ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2017/08/31
軍旗とスタンダード
ナクシェ・ロスタムのシャープール2世戦闘図には長槍を持ち敵と戦う王の後ろに旗持ちが一人だけ描かれている。
その旗というのが、長い棒の先が3つに分かれ、それぞれに房飾りのようなものが付いている。その素材が柔らかいものか、金属でできたものかもわからないが、現在で言う旗とはかなり違ったものだ。
これは軍旗で、スタンダードとも呼ばれているものなのだろう。
形だけでいうと、下図の生命の樹に似ている。
牡牛文の碗(部分) 前2000年頃 ビチュメン 高9口径18㎝ スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、碗の側面には山と聖樹、うずくまる牡牛の像が4回繰り返されている。一番下には円弧文で小高い山が表現され、その上に様式化された樹木文が配される。枝が左右に伸び松毬のような塊が並んでおり、樹の上には松毬文様が集まった蕾のようなものがある。
メソポタミアを中心に発達した「生命の樹」のモティーフの典型的なものの一つである。甘い水の流れ出る山の頂上にある聖樹によき動物の代表である牡牛が寄り添い、全体が豊饒と再生の象徴的図像となっているという。
ところで、シャープール2世戦闘図のスタンダードを見て思い出したのが、アナトリアのアラジャフユックの出土品だ。
儀式用スタンダード 青銅 24㎝ アラジャフユック出土 前3千年紀後半
『世界美術大全集東洋編16』は、アラジャ・ホユックの副葬品のなかで出色なのは、なんといっても「スタンダード」と呼ばれる青銅製品であろう。これらはいずれも基部に柄に差し込めるような形の茎が作り出されており、柄に差し込んで用いられた祭器であったと考えられる。
スタンダードには大きく分けると、動物像と円盤状のものの2つの種類が見られる。動物像としてはまれに驢馬も見られるが、牡牛と牡鹿が中心となっているという。
これは軍旗ではないが、台座に安置されるものではなく、棒状のものに差し込んで、上に掲げたり、持って移動したりするものだったことが、浮彫を見て納得できた。
スタンダード(牡鹿、部分) 前3千年紀後半 トルコ、アラジャ・ホユックB墓出土 青銅、銀 高52.5長26㎝ アンカラ文明博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、本体は鋳造による青銅製であるが、この角を含めた頭部は薄い銀の板によって覆われている。胴には銀の象嵌による装飾が顕著に認められ、背中には直線が引かれ、胴の両側には二重の同心円文が7つずつ配され、頸の部分には3本からなるジグザグ文が巡らされている。さらに肩と腰の上部には、十字文が2対2組で配されるという。
これも棒に差し込んで掲げ、儀式に使われる特別なものだった。
しかしながら、現在スタンダードと呼ばれているものが、このように竿頭に取り付けられるものばかりではない。現代人が見ても旗とわかるものもある。
スタンダード 前2400-2200年頃 青銅製 シャハダード出土 イラン国立考古博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、ザクロス山脈の東端、ルート砂漠に接する位置にあるシャハダード遺跡は600hにもわたる範囲に建築址や墓地が広がっているが、これらは同一時期のものではなく、前3000年から前1600年ごろにかけての都市が各時代ごとに中心を移動させていったことによって、このような広がりを見せるに至ったのである。
青銅のスタンダード(軍旗)は、軍事的な指導者の存在を示唆しているという。
旗の部分には複数の神が描かれているようだ。また、旗を掲げる棒の先には鳥、おそらく猛禽が羽を広げて留まっていで、アナトリアでは神聖な動物が牡鹿だったが、この地では猛禽だったことを想像できる。
スタンダード 前3千年紀後半 貝殻、石灰岩 幅72㎝ マリ(テル・ハリリ)出土 ルーヴル美術館蔵
棒の先に牡牛像を付けて掲げる人物が登場する。軍旗(スタンダード)というものは、こんな風に掲げ持っていたことがわかる。
また、このような場面を象嵌で表した木製の板(あるいは箱状の一部)もスタンダードと呼ばれているのも紛らわしい。
このスタンダード(旗)持ちとそっくりなものが表された奉納板がアレッポ国立博物館に収蔵されている。というよりも、欠けた部分もそっくりで、同一のものとしか思えない。
戦勝の奉納板 前3千年紀末 アラバスター、貝殻、石 マリ出土 シリア国立博物館蔵
板状のスタンダードは奉納板らしい。
『シリア国立博物館』は、マリ遺跡の神殿の壁面は、しばし貝をこすり切ってつくった人物の像、青色のアラバスターの薄板などの小片をモザイクのように配した奉納板で飾られていた。この図は、周辺の都市を攻略し、捕虜を連れてマリ王の前で戦勝を報告するところと考えられているという。
下段に同じような牡牛の像がある。これも旗のように掲げて行進しているのだろう。
かなり以前に大英博物館展で見たウルのスタンダードは深く印象に残るものだった。軍旗とも言われていることが不思議で、より強く記憶に刻まれたのだろう。
ウルのスタンダード ウル第1王朝時代、前2500年頃 木、貝殻、赤色石灰岩、ラピスラズリ 高20.3幅48.3㎝ イラク、ウル王墓出土 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、元来は細長い木製の箱で、その4つの側面を貝殻赤色石灰岩、ラピスラズリを材料に、ピッチで固定したモザイクで飾ったものであるという。
『大英博物館展図録』は、一説に軍旗とも説明され、また楽器だったのではないかとの推測もあるが、用途についてはなお不明である。マリからも類例が出土しているという。
中空のものなら持ち上げることはできただろうが、戦いの時に持ち運んだりしたら、すぐに壊れてしまいそうな作品だった。
どちらかというと、神殿の奉納板か、王宮の装飾品だったのでは?
