ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/07/29
イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?
チョルポン・アタの岩絵に登場する動物で最も多いのはオオツノヒツジ(アイベックス、現地の説明板より)である。
チョルポン・アタの岩絵で見学したのはサカあるいは烏孫が描いたものとされ、前8-後5世紀と、岩絵にしては時代の下がるものだった。
イシク・クル湖に流れ込む川の下流平地に新石器時代からの岩絵が残っていて、弓のようにカーブしたオオツノヒツジだけでなく、角が渦巻くように表された草食獣も描かれていて、その名称はアルガリ・野ヤギ・アンテロープなど様々。
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』でイシク・クル湖の青銅器時代について、
初期青銅器時代は前3500年-2000年、中期青銅器時代は前2000-1600年、後期青銅器時代は前1600-1200年、初期鉄器時代は前1200-450年としている。
アルガリ(偶蹄目ウシ科ヒツジ属) 動物は新石器時代、車輪は青銅器時代 カラ・オイ
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』は、アルガリ、あるいはオオツノヒツジはヤギも同じく、昔の芸術家の好んだ題材である。螺旋状に渦巻く角は、しばしば標章の役目を果たし、宗教的な儀式に結びつけられたという。
角に力を感じ取ったのか、渦巻いて表されている。肢は4本、角は中央の何重にも巻いたもの以外は2本描かれている。
車輪については次回。馬に乗る人物はいつの時代のものだろう?
野ヤギ(ウシ科ヤギ属) 新石器時代 チェト・コイ・スー
同書は、広大な生息地を持つ野ヤギは、昔の猟師の主な獲物であった。そのような訳で岩絵の大部分はヤギの絵でしめられている。 幾つかの動物の像は象徴的な意味を持っているという。
野ヤギの方がサカや烏孫のオオツノヒツジの角に似ている。先が2本に分かれたものもある。
太陽の標章、車輪 青銅器時代 チェト・コイ・スー
上に両肢が車輪に描かれたオオツノヒツジ、下に二輪を綱で繋がれて牽くオオツノヒツジが描かれている。
角は1本で表されるものと、2本描かれるものとがある。
車輪については次回
太陽の標章と様々な草食獣 青銅器時代、チェト・コイ・スー
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』の表紙には、太陽の標章の周囲に様々な草食獣が描かれている。その中で2本の角が頭部の前方に突き出ているものは雄牛。それ以外の動物は角は1本。
アルガリ 後期青銅器時代 チェト・コイ・スー
2本の角が渦巻いて表される。
オオツノヒツジ 初期鉄器時代
人に飼い慣らされたユキヒョウがオオツノヒツジを狙う場面。
オオツノヒツジの角は、サカ・烏孫期(全8-後5世紀)のように2本には描かれていない。
アルガリ 初期鉄器時代 チェト・コイ・スー
鉄器時代になっても、角は渦巻いて表される。しかし、上の大きなアルガリは1本の角が渦巻き、下の2頭は2本の角が渦巻いている。
このように見てくると、サカ・烏孫期のアイベックスは、新石器時代のものを手本にし、さらにデザイン化したのではないかと思うほど似ている。
イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?←
→イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬
関連項目
騎馬が先か戦車が先か
イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた
※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢 雄偉なる文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity
2016/07/26
イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?
