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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/11/28

第66回正倉院展4 鳥毛立女の体型



今回出陳された鳥毛立女屏風4点のうち、第二扇だけが立ち姿だった。頬はふっくらとして、かなりふくよかな体型である。
『第66回正倉院展目録』は、第五扇の下貼には天平勝宝4年(752)付文書の反故紙が用いられており、これにより本品が天平勝宝4年以降、『国家珍宝帳』に記載される天平勝宝8歳(756)までの4年間に製作されたことが決定的となったという。
ブドウの房のような衣裳だが、他の立女たちは襞のある裙(スカート)を着けている。
その房に紛れているが、蓮華のような沓の先が裙の裾から出ている。
第五扇
第5線に限らず、立女、坐女共に縦の線がたくさんある衣裳を着けている。それは裙(スカート)で、しかも襞が等間隔に一周する車襞のようだ。上衣は短く、長い紐を結んでいる。
屏風に登場する女性はみな、蓮華というか花弁が3つ、山の字形になったような先の沓をはいている。

同書は、その豊麗な容姿は盛唐墓から出土する女子俑を想起させ、唐代に流行した美人像を踏襲するものと考えられているという。

紅陶加彩女子 唐(8世紀) 高49.2㎝ 京都国立博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、加彩の女子俑は、漢時代以来、創り続けられてきたが、その形は時代とともに変化を遂げている。初唐のころの女子俑は、六朝のものに似て、生硬で佇立する形姿のものが好まれていたが、盛唐になるとその造形はより写実性を増して生気に満ちたものとなってくる。なかでも優雅な趣をもつ豊頰の婦人の像は、人々の注目するところとなっている。盛唐期には豊かな肉付きの女性が美しいとされ、こうした風潮は玄宗期(712-756)にその頂点に達した。このころの女子俑もおしなべて比較的豊満な姿に作られる。これはいわゆる「樹下美人にみられる容姿であり、盛唐時代の人々が代表的な美女として心に抱いた姿なのである。
豊かな身体にゆったりとした上衣と長裙(スカート)をつけ、肩に長巾をかけ、両腕に愛玩の子犬を抱いている。端正かつ秀美な顔だちで、豊かな形姿、流れるような衣文のようすなど全体にていねいな作りの俑で、熟練の技は芸術的な魅力にあふれ、唐時代の仕女の姿をまざまざと今日まで伝えているという。
非常に豊満な体型である。
髪は鳥毛立女と異なり、上に結っている。裙は箱襞のようだが、裾は狭まっている。犬のために上衣がどうなっているかわかりにくい。背中に横線が刻まれているので、立女と同じような短いものを着けていたのだろう。首にスカーフを巻いていたらしく、その両端が少し立体的に表されている。
沓は先が上がっているだけの単純な形である。

美女図 唐(8世紀) 縦83.5㎝ 絹本着色 トゥルファン市アスターナ187号墓出土
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、結い上げた髪が、肩越しに長く伸び、薄緑色のブラウスに花文付きのスカートを履いているという。
六曲屏風ではなく、かなり幅広の折りのない屏風仕立ての面に、一人か二人の女性像が描かれたものが複数枚同墓より出土した。
頬の膨らみは鳥毛立女に似ている。剥落箇所が多いが、おそらく体型も鳥毛立女に近いのでは。
髪を後方にまとめるのは鳥毛立女と共通する。
中央の幅のある部分の両側から左右に襞があって、前箱襞と現在では呼ばれるタイプらしい。オーガンジーのように透けるスカーフを複雑に巻きつけている。
先が非常に尖った沓の裏だけが残っている。

仕女図 盛唐、開元天宝年間(713-756) 陝西省長安県韋家墓西壁
『世界美術大全集東洋編四隋・唐』は、ひとりの婦人が持者を連れ、庭園や郊外でのどかに遊んでいる。婦人は拋家髻(ほうかけい、両側の髪で顔を包み込んだもの)をし、短衣をつけ、長裙をはき、悠然とした表情は、盛唐の華やかさと豊かさを表しているという。
立ち姿の女性は、顔はふっくらしているが、鳥毛立女よりも細身で、鮮于庭誨墓出土の女子俑(下図)に似ている。
幅広の襞で、前中央が歩く度に翻るようだが、沓は見えない。

女子俑 唐、開元11年(723) 高45.3㎝ 陝西省西安市鮮于庭誨墓出土 中国国家博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、気品があり、生動感のある、表情豊かな女性俑は類を見ないものである。唐三彩は洛陽周辺でも多数出土するが、8世紀になってからは長安周辺での出土品が中心となっていく。8世紀の唐三彩の特色は動きのある表情にあるという。
頬はふっくらとしているが、体は細身である。盛唐初期の好みはこのような女性だったのだろう。
首に表された何本もの皴が写実的過ぎるのでは。
髪型は鳥毛立女に似ている。縦縞のスカーフは前から後方に巻いている。沓は極端に尖って、立女の花のようなものと似ていない。
広幅の裙は胸の上まである。箱襞を思わせる線が2本ずつある。
素晴らしい出来上がりの俑なのに、上衣の二の腕の部分だけが筒状に張っていて、続く袖部分とは不自然な感じがする。しかし、実際にこのような袖だったのだろう。

