ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2014/07/29
仏像台座の獅子2 中国の石窟篇
もちろん、石窟でも獅子は登場する。
蘭州郊外にある炳霊寺石窟では、もっと古い時代の獅子があるだろうと思っていたが、北魏後期のものしかなかった。
交脚菩薩像 北魏、延昌2年(513) 高1.87m 炳霊寺第126窟北壁
『中国石窟永靖炳霊寺』は、菩薩は交脚して方座に坐り、台座の下に踞る2頭の獅子が浮彫されているという。
北魏後期になると菩薩も中国風の衣を身に着けるようになる。両足の下に長い裳裾が2段に襞を折り重ねている。
その下に身繕いをするかのように後肢をあげる獅子が表される。蓮茎が裳懸座に繋がっているのかと思っていたが、獅子の尾が双葉のように裳裾まで達しているのだった。細身の仏像に似つかわしくない、武骨な獅子である。
麦積山石窟そのものには獅子は表されていないが、運び込まれた石碑にある。
造像碑 北魏(439-535) 麦積山石窟第133窟第11号造像碑
龕内に一仏二菩薩が表され、台座の下に香炉ではなく、パルメットの葉が両側に広がっているようだ。その外側の一対の獅子は、台座の二段目に片足をかけ、背後を振り返って咆哮するかのように大きな口を開けている。
造像碑 北魏(439-535) 麦積山石窟第133窟第10号造像碑
『中国石窟天水麦積山』は、龕内に一仏二菩薩、下層屋形建築の下に四天王と一対の獅子がいて、龕の支柱を二力士が支えているという。
その力士の両足を地神のようなものが支えている。
その外側で、量感のある獅子が腰を下ろしている。
北魏後半の都洛陽の郊外に開かれた龍門石窟では、
交脚弥勒菩薩像 龍門古陽洞北壁第3層 長楽王夫人尉遅氏造 太和19年(495)
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、龕楣には華縄を牽く天人を配し、菩薩交脚像と脇侍菩薩立像(右像亡失)の三尊を彫刻する。菩薩交脚像は銘文中に明記されるように弥勒菩薩で、兜率天で説法する姿である。仏菩薩像や飛天などの姿は西方式で、まだ中国化されていないが、線刻や浮彫りを多用した光背装飾は早くも龍門石刻芸術の片鱗を見せているという。
獅子は四肢を踏ん張り、菩薩に侍している。下段から出てきた地神または力士が、菩薩の交差させた足を支えている。
北魏前半の都、平城郊外に開かれた雲崗石窟について『図説中国文明5魏晋南北朝』(以下『図説中国文明史5』)は、453年に開鑿が始まり、北魏の時代に全盛を迎え、520年代まで彫り続けられたという。
まずは北魏後期のものから、
同書は、北魏が洛陽に遷都した後、平城に住んでいた鮮卑の貴族は争うように雲崗で石窟を開鑿した。この時期の石窟の多くは貴族個人や何人かの出資によって開鑿されたものであるため、芸術的な水準は初期や中期のものより劣るという。
交脚菩薩像 雲崗石窟後期(494-524年) 雲崗石窟第4-1窟東壁楣栱帷幕龕
裳懸座に左右からすり寄るように、すごい顔つきの獅子が表される(左側は失われている)。
如来坐像 雲崗石窟後期 第35-1窟西壁下層仏龕