岩絵という言葉から、先史時代の人々が描いたものを想像する。チョルボン・アタ岩絵博物館のパネルにも、前2千年紀からのものがあるとされていたが、見学した岩絵と墓は、サカまたは烏孫の時代のものだった。
サカについて『スキタイと匈奴遊牧の文明』は、イラン西北部のビーストゥーン碑文によると、アカイメネス朝はサカを以下の三種に分けていた。それは、サカ=ティグラハウダー(尖り帽子のサカ)、サカ=ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、そしてサカ=(ティヤイー=)パラドラヤ(海のかなたのサカ)である。
サカ=ティグラハウダーは中央アジアの中でもやや西より、サカ=ハウマヴァルガーはやや東よりに住んでいたとする考え方もあるが、それほど根拠があるわけではない。一方、「海のかなたのサカ」は、「海」をカスピ海もしくは黒海と解釈すれば、北カフカスから黒海北岸にいる騎馬遊牧民、すなわちギリシア文献に出てくるスキタイということになる。
ヘロドトスはサカをサカイと表記し、前480年にクセルクセス1世(在位前486-465年)のギリシア遠征に参加した一部隊として、「尖り帽子のサカイ」について言及している。
サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルバシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという(双頭の)戦斧を携えていた。彼らは「アミュルギオンのスキタイ」なのであるが、ペルシア人は彼らをサカイと呼んでいた。というのは、すべてのスキタイにサカイという名前を与えていたからである。(『歴史』巻)
ギリシア人がスキタイと呼んでいるものとペルシア人がサカ(サカイ)と呼んでいるものは同じだとするヘロドトスの解釈は、おそらく正しいだろう。北方の草原地帯に住み同じような文化を持つ騎馬遊牧民をスキタイとかサカなどと総称したのであろう。とすれば、同じ言語を話し、同じ人種に属していたかどうかとは関係なく、西は黒海北岸から東は中央アジア、さらにアルタイ、トゥバを越えてモンゴル高原にいたるまで、文化的に近い騎馬遊牧民をスキタイと呼んでも間違いではなかろう。
欧米の学界ではギリシア語文献による研究が進んでいたため、もっぱら「スキタイ」の名が使われることになった。そして中央アジアの騎馬遊牧民についてだけ、「サカ」の名称が適用されることになったという。
烏孫について『図説中国文明史4』は、西域は36の国にわかれており、砂漠のオアシスや谷間・盆地に分布していました。最大の国は烏孫で、63万の人口がいると称していました。それに次ぐのが大月氏の40万人でした。西域各国はいずれも農業と牧畜業を生業としており、牧畜のために水と草を求めて移動するので、定住していませんでした。
前漢はじめ、匈奴はモンゴル高原から西域に侵入し、しだいにこの地の覇者となりました。
匈奴は西域に侵入し、立てつづけに西域の強国である大月氏と烏孫をうち破り、大月氏を中央アジアに追い払いました。漢の武帝はともに匈奴を討つ同盟軍を探すため、2度にわたって張騫を使節として西域に派遣しました。
張騫の最初の派遣は帰国までに13年を費やし、数々の困難と危険をのりこえてついに中央アジアに大月氏の国を探し出しました。ところが、月氏の王には東方に戻って匈奴と戦う意志はなく、張騫のこのときの派遣は目的を得られませんでした。しかし、張騫は西域に関する知識を持ち帰り、漢人の視野を大い広げました。その後、張騫は再び派遣され、烏孫の王に東方へ帰るよう懸命に勧めましたが、また不成功に終わりました。しかし、烏孫は数十名の使者を派遣して長安へ戻る張騫に随行させました。これにより両国の交流がはじまりましたという。
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』では新石器時代からの動物や人間の岩絵が紹介されている。
シカはチョルポン・アタの岩絵にはあまり登場しないが、、ひょっとするとこれがシカを表したものかも。
ところが、枝別れするシカの絵は、他の場所の岩絵には新石器時代から描かれている。
シカ カラ・オイ(Kara-Oy) 新石器時代
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』は、シカは古い時代の人々にとって、最も一般的なシンボルである。あるキルギス族の名前は、この動物に由来する。Bugu(シカ)、Sarybagysh(黄色いヘラジカ)、Karabagysh(黒いヘラジカ)、Chonbagysh(大きなヘラジカ)、同時にシカは猟師にとって望ましい獲物である。シカの狩猟場面は、新石器時代以来岩絵にありふれた題材であるという。
