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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/10/17

また見つけた四葉文



四葉文としてなら他にも見つかった。福岡平原遺跡出土の「内行花紋鏡」にも四葉文があった。後漢の頃のものらしいが、これは葉っぱには見えない。「日本の美術359号蓮華紋」によると、「内行花紋」というのは、四葉座周囲の8つの内向きの弧線で光芒の表現であると林巳奈夫が説いているらしい。そして、楽浪郡時代の軒丸瓦の中にも四葉文があった。
楽浪郡についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は、
楽浪郡(らくろうぐん)は紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域である。郡治(郡役所所在地)は現在の平壌にあった。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の文明化に大きな役割を果たした。 
前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置したのが始まりである。同時に真番・臨屯・玄菟の3郡も設置され、漢四郡と呼ばれる。
しかし前82年には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。玄菟郡も前75年には遼東半島に移転している
という。

この瓦は前漢から晋時代までに製作されたいうことか。これは柿の蔕にも見えないが、葉っぱにも見えないなあ。さらに、正倉院南倉の「銀製の提示」(把手付きの深鉢)は環座に四葉蓮華紋があった。柿の蔕には見えないが、蓮弁とも思えないなあ。しかし、ハート形の猪目がはっきりと表されている。
※参考文献
「日本の美術359号 蓮華紋」1996年 至文堂