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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/12/27

高麗仏画展3 浄瓶の形


泉屋博古館蔵水月観音像(14世紀)に描かれた浄瓶の尖台は異様に長かった。この浄瓶は全面に陰刻のある高麗青磁をモデルにして描いているようだった。
青磁についてはこちら

そのモデルとなった高麗青磁の浄瓶とよく似た作品が根津美術館から出品されていた。それは12世紀のものだった。

青磁陰刻蓮華唐草文浄瓶 12世紀 施釉陶器 高36.5胴径13.2底径8.8 根津美術館蔵
同展図録は、優美な器形、精緻に施された文様、青磁釉の青く澄んだ色合いによって高麗青磁の名品として知られる浄瓶。器表に陰刻された文様は青磁釉の色の濃淡となって浮かび上がり、清浄な水を思わせる。清々しい文様表現である。胴から突出した注口は蓋が付くが現在は失われているという。
片切り彫りによって浮彫に深浅があるため、深く彫られた箇所には釉薬が溜まり、色濃く仕上がる。

この形の浄瓶について『東洋陶磁の展開図録』は、肩先には注入口があり、長い管状の口から水を注ぎ出すようになっているという。

また、高麗青磁の浄瓶とよく似た形の青銅製浄瓶は泉屋博古館のものが展示されていて、13世紀に制作されていた。

青銅銀象嵌蒲柳水禽文浄瓶 13世紀 青銅鋳造・銀象嵌 高37.0胴径13.7底径9.0㎝ 泉屋博古館蔵
同書は、浄瓶は清浄な水を入れる水瓶のことで、もとは僧侶の持ち物の一つであり、仏前に供える仏具ともなった。浄瓶の形については細長い頸に鐔を持ち、その上に筒状の尖台を付ける仙盞形。浄瓶は観音菩薩の持物とされているため、高麗仏画には観音菩薩が浄瓶を持つ姿や傍らの岩上に浄瓶が置かれてあらわされているという。
途中に鐔があるのは、僧侶が持ち運びするのに滑りにくくしたためかも知れない。しかし、そのためなら、頸の口縁を広くしただけでも良いはず。鐔が虫やごみが入りにくくするための蓋だとしたも、その先の注口がこんなに長い必要がないのでは?
八面に面取りされた尖台は頂部に4本の輪があり、その下には根津本の青磁浄瓶と同様に雲文が、根元には蓮弁、鐔上面には如意頭文、頚部には雲文が銀象嵌で表されている。
注口には共蓋がつく。文様があるかどうかは不明。
頚部との接合部下には如意頭文が連続し、胴部には2本の蒲柳と、餌をとろうと頸を伸ばすサギ、その背後に葦などが銀象嵌されている。

浄瓶は仏具というが、何故全てこのように尖台と呼ばれる部分が長いのだろう。古い時代のものはもっと短い。

白磁浄瓶 唐、8-9世紀 高19.9胴径8.1㎝
『世界美術大全集東洋編4隋唐』は、浄瓶とは仏前を飾り、あるいは仏事に用いられる器物で、軍持・君持などと書かれることもあるが、これはサンスクリット語のkundikaに漢字をあてたものである。仏器の水甁形式の一種で、水を飲みあるいは手を清めることなどに使用される純然たる宗教用具で、伝世品の多くは青銅製である。この白磁浄瓶の原型も金属器にあったと考えるのが妥当である。
胎土は純白細緻なもので、化粧土を塗った後に胴裾の部位まで釉が施され、潤いのあるやや黄みを帯びた色調であるという。 
唐の頃は尖台の注口は短かったが、胴部が下ぶくれとなっているせいか、ずんぐりしてバランスは良くない。段々と格好よく見えるように、胴部の形も、尖台も変化していったのだろう。