樹木のように多くの枝が出るシカの大きな角が特徴的な表現で、シカの右前方で、シカの首に回したロープを引っ張るヒトがいて、その上には、枝角の上に立ち、上の角を掴んでいる人間もいるような・・・ 妄想かも。
シカは体は横向きだが、角と前肢・後肢はそれぞれ2本ずつ、やや斜め向きで表され、人間に抵抗するように、後肢を踏ん張る様子が描かれる。
オオツノシカ 新石器時代
同じ種類の動物を描いているように見えるが、何故上はシカで、これはオオツノシカなのだろう。
巨木というよりは、枝を密に張る灌木のように角を描いている。
青銅器時代になると、体だけでなく角も横向きで表されているので1本になっているが、肢は2本ずつ描かれ、前肢のみ少し動きがある。
シカ 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
シカ 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
同じ巨岩には、鹿狩りの場面が描かれている。シカは走ってはおらず、肢は4本、大きな角が1本、樹木のように表されている。右上の大きなシカよりも、中央下の小さなシカの角の方が、樹木っぽい。
ちょっと気になるのは、左上のシカを追う動物(イヌにみえるが、ユキヒョウかも)の前肢と後肢の間に、小さく人物が描かれている。しかもそれが、ウマのような動物の背に乗っていることだ。
樹木のような角のシカは、鉄器時代以降は描かれなくなった。
時代的には繋がらないが、この樹木のような鹿の角は、遊牧民の王族の副葬されていた樹木冠に似ている。
帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土しているという。
これが「尖り帽子のサカ」の被っていた帽子で、左耳上方に針金の樹木が見える。
その拡大図
これは青銅器時代の鹿の角に似ていないだろうか。「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現でもある。
野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリヤ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王 とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構 造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考 えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。
金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われるという。
たまたま似ているだけかな
→イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?
関連項目
黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?
金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?
イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた
イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬
※参考文献
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」 林俊雄 2007年 講談社
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」 1991年 古代オリエント博物館
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
2016/07/22
東京藝術大学ではバーミヤンの復元壁画
バーミヤンについて『Shotor Museum アフガニスタンの美』は、谷を挟んで南側にある高台からバーミヤン渓谷を望むと、はるか対岸に2つの大仏が見える。
東の大仏について玄奘が「この国の先の王が建てたもの」と書き、彼が見た 時はまだ傷みも少なそうな様子から、玄奘がこの地を訪れた632年をそれほどさかのぼらない頃の作ではないかと思われる。バーミヤンを調査した樋口隆康氏 も年代の確定を困難としている(『バーミヤンの石窟』同朋舎)という。
『アフガニスタンの美』は、西のよりやや小ぶり、といっても東の大仏も高さは38mある。西の頑丈な男性的体軀に対し、東の方は女性的で優しいという。
近隣に住む人々はムスリムだが、お父さん、お母さんと慕っていたと何かの番組で聞いたことがある。