角形の龕に中国式服制の如来が結跏扶坐する。その下の段には、博山炉を中央に、象、獅子が並ぶ。象は特徴のない表現だが、その両側にいる獅子は、やはりかなりすごい顔つきで、口を開いて威嚇している。これでも多少は阿吽になっているらしい。
右端では、力士が踏ん張って上の層を持ち上げている。
雲崗石窟中期窟(470-494)では、いろんな獅子像がみられる。
『図説中国文明史5』は、中期に開鑿された石窟は、いずれも皇族や貴族の援助によって造営された。中期の石窟は整然と並んでいて、入念な計画に基づいて工事が行われたものと思われるという。
菩薩交脚像 雲崗石窟中期 第11窟南壁第3層西側仏龕
獅子は周囲を威嚇せず、菩薩に寄り添っている。獅子のたてがみの表現が独特。右側の獅子は舌を出している。
如来坐像 雲崗石窟中期 第11窟西壁第3層南側仏龕
涼州式偏袒右肩に大衣を着けた如来が龕内で結跏扶坐する。その下に珍しく右に頭を向ける仏涅槃図が浮彫されている。釈迦の頭部と足元に小さく各一弟子が表され、その背後に弟子が2名ずつ、そして一番外側には大きな獅子が一頭ずつ表されている。右側の獅子は嘆息しているのだろうか、口から長い息が見える。
交脚如来像 雲崗石窟中期 第12窟後室東壁第3層南側仏龕
獅子は寝そべっている。
交脚如来三尊像 雲崗石窟中期 第12窟前室西壁第2層仏龕
通肩の如来が交脚で表される。左側の獅子は失われているが、右側の獅子は目が出ていて、敦煌莫高窟第275窟の獅子に似ている。
初期窟(460-465)は、曇曜五窟と呼ばれている。『図説中国文明史5』は、曇曜五窟の規模はもっとも雄大で古風で素朴な趣をとどめているという。
交脚菩薩三尊像 雲崗石窟初期 第18窟南壁下層西側仏龕
交脚の中尊に、両側で半跏思惟の菩薩が侍している。しかも、獅子の上に腰掛けているのは珍しい。
しかし、『中国石窟雲崗石窟2』は、帷幕龕の中央に交脚菩薩が獅子座の上に坐す。両側の思惟菩薩は束帛座の上に坐すという。
そう見えなくもないなあ。
このように見ていくと、雲崗石窟は獅子座の宝庫だった。
しかし、トルファン高昌国郊外の吐峪溝石窟や亀茲国郊外の克孜爾石窟では獅子座は見られなかった。
菩薩交脚像 北涼(397-439年) 敦煌莫高窟第275窟正壁 塑造
この獅子もライオンには見えない。たてがみは粘土ではなく、布か藁でつくったものを被せていて、いつの間にかなくなってしまったのだろうか。
背後の壁面に描かれた両脇侍菩薩は、獅子の上に乗っているかのようだ。
しかし、実際には両者には距離がある。そして、現地で何よりも驚いたのは、獅子は壁面から出ていて、後肢がないのだった。
おまけ
後肢が表されない獅子というのは他にも見られる。
弥勒菩薩交脚像 北魏前期 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌するという。
このように前肢だけの一対の獅子が菩薩の脇から出て来たように表された獅子座は、道教三尊像にも見られる。
また、敦煌莫高窟では意外なことに獅子座はなく、やっと見付けたのは隋時代のものだった。しかも壁画である。
双獅子図 隋(581-618年) 敦煌莫高窟第292窟人字披頂西披龕下
白い鈴つきの首輪をはめられて、まるで犬のよう。銜えているのはパルメット?それとも285窟(西魏、535-556年)で空を漂っていた雲気文?