日本で作られたものか、他国から請来されたものか

佐波理の水瓶 高31.0胴径12.3㎝重760.1g 正倉院南倉
『第62回正倉院展目録』は、仙盞形水瓶と呼ばれる形式で、塔の相輪を模した鈕を持つ蓋、細長い頸部を持つ卵形の胴部、外反する低い高台からなる。胴部上方に取り付く注口の基部に胡人の風貌を思わせる人面が付されており、「胡面水瓶」と呼ばれている。蓋の棒状鈕には縦に穴が貫通し、胴部の注口から入れた液体を、鈕の先端に口を付けて飲んだものと考えられている。
注口の人面は、髪や髭、その生え際が細かく毛彫されている。また、この人面は中央アジアから西アジアの人の顔を模したもので、唐における異国趣味を反映したものと考えられているという。 
また、仙盞形水瓶については、器形は卵形の胴に長い頸をつけ、細長い注口をつけるもの。中国・唐時代及び朝鮮半島・高麗時代に流行したという。
正倉院に収まっていることから、おそらく唐時代、8世紀に製作されたものか、そのモデルとなるものが将来されて日本で作られたものだろう。
形としては白磁浄瓶よりも整っているので、本来は金属器の形だったと思われる。
注口は飲みやすい長さのように見える。

不思議なのは、唐(618-907)と高麗(918-1392)は時代としては繋がっていないのに、12世紀以降に尖台の長過ぎる形となってこの形の浄瓶が蘇っていることである。
でもそれは、自分が調べた限りのことなので、きっと唐から伝わった浄瓶が、少しずつ尖台が長くなっていって、今見られるような形となったのだろう。    

    
    高麗仏画展2 観音の浄瓶は青磁←   →高麗仏画展4 13世紀の仏画
 

関連項目
高麗仏画展6 仏画の裏彩色
高麗仏画展5 着衣の文様さまざま
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール 


※参考文献
「高麗仏画 香りたつ装飾美展図録」 編集 泉屋博古館 実方葉子、 根津美術館 白原由紀子 2016年 泉屋博古館・根津美術館
「世界美術大全集東洋編4 隋唐」 1997年 小学館
「第62回正倉院展目録」 編集 奈良国立博物館 2010年 財団法人仏教美術協会

2016/12/23

高麗仏画展2 観音の浄瓶は青磁


泉屋博古館蔵水月観音像は、至治3年・忠粛王10年(1323年)に徐九方によって制作されたことが銘文によって確かな、貴重な仏画である。
数珠を持った右手の傍らに楊柳の枝が浄瓶に挿してあり、更に浄瓶はガラスの承盤に置かれている。
同展図録は、ガラスは白色をぼかすのみ。金の縁だけは裏彩色だけで明瞭にという。浄瓶全体が見えているので、白いガラス鉢ではなく、透明ガラスの鉢に浄瓶が入っていることを表しているのだろう。
その浄瓶は浮彫のある青磁のよう。

高麗青磁の浄瓶も同展で出品されていた。しかも、その作品を模写したのではないかとおもう程に、よく似ているのだった。

青磁陰刻蓮華唐草文浄瓶 12世紀 施釉陶器 高36.5胴径13.2底径8.8 根津美術館蔵
同展図録は、優美な器形、精緻に施された文様、青磁釉の青く澄んだ色合いによって高麗青磁の名品として知られる浄瓶。器表に陰刻された文様は青磁釉の色の濃淡となって浮かび上がり、清浄な水を思わせる。清々しい文様表現である。胴から突出した注口は蓋が付くが現在は失われているという。
同書は、頂部に面取りされた尖台を付け、細く伸びる頚から肩にかけて柔らかな曲線でつながる。
頚部は3段に区画して霊芝雲、鐔上面に蓮弁文、尖台は八面に面取りされて簡略な雲文が線刻されるという。
実際には楊柳をさせないと思うほどに細い首である。この尖台はなくても鶴首の浄瓶としてバランスは良いと思うのだが。
同書は、胴部は裾に向かってなだらかにすぼまる。
文様は胴部に陰刻で蓮華唐草文、注口部に菊花の折枝文、肩部から頚の付け根にかけて蔓唐草文と如意頭文、胴裾に雷文と蔓唐草文があらわされる。輪郭には片切り彫りが用いられて文様を強調するとともに、花弁や葉が立体的にあらわされ、蓮弁の筋など細部は細い線によって刻まれる。大きな面を占める胴部の蓮華唐草文は蔓が上下に枝分かれしながら横位に伸び、その先に葉や蓮華が付く。その姿は螺鈿のリズミカルな唐草文とは異なり、水面に映った姿のように幻想的である。葉の捲れや蔓との重なりが丁寧に描写されながら、画面を埋め尽くすように広がる。唐草文に蓮華や蓮葉、三叉の葉を組み込む文様は、高麗仏画では団花文として尊像の衣の文様に常見されるという。
片切り彫りは深く彫った部分に釉が濃く溜まって、濃淡が文様の表現に深みをつける。