舞楽美人図 初唐(618-712) 絹本着色 縦51.5㎝ アスターナ230号墓出土
同書は、濃紫色の綾による枠で区切られた長方形の区画計6扇に舞妓2人と楽妓4人が描かれていた。左手から体を覆っていたショールと右手部分の絵絹の欠失を除けば、大変保存状態のよい舞妓である。高く髻を結い上げ、額には鮮やかな赤い飾り(花鈿)を描き、両頬を中心に広く頬紅を塗っている。赤・青・緑・黄の宝相唐草文を配した短めのベストを、裾をひくほど長い赤のスカートの上から身につけている。青の地に文様を綴織で織りだした左足の靴は、つま先部分が高く反り返っている。初唐期の細身の女性像を代表する作品である。
アスターナ230号墓出土の張礼臣の墓誌によると、礼臣は武周(高宗の皇后則天武后が称した国号で、690-705年)の長安2年(702)に死亡し、翌年に埋葬されたという。
墓室画ではなく、生前死者が日常使っていた屏風が副葬されたもの。
幅広の襞のない部分がやや左に偏った前箱襞の裙を着けている。初唐期は上衣の上から半臂を着けていたのかな。
顔はふっくらとして、首に皴?たるみ?があるが、体は細い。
沓は長く伸びて、その上に先端が尖っている。歩く時に長い裙を踏まない工夫だろうか。

侍女図壁画 唐、神龍2年(706) 高119㎝ 陝西省乾県章懐太子墓甬道東壁出土 陝西歴史博物館蔵
同書は、この壁画墓の被葬者である李賢は、高宗と則天武后の次子であるが、則天武后を批判したため31歳で自殺させられた。被葬者の高い身分に相応しく、墓内は豪華な壁画で飾られ、墓道から墓室に至るまで、出行、客使、儀仗隊、侍者、女官たちが壁一面に描かれている。筒袖の襦に長裙(スカート)をはき、披帛(ショール)を肩から掛けた服装をしているという。
襞は少ないが、複雑な箱襞仕立ての裙と、幅広の披帛を着けた侍女は細身である。頬もふっくらとしていない。披帛はやはり後ろから肩に回している。
沓は少し見えているが、形がわかるほどではない。

女子俑 唐時代(7世紀) アスターナ206号墓(張雄夫婦の墓)出土
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、墓誌によれば、高昌国最後の王・麴文泰の従兄弟にあたり、延寿10年(633)、50歳で死去した。また、その夫人は、張雄の死後、およそ半世紀後の垂拱4年(688)に死去し、翌年張雄と同じ墓に追葬された。
この俑は、頭部が粗造、体部が木製、腕が紙製になる。筒袖の襦の上に錦の袖なしの半臂をまとい、裳を着けて綴の帯をしめる。半臂には、連珠や双鳥など、西方的な文様があしらわれている。裳は、黄と赤の帯状の絹を縫い合わせて縞模様に仕立てるという手の込んだもので、高松塚古墳壁画などに描かれたこの種の服装の実態を示唆している。裳の上には透けるほど薄い裳を重ね着し、肩から腕にかけて、花文が散らされたショールをはおるという。
頬は多少ふっくらしているが、やはり細身で、贅沢な連珠文錦の半臂をつけている。髪は上げて双に結っている。
ショールは章懐太子墓出土の侍女図のものに似ている。
俑なので簡単に裙を作っただけで、本来の裙は襞(プリーツ)があったのではないだろうか。
沓は見えない。

女子群像  高松塚古墳西壁 藤原京期(694-710)に築造された終末期古墳

『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、思い思いの姿でゆったりと歩む4人の女を描き、東壁の女子群像と対置する。うち二人は円翳と如意を取る。色違いの縦縞文様の裳をひき、さらに衣や帯も各々色を換えるなど構図と配色に工夫が見られる。なお用いられた顔料についてはほぼ法隆寺金堂壁画に用いられた色数とその成分が一致しており、また質の高いものと認められる。
部分によっては塗り重ね、隈取りを行い、最後に描起こしによって仕上げられるなど、絵画技法としては本格的なもので、装飾古墳の原始的な壁画とは本質的に異なっている。法隆寺金堂壁画とも共通する技法で、仏教美術に伴って大陸から日本に伝播し、すでに定着しつつあったことを物語るという。
縦縞の裙を着けた女性も登場する。裙の裾にはいずれもレースのような布が見えている。右の女性の裾が一箇所、緑色?の部分だけ膨らんでいるのは、襞があるからではないだろうか。
それにしても、長い上衣である。中国の女性像には見られない。ひょっとして、これが日本にもともとあった衣裳で、その下に新来の裙を合わせているのかも。その長い上衣に隠れて体型はわからないが、頬はふっくらしている。
沓は見えない。