在りし日の東大仏
『季刊文化遺産14文化の回廊アフガニスタン』(以下『文化の回廊アフガニスタン』)は、東大仏の仏名を玄奘は「釈迦仏」と明記しているという。
東大仏の窟頂には太陽神が描かれていた。
『文化の回廊アフガニスタン』は、有翼の4頭の白馬に引かれる黄金造りの二輪車に乗り、輝く日輪を背にして立つ神は、イランのミスラ、中央アジアのミイロ、インドのスーリヤ、そして釈尊の超越性とを融合したみごとな象徴図像といえよう。この画像には、大仏造営のパトロンたちの宗教的、政治的なさまざまな想いが托されているように想われるという。
東博で「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展」が開催された時、東京藝術大学ではバーミヤンの壁画の復元されたものが展示されるということで、「めぐりん」に乗って行ってみた。
美術館ではなく別の建物で開催されていた。開館まで時間があるなあと思っていたが、植え込みにアカンサスの花を見つけてしまい、閑をもてあますこともなかった。
こんな花柄が高く伸びるとは。
赤い花のように見えたのは、萼の色だった。
白いと思ったものは萼が緑色で、どちらも花は白い。良い香りがすると聞いていたが、雨が降っていたためか、匂わなかった。
一番高いものには、まだ蕾がたくさんついていて、ギリシアの棟飾りのアクロテリオンのようだ。というか、このような植物の葉や花が勢いよく伸びる様子がデザイン化されたものがアクロテリオンではなどと想像が膨らむ。
本来の目的を忘れそうになった頃、9時半になり、扉が開いた。
2階が復元壁画の展示場になっていた。入口は二手に分かれ、中央に復元壁画を印刷したものがあった。
同展リーフレットは、東大仏天井壁画においては、完全に破壊されてしまっているため、過去に写された写真資料でしか見る事は不可能であった。そこで今回、東京藝術大学の特許技術を活用し、デジタルとアナログの融合によるクローン壁画の制作に着手した。新しいデジタル技術により壁画の凹凸や質感までも再現し、アナログ技術により使用されている絵具の成分までも再現する事が可能になってきた。また、6mX7mに近い大壁を短時間で完成させる事ができるこの試みは、今後も他の消失した壁画の再生に大いに役立つ事であろうという。
左手の入口から入ると、馬の足元から太陽神が見えたが、写すことも忘れて進んでしまい、窟頂の外側になる位置から写した。
暗いのと、平らに近いものを写すので、こんな写真になってしまった。入口前に見易いコピーがあった訳がわかった。
想像していたよりも低い位置に復元されているのは、破壊された大仏頭頂と天井との間隔も再現しているからだろう。撮し損ねたが、大仏の顔(顔の前面はずっと以前に切りとられている)の位置を示すラインが床に描かれていた。
描き起こし図
『アフガニスタンの美』は、イラン風衣装の太陽神が描かれているという。
同展リーフレットの図版
同展図録で宮治昭氏は、1969年の調査の際に筆者が作図した線図をもとに、東大仏の仏龕天井壁画を観察しよう。天井大画面には四頭の有翼の白馬に曳かれる馬車に乗って、天を駆ける太陽神が描かれる。中央に大きく描かれた主神は、丸首で筒袖の遊牧民の服装をマントで翻し、両肩を覆ってその両端を左胸のところで留めている。この太陽神は両肩から冠帯をはね上げ、首飾りを垂らし、腰にはベルトを付けて長剣を吊し、、左手でその柄を握り、右手に長い槍を持つ。全身が収まるほどの大きな円形の光背を負い、その光背は放光を表す鋸歯文で縁取られている。
大画面の上端は剥落がひどいが、ハンサが数羽列をなして太陽神の方に向かって舞い下り、両端に一対の風神が描かれる。白いショールを広げ、その両端をしっかりと握る裸形の上半身が表され、頭髪を後ろへ大きくたなびかせる。大構図の両端には雲をかたどるかのような赤褐色の帯があるという。
主神の足下には車軸上に御者がいるが、わずかに有翼の一部を左足が残るにすぎない。四頭の有翼白馬はみな前脚を蹴り上げ、二頭ずつ左右対称に、両端の車輪とともに側面観で表される。御者のの両側、車上の左右にはいずれも有翼でヘルメットを被り、頭光をつけた一対の女神が描かれる。向かって左右脇侍女神は右手を上げ(持物不明)、左手には顔のついた楯を持つ。一方、左脇侍の女神は左手に弓を持ち、右手で矢をつがえようとしているという。
主神のマント、神々の人体表現、馬、風神などの表現には運動観があるが、形体は類型的で、人物の輪郭線や目鼻立ちなどは一本調子の描線を用いて描き起こす。隈取りや暈しなどは施さず、人物や事物の立体感の表出にはほとんど意を用いない。
このような絵画様式は、ヘレニズム・ローマやインドの絵画伝統とは異なり、ササン朝絵画の伝統に連なるものと推測されるという。
ササン朝の伝統的な絵画って、どんなものだったかな?