14世紀前半に描かれた仏画に、12世紀に制作された青磁の浄瓶が描かれているのだろうか。高麗青磁を少し探してみると、

青磁陰刻蒲柳水禽文浄瓶 高麗時代、12世紀前半 高さ33.1㎝ 住友グループ寄贈 大阪市立美術館蔵
『東洋陶磁の展開図録』は、浄瓶はもとは仏前に清らかな水を捧げるための仏具であるが、『高麗図経』には、貴人から民衆までひろく貯水器として用いたとある。肩先には注入口があり、長い管状の口から水を注ぎ出すようになっているという。
細長い口から水を入れるのは大変だろうとは思っていたが、肩に出っ張った蓋付のものから水を入れて、尖台の先から水を出すというのは目から鱗だった。
胴の二面には、か細い毛彫りによって柳と水禽、水辺の葦があらわされている。その簡略さゆえに、釉色の美しさが際立っている。さらには、同じ頃につくられた青銅製の線象嵌浄瓶をも髣髴とさせ、12世紀も早い頃の作例とされようという。

青磁象嵌蒲柳水禽文浄瓶 12世紀中葉 高37.1底径8.9㎝ ソウル、澗松(カンソン)美術館蔵
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』(以下『世界美術大全集東洋編10』)は、青磁象嵌技法という高麗青磁独自の装飾技法は、12世紀中葉から13世紀前半ごろまで大いに流行し、その後は衰退して印花技法に形を変えながらも14世紀末の高麗青磁終焉まで、装飾技法の首座を占めていた。
青磁象嵌というのは釉下の素地の表面に文様の部分を掘削し、できた凹部に赤土や白土を充填して文様を表すものであるという。
高麗青磁は、浮彫は前半、象嵌は後半という風に、ずっと昔誰かに聞いたことがあり、そう思い込んでいたが、同じような時期に作られていたのだ。『高麗仏画展』が長年の思い込みを訂正できる良い機会となった。
柳の下には葦、左には翼にコバルト釉を挿した水禽と波、その下には蓮の花や葉など、水辺の静かな光景が青磁の色に白土で表されている。柳の細い葉を彫る技術はみごと。

高麗仏画展から離れて青磁の浄瓶の話になってしまった。脱線したついでに、高麗青磁の名品を見てみると、


青磁陽刻蓮蜀葵文梅瓶 12世紀前半 高40.6胴径22.1㎝ フィラデルフィア美術館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、主文様は蓮と蜀葵を交互に3対配し、蓮の根元にはそれぞれ水禽をあしらっている。これらの主文様を上部では唐草風垂飾、下部では蓮弁文様で挟み込んでいるが、文様配置は全体にすきまのないほど埋め尽くし、緊張感に富んだものであるという。 横向きの水鳥以外はほぼ左右対称の文様だが、ところどころ茎を曲げたり、蓮華を少し右側を上下限にしたりと、緻密なデザインにも柔らかな雰囲気を残している。
すべて輪郭は片切彫りで、花や葉、水禽の細部に陰刻線を施し、精緻で壮麗な文様を展開しているという。