女侍図 唐、神龍2年(706) 陝西省乾県乾陵陪葬墓、永泰公主墓前室東壁南側 西安市陝西歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、体軀はやや細身で、頭の髪型も颯爽として軽やかで、当時の粋な宮廷の女性たちの服飾の流行のさまが読み取れるという。
顔は丸いがふっくらしているほどでもない。体もかなり細身である。
非常に反った沓の先が3つに分かれている。アスターナ230号墓出土の舞楽美人図の沓と同じタイプのものだ。鳥毛立女たちの履く花の蕾のような沓に一番近いかも。

日本でも、中国の流行を採り入れて、時代とともに美人とされる体型が変わっていったのか、絵画を新来のものに似せて描いただけなのか、よくはわからないが、高松塚古墳の女性像よりも、鳥毛立女の方がふくよかではある。


   第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある

関連項目
第66回正倉院展2 奈良時代の経巻に山岳図
第66回正倉院展1 正倉を見に行く

※参考文献
「第66回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2014年 仏教美術協会
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「中国★美の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穗編 1983年 至文堂

2014/11/25

第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある



今回は鳥毛立女屏風が4点も出陳された。

鳥毛立女屏風 とりげりつじょのびょうぶ 鳥毛貼りの屏風 北倉
『第66回正倉院展目録』は、各扇に樹下の一人の女性像を描いており、当初の6扇全てが現存する。このうち本展に出陳される第2扇は立ち姿、第4から第6扇には岩に腰を下ろす姿を表しているという。
これでは立女の方が少ないではないか。
各扇の本紙は楮紙を上下5段に継ぎ合わせ、全面にわたって白土下地を施した上に、念紙を用いて下図の図様を転写し、その上から黒筆で図様を描き起こしている。
面部は硫酸鉛による白色顔料を塗った上から赤色の隈取りを施し、小さく厚い唇には鮮麗な朱を塗り、眉は太く弧を描き、額中央に花鈿、口の両側に靨鈿(ようでん)を点じる。その豊麗な容姿は盛唐墓から出土する女子俑を想起させ、唐代に流行した美人像を踏襲するものと考えられる。
女性の着衣や樹木、飛鳥などの表面は、宝物の名称の由来となった鳥毛を貼り付けて仕上げていたとみられ、各扇の処々に羽毛の微細な小片がわずかながら残存するほか、羽毛の縁を刃物で切って整えた際にできたとみられる刀痕白土下地に点々と確認できる。羽毛は日本産ヤマドリのものと同定されているという。
以前に1扇だけ出陳されていた時には、僅かながら鳥毛の痕跡を確認できたのだが、年を取ったせいか、是非とも鳥毛を見なければという意欲に欠けたのか、全く見付けられなかった。

第2扇 縦136.2横56.2㎝
同書は、上衣の上に半臂を着け、天衣とみられる裂をまとうという。
ブドウの房のような出っ張りで埋め尽くされた長衣。このような着衣をどのように鳥毛で表したのだろう。
他の3扇はいずれも岩に坐った姿だった。
同書は、第4・5扇については特に保存状態が良好で、当初の豊麗な女性の容姿や奇怪な樹木の形態を留めるという。

第4扇
長衣は袖を除いて襞が裾まで続いている。天衣のような長い肩掛けは後ろから回さずに両腕に掛けている。それが当時の流行だったのだろうか、飛天を真似たのならば、肩に回すはず。
第5扇
着衣は同様に縦に襞のある長衣である。上着は短く、胸の下辺りから襞が描かれているので、裙なのだろう。
同書は、樹木の枝先に止まる小禽を墨描するという。
上から2段目右の枝に、セキレイのような細身の鳥が横を向いて留まっている。
第5扇の下貼には、天平勝宝4年(752)6月26日付文書「買新羅物解」の反故紙が用いられており、同種の文書が20数点存在するとこが以前より知られていたが、昭和60年(1985)から3箇年をかけて実施された解体修理により、一連の文書の一部が本紙としても使用されていることが確認された。これにより、本品が天平勝宝4年以降、『国家珍宝帳』に記載される天平勝宝8歳(756)までの4年間に製作されたことが決定的となったという。
岩も樹木も日本風ではない。唐より請来された屏風を日本で写したのだろう。
第6扇
同書は、第6扇は欠損が著しく、面相部を残して全て後補となっているという。
やはり裙を着けて、第2扇のような半臂で肩を覆っている。袖も裙も同じ文様のようだ。
会場ではコピーが展示されているのかと思ったほどだったが、岩や樹木の様子は一番よくわかった。

