京博の平成知新館オープン記念展「京へのいざない」で、仏画の第1期展示は「浄土教信仰の名品」だった。
阿弥陀来迎図ではあるが、来迎という名がついていない仏画に山越阿弥陀図というものがある。その内の京都国立博物館本山越阿弥陀図が展観されていた(10月13日まで)。
『日本の美術273来迎図』は、来迎図の背景に自然の情景をとり込み来迎の現実性を高める試みは、平等院鳳凰堂の壁画以来その伝統は長く、やまと絵を摂取して独自の日本的仏画を築き上げてきた。しかし来迎と自然を真にバランスよく調和することに成功したのは一連の山越阿弥陀図であったといえよう。
山のあなたに半身を現し今しも此岸へ越えかかろうとする山越来迎図は大きく2つのタイプに分けられる。その一つは従来の来迎図の延長上に位置し、聖衆来迎のさまも比較的自然に表される、属するものは京都国立博物館本であるという。
山越阿弥陀図 鎌倉時代(13-14世紀) 絹本著色 掛幅装 120.6X80.3㎝ 京都国立博物館蔵 重文
同書は、来迎印の阿弥陀仏(立像)が6体の菩薩を従えて今しも山を越えようとする様を表わす。その際重畳する山の狭間から乗雲の一部が溢れ出るところに作者の創意が見られる。阿弥陀仏が面をやや左に向け、聖衆が思い思いに振る舞う様は斜め来迎のそれに他ならない。山のあなたを廻って来迎する浄福寺本などの情景を至近に寄せて発展させたところに本図の新鮮さがあるといえようという。
浄福寺本はこちら
同館の説明は、胸と右掌には画絹の欠失があり、かつて五色の糸が結びつけられていたとみられるという。
また、他の来迎図と比べて雲が黒っぽいが、それは銀泥が変色したためらしい。
皆金色の仏菩薩、阿弥陀の頭光から放射状に放たれる截金の光、そして銀色にたなびき、山のこちらへと湧き出づる雲。制作当初はさぞや目映かっただろう。
また金泥の体に着けた衣には、截金も施されている。卍繋文もありそうだが、はっきりとはわからなかった。
表具はいつの時代のものかわからないが、上下・中回し、一文字と風帯、どれも素晴らしかった。
知恩院本阿弥陀二十五菩薩来迎図京都、いわゆる早来迎の阿弥陀のものほど極端ではないが、鎌倉後期らしく傘形に近い頭光、しかし放射光の光源はまだ一点には絞られていない。
京博では山越阿弥陀図は第1タイプの京都国立博物館本のみの展示だったが、せっかくなので、第2のタイプのものもみてみると、
山越阿弥陀図 鎌倉時代 ベルリン美術館蔵
同書は、阿弥陀仏(正面向き)のみを山のあなたに配し、10体の菩薩(坐像)がすでに山を越えて往生屋に迫る情景を写す。それはかつて指摘されたように『今昔物語』などに記されている迎講の情景を想起させるものがあるが、絵画的には不自然さが目立ち迫真性を欠く。鎌倉時代以降この種の作品にありがちな発想の涸渇はいなめないという。
確かに、来迎する迫力も感じられない。
山越阿弥陀図 鎌倉時代前半 絹本著色 掛幅装 138.0X118.0㎝ 京都禅林寺(永観堂)蔵 重文
同書は、大海をバックに二つの山の鞍部から阿弥陀仏(転宝輪印)のみが上半身を現わし、観音(持蓮台)と勢至(合掌)の両菩薩はすでに山を越えて山腹の左右よりゆるやかに迫る。のみならずその前方にすでに動きを止めた一対の持幡童子と四天王が描かれる。その対称的構図の基本には先の蓮華三昧院阿弥陀三尊像に通ずる浄土変的図相がうかがえるが、阿弥陀仏の一際すぐれた容姿はすでに大串純夫氏が指摘するように山の端に浮かぶ月(満月)を想起させる。その特色ある構成は密教の阿字観、月輪観を背景に南都系の来迎図をも包摂したものであり、満月の如き阿弥陀仏を観想することより即身成仏を志すきわめてユニークな作品といえよう。その柔和な色調は興福院本などに共通する鎌倉前半期の時代様式を示すという。
蓮華三昧院本については後日
興福院本についてはこちら
『日本絵画館4鎌倉』は、重なり合った峯々の穏やかな稜線の彼方に、頭光を負い転宝輪印を結んだ阿弥陀如来が忽然として出現する。如来の後方に水波が空の果てまで打ち続き、観音、勢至の二脇侍が蛇行する白雲の長い尾をひきながら山の此方に迎接するという。