青磁陽刻鳳凰文梅瓶 12世紀初期 高28.5胴径18.8㎝ ワシントン、フリーア美術館蔵

同書は、高麗青磁に遺例の多い梅瓶の器形は、製作年代によって変化を見せる。第1段階は中国、北宋の定窯、磁州窯、影青(インチン)などの例に似て、肩から胴裾までのすぼまり方がほぼ直線的である。第2段階は、第1段階とほぼ同じであるが、胴裾でわずかに外反する気配を見せる。第3段階は、高麗陶磁梅瓶の典型的な器形が現れる時期で、その特徴は胴裾での外反が明らかになり、S字状湾曲が認められることである。第4段階は、S字状湾曲がますます顕著になり、つぎの朝鮮王朝時代の粉青沙器に引き継がれる。
このフリアの梅瓶は第2段階のもので、胴は重厚感に富むが、胴裾での外反の気配がわずかに見られる。通例に比べると、口作りの高さが高く、胴の形と相まってどっしりとした印象を与えている。
この梅瓶は、あまり類例のない文様とその配置をもつことによって知られている。すなわち主文様は胴の中央前後に置いた大きく羽ばたく鳳凰文である。翅や尾羽は鳳凰といってよいが、頭部はむしろ中国、越州青磁の鸚鵡文の残影で、高麗独特のデフォルメの一つといえようという。
鶴に見えたが尾が違う。
独立した主文様をもつ場合、肩や胴裾に霊芝雲文、雷文などの付属的な装飾文様があるのが通例であるが、この梅瓶では口の付け根からいきなり牡丹唐草文が始まり、それが胴裾まで覆い尽くしている。異色といってもよい。貫入もほとんどなく、釉色は透明感のある美しい灰青色に焼き上がっているという。
牡丹と蓮という違いはあるが、根津美術館本とは唐草文様の葉もよく似ている。


 


  高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール←   →高麗仏画展3 浄瓶の形
 
関連項目
高麗仏画展6 仏画の裏彩色
高麗仏画展5 着衣の文様さまざま
高麗仏画展4 13世紀の仏画

※参考文献
「高麗仏画 香りたつ装飾美展図録」 編集 泉屋博古館 実方葉子、 根津美術館 白原由紀子 2016年 泉屋博古館・根津美術館
「大阪市立東洋陶磁美術館 館蔵品選集 東洋陶磁の展開図録」 1999年 大阪市立東洋陶磁美術館
「世界美術大全集東洋編10 高句麗・百済・新羅・高麗」 1998年 小学館
 

2016/12/20

高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール


高麗仏画というものをどこで見たかはよくは覚えていないが、その静かな雰囲気が気に入って、まとまった展観があれば見に行きたいと思っていた。それが京都の泉屋博古館で開催されることを知って、行こうと思いながら日は過ぎてゆき、やっと重い腰が上がったのが最終日だった。
博古館は受付のある棟に青銅器の展示室があり、企画展示室のある棟との間には中庭がある。2棟を結ぶ渡り廊下からは、すっきりとした中庭の向こうに東山がある。東山の紅葉が一番よく見えた。
東山を借景に、遠くに高い木を配して向こうの建造物を極力見えないようにしてある。その他は芝生で、目障りなものがない。この中庭については説明がないか、あっても見落としたのだが、その何も無い中に、低い石組が、四角く刈り込んだ柘植のような低木と共にぽつんとあるのが気になった。古い井戸かな?

「高麗仏画展」の開かれている企画展示室に入と、最終日とあって、多くの人たちがいた。小さな声だが、ハングル語で作品について語り合っている人たちもいた。研究者かなと感じるくらい熱心に話し込んでいて、言葉が分かったら参考になったかもと残念だった。

高麗仏画で一番印象に残ったのは、何といっても白いヴェールを被った菩薩だった。観音菩薩がほとんどで、日本では水墨画に多い白衣観音との関連があるのかなとも思ったが、他の菩薩でもヴェールを頭頂から着けている作品もあった。

