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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/06/28

黄金のアフガニスタン展1 粒金のような、粒金状のは粒金ではない


東京国立博物館で開催された「黄金のアフガニスタン展 守られたシルクロードの秘宝展」。中でもティリヤ・テペ遺跡より出土した金製品を見たかった。

『黄金のアフガニスタン展図録』は、ティリヤ・テペとは、アフガニスタン北西部にある直径約100m、高さ3-4mのテペ(遺丘)である。地元のウズベク語で「黄金の丘」と呼ばれたこの遺跡からは、1978年の発掘調査によって2万点を越える金製品が出土した。それらは「バクトリアの黄金」として、世界的にも高く評価されているという。
同書は、前2千年紀中頃には拝火教神殿が建てられた。この建物が大火で廃墟と化してから400-500年ほど経った紀元1世紀半ば、遊牧民の王族たちがこの地にやってきて、黄金に彩られた墓が造られた。
彼らは何者だろうか。サリアニディは、彼らの出自について次のように思い描いている。ティリヤ・テペの墓地が営まれた頃、グレコ・バクトリアはパルティアによる攻撃を受け、国家としては弱体化していた。このためさまざまな遊牧民が領域内に侵入し、バクトリア内で培われたギリシアの都市文明は彼らの格好の標的となっていた。そのような遊牧民のひとつがクシャーン族である。彼らは、中国との国境付近で匈奴と衝突を繰り返し、次第に西へと押し出されていった。南シベリアでスキタイ族と出会った彼らは、さらに西に向かってアム川を越え、バクトリアに攻め込んだ。この地を占拠したクシャーン族はギリシア風の都市的な生活や文化と出会い、次第にその虜となっていく。そして彼らは攻略された都市を再建し、強大なクシャーン朝を樹立した。ティリヤ・テペ墓地に葬られた被葬者たちは、そのような経緯でバクトリアにやって来たクシャーンの王族層であった。
しかし近年では、このようなサリアニディの想定とは異なった見解も有力である。たとえば匈奴に撃退された月氏に追われ、パルティアにやって来たサカ族も候補の一つとされている。遊牧民の活動は広大で国家の枠にはとらわれない。彼らは雪崩のように民族移動をくり返しては、ことたび強力な王朝が誕生するとその中に溶け込んでしまう。このような理由のため、ティリヤ・テペの被葬者が誰かという問いに答えることは容易なことではないという。
ティリヤ・テペの墓より出土した金製品は知っていたが、その出土地がこのような拝火教神殿跡だということに驚いた。
更に驚いたのは、その拝火教神殿第1期(前1500年頃)の平面図が、トルクメニスタン、マルグシュ遺跡のトゴロク21号神殿の平面図とよく似ていることだった。
6人の被葬者が埋葬された後1世紀第2四半期という時期に、この拝火教神殿の遺構はどれほど残っていたのだろう。

遊牧民の王族とされる被葬者たちに副葬されていた豊富な金製品を、粒金の用いられたものに重点を置いて鑑賞していった。特に粒金だけを接合させたものなどは見たいものの筆頭で、わくわくしながら見て行ったのだった。
ところが、図録には、「粒金のような」などという解説が各所にあって、自分の頭の中にあった粒金細工という概念が、ガラガラと壊れてしまった。
取り敢えず、墓ごとにみていくと、

1号墓出土品
耳飾 1世紀第2四半期 金 2.9X2.4㎝
同展図録は、中空でゴンドラの耳飾であり、端部は鉤になっている。この耳飾には、両端付近に粒金細工に見えるような装飾が加えられている。出土状況から、本品は耳飾が髪飾に転用されたと推定される。このような装飾品は、ギリシアでは珍しく、黒海北側から類例が出土しているという。
粒金細工に見えるような
粒金細工ではないのかな?粒金が圧迫されて表面が扁平になっていたりするような・・・
そう言われてみると、下写真の方に凹みのある粒が。中空の粒を鑞付けしたのだろうか。こんな小さな粒を中空につくることができるものだろうか。

