ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2015/10/09
白鳳展3 法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像
東博で法隆寺献納宝物の木彫如来立像を見て以来、飛鳥・白鳳期の木彫が気になっていた。というのも、当時の仏像は金銅製が圧倒的に多く残っているからだ。
そんな時に奈良博で「白鳳-花ひらく仏教美術」という特別展が開かれるのは、願ってもないことだった。
中でも、法輪寺蔵伝虚空蔵菩薩立像は9月13日までの展示ということで、それまでに是非行かねば、でもまだまだ暑いだろうなと思っていた。ところがあの8月前半の猛暑からは予想するべくもない平年を下回る気温で助かった。当日の予報は雨だったが、なんとか降り出す前に博物館に入ることができた。
伝虚空蔵菩薩立像 白鳳時代、7世紀 木造 像高175.4㎝ 奈良、法輪寺蔵
『白鳳展図録』は、法輪寺金堂に伝来した像で、頭上に髻を結い上げ、上半身に天衣、下半身に裙をまとう菩薩形であり、左手をゆるく下げて指先に水甁の首をつまみ、右手は前方に差し出して仰掌するポーズは、法隆寺の百済観音像と共通する。両手先は後補とはいえ、当初の形制を襲っている可能性は高いだろう。江戸時代以降、虚空蔵菩薩像として信仰されてきたが、百済観音像が宝冠に化仏を戴くことから観音像と特定できるので、本像もまた観音像として造られたかと推定される。
像の作風には、飛鳥時代前期(7世紀前半)の主流様式であった止利派のそれが残るものの、体側を垂下する天衣が面を側方に向けることや、また身体の正面にわたる天衣が上下に分かれる点は、百済観音像や救世観音像において天衣がX字状に交差し、厳格な左右対称性を示すのと明らかに異なり、様式的に一歩進んだ様を呈しているという。
この像はガラスケースに入れられずに展示されていた。人間でいうと等身大、私よりも頭一つ分くらい背の高い像で、金銅仏にはない、柔らかな雰囲気を漂わせていた。
ただ、会場では彩色の残る頭光も一緒だったので、この図版は寂しい。図版に載せないということは、後補ということかな。
蕨手の掛かる両肩から三重に折り重なった天衣は、腹部までは左右対称に垂下するが、右側のものは左腕にかかり、左側の方はその下をくぐって膝の辺りまで下がり、そこから右腕に巻きついている。天衣の端は鰭状にならずに、やや体側にカーブしながら、その先を蓮台に添わせる。
せっかくなので、百済観音立像と比較すると、
百済観音立像 飛鳥時代、7世紀 木造彩色 像高209.4㎝ 法隆寺宝蔵館安置
『法隆寺』は、丸みをおびた全身からは柔和な優しさが漂う。頬の輪郭、やや小さめに浅く刻まれた口辺、眼と眉の間を少し広くした感じなどは女性的で温雅である。
頭・体部・足下の蓮肉部まで樟の一材からなり、面部から上半身にかけては、乾漆の盛り上げがほぼ全面に施されている。
上半身の肉付け、棟や下腹部のかすかな盛り上がり、天衣の表面を側面へ向け鰭状の突起を前後にする表現、肩にかかる垂髪の側面へのひろがり、さらに宝珠形の光背を竹竿を模した支柱に取り付けるなど、側面からもみられることを意識している。また浅い彫りで表現された衣の重なりや裾の部分にみられる柔らかな布の感じは、飛鳥時代前期の木彫像である夢殿安置の救世観音が、深めの彫り口で正面性を基調としているのに比べ対照的であるという。
伝虚空蔵菩薩立像は上半身には衣は着けていないが、百済観音立像は僧祇支を着けている。しかしながら、これはどちらが先に制作されたかを判別できる材料ではない。法隆寺献納宝物の菩薩像には、飛鳥時代前期の菩薩像にすでにどちらも見られるからである。
救世観音立像 飛鳥時代飛鳥期、7世紀前半-半ば 木造金箔 像高178.8㎝ 法隆寺夢殿安置
同書は、頭部に大きな宝冠をいただき、火焔付の宝珠を、右手の掌を前に向けて両手で胸前に捧げ、宝珠形の光背を背に、高く盛り上がった反花座上に立つ。表面は漆で目留めをし、白土下地を施した上に金箔が押された珍しい手法が用いられている。墨書された眉や髭、鮮やかな朱彩がのこる口元は衆生救済の慈悲に満ち、いかにも太子を意識して造顕されたように思える。
金堂の釈迦三尊像と同じく、著しく正面観が強調されながらも、肉体性を具えた、生身の太子の尊像が重なる不思議な像であるという。