阿弥陀三尊像 14世紀 絹本着色 縦129.7横61.8㎝ 根津美術館蔵
同展図録は、高麗時代の阿弥陀三尊像は、説法図と来迎図の2種の図像に大別され、個々の作品において尊像の向きや印相、持物にバリエーションがみられる。説法図には、宝檀上に結跏扶坐する阿弥陀如来を中心に、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が踏割蓮華上に立つ形式の着色画が、管見の限り8例ある。
阿弥陀を赤味の強い肌色、両菩薩を肌色に表す三尊像で、高麗後期の典型的図像と表現を示す優品である。阿弥陀の像容はバランスよいという。
この両脇侍は白いヴェールを被っている。
同書は、両菩薩は阿弥陀の側にわずかに体を傾けて立ち、頭頂の冠にかけた白い薄物のヴェールが、両肩を包み、腹前でゆったりと交差して裙の裾先に達する。このヴェールは、白色を塗るのではなく、細い白線を網状に引くことで、赤い衣や金彩を透かせる手法で表されており、さらにヴェールに文様を表すことで、衣の重なりがみせる微妙な奥行き感が表されている。勢至菩薩のヴェールには金彩の円文、観音のそれには銀彩(酸化して暗青色にみえる)の花文を散らすが、ただ高麗仏画に銀泥文様は珍しく、またやや違和感のある単純な文様であるため、後の加筆かも知れないという。

観音のヴェールに散らされている銀泥の円文は勢至の金泥のものよりもずっと小さいので、後世の加筆という可能性はあるだろうが、本来なら観音の方も金泥の円文があったはず。何かのかげんで観音の方だけが剥落してしまったのかな。
同書は、図像においては、勢至が右手に宝印、左手に火炎宝珠を乗せた蓮華茎を執ることが注目される。火炎宝珠は、40巻本『華厳経』「普賢行願品」の偈文に結び付く阿弥陀八大菩薩の1尊、除蓋障菩薩の持物で、この菩薩は、阿弥陀八大菩薩像においては、観音菩薩と向き合う位置に表される。このことによれば、本図で観音菩薩と対をなす菩薩は、浄土信仰に表される阿弥陀三尊像の勢至菩薩であると同時に、華厳経に基づく阿弥陀八大菩薩中の除蓋障菩薩という、高麗仏教の融通性を反映した図像ということになる。なお、この2菩薩にきわめて似た菩薩を描く作例として、白鶴美術館本の阿弥陀三尊像(来迎図)をあげておくという。
勢至の裙は十字文に見えるが、細い曲線を組み合わせてあり、鳥でも雲でもない。観音の裙は、亀甲繋文にも見えるが、六辺の七宝繋文だろう。
 ヴェールは3条にして冠の上からかけ、複数の曲線の束で何かの文様をつくっている。
ヴェールと同じ透明感のある布帛が腹前にも3条ゆったりとした曲線を描いて垂れている。この辺りでは、金の円文は3つの渦を巻く蔓草で、図録では唐草円文と呼ばれている。
ヴェールの地文は白色で、六辺の七宝繋文とし、その内部にも文様が描かれているようだ。

阿弥陀八大菩薩像 14世紀 伯全筆 絹本着色 縦173.1横91.1㎝ 京都・浄教寺蔵
同展図録は、来迎形の阿弥陀八大菩薩像の優品。阿弥陀如来は、中国式の来迎印を結び、左手には掌を上にして第一指と第三指を捻じ、第四指を折っている。右手は下方へと垂下させている。
本図は、第一列の観音の対として除蓋障の代わりに勢至を配した混合系の作例である。第四列左の地蔵が宝冠をつけるのは、八大菩薩の図像が、本来的に密教図像であったこの名残という。
阿弥陀を囲む多数の菩薩がヴェールを被っている。左上に描かれているのが地蔵で、本来は僧形で表されるのに、他の菩薩と同じ姿で描かれている。

しかし、何といっても観音菩薩は独尊像が多い。

水月観音像 14世紀 絹本着色 縦143.0横77.0㎝ 個人蔵
同展図録は、中央右端にはガラスの承盤上に楊柳を挿した浄瓶、右下の荒波を隔てた対岸には善財童子を配する。
着衣の構成や文様は多くの水月観音に共通するが、右手に長い蓮茎、左手に数珠を持すことや、宝冠にいただく化仏の如来を立像に表し、裙の蓮華荷葉文を円形にするなどの点は、水月観音像のなかでも類例が少なく、特異な図像といえるという。
冠から全身を覆う麻葉文にS字唐草円文のヴェールを表し、朱地の裙に亀甲文に蓮華荷葉文を配するという。
亀甲繋文の中には九弁の花文が描かれる菊花だろうか。円形の蓮華荷葉文は全体が見えていない。
また、麻葉文様も線の数が多く、複雑な構成になっている。