山肌の緑が仏画では珍しもので、この来迎図を華やかなものにしている。
鳳凰堂の来迎図にも水波は描かれている。『日本の美術273来迎図』は下品上生図について、やや高所より鳥瞰する平遠山水、処々に水景を配しといい、中品中生図について、やや高所より鳥瞰する平遠山水、遠景は水波という。このような風景が来迎には一般的なもので、海のない京都でも、このよような大海が描かれたのだろう。
同書は、柔らかな抑揚のない三尊の描線や、山水、樹木や平行的な水波の描法などは藤原風であるが、如来の鼻筋に引かれた2本の線や、三尊の白紅、白青、白を基調とした色彩には宋画の影響がみとめられるという。
両親指に穴のようなものがある。実際にここから五色の糸を出して、臨終者の手に持たせたと、昔聞いたことがあるのだが。
『日本絵画館4鎌倉』は、衣に置かれた切金文や、稜線にそう波濤の描法には鎌倉時代の趣があるところから、本図の制作は鎌倉のはじめと考えられるという。
截金は阿弥陀仏よりも、先に山を越えて飛来した観音や勢至の着衣の方がよくわかる。
赤地に赤い線による彩色の麻葉文様に円文をあしらった裙は、大まかな襞に截金が使われている。腰に巻いた布は截金の卍繋文となっている。
山越阿弥陀図 鎌倉時代最末期 絹本著色 三曲屏風 101.0X83.0㎝ 京都金戒光明寺蔵 重文
『日本の美術273来迎図』は、来迎図の掉尾を飾るといっても過言でない金戒光明寺本は三曲屛に描かれ、三尊がまだ山の向こうに半身を現わすにすぎないが、構想の基本は禅林寺本に通ずるものがあり、印相や持物も一致する。しかし本尊、脇侍ともに一段と大きく頼もしげに描かれている点は阿弥陀の救済性を強調したものであり、前者の観念的表現に対して現実感を強く抱かせるものがあろうという。
尾のない来迎雲が、阿弥陀仏と観音や勢至の間にわずかに描かれる。
同書は、弥陀の手に短い糸片が残っていることで有名である。それはかつて往生者が阿弥陀仏との間に交わした五色の糸の名残りであり、源信以来の長い遺風を伝えるものとして感慨深いものがある。しかもこの種の痕跡が不思議に禅林寺本や京都国立博物館本のような山越阿弥陀図に多く認められるのであって、この種の来迎図にはよほど深い思いがこめられ、また往生者が自らの心を託したさまが思いやられるのであるという。
金泥の体にまとっているのは金色の衣。左腕と腹部のものが黒みがかっているのは、銀箔による截金のせいだろうか。右腕側の截金も、様々な文様で埋め尽くされている。
また、禅林寺本とは異なって、樹木が、尖ったもの、丸いものとさまざまに表されている。
『日本の美術273来迎図』は、平安時代の半ば、栄耀栄華をきわめた藤原道長は寛仁4年(1020)11間4面の壮大な無量寿院を発願建立した。その原容はもとより明らかではないが、九体の丈六阿弥陀仏に観音・勢至両菩薩、四天王を安んじ、その正面の扉-おそらく9組-に九品蓮台の図を描いてあったという。
道長はこの時より7年後の万寿4年(1027)12月に没したが、その時あらかじめこの阿弥陀堂に身を移し、阿弥陀仏の相好を仰ぎ、臨終の念仏を耳にし、手には九体阿弥陀仏の御手を通して中台に集めた村濃(むらご)の組紐を握りながら往生をとげたと記されている。このような習儀はやがて宮廷や貴族たちに流行をもたらすことになるという。
このような背景から、山越阿弥陀図が生まれ、阿弥陀の手のある箇所に五色の糸を取りつけたのだろう。
平成知新館3・蓮華座13・来迎図2 斜め来迎図← →来迎図4 正面向来迎図
関連項目
平成知新館2・蓮華座12・来迎図1 興福院本阿弥陀聖衆来迎図
京博平成知新館1 ザ・ミューゼスの庭に馬町の十三重石塔
平成知新館2・蓮華座12・来迎図1 興福院本阿弥陀聖衆来迎図
平成知新館5 南宋時代の水墨画
※参考文献
「日本の美術273 来迎図」 濱田隆 1989年 小学館
「日本絵画館4 鎌倉」 1970年 講談社
「日本美術名宝展図録」 1986年 東京国立博物館ほか