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「大英博物館展図録」 1990年 日本放送協会 朝日新聞社
「世界の博物館18 シリア国立博物館」 増田精一・杉村棟 1979年 講談社
「NEWTONアーキオ4 メソポタミア」 編集主幹吉村作治 1998年 ニュートンプレス
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館
2017/08/26
銀製皿に動物を狩る王の図
サーサーン朝の摩崖浮彫に王のライオン狩りがあった。
バフラーム2世のライオン狩り図 在位276-293年 縦2.14横4.65m サル・マシュハド
『世界美術大全集東洋編16』は、古代西アジアの宮廷美術の典型的テーマである「帝王のライオン狩り」を表したもので、ササン朝の摩崖浮彫りでは他に例が知られていない。帝王は身体を正面観、頭部を側面観で描写されているが、その背後に立つ王妃の手をとり、右端の皇太子(バフラム3世)を守ろうとしている。
この2頭のライオンはササン朝において、王位継承者が即位式にて倒すべき2頭のライオンを意味しており、それゆえ、この図はバフラム2世が「正当・正統な帝王」であることを明示した一種の王権神授(叙任)図なのであるという。
バフラーム2世は鷲翼の冠が特徴で、ナクシェ・ロスタムやタンゲ・チョウガーン渓谷にも摩崖浮彫を残している。
それについてはこちら
サーサーン朝の王が動物を狩る図は銀製皿にもあり、あちこちの博物館でたまに見かけるものだった。このようなテーマが銀製皿にも描写されるようになったのだろうか。
シャープール2世熊狩文皿 在位309-379年 銀鍍金 径31㎝ アフガニスタンまたはトルクメニスタン出土
『世界美術大全集東洋編15』は、画面向かって左には、長槍を持つシャープール2世が2頭の熊と戦い、1頭はすでに殺害し、もう1頭をも殺害しようとしている勇壮な光景が描写されている。国王は3個の矢狭間を装飾した王冠と球体(頭髪を覆う布)を頭上に戴いている。
この作品は、ササン朝ペルシアの帝王の狩猟を描写した現存する最古の作品であるという。
これがサーサーン朝最古の王の狩猟図を表した銀製皿だった。ということは、摩崖浮彫の方が先だったことになる。
70年にわたる長い統治でも、描かれた容貌から、若い時期のものだろう。
また、球体装飾という言葉で表されていたものは、長い髪を包む布だった。ガイドのレザーさんが髪の毛を大きく誇張していますと言っていたのは、ある程度正しかったのだ。
シャープール2世狩猟図文杯 銀鍍金 径22.9㎝ 1927年にウャトゥカ地方でのトゥルシェンコによる偶然の発見 エルミタージュ美術館蔵
『ロシアの秘宝展図録』は、王冠と疾駆する姿、それに弓を射る図柄からシャープールⅡ世と考えられる。こうした銀製レリーフで鍍金された帝王狩猟場面はねただ単に時代の流行であったばかりでなく、それ以上に全能で屈服され得ないササン朝の王が世俗的かつ宗教上の支配者であることを示そうと意図されたのであるという。
上の作品は若いシャープール2世を表しているが、ここでは壮年期風で、落ち着きと自信が表情に出ている。
シャープール2世猪狩文皿 在位309-379年 銀鍍金 径23.9㎝ ロシア、ウラル山脈西ペルム地方、ウェレイノ出土 ワシントン、フリア・ギャラリー蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、帝王は2頭の猪を追跡して背後から射殺するいわゆる追跡型狩猟を行っているが、この方法は獲物と対決する狩猟よりもやや遅く銀皿に描写されるようになったと考えられる。
馬は空中飛行型で疾走しているが、胸繋と尻繋には扇状の垂飾り。1対のドングリ状の房飾りがついているという。
コインや摩崖浮彫に比べて頭部に巡る城壁冠と、球体装飾とが離れていて分かり易い。
そしてその顔貌は、かなり年配であることを窺わせるが、上の2作品よりも精悍さが現れている。
シャープール3世豹狩文皿 在位383-388年 銀鍍金 径22㎝ ロシア、ペルム地方出土 エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、国王の狩猟が王室の狩猟園ではなく山岳地帯などの野外で行われていることを暗示するために、三角形の山岳文を多数連続して器の縁に描写し、そこに中央アジア原産の野生チューリップなどの草花などを刻む描写様式も特色としてあげることができようという。
見過ごしてしまいそうだが、確かに下端の3つの山岳文には、それぞれ花が線刻されている。
バフラーム2世騎馬猪狩文皿 クシャノ・サーサーン朝、4世紀前半 銀鍍金 径28.0㎝ ロシアペルム地方出土 エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、国王が湿地帯で狩りを行っていることが、画面下方の水流と右端の葦によって暗示されている。葦の茂みからは2頭の猪が国王目がけて突進し、馬は驚いて後ろ足で立ち上がっている。国王は剣で先頭の猪の肩に切りつけている。また、突進する猪の獰猛な牙を避けるために右足を90度後ろに曲げている。このような足の表現は、クシャノ・ササン朝で制作された国王猪狩文の特色である。
この図柄の重要な部分は、別の銀板に図像部分を打ち出してはめ込んでいるが、この技法はクシャノ・ササン朝ないしササン朝初期の技法であるという。
この国王がクシャノ・ササン朝のバフラム2世であることは、国王の独特の王冠形式から判明する。頭には1対の牡羊の角がついているが、バフラム2世が発行した金貨と銅貨に刻印された国王胸像の王冠形式に酷似している。また、牡羊はゾロアスター教の軍神ウルスラグナの化身の一つであり、バフラムという名前はこのウルスラグナの近世ペルシア語に相当するという。
バフラーム2世の王冠は鷲翼が付いていたはずなのに牡羊の角?