水月観音像  至治3年・忠粛王10年(1323) 絹本着色 縦166.3横101.3㎝ 徐九方筆 泉屋博古館蔵
『世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗』は、描写は、観音の肉身部に金泥を塗って淡い朱暈をつけ、肉身線を細朱線でくくり、頭頂から被る軽羅には白色顔料地に金泥で円花文を描き入れるなど、濃彩で緻密な彩色と詳細にわたる細部表現、そして金泥銘文の内容から、本図は高麗仏画における宮廷様式を伝えた作品といえるという。
軽羅という文字から、粗い織りの羅をもっと粗く織ったものかと思ったが、調べてみると、紗や絽のような夏向けの着物地を指すらしい。日本の仏画では見たことがないものである。
頭部
本図の麻葉文様も、あまりにも細くて、これだけ拡大してもよくわからない。冠には菊花文が密に描かれる。

水月観音像(楊柳観音像) 14世紀 絹本着色 縦227.9横125.8㎝ 京都大徳寺蔵
同展図録は、水辺の岩座に腰掛け右足を左膝にかけた半跏坐の観音。大円相に包まれ、薄く透けるヴェールを頭からまとい、静かに視線を落とす。かたわらには柳と浄瓶、背後には2本の竹、そして足元の岸辺には珊瑚や宝珠が散りばめられ、対岸では善財童子が礼拝する。補陀洛山でくつろぎ瞑想する水月観音は、中国から朝鮮、日本にかけて作例が知られるが、ことに高麗では好んで描かれ、今日も40点以上の作例が伝わっている。日本では古来より楊枝をともなう姿から「楊柳観音」と呼ばれてきた。
観音の薄朱色の肉身にはやや濃厚な朱の隈取りが施され、輪郭線は明確な朱線であり、まるみを帯びた体型とあいまって肉感的な印象を与える。着衣の文様が密に配される。
供養者や高波がもたらす躍動感のなか、鮮やかな色彩と充満するモティーフが祝祭感あふれる空間を創り出している。竹や鳥の宋画を思わせる写実表現も注目され、制作は14世紀の早い時期と考えられるという。
ヴェールの麻葉文様も明瞭に映えるという。
日本の麻葉文様は、今まで調べた中では、東寺蔵聖観音立像(鎌倉時代、13世紀)のものが最も古い。その文様は、対角線が1本表された菱形が、中心にその対角線を集めて6つ並んだ形で、幾何学的な花文のようでもあるが、高麗の麻葉文様は、もっと線が多く、曲線もあって柔らかな印象を受ける。
また、本図では主文の唐草円文がよく残っている。

観音菩薩立像 14世紀 絹本着色  縦109.2横53.7㎝ 岐阜・東光寺蔵
同展図録は、この立ち姿の観音菩薩単身像は、浅草寺本以外では現在知られている高麗仏画中、唯一の作例である。やや右に向いた体の上半身をわずかにひねり顔を正面に向け、持物をとる右手首に左手を添える観音の姿態は、阿弥陀説法図の脇侍として、また阿弥陀八大菩薩像の一としてしばしば見られるものである。しかし、左手が確実に手首を握ること、持物が念珠のみであること、化仏が立像であること、そして全身が白衣で覆われることなどの点では他に例を見出しがたい。
一方、宋代には数珠を手にした立像の観音図像が流布し、念珠観音と呼ばれることもあったらしい。北宋の蘇軾の題詩をともなう金の大安元年(1209)銘の観音像が中国の少林寺に伝わるが、その姿態は本作とほぼ一致するという。
ヴェールは白の麻葉文に金泥瑞雲鳳凰文で、観音のヴェールに鳳凰文が用いられる例は、ほかに鏡神社本をはじめ数例しかないという。
瑞雲鳳凰文
 