太鼓形装飾品 1世紀第2四半期 金・トルコ石・ガーネット・真珠母貝 1.1X1.4㎝
同展図録は、上下端は粒金細工のように飾られている。また、象嵌されたトルコ石と真珠母貝、インド産の透明なザクロ石が色彩の好対照をなしている。このような装飾品は、シベリアのアルタイ山脈のパジリク2号墓で出土しており、耳飾と考えられている。また、筒形あるいは糸巻き形の耳飾は、ドン川沿いのサルマタイ族の墓地やウズベキスタンのダルベルジン・テペでも出土しているという。 
やはり粒金細工のようにである。
下部の左側の粒もくぼんでいるように見える。 

三角形飾板 1世紀第2四半期 金 衣服に付けられた装飾板 1.3X1.0㎝
同展図録は、粒金状の逆ピラミッド形の飾板で、最上段が5粒、最下段が1粒で出来ているという。
これこそ地金に粒金を鑞付けしたのではなく、粒金だけを鑞付けしたものだと思っていたのに。
しかし、1つだけ拡大した図版を見ると、多くの粒は中央に凸線がある。粒金では考えられない線だし、へこみがある。
それに、球の形ではない。縦長の六角形に近い形である。完全な球体なら、このように並べると正三角形になるはず。
これは半球の金の殻のようなものを貼り合わせ、それを鑞付けしたものだろう。

蝶ネクタイ形飾板 1世紀第2四半期 金・トルコ石・ラピスラズリ・バイライト 0.4X0.35㎝
同展図録は、下部は粒金状の菱形文を付け加えている。蝶ネクタイ型の部分は金線で縁取りされ、内部にはラピスラズリまたはバイライトを象嵌して、多彩さが一層増しているという。
粒金状
それぞれ飾板は、金の粒の大きさや並べ方がまちまちで、これこそ粒金かと思っていた。

ハート文付飾板 1世紀第2四半期 金・トルコ石 1.3X1.1㎝
同展図録は、ハート形の上下に水滴文を向かい合せに結合し、5つの部分から構成された飾金具である。輪郭に沿って金線をめぐらせ、粒金に見えるようあしらっているという。
金線細工だった。
金線細工(filigree)については、『THE GOLD OF MACEDON』に図解の説明があった。
同書は、金の表面は様々な装飾モティーフを創り出すために曲げられたワイヤで飾られていた。ワイヤはおそらく同じ「粒状のしっかりした鑞付け」で表面に鑞付けしたのだろうという。 
しかし、金線細工は、マケドニアの作品などでは、一見して線状であることがわかったのだが、ティリヤ・テペのものは、それがわからない。

2号墓出土品
歯車形飾板 1世紀第2四半期 金・トルコ石 径2.0㎝
同展図録は、衣服を飾るための飾板(アップリケ)である。中央に6弁の花形を透かし彫りし、その輪郭に沿って16個の逆三角形の文様が付けられた、歯車形の装飾金具である。花柄部分の中央にはトルコ石を象嵌し、その周囲を粒金状に加工した装飾が施されているという。
やっぱりこれも金線細工だった。

垂飾付髪飾 1世紀第2四半期 金・青銅 12.7㎝
同展図録は、帽子形で金線や粒金状で複雑な装飾が付けられた円盤と先端の尖った青銅ピンから構成された金製垂飾付髪飾である。帽子の鍔部分からは、樹状に金線が立ち上がるという。
この作品こそ、粒金同士を鑞付けしたものだと思っていた。
粒金だけを鑞付けしたものは、前1700-1450年(中期-後期ミノア文明)の耳飾りにすでに見られるが、これはどのように作ったのだろう。