6扇のうち4扇が出陳された今回の正倉院展であるが、残りの2扇は東京国立博物館で開催された(11月3日まで)「日本国宝展」で公開されており、そのちらしのタイトルは「奈良・東京で、天平美人に会える」というものだった。その裏面に第1・第3扇の画像があった。

第1扇
何かを結んだ紐が長々と裾まで垂れている。他の図も同じような紐があるのだが、一番濃く描かれている。
両手に持っている丸いものは何だろう。
第3扇
木に巻きついて咲いた藤の花か、小さな葉の蔦のようなものに関心があるよう。
裙の襞が細かいのか、一番ふくよかなのか。

鳥毛立女屏風は3扇が立像、残りが坐像と、半々に描かれていたのだった。
唐代の墓室に六曲屏風仕立てにして絵が描かれているというのは、トルファン郊外、当時の高昌の墓地アスターナで公開されている漢族の墓室にも見られた。
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、はるか遠い新疆トルファン・アスターナ古墳群にも屏風式の壁画や幡がある。中央から派遣された漢人の官吏たちの墓に、都での葬送の儀礼が踏襲されたのであろうという。
日本にも六曲屏風がもたらされ、同じような屏風を日本でも制作したということは、墓室画だけでなく、調度品として六曲屏風が作られていたことを示すものである。しかし、現在中国で見られるものは、墓室画だけ。

仕女図 盛唐、開元天宝年間(713-756) 韋家墓墓室西壁 陝西省長安県
同書は、盛唐期玄宗朝の開元天宝年間から安禄山の乱までの時期は、皇族に連なる高位の身分の墓よりも、やや低い官位の墓が増え、壁画墓を造ることが広く行われるようになった。そのためか、この時期の壁画は薄彩色に彩色されたことによるのか、顔料の質のためか、鮮やかな彩色をとどめる壁画が少なく、保存状態がよくない。
盛唐晩期以降、六曲屏風式の構図は普遍的に使われた。屏風式花鳥図はその当時の新たな様式であるが、屏風式人物画は六朝の墓室にすでに出現していた。屏風式人物壁画は六朝から中晩唐に至り、人物の表情や、姿勢などがしだいに変化しつつあるが、人物が樹下で行動するという基本的なジャンルは続いてきたという。
樹下に女性が描かれた墓室画である。このように描かれた屏風が日本にもたらされたのだろう。どの図にも樹木と岩が描かれている。
中央の2扇が坐像、他は立ち姿である。女性一人というものはなく、お付きの者が登場する。それが鳥毛立女屏風と大きく異なる点かな。
左から3つめの扇
岩ではなく、椅子に腰掛けて、琵琶を弾いている。他の扇でも椅子に坐っていて、岩の上に腰を下ろしたものはない。

ところで、何故どの場面にも樹木が描かれているのだろう。
同展図録の「鳥毛立女屏風と唐墓壁画樹下人物図屏風」では、墓室内の壁画は基本的に、墓主の霊魂が永遠不死の理想世界である天界=神仙世界へと昇ること、すなわち昇仙と密接に関わるモティーフによって構成されているのであり、同じ墓室内に描かれる屏風画についても、墓主を昇仙へと導く役割を担っている可能性が高い。
そもそも中国では、漢代にはすでに樹下人物の図像が登場しており、その中には西王母などの神々が樹下に坐す図像も含まれるなど、神仙思想と密接な関連が予想される。中国では古来、大樹は天地をつなぐ柱とみなされ、神々が天地を往来する依り代と考えられてきた。
つまり唐墓壁画に描かれる樹下の人物は、樹木を介して天地を往来する昇仙、あるいはそうした神仙と交感することができる道士を表す場合があり、墓主の霊魂がこれらの樹下人物のように樹木を依り代にして昇仙することが期待されたに違いない。そしてこうした唐墓壁画樹下人物図屏風と極めてよく似た形式をもつ鳥毛立女屏風に描かれる6人の女性像についても、同様に神仙と関わる存在として描かれた可能性が想定できるのであるという。
そんな風には思ってもいなかった。

      第66回正倉院展2 奈良時代の経巻に山岳図← 
                     →第66回正倉院展5 鳥毛立女屏風に描かれた岩

関連項目
第66回正倉院展1 正倉を見に行く

※参考文献
「第66回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2014年 仏教美術協会
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館

2014/11/21

第66回正倉院展2 奈良時代の経巻に山岳図


装飾経というものは平安時代に始まったものと思っていたのだが、今回の正倉院展で、奈良時代すでに存在したことがわかった。
『日本の美術278装飾経』は、紺紙経や紫紙経には、大陸で、表紙の外面に金銀の唐草文様、表紙見返しに金銀で経典の内容に関係のある絵を描くことがあり、それが、平安時代には、しだいに普及したという。