バフラーム2世金貨 クシャノ・サーサーン朝(4世紀前半) 径3.1㎝ アフガニスタン出土
『世界美術大全集東洋編15』は、コインの図柄は基本的には前代のクシャン朝後期のヴァスデーヴァ1世(在位2世紀後半~3世紀前半)ないし2世(在位3世紀?)のものを模倣したものである。また、コインの直径が大きくなったため、厚さは薄くなり、図柄を打刻するときの衝撃によって湾曲しているという。
確かに牡羊の角の冠を被っている。でも足は鳥のよう。
国王騎馬虎狩文皿 クシャノ・サーサーン朝(3-4世紀) 銀鍍金 径28.5㎝ アフガニスタンまたはトルクメニスタン出土
同書は、ササン朝の典型的な図柄を下敷きにしているが、描写されている国王はササン朝ペルシアの帝王(諸王の王)ではなく、アフガニスタンやトルクメニスタンなど中央アジア西南部を統治した、クシャノ・ササン朝と別称されている王朝のペーローズ王ないしその縁者と推定されている。
国王は平たい冠を戴き、馬上で背後を振り返り、飛び掛かってくる虎の心臓に剣を突き刺している。もう1頭の虎はすでに国王に殺害され、画面の下方に横たわっている。
国王の頭髪は丁寧に編んであるが、このスタイルはササン朝初期の形式である。
図像の重要な部分は、別の銀板から打ち出したものをはめ込んで高浮彫りにしているので、立体感が強調されているという。
サーサーン朝では常に表されてきた、馬のドングリ形房飾りがクシャノ・サーサーン朝ではない。
ナクシェ・ロスタムやナクシェ・ラジャブ、ビーシャープールなどで摩崖浮彫を残したサーサーン朝初期の王の登場する作品を探していると、クシャノ・サーサーン朝の王たちの銀製皿の方が多いことに気づいた。
国王猪狩文皿 クシャノ・サーサーン朝(3~4世紀) 銀鍍金 径18㎝ アフガニスタン制作 山西省大同市出土 大同市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15』は、クシャノ・ササン朝製の銀製皿は、猪狩りが代表的なテーマで、騎馬にせよ地上に立っているにせよ、国王が足を90度曲げている点に特色があるという。
下方に波文が線刻され、左端に葦が高浮彫されるなど、水辺での狩りの様子が描写されている。
波文の上部には図柄を打ち出した板が剥がれそうになっている。
同書は、クシャノ・ササン朝では、形式化してはいるが、写実的な様式を用いて豪華な銀製皿を制作していたが、4世紀の半ばにササン朝ペルシアのシャープール2世(在位307-379)がこの小王国を併合したため、以後はササン朝の国王を表した銀製皿がクシャノ・ササン朝のメルウ、バルフなどの工房で制作されたと推定できるという。
帝王騎馬獅子狩文皿 サーサーン朝 出土地不明 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、帝王の冠はコインには見られない珍しいもので、王名を特定することは困難であるが、内厚の浮彫からササン朝の銀器としては比較的古いものと考えられる。帝王が後ろ向きに矢を放つ構図は「パルティア式射法」と呼ばれる典型的な図像という。
見るからに古風な作品である。馬にはサーサーン朝に特徴的なドングリ形房飾りがついているが、王冠がサーサーン朝では見られないものということで、併合される前のクシャノ・サーサーン朝時代の作品ではないのかな。
パルティアンショットについてはこちら
『世界美術大全集東洋編16』は、銀器類はおそらく、宮廷などの酒宴に用いるために制作されたのであろう。また、これらの銀器類は、国王たちが外国の支配者や、臣下などへの贈物として制作されたといわれているが、そのほかにも、逆に総督や高官などが国王への貢物(ないしは賄賂)として作らせた場合もあったのではないかと推定される。
5世紀以後になると、「打ち出しはめ込み」による高浮彫りの技法は消滅し、それに代わって刻線によって細部を仕上げる簡便な方法が用いられるようになった。
いわゆるササン朝銀皿は、初期の作品が技法的にもっとも優れ、しだいに衰退していったという。
サーサーン朝の王たちの浮彫← →軍旗とスタンダード
関連項目
アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成
サーサーン朝の王たちの浮彫
パルティアン・ショットは北方遊牧騎馬民族のもの?