さて、この大画面の主題は何であろうか。馬車に乗る太陽神の図像は、ギリシャのヘリオス、インドのミスラ、インドのスーリヤなど古代ユーラシア大陸に広まっている。四頭立ての二輪戦車(ガドリガ)に乗る太陽神という図の基本形は、ギリシャのそれに由来するものに違いない。
かつてB.ローランドや前田耕作が指摘し、F.グルネが積極的に主張するように、バーミヤンの太陽神は、図像的に『アヴェスター』の「ミヒル・ヤシュト」の記すミスラに近い。ミスラは多面的な特徴をもって描写されているが、わけても太陽神としての性格が強い。ミスラの両側に従う二女神はアルシュタートとヴァナインティーであろう。
東大仏の天井に描かれた太陽神ミスラは、グルネが示唆したように、おそらくバーミヤンに仏教が根づく以前のこの地の信仰であって、仏教に取り込まれたものであろう。しかし、それは単なる守護神として描かれたのではない。言語学者・宗教学者が指摘するように、ミスラと弥勒(マイトレーヤ)はもともと繋がりをもっており、おそらく弥勒信仰が発展していくなかで、バーミヤンではミスラ信仰を吸収していった-あるいはむしろ、ミスラ信仰を吸収したが故に弥勒信仰が発展した-のではないかという。
大画面壁画では、太陽神が長い槍を持ち、四頭の白馬が曳く馬車に乗り、馭者と二女神を従え、上方から風神がショールを翻しており、「ミヒル・ヤシュト」とかなりよく合う。グルネは壁画の二女神を、「正義の女神」であるアテナ型のアルシュタートと、「勝利の女神」であるニケ型ヴァナインティーと解釈する。
二女神の上には半身半鳥の霊鳥が描かれ、頭には頭巾状の被り物をつけ、冠帯を垂らし、右手には松明、左手には柄杓のようなものを持つ。
松明を持つ半人半鳥は「燃え盛る火」を表すものとみられるという。
迦陵頻伽とは異なる半人半鳥のようだ。
東大仏と天井壁画がバーミヤン石窟全体の中で初期に位置づけられることは間違いない。それはいつか。 ・・略・・ 大仏自身も6世紀後半の造立と考えるのが妥当であろうという。
また、2階にはこのような東大仏の頭部から眺めたバーミヤンの景色が大画面で表されていた。
流出した美術品が平和になったアフガニスタンに戻るだけでなく、このような復元の技術や研究が、現地の人々の手によって行われる日が来ますように。
関連項目
三十三間堂3 風神雷神の起源
※参考文献
「Shotor Museum アフガニスタンの美」 谷岡清 1997年 小学館
「季刊文化遺産14 文化の回廊アフガニスタン」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「2016 アフガニスタン流出文化財報告書~保護から返還へ」のリーフレット及び図録 2016年 東京藝術大学アフガニスタン特別企画展実行委員会、東京藝術大学ユーラシア文化交流センター
2016/07/19
黄金のアフガニスタン展5 金箔とガラス容器
『黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展』はベグラム遺跡の出土品も出品されていた。
同展図録は、ベグラムは、首都カブールの北約70㎞、標高1.600m、ヒンドゥークシュ山脈南麓の町チャーリーカールの近郊に位置する。パンジル川とゴルバンド川が合流する地点の南側の台地にあり、川のすぐ南とそこから南に約500mの地点の2ヵ所で、王城の址が発見された。
前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王は、この地を北方の中央アジアや東方のインドへの拠点と定め、「パロパミサダエの麓にあるアレキサンドリア」または「コーカサスのアレキサンドリア」と呼んだ。その後シリアからイランを支配したセレウコス朝のセレウコス1世は、前4世紀末に北西インドへ攻め込み、インド、マウリヤ朝のチャンドラグプタと対峙した。両者は協定を結び、マウリヤ朝はアフガニスタンの東半を獲得し、ベグラムもインドの支配を受けた。続く前2-前1世紀にアフガニスタンから北インドを支配したのは、北西インドにいたギリシア人の王朝がたてたインド・グリーク朝である。