梵網経 ぼんもうきょう 絵入りの表紙付きの経巻 本紙縦21.0全長1413.9軸長24.5㎝ 雁皮紙24紙半 1紙41行、1行17字 中倉
『第66回正倉院展目録』は、『梵網経』2巻は、5世紀に中国で成立した経典で、東アジアにおける戒律の基盤となった「梵網戒」と呼ばれる大乗菩薩戒を説く。日本では天平勝宝6年(754)の鑑真来朝の後に書写が増え、これを所依とする儀式が聖武天皇周辺で行われるようになった。同年の聖武天皇の受戒も『梵網経』所説によると推測されている。
本巻は、聖語蔵を除き、宝庫に伝来する唯一の経典である。謹厳で高い品格を備える筆は写経生の書風とは一線を画し、能筆の手による特別の書と見られる。
巻頭には紫色の表紙が継がれ、表裏とも金銀泥で彩られている。裏(見返し)は5、6弁の花文を配する簡便な装飾という。
見返しには、茎を表したのだろうか、不連続な縦の線がたくさんあり、その間に七曜文がおかれている。ところどころに金色の細い線が残っている。
同書は、表には山水景が描かれる。山水の構図は欠損のため明瞭ではないが、前景では岩場に下草や樹木が伸び、遠景に遠山を配す。間を蝶や鳥が飛ぶという。
近景には銀泥で枝に付いた葉や岩の輪郭などが描かれている。岩の輪郭に沿って、金泥をぼかして岩肌を表現している。左側の岩は表面が平たく、右側の物は凹凸のある岩と描き分けている。

同書は、おおらかな描写ながら、金銀泥による陰影や遠山の描写などは、黒柿蘇芳染金銀水絵箱(中倉156)と通じ、奈良時代における山水表現の様相を知らせる絵画として、また現存する奈良時代の経巻表紙絵としてすこぶる貴重といえようという。


黒柿蘇芳染金銀水絵箱 くろがきすおうぞめきんぎんさんすいえのはこ 献物用の箱 縦180.横38.8高12.5㎝  奈良時代(8世紀) 中倉
『第61回正倉院展目録』は、四方から中心に向かって山岳が迫り上がる海磯鏡に通じる構図は文様的要素を色濃く残すが、山襞を折り重ねた重層的な構成や闊達な筆致には、風景描写に長けた画工の存在が想起される。
樹木の幹や枝は金泥で樹葉や下草は銀泥で描かれるなど金銀の対比を生かした描き分けは効果を発揮しており、また暈(くま)を巧みに生かした山岳の描写は、唐代に発展した山水画の技法のわが国でのいち早い受容例と考えられ、遺例の少ない唐代絵画史の空隙を埋めるものとしても注目されるという。
唐代の山水図についてはこちら
同書は、山岳の周囲には、鶴やヤツガシラなどの鳥が舞い、瑞雲が湧き上がっている。また山岳から生える樹木は腰高く伸びやかに表され、唐代絵画に散見される双松の表現も看取される。山下には丈の低い草本類が描き添えられている。
特徴的な瑞雲の形状は、唐招提寺金堂の支輪板の文様との近似が従来指摘されており、床脚の刳形の鎬(しのぎ)立った彫法も加味して、天平勝宝5年(753)に来朝した鑑真周辺での製作を想定する説もあるという。
鑑真さんと共にやってきた画人が制作したということだろう。
岩の襞が面的、曲線的に表されていて、しかも金泥に濃淡がある。梵網経表紙絵(現状)の岩の表現とは比較にならない。梵網経表紙絵は、このような新来の山岳図を手本として日本の画人が制作したのかも。

檜金銀絵経筒 ひのききんぎんえのきょうづつ 巻物の容れ物 長26.8径6.0㎝ 中倉
『第66回正倉院展目録』は、梵網経を納めたとされる経筒。経巻にふさわしい大きさである。ヒノキの一木から刳り出した円筒形で、上方には立ち上がりをつけて、蓋(現状新補)が取り付けられている。側面には素地に銀泥によって装飾を施しており、花卉の間を蝶や鳥が舞い飛ぶ。上下は銀泥による連珠文をめぐらせ、下方では連珠文の間に、金泥による花文を配しているという。

同書は、文様構成は、同じ円筒形で、金銀泥による上下の連珠文と花卉文で飾られる双六筒(中倉173)に近く、文様は宝庫の献物几、なかでも例えば粉地銀絵花形几(中倉177第7号)の天板側面や、金銀絵棊子合子(中倉175)にみえるパターンと共通する。また、蝶や鳥の描写には梵網経表紙絵に通じる部分がある。表紙と本品は同時に用意されたものと考えてよかろうという。

粉地銀絵花形几 ふんじぎんえのはながたき 献物几 縦41.0横50.0高10.3㎝ 中倉 
『第57回正倉院展目録』は、サクラとみられる材を用いて製作されたものである。天板は4枚の材を矧いで猪目形に刳りのある長花形にかたどり、表裏ともに光沢のある白色顔料を塗り、側面に銀泥で花卉・飛鳥・蝶を散らし描きするという。