水月観音像 13-14世紀 絹本着色 縦144.0横62.6㎝ 慧虗筆 東京・浅草寺蔵
同展図録は、水面からのびる踏割蓮華の上で、右方へ一歩足を踏み出す白衣の観音。左手には浄瓶、右手には柳枝を指先で軽くとり、全身は大きな緑色の滴形の光背に包まれるという。
全体に赤っぽい図像が多い中で、緑色の身光に包まれた静かな雰囲気は異彩を放っていた。「高麗仏画展」の観音像では、これが最も早い時期の作品である。
同書は、全体に白を基調とした精緻な描写が際立つ。文様が衣褶線に合わせて変形するなど、高麗仏画には珍しい合理的な造形感覚もまた宋代画に通じるといえようという。
日本の仏画でも、平安時代作品は襞に関係なく文様が描かれているので、高麗仏画もやっぱりそうなのだくらいに思っていた。日本では宋から伝わった仏画の影響で、鎌倉時代になって衣褶線に合わせて変形させるようになったのだ。
観音や童子の顔貌表現、ことに額や瞼、鼻梁、口元に施される白い彩色は、例えば「十王図・十二使者図」(静嘉堂文庫美術館)のような元代仏画の女性表現に共通点が見出される。13世紀後半、高麗は元の支配下に入り、忠烈王による親元政策下でさまざまな文化が元を通じてもたらされた。その時期に描かれた「弥勒下生変相図」(1294年、妙満寺)にもまた同じ彩色法の天女や女性供養者が見られるという。 
残念ながら静嘉堂文庫の元代仏画についてはわからないが、妙満寺本については後日。
ヴェールは麻葉文ではない。密な斜格子文とでも表現すればよいのだろうか。
全身を覆う透明度の高いヴェールは、白の細線を格子状に引き重ねた地模様に、金泥で瑞雲と鳳凰らしき文様を散らすという。
僧祇支は、円文の中に鳳凰のような鳥が表されているようだが、その上に白い紐などがかかっているためにわかりにくい。とりあえず鳳凰円文としておく。地文は不明。縁には唐草文
裙は縦長の亀甲繋文だが、中の文様は不明。柔らかな衣の襞の重なりがみごとに描き出されている。


このように菩薩がヴェールを被る例は他に見たことがない。これが中国から将来されたものか、それが高麗仏画独特のものか、それについては解説されていなかった。

2016/12/16

南禅寺境内を通り抜けて


石山寺からバスでJR石山駅に戻って、山科駅で地下鉄東西線に乗り換えた。駅に着くと若い人たちが一目散に走って行くので、私も走って付いて行った。切符を買ってホームに下りていくと列車は上りも下りも発車してしまった。ICOCAなどのICカードなら間に合ったのだが、公共交通機関の発達していないところで生活をしているので、そのようなカードは必要ない。イオンさん、私の持っている唯一のカード、WAONでも使えるようにして下さ~い。

Google Earthより

次の列車で蹴上駅に。
はて、どこから南禅寺境内に入ろうかなと思いながら歩いていると、煉瓦造りのトンネルがあった。「雄観奇想」という石の扁額のある、何か謂われのありそうな。
検索してみると、なんと兵庫県養父市のホームページに、琵琶湖疎水の話という頁があった。
引用すると、
アーチ形に煉瓦を積んだトンネルの上部に、扁額の形で文字が書かれています。文字は、篆書(てんしょ)による「雄観奇想」(ゆうかんきそう)という文字です。琵琶湖疎水が完成した姿を「雄観」という大変すばらしい景色として讃え、電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を「奇想」という思いで文字に書いたのでしょう。
「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味になります。琵琶湖から水を引くという疏水事業の完成を祝福して、その思いを感慨深く示したものでしょう。
この疏水事業によって日本で最初の水力発電所が京都市につくられ、日本で最初の電車が京都市を走りました。そしてこの疏水の水は、現在も京都市民の飲料水として生活を潤しているだけでなく、水力発電・農業用水・工業用水、そして防火用水などに利用されています
という。

このトンネルを通っていけばいいのかなと迷っていると、「ねじりまんぽや」と言う声が。
何のことか分からなかったが、中を通っているとヴォールト天井の煉瓦の配列が、本来なら弧を描くアーチ形に並ぶはずなのに、斜めに捻れているのが見えた。
京阪電車の湖都から古都へ 琵琶湖疎水 川の路という頁に、蹴上インクラインの線路の下にあるトンネル(方言でまんぽ)。強度を高めるために、レンガが螺旋状に積まれ、ねじれている様子から「ねじりまんぽ」と呼ばれますという。

