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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/29

敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体



敦煌莫高窟には大像の涅槃像が2体ある。第148窟と第158窟で、どちらも2度目の見学だった。


涅槃像 敦煌莫高窟第148窟西壁 石胎塑造 長14.4m 盛唐末・大暦11年(776)
『敦煌石窟精選50窟鑑賞ガイド』は、第148窟は莫高窟の南の端に位置する、大型の涅槃窟である。その後、中唐、五代、西夏などの各時代に補修された。
主室は横長の方形で、西壁一面に仏壇を設け、釈迦の涅槃像を置く。涅槃像は石胎塑造によるもので、体長14.4m、頭を南に向け、足を重ね、手枕をして横臥する。その南、西、北側の3面に悲しみを訴える比丘、天人、聖衆の像が83体並んでいるが、惜しいことにいずれも清代に補修されたものであるという。
背後に壁画の人物ではなく、人物の群像が並んでいるので、甬道から主室に入った瞬間異様な印象を受ける。
群像は清代の重修だとすぐにわかるので、じっくりと鑑賞する気になれない。
左方向に進んで釈迦の顔が見えてくると、盛唐期の雰囲気が残っていないことがわかる。やっぱり清代の重修かな。
涅槃図は私の書庫には盛唐期(712-781)の涅槃図がないと思っていたら、西壁の涅槃経変にあることが『敦煌石窟精選50窟鑑賞ガイド』の小さな図版でわかった。
しかし、背景の緑色の配し方など、西壁の壁画の雰囲気が盛唐のものではなさそうだ。

涅槃図 西壁 涅槃経変図中 時代不明
同書は、仏壇上方の西壁に、壁一面に「涅槃経変」を描くという。
涅槃図は寝台の左側面(頭部側)から見た構図になっていて、しかも右手枕の釈迦は寝台に斜めに横臥するというくだけた表現となっている。
開窟は盛唐末期でも、この涅槃経変は後の時代の重修だった。日本の涅槃図に繋がる唐時代の構図はわからないままだ。
もう一つの涅槃窟は158窟で、吐蕃、つまりチベット族の支配期に開かれた。
『中国石窟敦煌莫高窟4』は、天宝14年(755)に安史の乱が起こり、精鋭部隊が中原に向かったため河西は守りに隙ができた。それに乗じて吐蕃が侵入、沙州の守備隊は抵抗し、11年堅守した後、河西回廊は吐蕃の支配下に入った。
吐蕃は仏教を信奉したため、敦煌莫高窟に66窟を開鑿し、内48窟が現存しているという。
吐蕃支配期を中唐と呼び、盛唐期のものに比べると技術が劣るとされている。

涅槃像 敦煌莫高窟第158窟西壁 石胎塑造 全長15.1m 中唐(781-848)
同書は、規模は空前の大型涅槃変。インド、クシナガラのヴァーティー河畔、沙羅双樹の間で、右肘をついて臥したという。
148窟の涅槃像と比べると量感があり、ちらの方が盛唐期の造形を残しているように感じる。
『敦煌の美と心』は、西壁の台座に涅槃像、南壁に立仏も北壁に倚坐仏を配し、現世仏としての釈迦涅槃仏を中心に、過去・未来の三世仏を安置する構成で、天井は棺の形になっているという。
敦煌研究院の王さんも棺の形になっていますと言ったので、皆で天井を見上げたはずだが、天井に傾斜があったかどうかは覚えていない。
傾斜のある木棺についてはこちら
『中国石窟敦煌莫高窟4』は、螺髪は整い、顔は豊満で、安らかに微笑む。凡人の臨終のような苦痛や悲哀は微塵もなく、眠っているようだ。弟子や信徒の悲しむ表現が強烈なのとは対照的だという。
涅槃像は盛唐の雰囲気を残していても、背後に描かれた比丘たちの顔は、隈取りが変色しているが、隈の付け方が独特で、もはや盛唐期ではないことがわかる。
各国王子図 北壁涅槃変中
足もとの壁面には、釈迦の涅槃を伝え聞いて悲しむ様子を、各国の王子が在家信徒の代表として描かれている。ある者は耳を切り、ある者は胸を小刀で刺す。両側を侍女に支えられている漢族の皇帝の他に、吐蕃、突厥、ウイグルなど各民族や、南方のアフガン、パキスタンなど、南海の民族に混じって康居国の王子がいる。画師は、それぞれの服装、人物の特徴を注意深く描き、唐代が密接に国際関係を結んでいた事を表現しているという。 
それぞれの民族が人の死を悲しむ風習が表されている。
2本の小刀で胸を突く人物の被っているのは、現在でも見かけるキルギス帽だ。当時キルギス族は現在よりも中国に近いところで暮らしていた。
もちろん中国の皇帝も冕冠を被って登場していて、何故か皇帝にだけ頭光がある。
おまけ

