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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/02/26

吉備に楯築(たてつき)弥生墳丘墓

 
吉備路には大きな古墳がある。西のつくりやま古墳は作山(5世紀中葉頃)、東のつくりやま古墳は造山(5世紀前半)で古墳時代中期で墓室は共に不明。その中間にある小さな古墳はこうもり塚(6世紀前半)で古墳時代後期、横穴式石室が後円部の後方にあった。
付近には弥生時代の墓もあるらしい。

『シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓』は、楯築弥生墳丘墓は、足守川によって形成された肥沃な平野を望むことのできる小高い丘の上に位置している。現在、吉備中山の北麓から平野部にかけての地区に吉備津という地名が残されているが、古くは津という地名が示すとおり、周辺に足守川の河口に開けた湊があったと考えられているという。
弥生墓は足守川に沿って造られたようだ。 いつものように、迷った末に楯築弥生墳丘墓に辿り着くことができた。
案内板には墳丘墓が破線で示されている。給水塔があるらしい。遺跡はどんな状態なのだろう。  舗装された坂道を登っていくとまず給水塔が見えてきた。その下は墓の一部のはず。他に適当な場所がなかったにしても、遺跡の上に造らなくても良いのでは。  給水塔を過ぎると、木々の間から石が見えてきた。「楯築」とは石が楯のように立てられていたかららしい。  円丘頂部に立てられている巨大な自然石を立石(りっせき)とよんでいる。これらの石は、温羅伝説のなかで石の楯にみたてられ、楯築の名前の由来になっている。現在、立石は墳頂部の平坦面のやや東に偏って5個がみられる。形や大きさはさまざまであるが、いずれも地上部分が2、3mもある大きな花崗岩で、とくに加工を施したような痕跡は認められないという。
石室の位置が示されていないので、このあたりだと思う。2、3mというが、5号立石は高くなかった。 調査を開始してみると、1号・2号・4号立石は、後世の攪乱や移設などもあって、掘り方を知る手がかりはほとんどつかめなかったという。
1号立石は祠のようなものの背面となっていた。屏風のような3号立石は、向きによっては薄く見える。
 3号立石は、北端にあり、長さ約3.8m、最大幅約2.9m、厚さが下端で25㎝ほどの扁平な大形の石で、北側に大きく傾いた状態であった。二段掘りとなっている掘り方がみつかっており、石はその中央に据えられていた。もともと石はほぼ垂直に立てられていたことがわかったという。
給水塔や神社だけでなく、この弥生墳丘墓は、後の時代にいろいろと手が加えられたらしい。 5号立石は他の石と離れたところにある。 
長さ約2.4m、幅70-80㎝、厚さ30㎝ほどの細長い石。掘り方は、60X80㎝ほどの楕円形で、底面などから円礫が検出されている。また立石の埋まっている部分の側面や円礫に朱と思われる赤色顔料が付着していることが確認されているという。
この石にだけ朱が使われたのだろうか。 説明板は、楯築弥生墳丘墓は、径約50mの主墳を中に2つの突出部を備えた弥生時代後期の墓で、現存全長約72mの大きさをもつ。
いま主墳の頂には5個の巨石が、また斜面にも石列がみられる。これらは埋葬の霊城を守る役目をもつものであろうか。また墳頂や斜面の一部には拳大の円礫が置かれている
という。
同じく弥生時代後期(約1900年前)の有年原・田中遺跡には、斜面に河原石を葺いた2基の墳丘墓があった。楯築の墳丘墓の斜面には、もっと小さな石が葺かれていたようだ。ただし、有年原・田中遺跡では墳丘はもっと小さく、墳頂には石は葺かれていなかった。楯築の墳丘に葬られたのは、有年原よりもずっと権力のある人物だったのだろうか。  2つの突出部は団地造成工事の犠牲となり、北東突出部は法面の、南西突出部は給水塔の小路で大きく破壊されたという。
墳丘の背後には道路が通っていて、あまりにも無惨だった。墳頂部の石が見える。

※参考文献
「シリーズ遺跡を学ぶ034 吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓」(福本明 2007年 新泉社)