ベグラムはその後、バクトリアから南下してきたイラン系遊牧民のクシャーン王朝の支配下に置かれ、最も強勢を誇ったカニシュカ王(2世紀)の治下、クシャーン帝国の夏の都として栄えた。
1938年には、新王城第10室の北に隣接する第13室において、やはり出入口を日干レンガで封じられた部屋の中から、再び同様の発見があった。いずれの部屋の出土品も、素材や種類毎に分類して整然と置かれた状態で見つかっている。
ガラス製品は東と北西に散在していた。
ベグラムからは多様なガラス製品が出土しており、いずれの品もアレクサンドリアを中心とした地中海世界からもたらされたものであるという。
水差し 1世紀 ガラス、金 21.4㎝ ベグラム第13室出土
同書は、金箔を用いて絵や文様を描いている。胴部には3人の人物がおり、ディオニュソスが子鹿の皮をまとって、手にテュルソスと呼ばれる竿をもつ姿も見られるという。
水差しの首から肩にかけての部分は、月桂樹とハート形の樹葉からなる文様を巡らせるという。
頚部上から連珠文、月桂樹またはオリーブの葉、長方形の枠の中に菱形を入れた文様帯、蔦文が並んでいる。
月桂樹またはオリーブの葉がこのように並ぶ文様帯は見たことがあるが、思い出せない。
蔦文はアクロティリのボクシングをする少年や羚羊の壁画(前17世紀中葉)の上に文様帯として表されている。
テュルソスには蔦や葡萄の葉が巻かれ、頂部に松ぼっくりをつけるという。
金箔の上に黒っぽい色で顔、髪、葡萄の粒などを描いている。
把手付鉢 1世紀 水晶、金 高9.0径14.45㎝ ベグラム第13室出土
同展図録は、透けるように透明な水晶の鉢の表面に葡萄の葉と新芽を表わし、金箔で装飾している。金箔はわずかに残るのみだが、当初の豪華で鮮やかな装飾のさまがうかがえる。2つの耳と脚を持つこのタイプの坏はカンタロスと呼ばれる。ギリシア神話の酒神ディオニュソス(ローマのバッカス)は、しばしばこのタイプの鉢を持って描かれ、また、ディオニュソスのための酒は、カンタロスに容れて捧げられたという。
ガラスではなく水晶の原石をこのように彫り出したものだった。
葡萄の蔓や葉に金箔が貼られている。
文様を金箔(截金や截箔)で表してそれをガラスとガラスの間に入り込ませたものは紀元前に見られるが、ベグラム出土のガラスや水晶の器には金箔を貼り付けるという技法を使っている。そのためか、金箔の失われた部分もある。
ゴールドアカンサス文碗 イタリア、プーリア州カノッサ墓出土 前250年頃 ガラス(ナトロン)、金 アンチモンによる消色 高11.4㎝径20.3㎝ 大英博物館蔵
『古代ガラス色彩の饗宴展図録』は、口縁は外反し、口唇部内面に2条、外面に1条の 沈線装飾が施される容器本体(内側容器)と、金箔を覆う半球形容器(外側容器)を別鋳し、金箔装飾後に加熱/熔着させたもの。鋳造による内側容器、外側容 器とも約2㎜程度と薄く、高度な制作技術の存在をうかがわせる一方、熔着は不完全であり、ゴールドサンドイッチ技法初現期の様相を呈している。
内側容器外面に施される金箔装飾は我が国仏教美術で用いられる截金技法の祖ともいうべき技術で、細く切った金箔を貼付け、優美な渦巻文やアカンサス文を表しているという。
後1世紀にはガラスの間に金箔を入れる技術がなくなったわけではない。
聖女アグネス、ガラス杯底部 4世紀半ば 金彩ガラス 直径7.7㎝ ローマ、パンフィロのカタコンベ出土
『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、金彩ガラスの器は、ガラスとガラスの間にはさみ込まれた薄い金箔に切り紙状の装飾を施したものであるという。
