ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/12/19
興福寺3 国宝館の板彫十二神将立像
奈良に行く機会があっても、興福寺に立ち寄ることは稀だった。
奈良博で特別展や正倉院展を鑑賞に行っても、近くの興福寺まで足を伸ばすこともなかなかなかった。というのも、奈良博で一日分の集中力を使い果たし、すでに興福寺の仏像を見る気力がなくなってしまうのだった。
そして、もう一つの大きな理由は、興福寺の国宝館だった。あれほど素晴らしい仏像が展観されているところだというのに、仏像を鑑賞する雰囲気ではなかったからだった。
それが、数年前に建て直され、阿修羅像のような八部衆や十大弟子などの脱活乾漆像などがガラスに隔てられずに直に見ることができるようになった。もう一度行ってみようと思ったが、阿修羅人気で行列ができるという。それが治まるのを待っていた。
そして、2014年秋に、板彫十二神将立像が平安時代の配置で展示されることになったというニュースが、私の背中を押すこととなった。阿修羅を初めとする脱活乾漆像も素晴らしいが、何と言っても私のお気に入りは、板彫十二神将立像だったからだ。
『興福寺』は以前の国宝館について、国宝館は、奈良時代創建当初の食堂の外観を復元し、地下には旧食堂の奈良時代以降の遺構保存が計られている。
館内には旧食堂の本尊千手観音菩薩像を中心に、興福寺の歴史を伝える仏像、典籍、古文書、絵画、工芸、考古遺物、歴史資料を収蔵・展示し、仏教への関心と、文化財への理解を深めていただくことを目的とするという。
今回は県庁前のバス停から向かったので、駐車場越しに国宝館の東側を見ながら、南側の入口へ歩いていて、建物の側面がよく見えた。新しい国宝館は食堂とその北側の細殿を連結した外観となっていた(興福寺のホームページより)
入館して右奥に、板彫十二神将立像の展示コーナーが見えてくる。
南面に3体、西面に6体、北面に3体の12体が、四角形の3面を覆う形で展示されていた。それは、平安時代の浮彫像で、東金堂の本尊、薬師如来坐像の台座周囲に嵌め込まれていたものを復元したということだった。
東金堂は、現国宝館(当初は食堂)の南側に建つ、西側を正面とするお堂である。
東金堂 正面外観 室町・応永22年(1415) 桁行7間 梁行4間 寄棟造 本瓦葺 国宝『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、現在の東金堂は応永18年(1411)の火災ののち、応永22年(1415)に再興されたものである。奈良時代の規模と形を意識しながら建築された。重厚で堂々とした姿に奈良時代の往時が偲ばれるという。
『興福寺』は、神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造立されたという。
しかし、その後火災や戦火により、焼失、再建を繰り返すこととなり、現在は、室町・応永22年(1415)につくられた銅造薬師如来坐像(中央)が安置されている。
『興福寺』は、文治3年(1187)東金堂衆が無断で仁和寺宮領の山田寺に押しかけ、講堂の金銅丈六薬師三尊像を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという暴挙が行われた。事件は和解されたが、応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祭祀されたという。
応永18年に頭部だけとなった山田寺の薬師如来像は、その後同22年に造立された新しい薬師如来坐像の基壇の中に収められていた。
同じ時に山田寺から盗まれてきた薬師如来の両脇侍、日光・月光像は焼失を免れ、今も新しい薬師如来坐像の脇侍として、堂内に立っている。
『興福寺』は板彫十二神将立像にていて、薬師如来の守護神で、東金堂本尊薬師如来像の台座周囲に貼りつけられていたという。