※参考文献
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 展図録」 2006年 朝日新聞社・東映
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」 1993年 京都文化博物館・京都新聞社
2017/08/21
サーサーン朝の王たちの冠
ナクシェ・ロスタムにナクシェ・ラジャブ、そしてビーシャープール郊外のタンゲ・チョウガーン渓谷でサーサーン朝時代の王たちが造らせた王権神授図や戦勝図などの浮彫は、風化が進んでいることや日陰になっていたりして、王の顔や冠がよく分からないものが多かった。
そんな時に銘文があればどの王のものかはっきりするが、『古代イラン世界2』は、各浮彫には原則として、制作を命じた国王に関する銘文はないので、国王の比定は文献的には殆どできないが、王冠の形式を、歴代の国王が発行したコインの表に刻印された王冠のそれと比較して決定しているという。
浮彫とコインを比べてみると、
アルダシール1世 在位224-241年 ドラクマ銀貨 出土地不明 イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、224年、アルサケス朝パルティアを倒してササン朝を創始した。アケメネス朝ペルシャの再興をめざして「諸王の王」を名乗り、ゾロアスター教を国教とする中央集権を確立したという。
ナクシェ・ロスタムの王権神授図(騎馬叙任図)で王冠がわかる。
右手で王位の標章であるリボンのついたディアデムをアフラマズダ神から受取り、左手で神に礼拝の仕草をとっている。
アルダシール1世はすでに頭部にリボンのついたディアデムを付けていて、王冠は耳をすっぽり覆った帽子状のものに、膨らんで渦巻いたものが付属している。
ガイドのレザーさんは束ねた長い髪の誇張だと言っていたのだが。
表:球体装飾のついた冠をかぶり、長いひげが特徴の王。
裏:アケメネス朝の獅子足の玉座がついたゾロアスター教の拝火壇。銘アルダシールの火。
コインの方はその膨らみは小さいが、『ペルシャ文明展図録』は球体装飾と表現している。頭部の筋が髪を表したものか、王冠なのかは不明。
シャープール1世 在位241-272年 ドラクマ銀貨 出土地不明 イラン国立博物館蔵
同展図録は、西はローマ帝国の勢力をメソポタミアから排除し、東はクシャン朝を破り領土を拡大した。都市建設や農業用水工事など内政にも手腕を発揮したという。
ナクシェ・ロスタムの戦勝図に3段の城壁冠がよく残っている。上の球体装飾は縦長。
表:球体装飾のつく城壁冠をかぶり、ひげある王の右向き肖像
裏:拝火壇とその両脇に城壁冠をかぶり長い聖杖を持つ王侯像。以後の基本図柄となった。銘はシャープールの聖火であることを示す。
コインではもう少し凝った表現をしていて、丸い球体装飾に襞がある。
バフラーム1世 在位273-276年
タンゲ・チョウガーン渓谷の騎馬叙任式図(王権神授図)より。
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、国王の頭部の王冠がナルセー王(在位293-303)によって改変されたという。
放射光のように伸びて球体を包む王冠。
コインはない。
バフラーム2世 在位276-293年
『ペルシャ文明展図録』は、ササン朝はローマにならいディナール金貨も発行した。金貨は戴冠記念などの儀式や戦時に出されたとされる。
ナクシェ・ロスタムの王とその家臣の王冠には、球体装飾の下に翼のようなものが認められる。
タンゲ・チョウガーン渓谷の騎馬謁見図の王冠は、球体装飾が房のように表され、その下には大きな翼がある。
ディナール金貨
表:シャープール1世の娘である王妃と並んだ王の肖像。向かい合う人物は王子とされる。冠は三者三様で、王は球体装飾のある鷲翼、王妃は鷲(怪鳥シムルグ)、王子は馬の頭部(いずれもゾロアスター教の神のシンボル)。
王の鷲翼はかなり控え目。
ナルセー王 在位293-303年
ナクシェ・ロスタムの叙任式図から。
エジプト由来で、ペルセポリスの門上の装飾であるカヴェット・パターンを巡らせたような装飾が球体を囲む。
ドラクマ銀貨 イラン国立博物館蔵
表:球体装飾と小枝装飾がつく冠をかぶる王の右向き肖像。
小枝というよりもパルメット文に近い装飾。
ホルムズド2世 在位303-309年
ナクシェ・ロスタムの騎馬戦闘図より。
かなり風化しているが、王冠の翼のようなものがはっきりと残っている。
コインはない。
シャープール2世 在位309-379年
『ペルシャ文明展図録』は、領土回復に務めた長期政権の王。幼少期に王位につくと、70年という長きにわたり統治を行った。クシャン朝に遠征し東方に領土を拡大し、西方ではローマのユリアヌス帝と戦い、和平条約を結んで失地回復に成功した。この頃ゾロアスター教の経典「アヴェスター」の編纂がはじまったという。
ナクシェ・ロスタムの戦闘図より。
コインや胸像のような城壁冠には見えない。鷲翼の冠に近いのでは。
タンゲ・チョウガーン渓谷の戦勝国より。
縮れた長い髪は両側に大きくまとめ、城壁冠ではなくも帽子のようなものを被っている。また、ササン朝では横向きに描写されるのが常であるのに、珍しく正面を向いた像である。
胸像 高50.0幅38.0㎝ ストゥッコ ファールス州ハッジ・アーバード出土
『ペルシャ文明展図録』は、王の正面観をストゥッコで表した胸像。ササン朝の故地であるイラン高原南部のファールス地方で出土した。戴いた冠の形状から、シャープール2世であることがわかるという。
正面向きで無表情な人物表現はパルティア風で、パルミラの人物像にも共通している。
ディナール金貨 イラン国立博物館蔵
表:シャープール1世と同じ城壁冠(ただし頬当てなし)をかぶる王の右向き肖像。
シャープール2世は長い在位期間に冠を変更することもあったのだろうか。それとも浮彫は別の王?