中央には蓮池があり、蓮華とその葉と共によく似たものが生えている。
仏像台座の獅子1 中国篇← →仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇
関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足
中国の仏像でギザギザの衣文は
X字状の天衣と瓔珞8 X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
前屈みの仏像の起源
※参考文献
「図説 中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 羅宗真著 2005年 創元社
「雲崗石窟」 1999年 李治国編・山崎淑子訳 人民中国出版社
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
2014/07/25
卍繋文の最古はアナトリアの青銅器時代
卍繋文の最古のものを探していた前回は、前525年のアテネ、アクロポリスのコレー像よりも古い卍繋文を見付けることができなかった。
アクロポリスのコレー682 盛期アルカイック時代、前525年 高さ1.82m アテネ、アクロポリス美術館蔵
ギリシアで最古期の卍繋文は、卍と正方形の空間あるいは中に模様のある正方形とが交互に配されながら、卍の4本の腕?が別の卍と繋がっている。その正方形の文様を勝手にサイコロ文と呼んでいる。
ヒマティオン(上着)の衣端には小さなサイコロ文4つで一組の文様になっていたようで、左腕には、点描で表されたサイコロ文のある黒枠が並んでいるように見える。
キトンは(内側の長衣)、サイコロ文と卍を交互に配した二段の卍繋文となっている。
ところが、獅子座を探していて、アナトリア(この時代にトルコという地名を使うのはいかがなものか)の青銅器時代のスタンダードに、卍繋文を見付けてしまった。
儀式用スタンダード 青銅器時代前期、前3千年紀後半 アラジャフユック出土 高さ34㎝ 青銅製 アナトリア文明博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、アラジャ・ホユックの副葬品のなかで出色なのは、なんといっても「スタンダード」と呼ばれる青銅製品であろう。これらはいずれも基部に柄に差し込めるような形の茎が作り出されており、柄に差し込んで用いられた祭器であったと考えられるという。
正方形を斜めにしたスタンダードは、頂点と左右の角に単独の卍文が矩形に入った形で取りつけられている。単独の卍はすでに前4000年頃にメソポタミアの土器に見られ、前2400年頃にはインダスでも印章に用いられている。
そして、ギリシアの卍繋文のようにサイコロ文を間に入れることもなく、矩形の中に一つずつ入って、4個ずつ縦横に並んでいる。しかも、卍の4本の腕?は、隣接する矩形の卍の腕?と繋がっているのである。
不思議なことだが、このように矩形の中の卍が上下左右の卍と繋がった文様は、他のところでは見付けることができないが、日本では仏像の着衣の文様にある。
多聞天像 裳部分 鎌倉時代、永仁4年(1296) 薬師寺東院堂
截金による卍繋文が縦横に整然と並んでいる。
矩形の中には、アナトリアのスタンダードよりも卍は小さいが、周囲の矩形の卍へと繋がる腕?がもう一度直角に曲がり、長い直線が矩形の線と平行して走り、隣の卍と繋がっている。
日天 平安後期、大治2年(1127) 東寺旧蔵十二天うち
正方形の区画の中に、卍が截金による曲線で描かれている。中央から出た4本の渦巻のようでもあるが、その渦から離れたそれぞれの腕?は、さらに90度回転して、ほぼ直線となって次の区画に入り、渦巻の中へと吸い込まれていく。その回転がアナトリアのスタンダードに見られる卍繋文との違いだ。
アナトリアと日本という距離と、時代があまりに遠すぎるので、関連はないだろうが、よく似ていて面白い。
おまけ
スタンダードには大きく分けると、動物像と円盤状のものの2つの種類が見られる。動物像としてはまれに驢馬も見られるが、牡牛と牡鹿が中心となっているという。
スタンダード(牡鹿、部分) 前3千年紀後半 トルコ、アラジャ・ホユックB墓出土 青銅、銀 高52.5長26㎝ アンカラ文明博物館蔵
同書は、アラジャ・ホユックは、背後にアナトリア有数の鉱山地帯を擁す格好の位置にあり、青銅器時代前期の層からは、豊富な副葬品の納められた墓が合計13基発見された。
本体は鋳造による青銅製であるが、この角を含めた頭部は薄い銀の板によって覆われている。胴には銀の象嵌による装飾が顕著に認められ、背中には直線が引かれ、胴の両側には二重の同心円文が7つずつ配され、頸の部分には3本からなるジグザグ文が巡らされている。さらに肩と腰の上部には、十字文が2対2組で配されるという。
