ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2017/08/16
ビーシャープールの謁見の間にドームはあったのか?
ビーシャープールの宮殿に謁見の間とされる大きな建物跡がある。
『ペルシア建築』は、大宮殿は、いっそう複雑なイーワーン形式の建物である。謁見の広間は方22mほどの大きさを持ち、高さ24mほどのドームでおおわれていた。広間の四面はそれぞれ三連イーワーンの形をとる。構造体は石と煉瓦片をモルタルで固めて作られているという。
方20mというのは、おそらく各面に突き出た部分を計算に入れず、正方形部分のことを言っているのだろう。
謁見の間の四面にあるという三連イーワーンとは、正方形平面に、各面の中央に矩形の張り出し部のついた複雑なプランとなり、それぞれの天井部分がその奥行の幅のヴォールト天井となったもので、『ペルシア建築』にその推定復原模型図が示されている。
しかし、この図は建物の一面の三連イーワーンをかなり平面的に描いていて、各面との結合部分の描写があいまいである。このようなところから、高さ24mもあるドームが架けられたのだろうか。
サーサーン朝のドームは四隅にスキンチをわたす架構法をとる。そのためには直角に交わる2つの壁面が必要となるが、この図ではスキンチを架ける場所がない。正方形と考えるなら、三連イーワーンが交わる角になるが、そこにスキンチらしきものは見当たらない。
サルヴィスターンのバハラーム5世(第15代、在位420-438年)の宮殿をみると、
『ペルシア建築』は、サルヴィスターンにバハラーム5世が建てた5世紀の宮殿になると、さらに複雑な展開と進歩した技術が認められる。東正面の中央イーワーンを入れば、まずねドームをいただく中央広間があり、その奥に方形の中庭がある。中庭では、中心軸上、西側の奥壁に接して一つのイーワーンが設けられている。こうした構成はフィールーザーバードを想起させるとはいえ、概して当宮殿には対称性がなく、自由闊達さが目立つという。
ビーシャープールの謁見の間には外側にイーワーンはなく、四面に三連イーワーンがあった。
同書は、円いドームを支持するためにはスクインチが使われている。また、脇の諸室ではヴォールト架構の支持体として円柱が用いられているという。
後のイスラーム初期のサーマーン廟では、正方形の四隅にスキンチアーチをわたして八角形にし、その上に十六角形をつくり、更に上を円形にしてドームを架構しているが、この宮殿のドームは4つのスキンチアーチの上に直接円形をつくり、ドームを架構している。
この大きさがわからないが、ビシャプールの謁見の間ほどではなさそうだ。しかも謁見の間にはこのような壁面がない。
『イスラーム建築の見かた』は、直径10mと小ぶりながら、平面が正方形をなす厚い壁体の上にドームが構築されているという。
『ペルシア建築』の想像復元図ほどにはスキンチアーチははっきりしていない。
また、広い空間に屋根を架ける古来からの工夫として、ラテルネンデッケというものがある。20m四方の部屋に天井を架けたのがトルクメニスタン、ニサ遺跡の正方形の広間と呼ばれている部屋である。
天井は木造で、4本の太い柱に支えられた中央部にラテルネンデッケという高さのある屋根があり、中央に明かり取りの八角形の穴がある。その周囲に平天井が3区画ずつある。
ビシャプールの謁見の間は、周囲の三区画を奥行の異なるイーワーンとし、中央に木造のラテルネンデッケ天井を架けたのではないだろうか。
しかし、内部に柱跡があるというような形跡はなかった。
ローマ軍の捕虜たちが建設に従事したと言われている。
ローマには巨大な半球ドームが架かるパンテオン(118-128年)があるが、これは正方形ではなく、円形の壁の上に架けられているので、スキンチもペンデンティブも必要ない。というよりも、この時代には、ローマではまだ正方形から円形のドームを架構するということは行われていなかったのだ。
その後ローマ帝国が東西に分裂し、東ローマ帝国の都となったコンスタンティノープルで、ユスティニアヌス帝(在位527-565年)が再建したアギア・ソフィア大聖堂は30mもの巨大ドームがペンデンティブによって架けられている。
ペンデンティブの起源はまだわからないが、3世紀のサーサーン朝にあったという遺例は知らない。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール都市遺跡は、十字型の宮殿で、東西南北に4つのエイヴァーンが設えられている。発掘当初、このエイヴァーンを覆う高い円形のドームが造られていたとされた。しかし、構造上無理があり、現在では4つのエイヴァーンの上は屋根で覆われていたが中央部分に屋根はなかったとされている。この建造物は、一般に「謁見の間」とされるが、正確には不明という。
やはりこの大広間の中央にはドームはなかったのだ。
サーサーン朝の王たちの浮彫← →サーサーン朝の王たちの冠
関連項目
ササン朝は正方形にスキンチでドームを架構する
スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる
ペンデンティブの誕生はアギア・ソフィア大聖堂よりも前
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール都市遺跡
※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版