ビーシャープールの謁見の間にドームはあったのか?← →銀製皿に動物を狩る王の図
関連項目
サーサーン朝の王たちの浮彫
※参考文献
「ペルシャ文明展 煌めく7000年の至宝 展図録」 2006年 朝日新聞社・東映
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
2017/08/16
ビーシャープールの謁見の間にドームはあったのか?
ビーシャープールの宮殿に謁見の間とされる大きな建物跡がある。
『ペルシア建築』は、大宮殿は、いっそう複雑なイーワーン形式の建物である。謁見の広間は方22mほどの大きさを持ち、高さ24mほどのドームでおおわれていた。広間の四面はそれぞれ三連イーワーンの形をとる。構造体は石と煉瓦片をモルタルで固めて作られているという。
方20mというのは、おそらく各面に突き出た部分を計算に入れず、正方形部分のことを言っているのだろう。
謁見の間の四面にあるという三連イーワーンとは、正方形平面に、各面の中央に矩形の張り出し部のついた複雑なプランとなり、それぞれの天井部分がその奥行の幅のヴォールト天井となったもので、『ペルシア建築』にその推定復原模型図が示されている。
しかし、この図は建物の一面の三連イーワーンをかなり平面的に描いていて、各面との結合部分の描写があいまいである。このようなところから、高さ24mもあるドームが架けられたのだろうか。
サーサーン朝のドームは四隅にスキンチをわたす架構法をとる。そのためには直角に交わる2つの壁面が必要となるが、この図ではスキンチを架ける場所がない。正方形と考えるなら、三連イーワーンが交わる角になるが、そこにスキンチらしきものは見当たらない。
サルヴィスターンのバハラーム5世(第15代、在位420-438年)の宮殿をみると、
『ペルシア建築』は、サルヴィスターンにバハラーム5世が建てた5世紀の宮殿になると、さらに複雑な展開と進歩した技術が認められる。東正面の中央イーワーンを入れば、まずねドームをいただく中央広間があり、その奥に方形の中庭がある。中庭では、中心軸上、西側の奥壁に接して一つのイーワーンが設けられている。こうした構成はフィールーザーバードを想起させるとはいえ、概して当宮殿には対称性がなく、自由闊達さが目立つという。
ビーシャープールの謁見の間には外側にイーワーンはなく、四面に三連イーワーンがあった。
同書は、円いドームを支持するためにはスクインチが使われている。また、脇の諸室ではヴォールト架構の支持体として円柱が用いられているという。
後のイスラーム初期のサーマーン廟では、正方形の四隅にスキンチアーチをわたして八角形にし、その上に十六角形をつくり、更に上を円形にしてドームを架構しているが、この宮殿のドームは4つのスキンチアーチの上に直接円形をつくり、ドームを架構している。
この大きさがわからないが、ビシャプールの謁見の間ほどではなさそうだ。しかも謁見の間にはこのような壁面がない。
『イスラーム建築の見かた』は、直径10mと小ぶりながら、平面が正方形をなす厚い壁体の上にドームが構築されているという。
『ペルシア建築』の想像復元図ほどにはスキンチアーチははっきりしていない。
また、広い空間に屋根を架ける古来からの工夫として、ラテルネンデッケというものがある。20m四方の部屋に天井を架けたのがトルクメニスタン、ニサ遺跡の正方形の広間と呼ばれている部屋である。
天井は木造で、4本の太い柱に支えられた中央部にラテルネンデッケという高さのある屋根があり、中央に明かり取りの八角形の穴がある。その周囲に平天井が3区画ずつある。
ビシャプールの謁見の間は、周囲の三区画を奥行の異なるイーワーンとし、中央に木造のラテルネンデッケ天井を架けたのではないだろうか。
しかし、内部に柱跡があるというような形跡はなかった。
ローマ軍の捕虜たちが建設に従事したと言われている。
ローマには巨大な半球ドームが架かるパンテオン(118-128年)があるが、これは正方形ではなく、円形の壁の上に架けられているので、スキンチもペンデンティブも必要ない。というよりも、この時代には、ローマではまだ正方形から円形のドームを架構するということは行われていなかったのだ。
その後ローマ帝国が東西に分裂し、東ローマ帝国の都となったコンスタンティノープルで、ユスティニアヌス帝(在位527-565年)が再建したアギア・ソフィア大聖堂は30mもの巨大ドームがペンデンティブによって架けられている。
ペンデンティブの起源はまだわからないが、3世紀のサーサーン朝にあったという遺例は知らない。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール都市遺跡は、十字型の宮殿で、東西南北に4つのエイヴァーンが設えられている。発掘当初、このエイヴァーンを覆う高い円形のドームが造られていたとされた。しかし、構造上無理があり、現在では4つのエイヴァーンの上は屋根で覆われていたが中央部分に屋根はなかったとされている。この建造物は、一般に「謁見の間」とされるが、正確には不明という。
やはりこの大広間の中央にはドームはなかったのだ。
サーサーン朝の王たちの浮彫← →サーサーン朝の王たちの冠
関連項目
ササン朝は正方形にスキンチでドームを架構する
スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる
ペンデンティブの誕生はアギア・ソフィア大聖堂よりも前
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール都市遺跡
※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」 1997年 小学館
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
2017/08/11
サーサーン朝の王たちの浮彫
『古代イラン世界2』は、サーサーン朝の帝王たちにとって最も重要なことは、王位の正統性であった。それは具体的にはゾロアスター教の神々、特にアフラ・マズダ神やアナーヒーター女神による王権の裏付けであり、このような事柄を臣民に容易に理解せしめて自己の威光を高揚すべく摩崖に浮彫を刻んだのである。そして、その場所は多くの人々が訪れる神聖な場所であった。
なお、各浮彫には原則として、制作を命じた国王に関する銘文はないので、国王の比定は文献的には殆どできないが、王冠の形式を、歴代の国王が発行したコインの表に刻印された王冠のそれと比較して決定している。
この時代は前代のパルティア美術の影響を示す二次元的、シルエット的な浮彫から出発し、徐々に写実性、立体感が存在する高浮彫へと発展し、最終的にはバフラーム1世の騎馬王権神授図のような写実性、立体感、装飾性が見事に調和した帝王のモニュメントに相応しい彫刻へと到達した。この変化発展にはサーサーン朝と戦争を繰り返したローマ帝国のグレコ・ローマ美術の理想的写実主義の影響が大きい。サーサーン朝はローマ帝国の美術様式や図像を積極的に採り入れている点を見逃してはならない。4世紀後半以後は徐々に形式化が始まり、写実性が交替していったという。
サーサーン朝の王たちの残した浮彫を年代順にみていくと、
アルダシール1世(初代、在位224-241年)
王権神授図(騎馬叙任式図) 縦4.28横6.75m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、画面構成は左右対称的で、向かって左に騎馬のアルダシール1世、右に同じく騎馬のアフラ・マズダー神を描写している。帝王は王位の標章たるディアデム(リボンのついた環)を頭につけ、頭上には大きな球体(宇宙の象徴)を戴いている。神は城壁冠をかぶり、左手でバルソム(ゾロアスター教の聖枝)を持ち、右手には正当・正統な王位の標識たるディアデムを持ち、帝王に授けようとしている。帝王と神の服装はほぼ同一で、長袖の上着を着、眺めのパンタロンをはいている。その襞は自然らしさに欠け、装飾的である。帝王の背後には払子を持つ小姓が立っているという。
神の城壁冠からもリボンが付いていて、肩掛けの端がアケメネス朝の王の襞とはまた違うが、ギザギザの折り目が風に靡いている。その下には風を受けて膨らんだ布に見えるものもある。
ディアデムについたリボンは、横縞を表現しているのだろうか。
同書は、帝王と神の乗る馬の足下には、両者に敵対する存在の死骸が横たわっているという。
アルダシール1世の敵はアルサケス朝のアルタバヌス5世ということで、やはり王位の象徴ディアデムを付けていたことが、リボンからわかる。
馬の胸繋は円形のメダイヨンで装飾されているが、帝王の馬のメダイヨンには王位の標識たる獅子頭が見られる。また、両者の腰の部分にはローマの鞍と同じく、突起が見えるし、鞍敷からは大きなドングリ形房飾り(諸王の王の標識)が鎖で吊り下げられているという。
このドングリほど大きくはないが、中国の石造の馬(則天武后の母の順陵のもの)や騎馬俑の馬(隋時代)にもこんな房飾りがみられる。
同書は、悪魔のアーリマンの頭部には悪魔を象徴する蛇の頭部がつけられているという。
耳のようなものが蛇だろうか。
シャープール1世(第2代、在位241-272年)
戦勝図 縦6横12.95m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16』は、シャープール1世はローマ帝国の3人の皇帝とユーフラテス河を境に戦ったことが知られている。その3人の皇帝はゴルディアヌス3世(在位238-244)、フィリップス1世(アラブ、在位244-249)。ウァレリアヌス1世(在位253-260)である。戦いはいずれもシャープール1世に有利に展開したようである。この作品では、画面中央にシャープール1世の雄々しい姿が、その前方に、両手を差し伸べ、ひざまずいて恭順の意を表明しているローマ皇帝が描写されている。これはシャープール1世と和睦したフィリップス1世であろうという。
その背後に立つ人物は、シャープール1世に対して両手を高く差し伸べ、それを帝王がつかんでいるので、帝王に降伏し捕虜となったウァレリアヌス1世であろう。
ローマ皇帝の像はコインの肖像などを参照して制作されたのであろう。マントやスカートの襞は規則的で、シャープール1世の行縢の風になびく襞とは対照的であるという。
同書は、浮彫りは全体的に立体感に富みねとくに馬の筋肉表現は優れている。一段と大きく表された帝王は城壁冠をかぶり、球体を戴き、左手で剣の柄を握っている。衣服は長袖の上着、行縢(むかばき)をつけ、さらにローマ皇帝と同じく小型のマントを肩につけているという。