十二神将立像 平安時代 12面 桧材 一材製 板彫り 彩色 像高100.3-88.9㎝ 興福寺国宝館
同書は、1枚の桧板に浮き彫りする。正面を向く像1体、右を向く像5体、左を向く像6体で、12面がほぼ完形で伝わる。施された彩色は剥落が激しく素地をみせる。迷企羅大将が短い衣をつけ裸足で立つ以外は、いずれも武装する。頭部は焔髪、巻髪、また兜をかぶったり、天冠をつけたりする。武器をとり身構えたり、全身で躍動するものなどさまざまである。絵画と彫刻の要素、面白味、そしてそれ自体がかもし出す一種独特のユーモア感など、類例の少ない日本の板彫り彫刻の中で、きわめて珍しい像という。
この平安時代の板彫十二神将立像は、何時の時代まで薬師如来の台座周囲に貼り付けられていたのだろう。
文治3年に山田寺から薬師三尊像が持ち込まれた時にも、台座周辺に飾られたのだろうか。天平時代という、より古い山田寺の薬師如来坐像と、この平安時代から薬師如来坐像の台座周囲に飾られていた板彫十二神将立像が一緒に東金堂を飾っていた時代があったのだろうか。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、レリーフとは思えない立体感をもつ浮彫彫刻の傑作である。いずれも厚さが約3㎝という。
たった3㎝!それだけの厚みで、よくここまで立体的に表現できたものだ。
毘羯羅(びから)大将像
焔髪。右手には何かを掴んでいるよう。
招杜羅(しょうとら)大将像
側頭部は焔髪のままにして、他は頂部にまとめ、ヘアバンドを締めている。これが天冠?
肩掛け?や着衣の袖には翻波式衣文が残る。鎧を着けているが、ズボン?をたくし上げて両膝を出し、裸足である。
太刀を引き抜こうとする右手の握り方がリアル。
真達羅(しんだら)大将像
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、真達羅大将のみが正面向きの合掌する姿である。丸彫 の彫刻とは違い、正面の姿を平面的な浮彫であらわすのは難しいが全く破綻はなく、奥行すら感じさせるという。
両袖の端がめくれる表現は、浮彫とは思えない立体感を出している。
鎧の下に出る衣には三角のような文様が残っている。
焔髪を両横を残して束ねている。
摩虎羅(まこら)大将像
この像のみ巻髪。天冠で抑えている。
右手に持っているのは杖ではなく、棍棒やろね。
半パンで膝を出し、ブーツを履いている。
波夷羅(はいら)大将像
逆立つ焔髪が額を囲んでいる。
肩掛け?の上に鎧の襟が出ている。
半パンでブーツを履き、左足を斜めに踏み出す。両手には羂索を握っているのかな。
因達羅(いんだら)大将像
右手は天衣を掴んでいるのだろうか。細い天衣にはギザギザの襞が丁寧に表されている。
両膝が出ているのに、ふくらはぎには縦に衣文線が入り、裾はブーツの上で釧で絞られている。
珊底羅(さんていら)大将像
唯一兜を被る像。袖も手首近くまであり、ズボン?は膝下でまとめるなど、武人らしい姿なのに、細い天衣が巻きついている。
右手の棒の先には戟などの武器が付いていたのだろうか。
頞儞羅(あにら)大将像
両手で持っているのは筆だろうか。
鎧は着けているが、幅広の肩布を何重にも襞をつくって胸元で結び、長い袖の袂が広い。巻物は持っていないが、法隆寺の四天王像の着衣が連想されるが、下の方に結び目が見える。
安底羅(あんていら)大将像
短い焔髪をヘアバンドで留めているが、頭頂部は髪はない。これが天冠というものだろうか。
両肩には獅子噛らしきものがある。
左手の指の反りはとても厚さ3㎝の浮彫とは思えない立体感がある。
迷企羅(めきら)大将像
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、12面の中で最も動きが激しく、左足と右腕を高くあげて誇張的な躍動感を示す。左掌を外に押し出し、大きく口を開いて、あたかも見得を切った歌舞伎役者のようだ。激しい動きを一瞬停止させているという。