銀平脱合子 ぎんへいだつのごうす 琴柱や弦の容器 径15.1高5.1 北倉
『第62回正倉院展目録』は、蓋上面には、6本の蔓を放射状に伸ばす花文の周囲に、6羽の含綬鳥と折枝文を各6箇交互に並べ、身の立ち上がりには雲文15箇を並べている。含綬鳥の意匠には数種のバリエーションがあり、オシドリとヤツガシラの存在が確認できるほか、サンジャクと推定される鳥も含まれるという。


第66回正倉院展1 正倉を見に行く←  →第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある

関連項目
中国の山の表現3 唐代
第66回正倉院展4 鳥毛立女の体型
第66回正倉院展5 鳥毛立女屏風に描かれた岩


※参考文献
「第57回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2005年 奈良国立博物館
「第61回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2009年 仏教美術協会
「第62回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2010年 仏教美術協会
「第66回正倉院展目録」 奈良国立博物館編 2014年 仏教美術協会
「日本の美術278 装飾経」 江上綏 1989年 至文堂

2014/11/18

第66回正倉院展1 正倉を見に行く



約100年ぶりの正倉院の修復が終わったということで、正倉院展の見学後久々に正倉を見にいった。
正倉院展の会場である奈良国立博物館新館から正倉院までは、右回りで東大寺の参道を経由するのが一般的な行き方だろうが、依水園にも寄ってみたかったので、左回りで向かった。

369号線の一つ東の道は狭いが、両側に塀のある雰囲気の良い通りだった。
短い通りを抜けて右へ折れると、左に依水園、右に吉城園の門が見えてくる。
依水園については後日。
依水園の続きの塀にこんな門が。

そのまま直進すると石段と門に突き当たる。これが戒壇堂。戒壇院と思っていたら戒壇堂だった。
戒壇堂についてはこちら

戒壇堂の右にある塀は土と瓦が交互に重なっていた。
敷地内には校倉造の倉があったので、これが聖語蔵かな。
塀は長々と続いていて、その先には大仏殿がどっしりと建っていた。
左手の塀に沿って回ると門があり、表札には勧進所と書かれている。修復作業を行っているためか、拝観はしていなかった。
『古寺をゆく5東大寺』は、大仏殿は三好三人衆と松永久秀の合戦の兵火で焼失し、大仏も露坐のままであった。公慶は復興の志を固め、1684年(貞享1)大仏殿再建の勧進を始めた。
公慶は、幕府より勧進の許可を得ると、鎌倉時代の勧進聖で東大寺復興の立役者・重源がかつて住したという地に勧進所(龍松院)を設けて、勧進活動を本格的に始めた。
1692年(元禄5)には大仏の修補を完成、開眼供養を行った。
さらに1694年(元禄7)、江戸に行き、幕府から諸国勧進の便宜を与えられ、諸大名の寄進などもあって、1705年(宝永2)に大仏殿の上棟式を挙げたが、落慶を見ることなく、同年江戸で没したという。
あの重源さんや公慶上人にゆかりのある所なら、正面から写しておけばよかった。
重源についてはこちら
これだけ勧進しても費用は足りず、奈良創建時、鎌倉再建時のような横長の建物を作ることが出来なかったので、大仏殿は今見るようなずんぐりした姿になったと聞いたことがある。
『古寺をゆく5東大寺』は、鎌倉時代の再建では、建築様式こそ大仏様に変わったものの、規模は創建時をほぼ踏襲している。
江戸時代の再建(現在の大仏殿)では巨大材木の調達がむずかしかったことや経済的な行きづまりなどから、木を接ぎたすなどの工夫をしたものの、やむなく規模を縮小せざるをえなかった。高さと奥行は、それでも同規模で再建できたが、11間で86mあった正面は7間で57mとなった。二層のように見えるが、高い天井の一重の建築で、裳階が下の屋根を形作っているという。

上空から見た東大寺境内(左下が北)

大仏殿を見学した人たちが北に向かうのを眺めながら、1本西の目立たない道を通る。といっても、こちらもそこそこ人は通って行く。
車も通る道路に出て、左前方に池を確認、これが大仏池か。ここも紅葉がきれい。奈良は紅葉が早いらしい。

正倉院へは池と反対方向へ。
下部が埋もれた道しるべのところで左に折れると、
若い木が多いが、銀杏並木が黄葉真っ盛り。
銀杏の下の枝辺りに見えている白く長いものが正倉院の塀。
道の先には正倉院の正門があり、向こうに見えているのが巨大な正倉。この道を通ってきたのが正解かも。
その拡大