アケメネス朝の王は襞が多いがすっきりとした服装なのに、サーサーン朝になると、繁雑な皴のできる衣装になるのだと思っていたが、これは行縢というズボンの上に付ける保護具のようなものらしい。布というよりも、羊の毛皮かも。
画面の向かって右には帽子をかぶった男子の胸像が浅浮彫りされている。その下方に刻まれたパフラヴィー文字銘から、のちにバフラム2世(在位276-293)に仕えた高僧カルディールであることが判明している(戦勝図とは無関係)という。
ナクシェ・ラジャブのアルダシール1世の王権神授図の左に自分の胸像と碑文を付け足したカルティールは、ナクシェ・ロスタムにも付け足していた。
シャープール1世の三重の勝利 タンゲ・チョウガーン
『古代イラン世界2』は、国王と敗者のローマ皇帝たちを中心にサーサーン朝の騎馬軍団が描写されているが、多数の軍勢を描写する方法は上下遠近法、重層法といった西アジアの伝統的絵画様式が用いられているという。
一番下の段の浮彫が後世建造された灌漑用水路によって浸食を受けているが、5段に表され、その結果、シャープール1世がどこにいるのか、探さないとわからない。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、中央のシャープール一世のところには3人のローマ王が描かれているという。
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戦勝図 摩崖浮彫 縦5.43横9.18m イラン、ダーラーブギルド
『世界美術大全集東洋編16』は、イラン南部、ダーラーブ市の郊外にあるこの浮彫りは聖水の女神アナーヒターの胸像を浅浮彫りにした岩壁にあるが、その前方には泉と池がある。画面中央には、騎馬のシャープール1世が描写され、その馬の足下には、同帝王と戦って戦死したゴルディアヌス3世の死体が横たわっている。帝王の馬の面前には、和睦(降伏)したフィリップス1世が立ち、許しを請うためにひざまずこうとしている。その上方には、捕虜となったウァレリアヌス1世が右手を揚げて恭順の意を表し、帝王はその頭をなでて同皇帝の降伏を受け入れている。多数の人物を数列にわたって、重ね合わせて奥行(三次元的空間)を暗示する「上下遠近法」は古代西アジアに典型的な様式であるという。
神殿や宮殿、そして浮彫も当初は彩色されていたということなので、それが残った貴重な作品かと思っていたが、よく見ると色の配置が妙。馬の尾の下を見て合点!そんなに古いとは思えない落書きだ。
バフラーム1世(第4代、在位273-276)
騎馬叙任式(王権神授)図 縦5.35横9.4m ビーシャープール、タンゲ・チョウガーン渓谷右岸
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、国王の頭部の王冠がナルセー王(在位293-303)によって改変され、向かって右の帝王の馬の足下にササン朝の皇太子(バフラム2世の息子のバフラム3世)の横臥した死骸が付け加えられている。このような異常な点が存在するが、浮彫りそのものは、ササン朝摩崖浮彫りの最高傑作と評価されている。もっとも鮮明に示すのが、立体感に富んだ人物像と馬の写実的描写であり、とくに馬の筋肉表現が秀逸である。このような様式の特色は、この作品にシャープール1世が捕虜としたローマの彫刻家が関与していることを示唆していよう。
アフラ・マズダー神はディアデム(環)を握り、それをバフラム1世に授けようとしているのであるが、環に結ばれたリボン(鉢巻き)は風にたなびき、バフラム1世はその端をつかんでいるに過ぎないという。
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バフラーム2世(第5代、在位276-293)
戦闘図 ナクシェ・ロスタム
説明板は、2段の戦勝図がダリウス大王の墓の下に彫られている。王は鷲の翼の飾りのついた王冠(鷲はバフラーム2世の鳥、戦いの神)を被っている。上段は、馬に乗った敵に騎乗して向かい、長槍で馬から落としている。下段は、バフラーム2世が互いに騎乗して長槍を持って対峙し、別の倒した敵が馬の下にいるという。
鷲の翼王冠というのはどちらもわからない。
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王とその家臣 ナクシェ・ロスタム
曲面に彫られていて、しかも、両側の家臣たちは胸部のみで、その下はエラム時代の幽かな線刻が残されたままにされている。
王はシャープール1世同様、家来よりも大きく表されている。
鷲の翼の王冠は向かって左側だけ残っている。
右端から2人は帽子に標がついているので高官だとわかる。
左端は帽子を被っていない。次は標のある帽子かもわからないが、はっきり写っていない。その次はライオンの頭部を象った帽子を被っている。
騎馬謁見図 タンゲ・チョウガーン
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、バフラーム二世がアラブ族の使節を迎えている場を描いているという。
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ライオン狩り図 縦2.14横4.65m サル・マシュハド