左半身は、顔と足の裏がほぼ一直線に、左肩と左膝がその線から少し出ている。一方、右半身は足と脇腹がくの字になって絶妙にバランスしている。自分でもこの姿勢をとってみたが、一瞬しかできなかった。
伐折羅(ばさら)大将像
焔髪のはみ出して獣頭の兜を被っている。同じような動物の顔が足鎧にも付いていて、牙が見えるので、イノシシかも。
刀を地に突き刺して唇を噛んでいる。それとも威嚇の表情だろうか。
宮毘羅(くびら)大将像
鎧は波夷羅大将の肩部に似ている。頞儞羅大将と同じく長い袂の下部には結び目がある。
この十二神将像の中では、一番武人らしい表現のように思う。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、12面はいずれもユーモラスで親しみやすい表現である。こうした卓抜した技術と表現力は作者が第一級であることを示す。板彫が制作された11世紀頃、巨匠定朝が興福寺の仕事をしていることが注目されるという。
同書の興福寺略年表は、永承元年(1046)12月24日北円堂・倉を除く諸堂焼失。永承2年1月-2月造興福寺司を定め再興始めるとある。
そして、仏頭タイムスの興福寺と東金堂の歴史によると、治暦3年(1067)東金堂再建。治承4年(1180)平重衡が南都焼き討ち(東金堂など焼失)という。
定朝は生没年不明、天喜5年(1053)に、定朝作の阿弥陀如来坐像を本尊とする平等院鳳凰堂が落慶しているので、1067年というのは定朝の活躍期ではある。
ところが、『日本の美術458平安時代後期の彫刻』は、もと元興寺にあったという「源(玄)朝絵様」の三尺半出十二神将像は、興福寺に現存するこの板彫像に相当すると見られる。窮屈な枠内でのぎこちない体勢から生まれるユーモラスなしぐさ、動きの一瞬を捉え立体感を意識した彫技は浮彫の本質をよくとらえる。康尚様式の完成を承け、それから次代の定朝の頃にかけての作であるという。
制作者を定朝やその父康尚にしているものの、この板彫十二神将立像は、元興寺にあったものだというのである。
そういえば、『もっと知りたい興福寺の仏たち』も、もとは興福寺の近くの元興寺に所在したと伝えられる。その使用法は明らかではないが、薬師如来の守護神として台座の腰などにはめられていたのであろうという。
台座の腰というのは、裳懸座の下のことかな。
元興寺の収蔵庫の収蔵品によると、現存する薬師如来像は鎌倉中期のもので、板彫十二神将立像とは時代が合わない。
元興寺の薬師仏信仰によると、平城の元興寺は、主要堂宇の金堂本尊は弥勒如来坐像、講堂本尊は薬師如来坐像でした。
ところが、平安時代半ばを過ぎると元興寺は徐々に衰退し、金堂の弥勒仏、講堂の薬師仏は残念ながら室町時代の土一揆などで罹災し、消滅してしまいましたという。
この板彫十二神将立像が元興寺伝来のものならば、衰退しつつあった平安時代後期に、定朝らを奈良に呼び寄せて、このような板彫像を制作させるだけの力は残っていたことになる。
それがどのような経緯か分からないが、興福寺東金堂で、薬師如来坐像台座下の腰壁に嵌め込まれいた時期があったらしい。
しかも、今回の展示替えで平安時代の配置になったということで、平安時代末までには、板彫十二神将立像は東金堂に入っていたのだろう。
興福寺1 東金堂の仏像群← →興福寺4 五重塔と三重塔
関連項目
興福寺2 四天王像は入れ替わる
山田寺といえば仏頭
法隆寺金堂四天王像の先祖は
※参考サイト
興福寺のホームページより国宝館
仏頭タイムスの興福寺と東金堂の歴史
元興寺のホームページより収蔵庫の収蔵品・元興寺の薬師仏信仰
※参考文献
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術
「興福寺」 興福寺発行
「太陽仏像仏画シリーズⅡ 奈良」 1978年 平凡社
「日本の美術458 平安時代後期の彫刻」 伊東史朗 2004年 至文堂