銀の象嵌という技術で、動物に幾何学的な文様を施している。
スタンダード(牡鹿と牛) 前3千年紀後半 アラジャ・ホユックB墓出土 青銅 24㎝ アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
同書は、円盤形のスタンダードにも、基部附近に牛の角がシンボライズされた形で付加されている例が多く見られるという。
こちらはX字形のある小さな丸い枠が3つ、円盤X字形のある矩形が縦横に並んでいる。
それだけではない。アラジャ・ホユックからは同時代に金冠も出土している。
冠 前3千年紀後半(前2500-2000年) トルコ、アラジャ・ホユックA墓出土 金 高5.4㎝径19.2㎝ アナトリア文明博物館蔵
同書は、透彫りは、三角形の透かしを方向をたがえて四つ組み合わせることで格子目文にX字形文(襷状)が組み合わせた形となっている。それぞれの三角形は、外側から鑿(のみ)状の工具で3回打ってくりぬくことで作り出されているため、微妙に形が異なっている。これが水平方向に4段にわたって全周する。上縁と下縁には内側からの打出しによる点文が認められるという。
上図のスタンダードと同じ幾何学文である。
卍文や卍繋文そしてX字形文といった幾何学文が青銅器時代のアナトリアですでに見られる。アナトリアの幾何学様式の時代とでも呼んで良いのでは。
卍繋文の最古は?←
関連項目
単独卍文の最古は
東寺旧蔵十二天図5 截金4卍繋文
アナトリアの青銅器時代の鹿
打出し列点文も粒金細工から?
※参考文献
「archaic colors」 Dimitrios Pandermalis 2012 Acropolis Museum
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館
「日本の美術33 密教画」 石田尚豊 1969年 至文堂
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
2014/07/22
箕面で田上惠美子ガラス展3
奥のテーブルにもすきとおるいのちがびっしり。
その真ん中には「散華シリーズ」
以前に田上氏にある個展の案内をもらってから、見たくて仕方がなかったこの作品。
蓮弁の葉脈が無数に通っていて、しかも、花弁の色が微妙に変化している。コアガラスなので、型でつくるのだろうが、それぞれ形も大きさも異なる。
花托にはレースガラスのショットグラスにミントの葉が入れてある。一番下の散華は、葉脈にウェーブがかかっている。すごい凝りよう!
その周辺にはトンボ玉
春の野 雪どけの隙間から、大地のあちこちから、新芽や蕾が顔をのぞかせる。心躍る季節
こちらは截金ではなく、金の截箔
つくばね 岩峰などの尾根筋や露岩の急傾斜地に見られる落葉低木。実は羽根突きの羽に似ている
ツクバネは昔雪彦山で見たことがあるような。いや、あれはコウヤボウキだったかな。なんとええ加減な記憶。どちらも老母の好きな植物であるのだが・・・
須磨 須磨の浦の波。その音や景色は、光源氏にはどのように映ったのだろう
田上氏の源氏物語シリーズ、完成したのだろうか?
うたかた 周囲の光を包み込んで漂う儚い泡沫。ガラスの中では、時は止まっている
透明ガラスの中に色ガラスが漂い、その間に小さな泡が遊泳していて涼しげ。それぞれに宇宙がある。
青海波の帯留。なんとかピントが合った、かな?
帯留類
田上氏の作品は截金や截箔など金箔を使ったものも多いが、結構表面がうねっているものがある。
右端の朱い石畳文の上や左の作品など、こんな風にされるのは嫌だ!と主張しているみたいにぶくぶく膨れている。どうやってつくるのだろう。
重そうだが、作り方に工夫があって軽い。ご自身も着物を着られるということで、帯が擦れて傷がつかないようになっていたりして、着る側目線の帯留。
岸辺
あれ、岸辺のグループの写真を撮っていなかった。
直線的というか、シャープな線の截金が多いが、こんな肥痩のある線も。まるでゆっくりと筆を運んだよう。さざ波を表しているのかな。
テーブルの右端に、石と一緒に転がっている中には、透き通っていないものもたくさんあった。河原の石と書いてある。なるほど、穴がない。
その一つ、石に花が咲いていた。
黒に見えたが、グレーも入ったマーブル模様で、ところどころに小さな穴があいている。つやもないが、極小の花が可愛ゆい。
勝手に並び替えたりなんかして
真ん中の小さな白と黒の石畳文の入った水色のが美味しそう、いや涼しそう。
そして、田上氏の作品とその並べ方、天善堂というギャラリーの空間を堪能した後は、最後のお楽しみ。
個展期間限定の天善堂特製濃厚抹茶かき氷!
