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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/03/31

石舞台古墳に行ったものの

飛鳥資料館にあった航空写真パネルを見ていると、ボランティアの解説者が住宅が密集しているのは橿原市、規制している明日香村には新興住宅地がないと教えてくれた。なるほど上空から見るとくっきりとわかる。
資料館のずーっと南に石舞台古墳がある。石舞台古墳は来るたびに整備が進んでいる。昔は周囲に何もなく、近くまで来るとどこからでも見えたが、今回は車で通ってもどこにあるかわからなかった。駐車場から多武峰に通り抜けられない道を渡っても見えなかった。とりあえずあの生け垣で囲んである中にあるらしいことはわかったが、何故囲わなければならないのかわからなかった。生け垣の中に入ると受付があり、その先に石舞台古墳がどのように造られたかがわかる解説パネルがあった。そしてやっと石舞台古墳が見えたが、こんなんやったかなあ?というのが正直な印象だった。石舞台がではない。その周りがである。
拝観券の裏に、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれていますという説明がある。
蘇我馬子と特定できるものは何も見つかっていないが、当時これだけの大きな石を積んで墓をつくることができるほどの権力を持っていたのは馬子以外に考えられないと、聞いたような気がする。 立派な階段に取り付くと、巨大だと思っていた石舞台がこぢんまりと見える。 結界だろうか?妙にカーブした石囲みがあったが、かまわず石の隙間から内部を見る夫。やっと石舞台の石の大きさが感じられた。 時計回りに回り込む。石の囲いを作ったために、水が石舞台の周りにたまっているのでは? 天井に使われている石の重さは、北側が約64t、南側77tという。花が供えてある。羨道に溝がある。両側に石段があり、どちらからでも下りていける。真下に大岩があるけど、昔からこんなんやったかなあ?上に見える岩は南側の天井岩。下の方は楣石(まぐさいし)なのか、入口側前面と下面が平たく加工されている。羨道両側の石も平たく削られていて、昔の記憶が蘇らない。 大小30数個の花崗岩が使用されておるというが、羨道の石も数えての話だろうか。玄室の長さ7.8m、幅3.4m、高さ4.8mという。内部は苔が生えている。天井はなにやら妙なシミが浮いている。蘇我馬子が死んだのは626年なので、年代的には合う 。蘇我氏一族の最盛期に亡くなっているので、この大きな石室の中には大きさに似合う副葬品が収められたのだろうか?上からのぞくとこんな感じです。 飛鳥資料館には石舞台古墳の航空写真もあった。周辺も含めて遺跡公園のように整備されているらしかった。しかし、住宅の規制をして景観を守るのなら、遺跡もあまり手を加えず、昔のままの方が良かったのでは。どこからでも石舞台が目に入った、のどかな明日香村が懐かしいなあ。