その塀の前を東進していると、広大な空間の向こう、銀杏の大木ともみじの間に大仏殿の屋根がのぞいていた。
あれか、屋根の世話をするために出入口があると聞いていたものは。北屋根にあったのか。
この間の敷地には講堂があったらしい。

やがて大仏殿からきた人たちと合流したところに正倉への通路があり、東宝庫を見上げながら、やはり白塀の脇の通路を歩いて行った。

正倉院の由来について正倉院のリーフレットは、奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には、重要物品を納める正倉が設けられていました。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一郭が正倉院と呼ばれたのです。しかし、あちこちに置かれた正倉は、歳月の経過とともにいつしか亡んでしまい、わずかに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが往時のまま今日まで残ったのです。これがすなわち正倉院宝庫ですという。
正倉院や正倉ということばは、当時は普通名詞だったのだ。
8世紀の中頃、奈良時代の天平勝宝八歳(756)6月21日、聖武天皇の七七忌の忌日にあたり、光明皇后は天皇の御冥福を祈念して、御遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。皇后の奉献は前後五回に及び、その品々は同寺の正倉(正倉院宝庫)に収蔵して、永く保存されることとなりました。これが正倉院宝物の起りです。そして、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に用いられた仏具などの品々や、これより200年ばかり後の平安時代中頃の天暦4年(950)に、東大寺羂索院の倉庫から正倉に移された什器などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて、厳重に保管されることとなったのです。正倉院宝物は、このようにいくつかの系統より成り立っているのですという。

あまりにも大きな建物なので、門を入ると全体がレンズに収まりきらないと思い、また行き来する人々をできるだけ避けて、池の前から写しておく。
上空からの写真では、この池は真ん丸。防火用に掘られたのかな。

正倉 天平宝字3年(759)までに建立 間口約33m、奥行9.4m、床下約2.7m、総高約14m 檜造り、単層、寄棟本瓦葺き、高床式
文献に見える記事から、おそくとも天平宝字3年3月以前に出来上がっていたことは確実とされてきましたという。
門をはいると正倉はテレビで見るよりも近くにあった。しかし、写真に写すと、人のいる位置と正倉までの距離が長く見えてしまう。やはり画面には収まらなかった。
前回正倉を見たのは、小学校の修学旅行の時だったので、50年近く前のことになる。その頃はもっと近くまで近寄れたように思う。ひょっとすると倉の下まで入り込めて、柱の間を通れたのでは・・・ もはや記憶があやふやである。
倉は三倉に仕切られ、北(正面に向かって右)から順に北倉、中倉、南倉と呼ばれています。北倉と南倉は、大きな三角材(校木)を井桁に組み上げた校倉造りで、中倉は、北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし、東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りです。また各倉とも東側の中央に入口があり、内部は二階造りになっています。北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉で、その開扉には勅許(天皇の許可)を必要としたので勅封倉と呼ばれ、室町時代以後は天皇親署の御封が施されました。中倉・南倉はそれ以外の東大寺に関わる品々を納めた倉で、中倉は北倉に准じて勅封倉として扱われ、南倉は諸寺を監督する役の僧綱の封(後には東大寺別当の封)を施して管理されましたという。
3つの倉はほぼ同じ大きさだった。
校倉といえばこの角の部分が一番印象的。倉の2面が見える角度から眺めたかった。

宝庫が校倉と板倉とを一棟にまとめた特異な構造であるため、はたして創建の当初から現在のような形であったのか、あるいは中倉は後に継ぎ足されたものではなかったかということが専門家のあいだで議論されてきましたが、近年では、使用されている建築材の科学調査(年輪年代法)によって、宝物献納と相前後する時期に、最初から現在みるような姿で建築されたと見る説が有力となっていますという。
私も、北倉と南倉がまず造られ、どちらも一杯になったので、その間の空間を板で囲って中倉にしたのだと思っていた一人だが、確かに、2つの倉に収まらなくなるまで中央部を壁のない吹きさらしにしておくのも、倉全体の外観から考えても、不自然だ。
中倉だけ板壁にしたのは、あまりにも長い建物なので、全て三角材にするよりも、中央を平板にした方が引き締まって見えると考えたのかも。
床下には直径約60㎝の丸柱が自然石の礎石の上にどっしりと立ち並んで、巨大な本屋を支えています。その豪壮な構えと端正な姿は、まことに奈良時代第一の大寺である東大寺の正倉、わけても国家的宝物を安置する宝庫にふさわしいものですという。
なんとなく礎石が不揃いな程度には見えた。ズームして撮ると礎石が伽藍石のように整っていないことがよくわかる。礎石は穴だらけ、雨もあまりかからない場所なのに、まさか風化でこうなってしまったということもないだろう。