粒あんは自家製、抹茶は一保堂のものとのこと。甘さ控えめで、さすがに濃厚な抹茶でも一保堂のものなので苦みがなく、大きな白玉団子は食べ応えがありました。口径の広い抹茶碗に入れてあるので、かき氷を外に落として、ああもったいないと思うこともなく、しっかり最後まで口の中に収まりました。
手前にあるので大きく写ってしまった木の匙も、金属のスプーンのように口当たりが冷たくなくて良かった。
一保堂の喫茶室嘉木にはないだろうなあ。
冷茶も美味しかった。 これも一保堂のお茶かな。
庭と展示室を眺めながら戴きました。
思えば、八木洋子氏と田上惠美子氏という、どちらも古代の技法で新しいものを創作するガラス作家。それぞれの個展を一週間のうちに鑑賞し、お二方に会えていろいろと説明を聞くことができるという、またとない濃密で幸せな機会だった。
最近は、古い仏像の台座についてまとめていて、あまり色のないものばかりを見ているので、今年の私の目の保養であり、心の洗濯となった。山歩きしていて、みごとなお花畑に通りかかったような。
※ これらの作品は田上惠美子氏の許可を得て撮影しました。
箕面で田上惠美子ガラス展2← →田上惠美子氏の蜻蛉玉展は真鶴のaToで
関連項目
きのわに八木洋子氏のガラス展を見に行った
きのわでの八木洋子氏の個展2 ムリーニ
きのわでの八木洋子氏の個展3
箕面で田上惠美子ガラス展1
今夏も箕面の天善堂で田上惠美子氏の個展
2014/07/18
きのわでの八木洋子氏の個展3
八木洋子氏の小さな作品はペンダントやイヤリングという装身具が多い。
一対のイヤリングは、創ったのものを半分の厚さに切ってできているという。だから、左右で少し形が異なるらしい。
そう言われてみると、このイヤリングでは、下に写っている方が表面に丸みがあり、上の方はきっちりと平たい。
八木氏は、どちらかが立つんですよと言いながら、あれこれ立てていった。
それぞれに使われている色が全く異なるが、透明感が涼しげ。
イヤリングとして一対揃えるのもいいが、このように一つずつ、窓辺など、光の入る場所に並べていくのも楽しめそう。
直線的に並べたり、ウェーブをつくっていったり、
また、それを重ねて並べるのもええなあ。
八木氏は、並べ方を次々と変えていく。
右端のものが左端にいった。
あれ、今度は前後の奥行が狭くなり、左右への並びもやや右にずれている。
それを斜め上から見たりなんかして。
他のものを撮影している間に、またまた変わっていた。
何か次の作品に繋がるものを見出されたのだろうか、八木氏はご自身でカメラに収められている。
それにしても、こんなに細身の八木氏に、あのような大きな作品を持ち上げて研磨する力があるなんて。
さらに、その手前にも、
3つ並べ、4つ目をどちら側に並べるのだろう。
と見ていたら、2列目の右端だった。
手前の2つを倒したのは私です。
フレキシブルな素材で、目立たないレールのような台があれば倒れないかも。
こんな風に並べたオブジェというのも良いなあ。
きのわでの八木洋子氏の個展2 ムリーニ←
関連項目
きのわに八木洋子氏のガラス展を見に行った
八木洋子氏のモザイクガラスにびっくり
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