建て られており、二つのドームは窓が付いているドラムの上にある。その正面や壁のモザイクの装飾は17世紀まで使われており、モワロウンナヒル地域では、他の 装飾スタイルに勝る主な装飾スタイルとなっていた。内部はモルタル上の多色の装飾で飾られているという。
浅いイーワーンは、下部がムカルナス、頂部は開ききらない傘のような形になっている。
ビビ・ハニム・モスク 1399-1404年 サマルカンド
平面図の通り、チャハール・イーワーン形式の巨大なモスクである。
『イスラーム建築の世界史』は、首都サマルカンドのビービー・ハーヌム・モスクは、これを世界一のモスクとすることを目論んだティムールによるペルシア風の大帝国建築である。その建築は、従来のチャハール・イーワーン形式を継承し、キブ ラ方向の大ドームの他に、副軸上のイーワーンの背後にもドーム室を付けるという。
門
門には巨大な扁平型イーワーンが、続いて小型の扁平型イーワーンがある。
主モスク
中庭の奥には、浅い扁平型イーワーンがある。
北イーワーン
やはり浅い扁平型イーワーンがある。南イーワーンも同じ。
グル・エミール廟 1404-05年 サマルカンド
『シルクロード建築考』は、”チムールの7年遠征”から帰る途中、孫にあたるムハメド・スルターンは、運悪くイランの戦場で陣没してしまった。時に1403年、サマルカンドに凱旋した1年前のことである。
生前のムハメドは、かねて自宅の屋敷の中に四角形のプランのメドレッセと同じ方形の中庭を挟んで「ハナカ」を建てた。いわば巡礼者用の宿舎である。
彼のメドレッセは、優秀な子弟を人文、軍事を中心とした、政府の人材を養成することを目的とした学校で、規模も29部屋に分かれ、各室は二人用の寄宿舎となった施設が完備していたらしい。
1403年、チムールはムハメド・スルターンの遺骸を戦場からサマルカンドへ葬送したのち、方形になった中庭に丁重な儀式をすませて安置したといわれている。チムールは直ちに、孫の記念のために安置された中庭の南側正面に、壮麗で雄渾な墓廟を建立することを命じた。
のち、この墓廟がチムール一族やその側近たちの墓所となって、王の墓「グル・エミル(王)廟」と呼ばれているのがそれであるという。
墓廟だけでなく、中庭も大ホールもチャハール・イーワーン形式となっている。
門
浅いイーワーンは頂部がムカルナス。
中庭の廟前イーワーン
扁平型イーワーンの奥にムカルナスを配し、奥行感がある。
大ホールのイーワーン
平面図によると、正方形平面の大ホールに、大きなイーワーンを四方に開いたもので、墓廟のプランと相似形になっているように見える。
廟内部のイーワーン
頂部がムカルナスになったこのイーワーンは、見かけよりも奥行がある。
ウルグベク・メドレセ 1414-20年 サマルカンド、レギスタン広場
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、レギスタン広場は、サマルカンドの精神的な中心であり、建築のシンボルの意味を持たせた新しい建築物も建てられた。最初の建物は、荘重なウルグベクメドレセであった。それは1414-20年に、レギスタン広場の西部に建設されたという。
平面図にあるように、チャハール・イーワーン形式のメドレセである。
門
幅が広く、浅い扁平型イーワーン。
これまで見てきた建造物は、イーワーンの中央から出入りしていたが、ウルグベク・メドレセでは、中央の開口部は塞がれ、その左右が通路になっている。
それは、奥にミフラーブのようにムカルナスで飾られた小さなイーワーンがあるため。
中庭西のイーワーンは扁平型で、奥にミフラーブのようなムカルナスの分だけ奥行がある。
カリャン・モスク 16世紀 ブハラ
『中央アジアの傑作ブハラ』は、建築物の数において、このモスクはサマルカンドのビビハニム・モスクに負けるが、し かし130X80㎡の面積はビビハニム・モスクより広い。カリアン・モスクは、伝統的な長方形の配置で4つのイーワーンを持っている。入り口のイーワーン には、広場に向かう外部の入り口と中庭が見える内部の入り口があるという。