このような手の込んだ技法が、ベグラムまで伝わらなかったのだろうか。
関連項目
古代ガラス展5 金箔ガラスとその製作法
金箔入りガラスの最古は鋳造ガラスの碗
アクロティリ遺跡の壁画4 ボクシングをする少年
黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状は粒金ではない
※参考文献
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」 1997年 小学館
「古代ガラス 色彩の饗宴展図録」 MIHO MUSEUM・岡山市立オリエント美術館編 2013年 MIHO MUSEUM
2016/07/15
黄金のアフガニスタン展4 ヘラクレスは執金剛神に
ティリヤ・テペ4号墓は男性の墓で、黄金のメダイヨンは胸の上に置かれていたという(『黄金のアフガニスタン展図録』より)。
インド・メダイヨン 前1世紀第2四半期 金 1.6㎝
その裏面に登場する人物について同展図録は、ライオンの皮をまとったとみられるヘラクレスのような男性が、8本のスポークがある車輪を前方に両手で押して歩く姿を描き、その右方に古代インド文字で「法輪を転じる者」または「(彼は)法輪を転じる」と解される。
裏面の人物は仏陀の姿を表した最古の例とする説が示された。しかしこれには異論もあり、人物は単に法輪を転じる動作を象徴するのみで仏陀ではないとする説もあるという。
私もこれは仏陀を表したものではないと思う。それについてはこちら
しかし、ライオンの皮を纏って表されるのは、ギリシアの神ヘラクレスであることに疑いはない。
ヘラクレスは、古代ギリシア時代以来、棍棒を持って表されてきたが、このメダイヨンではそれが見当たらない。
それについてはこちら
棍棒を持つヘラクレスは東方にも伝わって、王の銀貨の裏に表されていることがある。
銀貨 グレコ・バクトリア朝エウティデーモス1世(前230-190年頃) 4ドラクマ 16.40g 平山郁夫コレクション
『平山郁夫コレクションガンダーラとシルクロード展図録』は、岩に腰かけ、右手で棍棒を持ち膝の上にのせる。左向きのヘラクレス神像という。
こぶこぶの棍棒は右手で握り、何かの上に突き立てている。
小さいのでわかりにくいが、ライオンの皮はまとっておらず、頭部は癖毛か、ライオンの頭部を被っているようだ。
銀貨 インド・グリーク朝エウティデーモス2世(前190-171年頃) 4ドラクマ 16.6g 平山郁夫コレクション
同書は、蔦の冠をかぶり、左手に棍棒と獅子の毛皮、右手に環を持ち、正面を向くヘラクレス神立像という。
その後、棍棒を持ったヘラクレスは仏教美術に採り入れられ、執金剛神となった。
出家踰城図 仏伝図浮彫 1-2世紀 パキスタン、ローリヤーン・タンガイ出土 片岩 高48㎝ コルカタ・インド博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、まさに城門から出ていく太子を描写している。画面中央には、ローマ皇帝の凱旋、入城、行進のように右手をあげて進む太子と馬が側面観で描写されている。馬の足は、ヤクシャが蹄の音を消すために支えている。馬の後ろには馬丁のチャンダカが傘蓋を捧げ持っている。その背後には城門があり、その上に金剛杵を持つ執金剛神がいる。左端で円形頭光で荘厳された梵天が合掌しているという。
ヘラクレスの持物である長い棍棒は、短い金剛杵となり、ライオンの皮も被っていない。
執金剛神について『仏教美術用語集』は、金剛杵を持って仏法を守護する天部。一般に仁王と呼ばれ、上半身裸形の姿で守門神となる場合が多いという。
金剛杵は中央が凹んだ短い棒で、クシャーン朝の武器。その武器を持っているという言葉そのままが執金剛だった。