『世界美術大全集東洋編16』は、古代西アジアの宮廷美術の典型的テーマである「帝王のライオン狩り」を表したもので、ササン朝の摩崖浮彫りでは他に例が知られていない。帝王は身体を正面観、頭部を側面観で描写されているが、その背後に立つ王妃の手をとり、右端の皇太子(バフラム3世)を守ろうとしている。帝王と王妃のあいだにはカルディールが描写されているが、この高僧はバフラム2世の治下でゾロアスター教の最高指導者の地位につくほど力があったといわれる。
この2頭のライオンはササン朝において、王位継承者が即位式にて倒すべき2頭のライオンを意味しており、それゆえ、この図はバフラム2世が「正当・正統な帝王」であることを明示した一種の王権神授(叙任)図なのであるという。
サーサーン朝の王たちがライオン狩りや羊狩りをしている様子は、銀鍍金の皿に表されている。それぞれの王の冠と共に調べてみたい。
画面の左端には2頭のライオンが描写されているが、1頭は横たわっているのですでに死んでいることがわかる。もう1頭はまさに帝王に飛び掛かろうとしているが、すでにその胸に帝王が突き出した剣が突き刺さっているという。
ナルセー王(第7代、在位293-303)
叙任式図 縦3.5横5.6m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16』は、帝王の背後には二人の男子が配され、右側の人物は右手をあげて帝王と女神に敬意を表明している。彼は馬(ミスラ神の象徴)の頭部を装飾した帽子をかぶっているが、あるいは皇太子のホルムズド(のちの2世)ないし他の王子であろう。その背後の男子像は未完成という。
同書は、画面の向かって右端には、城壁冠と「アーケード冠」を合成したような冠をかぶったアナーヒーター女神を配し、その女神から正当・正統な王位の標識たるリボンのついた環を右手で受理せんとするナルセー王を描写している。国王の王冠も「アーケード冠」である。「アーケード冠」とはアナーヒーター女神殿を取り囲む多数のアーチを連ねた形式の冠をいう。このように、アフラ・マズダー神からではなく、アナーヒーター女神かに王権を神授される帝王を表した叙任式図はササン朝初期ではきわめて異例であるという。
帝王と女神のあいだには、子どもが一人描写されているが、これはのちのホルムズド2世(在位303-309)ないし末子の王子であろうという。
王だけでなく、アナーヒーター女神も王子も行縢を着けている。
王子は顔面も腕も壊れているが、ひょっとすると、王位の象徴ディアデムに手を延ばしているのかも。
ホルムズド2世(第8代、在位303-309)
騎馬戦闘図 縦3.52横7.97m ナクシェ・ロスタム
『世界美術大全集東洋編16』は、ナクシェ・ルスタムの岩壁には、騎馬の王侯が1対1の決闘を行っている光景を描写した摩崖浮彫りが合計4点存在するが、この作品はそのもっとも古い例で、他の3点の騎馬戦闘図のモデルになっていたことが判明している。この戦闘図の主人公は向かって左の騎士であるが、その王冠は1対の鳥翼と真珠をくわえた猛禽の頭部よりなる。
帝王は、右腰に矢筒を吊り下げ、長い槍で右方の敵を突き倒している。この敵がローマの皇帝か、ホルムズド2世と王位を争ったライバルであるのか、あきらかではない。馬の脚は八の字のように開いているが、これは古代エジプト美術以来、近代まで疾走する馬の定型的表現形式となっていた、いわゆる「空中飛行型」の形式であるという。
シャープール2世(第10代、在位309-379)
戦闘図
右半分だけに浮彫がある。シャープール2世は騎乗で敵を長槍で刺している。
サーサーン朝期のナクシェ・ロスタムは、中央にシャープール二世と思われる王が敵を殺しているという。
シャープール2世の冠こそ鷲が翼を広げたもののように見える。
王の左に騎乗するする人物は、武器ではなく、旗のようなものを持っている。これがウルのスタンダードやアラジャフユック出土のスタンダードなどに繋がるものかも。
スタンダードについてはいつかまとめたい。
戦勝図 タンゲ・チョウガーン
ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群は、シャープール二世によるクシャーン朝の制圧と併合を記念して造刻されたといわれている。上下二段からなり,王は中央上段で玉座に座っているという。
詳しくはこちら
アケメネス朝の王墓← →ビーシャープールの謁見の間にドームはあったのか?
関連項目
敵の死体を踏みつける戦勝図の起源
銀製皿に動物を狩る王の図
サーサーン朝の王たちの冠
タンゲ・チョウガーン サーサーン朝の浮彫
ナクシェ・ラジャブ サーサーン朝の浮彫
ナクシェ・ロスタム アケメネス朝の摩崖墓とサーサーン朝の浮彫
※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトのサーサーン朝期のナクシェ・ロスタム・ビーシャープール タンゲ・チョーガーン浮彫群
※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
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