門
同書は、正面は、1970年代の修復工事のとき、レンガとモザイクで飾り付けされているという。
イーワーンは、半ドームに近い形になっている。頂部は、一見3枚の大きなムカルナスからアーチ・ネット状の線が出ているようだが、両脇にもう一つずつ、計5つのムカルナス。下部の壁面も5枚ある。
モスク
サマルカンドのウルグベク・メドレセなどよりは深い扁平型イーワーン。
内部は入口を除く三方がイーワーンとなっていて、
ミフラーブのあるイーワーンだけが特に奥行がある。
ミリ・アラブ・メドレセ 1535-36年 ブハラ、カリャン・モスクの向かい側
『中央アジアの傑作ブハラ』は、カリアン・モスクの真正面には現在も活動しているミリ・アラブ・メドレセがある。このメドレセは、1535-36年に建設され、5世紀にわたって機能しているという。
門のイーワーンは、向かい側のカリャン・モスクのものに似ている。
平面図から、チャハール・イーワーン形式のメドレセであることがわかる。
シルドル・メドレセ 1636年 サマルカンド、レギスタン広場 (平面図は上)
『シルクロード建築考』は、ウルグ・ベクのメドレッセの向かいは、1636年にウズベク人である領主ヤラングトゥシュの命によって、建築家ウスト・ジャボルが手がけたヤラングトゥシュのメドレッセであるという。
扁平で薄いイーワーンの中央下部に、ウルグベク・メドレセと同様のミフラーブのような小イーワーンがある。
チャハール・イーワーン形式のメドレセ。
ティリャカリ・メドレセ 1647年 サマルカンド、レギスタン広場 (平面図は上)
『シルクロード建築考』は、シル・ドルの完成後、10年たって1647年に、同じヤラングトゥシュが、いっそうの華麗さを求めて、金色の多い文様に仕上げたために、世にこのモスク兼用の学林を゛鍍金された゛「ティリャ・カリ」のメドレッセといわれているという。
イーワーンは半ドーム型で、下部は三面になっている。これは1535-36年に建造されたミリ・アラブ・メドレセとほぼ同じ。
モスクのイーワーンは浅い扁平型。
他の面のイーワーンはフジュラの分ほどの奥行もなく、チャハール・イーワーン形式が形骸化してしまっている。
『シルクロード建築考』は、15世紀の初めごろ、希代の英雄チムールの病歿(1405)によって衰退したチムール朝のあと、まずウズベク族がブハラ汗国を建て、やがてアム川下流のヒヴァに拠るヒヴァ汗国が起った。さらに、18世紀、ブハラの弱点に乗じてチャガタイの遠孫シャー・ルフがシル川上流にあってコーカンド汗国を創立した。これらを中央アジアの三汗国と呼んでいる。
そもそも汗国というのは、蒙古・トルコ系の酋長であるハーン(汗)に率いられたオアシスの王国、いうなれば家畜を追った遊牧民たちの王朝の呼称である。
かつてホラズム地方のオアシスに栄えたヒヴァも、”アジアの嵐”チンギス・ハーンに敵対し、周辺都市と共に敗地にまみれて、例の通りに荒廃したが、興亡の遍歴を過ごしてから1902年まで、約300年の間にイスラム教信仰の中心地となって繁栄していたという。
ということで、ヒヴァはサマルカンドやブハラよりも新しい国であるため、建造物の様式も新しいのだった。
→イーワーンの変遷
※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「東京美術選書32 シルクロード建築考」 岡野忠幸 1983年 東京美術
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社
「中央アジアの傑作 ブハラ」 SANAT 2006年
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人