ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2016/07/26
イシク・クル湖北岸の岩絵1 シカの角が樹木冠に?
岩絵という言葉から、先史時代の人々が描いたものを想像する。チョルボン・アタ岩絵博物館のパネルにも、前2千年紀からのものがあるとされていたが、見学した岩絵と墓は、サカまたは烏孫の時代のものだった。
サカについて『スキタイと匈奴遊牧の文明』は、イラン西北部のビーストゥーン碑文によると、アカイメネス朝はサカを以下の三種に分けていた。それは、サカ=ティグラハウダー(尖り帽子のサカ)、サカ=ハウマヴァルガー(ハウマを飲む、あるいはハウマを作るサカ)、そしてサカ=(ティヤイー=)パラドラヤ(海のかなたのサカ)である。
サカ=ティグラハウダーは中央アジアの中でもやや西より、サカ=ハウマヴァルガーはやや東よりに住んでいたとする考え方もあるが、それほど根拠があるわけではない。一方、「海のかなたのサカ」は、「海」をカスピ海もしくは黒海と解釈すれば、北カフカスから黒海北岸にいる騎馬遊牧民、すなわちギリシア文献に出てくるスキタイということになる。
ヘロドトスはサカをサカイと表記し、前480年にクセルクセス1世(在位前486-465年)のギリシア遠征に参加した一部隊として、「尖り帽子のサカイ」について言及している。
サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルバシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスという(双頭の)戦斧を携えていた。彼らは「アミュルギオンのスキタイ」なのであるが、ペルシア人は彼らをサカイと呼んでいた。というのは、すべてのスキタイにサカイという名前を与えていたからである。(『歴史』巻)
ギリシア人がスキタイと呼んでいるものとペルシア人がサカ(サカイ)と呼んでいるものは同じだとするヘロドトスの解釈は、おそらく正しいだろう。北方の草原地帯に住み同じような文化を持つ騎馬遊牧民をスキタイとかサカなどと総称したのであろう。とすれば、同じ言語を話し、同じ人種に属していたかどうかとは関係なく、西は黒海北岸から東は中央アジア、さらにアルタイ、トゥバを越えてモンゴル高原にいたるまで、文化的に近い騎馬遊牧民をスキタイと呼んでも間違いではなかろう。
欧米の学界ではギリシア語文献による研究が進んでいたため、もっぱら「スキタイ」の名が使われることになった。そして中央アジアの騎馬遊牧民についてだけ、「サカ」の名称が適用されることになったという。
烏孫について『図説中国文明史4』は、西域は36の国にわかれており、砂漠のオアシスや谷間・盆地に分布していました。最大の国は烏孫で、63万の人口がいると称していました。それに次ぐのが大月氏の40万人でした。西域各国はいずれも農業と牧畜業を生業としており、牧畜のために水と草を求めて移動するので、定住していませんでした。
前漢はじめ、匈奴はモンゴル高原から西域に侵入し、しだいにこの地の覇者となりました。
匈奴は西域に侵入し、立てつづけに西域の強国である大月氏と烏孫をうち破り、大月氏を中央アジアに追い払いました。漢の武帝はともに匈奴を討つ同盟軍を探すため、2度にわたって張騫を使節として西域に派遣しました。
張騫の最初の派遣は帰国までに13年を費やし、数々の困難と危険をのりこえてついに中央アジアに大月氏の国を探し出しました。ところが、月氏の王には東方に戻って匈奴と戦う意志はなく、張騫のこのときの派遣は目的を得られませんでした。しかし、張騫は西域に関する知識を持ち帰り、漢人の視野を大い広げました。その後、張騫は再び派遣され、烏孫の王に東方へ帰るよう懸命に勧めましたが、また不成功に終わりました。しかし、烏孫は数十名の使者を派遣して長安へ戻る張騫に随行させました。これにより両国の交流がはじまりましたという。
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』では新石器時代からの動物や人間の岩絵が紹介されている。
シカはチョルポン・アタの岩絵にはあまり登場しないが、、ひょっとするとこれがシカを表したものかも。
ところが、枝別れするシカの絵は、他の場所の岩絵には新石器時代から描かれている。
シカ カラ・オイ(Kara-Oy) 新石器時代
『Masterpieces of PRIMEVAL ART』は、シカは古い時代の人々にとって、最も一般的なシンボルである。あるキルギス族の名前は、この動物に由来する。Bugu(シカ)、Sarybagysh(黄色いヘラジカ)、Karabagysh(黒いヘラジカ)、Chonbagysh(大きなヘラジカ)、同時にシカは猟師にとって望ましい獲物である。シカの狩猟場面は、新石器時代以来岩絵にありふれた題材であるという。
樹木のように多くの枝が出るシカの大きな角が特徴的な表現で、シカの右前方で、シカの首に回したロープを引っ張るヒトがいて、その上には、枝角の上に立ち、上の角を掴んでいる人間もいるような・・・ 妄想かも。
シカは体は横向きだが、角と前肢・後肢はそれぞれ2本ずつ、やや斜め向きで表され、人間に抵抗するように、後肢を踏ん張る様子が描かれる。