宝珠形の頭光は更に大きく、、火焔が浮彫されている。元は彩色が施されていたようだが、それがわからないくらい煤がついている。
『白鳳展図録』は、像の大半を台座の蓮肉およびその下方に造り出す角枘まで含め、木心を籠めたクスノキの一材で造られる。像本体の材は造像当初から洞(ウロ)のあるものを用いたらしいという。
側面から見るとこんなに薄い。会場では支柱が天然木の歪みを生かして、その曲がった先に頭光を取り付けているのが面白かった。その写真も楽しみにしていたらこれとは。
腕から下がった天衣は柔らかく伸びて、大きさの異なるギザギザを2つだけ作っている。しかも、上と下の大きさを変えて、裳裾の細かな襞と共に、この像の造形では唯一といってよいくらい装飾的である。
百済観音立像は像高があるため、天衣も伸び伸びと作られたということもあるだろうが、伝虚空蔵菩薩立像の天衣は、幾分簡略化されているとも言える。
法隆寺法蔵館では、三方から鑑賞できるようにガラスケースに収められているので、宝珠形頭光の支柱も見ることができた。支柱下部では竹の皮の残った様子なども表されていた。
『白鳳展図録』は、最近、本像が百済観音像の表現を参照しつつ、朝鮮半島・三国時代の百済の仏像様式の影響も受けて造像されたとの推定がなされているという。
蕨手が法隆寺献納宝物N158のものに似ているが、その像は百済とは特定されていない。どのような点が百済風なのだろう。
現在は額の周りに鉢巻のようなものが巻かれているが、ここに当初は宝冠が付けられていたはず。おそらく金銅製の透彫宝冠だっただろうが、臂釧に合わせたデザインだったのかな。
果たしてこの顔には、百済観音立像のように乾漆の盛り上げによる抑揚というものが付けられていたのだろうか。
顔はといえば、法隆寺献納宝物N193如来立像とは異なって、というより仏像では一般的な、うつむき加減となっている。そして目は細く半眼に表されるが、二重となっている。二重の仏像ってあったかな?
我が乏しい書庫で古い図版を探すと、頭光と共に撮影されたものが出てきた。
『太陽仏像仏画シリーズⅠ奈良』は、かつては法隆寺と同じく金堂、塔を東西に配す七堂伽藍のそびえ立つ寺であったが、江戸時代にはほとんどが倒壊し、近年再建されたものの昭和19年まで唯一残されていた三重塔も雷火で消滅した。この寺の草創は聖徳太子の菩提を弔うために、太子の妃膳三穗娘や山背大兄王子らが建てたものと伝えられるという。
菩薩ならば瓔珞などの装身具を付けていても不思議ではないが、臂釧以外は失われてしまったのかな。
火焔の表された頭光は褪色があっも尚強烈な色彩だが、頭部背後に垣間見える蓮弁が幅広で、あの法隆寺献納宝物で唯一の木造如来立像N193の頭光とよく似ている。
百済観音立像も宝珠形頭光に火焔が表され、また同心円状に突線の枠が数本あって、異なるそれぞれ異なる文様帯に彩色されている。中央の蓮華も素弁で、覗花弁もはっきりと表され、伝虚空蔵菩薩立像だけでなく、法隆寺献納宝物N193の木造如来立像とも共通している。
蕨手は波うつ数本の束に分かれているが、これは伝虚空蔵菩薩立像と全く異なる造形となっている。
おまけ
薬師如来坐像 飛鳥時代白鳳期、7世紀後半 木造彩色 法輪寺
同寺の伝虚空蔵菩薩立像に似た顔貌の薬師如来だが、薬師如来の脇侍は日光月光菩薩なので、本来は別の堂に安置されていたものだろう。
坐した化仏が5体描かれたおそらく宝珠形の光背には彩色がよく残っている。
この像もやはり二重瞼。法輪寺独特の仏像といえるだろうか。
髪の生え際が一直線、螺髪が規則正しく並んでいる。一つ欠けているものの、よく残っている。
法隆寺釈迦三尊像の釈迦と似ているかなと思ったが、肉髻の高さ、大衣を身につける表現など、かなりの違いがある。やはり、次の時代の作品ということになるだろう。
白鳳展2 透彫灌頂幡の飛天← →白鳳展4 金龍寺蔵菩薩立像
関連項目
法隆寺献納宝物の中に木造の仏像
白鳳展7 薬師寺月光菩薩立像
白鳳展5 法隆寺金堂天蓋の飛天
白鳳展6 法隆寺金堂六観音像
白鳳展1 薬師寺東塔水煙の飛天
※参考文献
「開館120年記念特別展 白鳳-花ひらく仏教美術ー展図録」 2015年 奈良国立博物館
「太陽仏像仏画シリーズⅠ 奈良」 1978年 平凡社
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994年 奈良国立博物館
「法隆寺」 編集小学館 2006年 法隆寺