正倉院宝物が現在もなお極めて良好な状態で、しかも多数のものがまとまって残されているのは、一つには勅封制度によってみだりに開封することがなく、手厚く保護されてきたことに負うところが大きいのです。また建築の上からみると、宝庫がやや小高い場所に、巨大な檜材を用いて建てられ、床下の高い高床式の構造であることが、宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があったものと思われます。その上、宝物はこの庫内で辛櫃に納めて伝来されましたが、このことは櫃内の湿度の高低差を緩和し、外光や汚染外気を遮断するなど、宝物の保存に大きな役目を果たしたのですという。
正倉院と言えばまず宝物が、次に外観の校倉造がよく知られているが、リーフレットには内部を紹介する写真もある。
それぞれの倉は二階建てということなので、手すりはさておき、階段はあったのだろう。しかし、ガラスの入った戸棚がどのような経緯で正倉にあるのかという説明がない。この写真を見て奇妙に思う人もいるのではないだろうか。
関西のABC朝日放送では、毎年文化の日に正倉院展にちなんだ番組を放映している。NHKの『日曜美術館』とはまた違った角度から正倉院宝物や正倉院を紹介していて、毎年楽しみだ。2009年の『宝庫のすべて』では正倉の内部や、このようなガラスケースを置いた町田久成という人物についてのものだった。
番組によると、町田は明治初頭に正倉院宝物を正倉院の中で一般公開しようとした政府高官で、当時は日本では作ることのできなかった、歪みのない厚さ3㎜のドイツ製板ガラスと、節目のないヒノキの板を使って陳列ケースを作ったらしい。そのケースは今でも残って収蔵に使われているが、町田の「見果てぬ夢の名残」なのだそうだ。

西宝庫と東宝庫
正倉の西南と東南に建っている宝庫で、西宝庫は昭和37年(1962)に、東宝庫は昭和28年(1953)に建築されました。ともに鉄筋コンクリート造りで、現在は空気調和装置が完備されています。西宝庫は、正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で、毎年秋季に開封され、宝物の点検、調査などが行われます。東宝庫には現在、染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵経巻が収納されていますという。

南倉の向こうに見えるのが西宝庫
正倉院の外から見えるのが東宝庫

聖語蔵(しょうごぞう)
もと東大寺の塔頭尊勝院の経蔵として建てられた校倉で、もとは転害門内にありましたが、明治年間、経典類が皇室に献納されたのにともなって、東宝庫の前方の現位置に移築されたものです。経典類は、中国の隋経・唐経をはじめ、奈良、平安、鎌倉時代の古写経その他の約五千巻で、今は東宝庫に収納されていますという。
戒壇堂の隣の勧進所にあった校倉造の倉は聖語蔵ではなかった。
小さな小さな校倉造の建物。その手前に池があり、樹木が植わっているので、どこかの庭園で、池の向こうの茶室を眺めているよう。
これくらいズームして、やっと校倉造の倉とわかる。

正倉の修復の様子をまとめた冊子が販売されているかと期待していたが、塀の外に写真パネルが4枚組が2つあるだけだった。

工事前
24年度 工事 小屋組構造
25年2月 小屋組補強
25年2月 小屋組補強
内部はかなり金属の補強具が使われているのだった。

もう一つのパネルは屋根の修復状況だった。
南西隅部 瓦座を残し、屋根瓦撤去完了
北西隅部 軒平瓦葺が完了し、平瓦の荷揚を行っている
南西隅部 左:西面は新規瓦 右:南面は再用瓦で葺上げ
そして天平創建時の瓦も展示されていた。

帰りは同じ道を引き返して転害門を見損ねたので、般若寺を拝観した帰りに走る車の中から撮影。やっぱり切れていた。

転害門(てがいもん) 切妻造 本瓦葺 八脚門(やつあしもん) 奈良時代 国宝
『古寺をゆく5東大寺』は、東大寺西面大垣の北端、一条南大路に向かって開かれた堂々たる門。762年(天平宝字6)ごろの造営と考えられ、創建当初の伽藍建築を想像できる唯一の建物である。東大寺の鎮守手向山八幡宮での転害会(てがいえ)がここを御旅所としたことから、その名がある。
石造の基壇上に立つ3間一戸の八脚門で、左右にゆるやかな勾配で長く伸びる切妻造りの屋根の形などに、天平建築の風格を漂わせている。門の内部は、正面中の間だけ天井板の無い組入(くみいれ)天井で、これは手向山八幡宮の神輿をこの下に据えたためであるという。
神輿って奈良時代からあったのか。次回は内側から見てみよう。

第65回正倉院展7 花角の鹿←      →第66回正倉院展2 奈良時代の経巻に山岳図

関連項目
東大寺戒壇堂の四天王像
第66回正倉院展3 鳥毛立女屏風には坐像もある
第66回正倉院展4 鳥毛立女の体型
第66回正倉院展5 鳥毛立女屏風に描かれた岩

参考にしたもの
「宝庫のすべて」 2009年11月3日放送 ABC朝日放送

※参考文献
正倉院展のリーフレット
「古寺をゆく5 東大寺」 2010年 小学館