首飾 1世紀第2四半期 金・琥珀 径1.8・2.0・2.4㎝
同展図録は、半球形を注意深く貼り合わせて中空にした11個のビーズと4個の黒色ビーズ、2個の円錐形から構成されたネックレスである。多面体に加工された金製ビーズのうち6点には、稜線部を粒金状で加飾している。琥珀で作られた黒色ビーズ4個は合わせ目を金で装飾している。この首飾の両端は、粒状の金で飾られた円錐形の金製ビーズで終わるという。
粒状の金、これは粒金細工と捉えても良いのかな?粒金細工もあったのだ。
多面体のビーズには金線細工、円錐形のビーズには粒金細工というが、見分けられない。

3号墓出土品
首飾 1世紀第2四半期 金 球径2.1・1.9・1.6㎝
同展図録は、8個の細かく刻みが施された玉と、5個の無文の玉と、2個の留具としての細長い玉からなるという。
これも粒金細工ではなさそう。
円錐形の留め具は、粒金が押し潰されたようにも見える。
その下端や次の玉には、小さな四弁花文状のものが規則的に配置されていて、中には平たいもの、四弁の中央に出っ張りがあるものも。
裏から文様に打ち出した後に、円錐や球の形に整えたのだろうか。

4号墓出土品
戦士図飾板 1世紀第2四半期 金・練ガラス 1.8X1.3X0.6㎝
同展図録は、粒状の金により縁取られる楕円形のモチーフに、翼を広げた鷲がとまる中央の柱を挟んで戦士が立つという。
金線細工かと思ったら、粒金細工らしい。

5号墓出土品
襟飾(部分) 1世紀第2四半期 金・トルコ石・ガーネット・パイライト 長29.1㎝
同展図録は、2種のペンダントが組み合わされるつくりで、そのひとつは、つるりとした球にガーネットないしトルコ石がはまる丸い装飾が続き、さらに暗い石がはるアーモンド形の装飾と、対語に金の円盤がさがる。もうひとつは、金粒が列をなす環から、2つの三日月形が合わさる形状の金板が続き、先と同様の暗い石がはまるアーモンド形の装飾、金の円盤がさがる。粒状の金を縁に巡らせる装飾は広くみられる特徴である。粒金のような細工をあしらった円錐形の部品は留具であるが、飾板の裏側には糸が通るような管が付いており、この襟飾りがガウンに縫い付けられたものであることを示している。非常によく似たデザインのものがドン川河口の墓にもみられ、さらにロープの首に縫い付けられている点が共通するのも特筆されるという。
この作品には粒金細工が施されている。

6号墓出土品
首飾 1世紀第2四半期 金・トルコ石 球径2.8X2.5㎝
同展図録は、10個の中空の丸い玉と2個の円錐形の留具となる玉からなる。玉は粒状の金による線で区画され、区画一つおきに5弁のトルコ石を嵌めたハート形花弁を配するという。
これも金線細工ではなく、粒金細工だった。

粒金もあれば、中空の金の粒、金線など、同じに見えても手の込んだ様々な細工のものが使われていた。このような技術は、ミノア文明からあるもの、古代ギリシア時代にはあったものなど、ヘレニズム期にギリシア系の人々から伝わったとも考えられるが、それらはどのような工人たちが作っていたのだろうか。

        →黄金のアフガニスタン展2 ティリヤ・テペ6号墓出土の金冠

関連項目
唐時代にみごとな粒金細工の鏡
黄金伝説展2 粒金だけを鑞付けする
黄金伝説展1 粒金細工の細かさ
ティリヤ・テペの細粒細工は金の粒だけを鑞付け
古代マケドニア6 粒金細工・金線細工
イラクリオン考古博物館3 粒金細工
黄金のアフガニスタン展3 最古の仏陀の姿は紀元前?
黄金のアフガニスタン展4 ヘラクレスは執金剛神に
黄金のアフガニスタン展5 金箔とガラス容器

※参考文献
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社
「THE GOLD OF MACEDON」 EVANGELIA KYPRAIOU 2010年