オオツノシカ 新石器時代
同じ種類の動物を描いているように見えるが、何故上はシカで、これはオオツノシカなのだろう。
巨木というよりは、枝を密に張る灌木のように角を描いている。
青銅器時代になると、体だけでなく角も横向きで表されているので1本になっているが、肢は2本ずつ描かれ、前肢のみ少し動きがある。
シカ 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
シカ 青銅器時代 チェト・コイ・スーの巨岩の岩絵部分
同じ巨岩には、鹿狩りの場面が描かれている。シカは走ってはおらず、肢は4本、大きな角が1本、樹木のように表されている。右上の大きなシカよりも、中央下の小さなシカの角の方が、樹木っぽい。
ちょっと気になるのは、左上のシカを追う動物(イヌにみえるが、ユキヒョウかも)の前肢と後肢の間に、小さく人物が描かれている。しかもそれが、ウマのような動物の背に乗っていることだ。
樹木のような角のシカは、鉄器時代以降は描かれなくなった。
時代的には繋がらないが、この樹木のような鹿の角は、遊牧民の王族の副葬されていた樹木冠に似ている。
帽子の飾り イシック・クルガン出土 前4世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬民族の黄金文化』は、冠は、さきの尖った帽子を黄金で装飾し、正面にグリフォンや馬を配置して、側面に山岳に樹木の上にとまる鳥などを取り付けたものであった。この墓の被葬者は「黄金人間」と呼ばれ、足の先から冠まで黄金をまとっていて、スキタイ系民族の1つであるサカ族の一部族長とされている。
南側の埋葬施設は墳丘下に丸太で造られたログハウスのような墓室があった。墓室の大きさは内法2.9X1.5mの細長い長方形。身長はおおよそ165㎝で、形質人類学者のイスマギロフ氏によると年齢は16~18歳、ユーロペオイドとモンゴロイドの特徴が混合しているらしい。
ユーラシアの草原地帯の人々は一日の寒暖の差が激しく防寒の必要もあり、また馬に乗り行動するところから、三角形の帽子を着用していた。その帽子に黄金の装飾をつけたものや帽子の上に立飾りのついた冠帯をかぶることが彼らの冠であった。
このような冠は黒海沿岸から朝鮮半島までいくつか出土しているという。
これが「尖り帽子のサカ」の被っていた帽子で、左耳上方に針金の樹木が見える。
その拡大図
これは青銅器時代の鹿の角に似ていないだろうか。「出」や「山」の字に繋がる形をした樹木の表現でもある。
野山羊と聖樹 北アフガニスタン、シバルガン近郊ティリヤ・テペ4号墓出土 前1~後1世紀 高5.2㎝ カーブル博物館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、王 とおぼしき被葬者の頭蓋骨の横で、中空の見事な角をもった野山羊(アルガリ)の像が発見された。蹄の先につけられた4個の小環は、この小像の下にさらに構 造物があって、それに固定するために使用されたものであろう。角のあいだにも中空の管がつけられており、その管に別の何かが差し込まれ、継がれていたと考 えられる。被葬者頭部で発見された円板の葉をつける黄金の樹木(高9.0㎝16.46g)がそれであるという。
金製ディアデム ホフラチ古墳出土 後1世紀 エルミタージュ美術館蔵
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、ドン川下流右岸の町ノヴォチェルカッスクで偶然に発見された。サルマタイ貴族の女性の副葬品に由来する。
ディアデム上部には、樹木とその左右に鹿、山羊、鳥が配置されている。鹿と山羊の鼻面の先端には小環が作られており、元来何らかのものが吊り下がっていた。また、樹木の葉は歩揺のように小環で取り付けられていた。
ディアデム上部の樹木と鹿・山羊・鳥からなるユニークな情景はサルマタイの神話的世界の一端を表現していると思われるという。
たまたま似ているだけかな
→イシク・クル湖北岸の岩絵2 サカ・烏孫期のオオツノヒツジは新石器時代のものが手本?
関連項目
黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠
歩揺冠は騎馬遊牧民の好み?
金冠の立飾りに樹木形系と出字形系?
イシク・クル湖北岸の岩絵4 ラクダは初期鉄器時代にやってきた
イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬
※参考文献
「Masterpieces of PRIMEVAL ART」 Victor Kadyrov 2014年 Rarity
「興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明」 林俊雄 2007年 講談社
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「南ロシア 騎馬民族の遺宝展図録」 1991年 古代オリエント博物館
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館