トンネルを抜けると元は塔頭だったところが工事中というところが複数あった。曲がり角には立派な門構えが。
「何有荘」という表札はあるものの、扉は閉じられている。
Wikipediaiによると、7代目小川治衛の庭があるという。
立派な庭もいいけれど、この高い生け垣の前の小さな紅葉が可愛い。

また工事車の出入口があり、左手に見えてきたのは低い石垣の上に高い生け垣。その先には「大寧軒」という扁額のある竹を貼った簡素な門。
公開されることもあるらしい。
門の近くは大きな石が組んであるが、その先では小さな石を積んだ石垣となる。その間から小さなシダが生えていて、というよりも植えてあってええ感じ。流れている水はもちろん疎水から。

その先には派手な門が。扁額は東照宮となっていて、傍の説明板には「寛永5年(1628) 徳川家康公の遺嘱により、寛永5年(1628)に造営した権現造りの建物である」とある。
続いて金地院の門があった。左には「東照宮・鶴亀庭園 拝観」という札が。あの東照宮は金地院の境内にあったのだ。
小堀遠州作の枯山水庭園もあるが、今回は別の目的でがあるので通りすぎる。

ずっと先に小さな門が見えてきた。
その近くにある生け垣に楓が使われているとは珍しい。

門をくぐると右手に中門があった。
その先で左折、屏沿いの路を行く。奥の方に紅葉が見える。
山門を写そうとすると、地下鉄の駅で見かけた韓国風の服装を着た人がまたいた。ひょっとして私の目的地と一緒?
高い針葉樹の下に紅葉する落葉樹がある。
ここは南禅寺の境内だが、「鹿ヶ谷通り」という道でもある。山門のある区画の外を回っている。
12月だというのに、ホトトギスが咲いていた。
まだ咲きそうな蕾もある。
真っ赤というよりは黄色っぽい葉もあれば柿色の葉もある。その落ち葉が掃いてしまわれずに残してあるのもええ感じ。
南禅寺北門は車と写したくなかったが、次々に通っていく。

野村美術館も通り過ぎる。
「いとをかし 和もの茶わんの世界展」をこの日まで開催していた。
博物館の北側には疎水と小道を挟んで碧雲荘という野村の別邸がある。
NHKでは南禅寺界隈別荘群などというシリーズの番組が多数つくられ、また何度も再放送されているが、ずーっと昔に、 「秘宝三十六歌仙の流転―絵巻切断」(NHK)で佐竹本三十六歌仙の断簡を野村美術館や泉屋博古館が所蔵していることと共に、その庭園が紹介されたことがあった。それよりも更に前、まだこの界隈に観光客が押し寄せない静かだった頃に、この辺りの小道を歩いたことがある。生け垣の隙間から庭園が垣間見えたりして、楽しかったが、それから40年も経っているのだった。足腰が弱らないうちに、もう一度歩き回ってみたいものだ。
つづいて裏門
そして石垣の上の紅葉。

右側には紅葉の名所として有名になってしまった永観堂。
遊心門は出口専用になっている。
ちょっと覗いてみた。
塀の外にもこぼれ出る楓の真っ赤な紅葉。
それにつられて門の中へ。赤だけでなく、柿色の葉も。
多宝塔を写して出てしまった。

永観堂の白い塀が続いた後は民家が並んでいる。東山の紅葉はなかなか見えない。
哲学の道の始まりというか終わりというか、その道からやっと東山の紅葉が見えた。
次のT字路にある博物館が目的地。
この坂を下りていくと東天王町の交差点。丸太町通りとなる。
右手には泉屋博古館。「高麗仏画 香りたつ装飾美」展を見学に来たのだった。

                  →高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール

※参考サイト
兵庫県養父市のホームページの琵琶湖疎水の話
京阪電車の湖都から古都へ 琵琶湖疎水 川の路美しい庭園でもてなす京の別邸