執金剛 涅槃図断片 2-3世紀 ガンダーラ、スワート出土 緑色片岩 高さ58.5幅24.5㎝
『平山郁夫コレクションガンダーラとシルクロード展図録』は、女は髪型と腰の垂飾からクシャン女性、ギリシア風着衣の男はヴァジラを持っており、執金剛である。手を頭に当てる仕草は悲しみの表現で、二人の間には沙羅らしき樹木も描かれており、涅槃図の断片であろうという。
初転法輪の準備 2-3世紀 ガンダーラ出土 灰色片岩 高さ65幅75㎝
同展図録は、初転法に訪れた仏陀と彼を迎えるかつての苦行仲間。彼らはのちに仏弟子となるが、すでに剃髪で表される。三宝(仏・法・僧)を表す三つの車輪を戴く柱頭は、鹿野苑にあったアショカ王柱のものを写している。有翼のエロスはローマ美術の影響であろうという。
この執金剛神は金剛杵を持ち、外側を威嚇的に睨んでいる。
黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?←
→黄金のアフガニスタン展5 金箔とガラス容器
関連項目
ヘラクレスの棍棒が涙の柱に
※参考文献
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社
「ブッダ展-大いなる旅路 図録」 1998年 NHK
「図説ブッダ」 安田治樹・大村次郷 1996年 河出書房新社
「平山郁夫コレクション ガンダーラとシルクロードの美術展図録」田辺勝美ほか 2002年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「仏教美術用語集」 中野玄三編著 1983年 淡交社
2016/07/11
田上惠美子氏から届いた長~い案内状は「蜻蛉玉源氏物語」
久しぶりに田上惠美子氏から個展の案内を頂いた。なんという長さ!
平安時代の源氏物語絵巻から極彩色ではない蓬生の場面を背景に、9個のトンボ玉が紹介されている。しかも、いつものように作品の影のある写真ではなく、粗い織の布が地になっている。
横向きで見るべきものでした。
文字はいつもいただく案内状の田上氏の字ではなさそう。
思い返せば、最初に田上氏の源氏物語シリーズを拝見したのが2009年のART BOXで、この時は9個だった。
次に同じくART BOXで2011年に開かれた個展では16個になっていた。
以来幾多の個展の中で私が行くことができたのは一握りだったせいか、「源氏物語シリーズ」には出会わなかったように思う。
そして5年の歳月を経て、残りの38個が出来上がった。田上氏ご自身は片時も源氏物語シリーズを仕上げることが頭から離れなかった
1年に約8個というのはかなりのペースである。
葵は2009年から、御法は2011年に登場しているが、あとは初めてみるものばかり。
個展の会場は東京青山のKARANIS、滅多にないことに、先月その辺りを通った。根津美術館の「中国の古鏡展」を見に行ったのだが、確か田上氏の個展が度々開催されるKARANISというギャラリーも近くにあったと思って探したがわからなかった。根津美術館が新しくなって初めて行ったので、以前とは全く違う建物が並んでいて、YOKUMOKUさえ見つけられなかった(今調べてみると16年8月まで改装工事中だった)。
一緒に開催される京真田紐のお店と田上氏との関係は?
KARANISには行くことはできないが、9月に箕面でも「蜻蛉玉源氏物語」は開催されるそう。
箕面といえばあの天善堂かな?拝見するのが楽しみ!
田上惠美子氏の二人展← →天善堂で田上惠美子ガラス展 蜻蛉玉源氏物語
関連項目
ART BOXで田上惠美子氏のトンボ玉展
田上惠美子氏のハガキのトンボ玉は「須磨」だった
箕面で田上惠美子ガラス展3
箕面で田上惠美子ガラス展2
箕面で田上惠美子ガラス展1
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