中唐期の迦陵頻伽
全体に精密には描かれていないので、どこからどこまでが迦陵頻伽かわかりにくいが、足は鳥ではなく、人間のそれとして表されているようだ。
中唐期の飛天
盛唐期の飛天と同様に雲に乗り、天衣が長く後方に伸びている。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
傾斜のある木棺1
傾斜のある木棺2
傾斜のある木棺3
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
敦煌莫高窟12 285窟は飛天が素晴らしい
敦煌莫高窟13 飛天1 西魏まで
敦煌莫高窟14 飛天2 西魏以後

※参考文献
「敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局
「中国石窟 敦煌莫高窟4」 敦煌文物研究所 1999年 文物出版社
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版株式会社
「絵は語る2 仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年 平凡社

2013/01/25

中国の涅槃像には頭が右のものがある




中国では涅槃像はわずかながら残っている。

釈迦涅槃像 甘粛省・永靖炳霊寺石窟第132窟東壁門上 長2.15m 北魏(446-530)
『中国石窟永靖炳霊寺』は、右肘の上に臥す。仏光の背後に弟子が哀悼している。頭部に跪いているのは仏弟子の一人舎利弗であるという。
永靖が北魏に統治されていた頃、すでに涅槃像が制作されていた。涅槃図よりも早い出現ということなのか、それとも涅槃図も描かれたが残っていないだけなのか。
釈迦は光背に包まれている。その光背は何色かの曲線状で構成されていて、「仏光」と呼ばれている。キジル石窟に見られるような荼毘の火というよりも、釈迦が発する光を表しているらしい。
釈迦涅槃図浮彫 山西省・雲崗石窟第11窟西壁第3層南側 雲崗中期 北魏・5世紀
『中国石窟雲崗石窟2』は、円拱龕内に一仏坐像、龕下側に仏涅槃の場面が浮彫されている。仏の前に一人の弟子が立ち、後ろに弟子が一人跪いている。その両側には二人の弟子と一頭の獅子が表されるという。
何故か釈迦は頭を右側に向けた姿で表されている。
そして光背はない。
仏坐像の下の帯状の空間の一部と、限られた面積の中で精一杯涅槃の様子を表したためか、素朴な表現となっている。他に涅槃図というものを見たことのない工人が造ったのではないかとさえ思える。
釈迦涅槃図浮彫 雲崗石窟第38窟北壁東側 北魏・6世紀
『日本の美術268涅槃図』は、挙身光を付けた釈迦が、頭を向かって右に向け、両手を体側に付けて横たわる。枕もとと足もとに各一人のほか、背後に5人の会衆がみえるという。
雲崗石窟では、涅槃の姿は頭を右に向けるのが一般的だったのだろうか。
涅槃図浮彫 河南省・龍門石窟第14窟左壁 北魏・6世紀
同書は、龍門石窟唯一の涅槃像。釈迦は右手枕で横たわるが、その姿は仰向けに近い。背景に沙羅双樹がなく、室内の帳の中に置いた寝台に横たわるという。
頭部は左側に表されているが、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した(同書より)とされる状況とはかなり隔たっている。
北魏時代、雲崗石窟でも龍門石窟でも、本来の涅槃の場面とはかけ離れた涅槃像が造られていた。それは、敦煌莫高窟にも北魏時代の窟に涅槃図がないことと関係しているのだろうか。北魏時代、涅槃図・涅槃像そのものが中国では表されることが少なかったのだろうか。

涅槃図浮彫 五層四面塔2層目 石造浮彫 1976年甘粛省荘浪県水洛城徐家碾出土 北魏時代・6世紀前半 荘浪県博物館蔵
『中国国宝展図録』は、仏伝には九龍灌水、出家踰城、アショーカ王施土、涅槃がある。この他、過去七仏、二仏並坐など図像はさまざまで、また迦陵頻伽やヒンドゥーの影響を受けた多頭の神像など、多様な造形がみられる。
山西省涅水でやはり6世紀の制作にかかる同じタイプの作例が大量に発見されており、一つの流行があったことをうかがわせるが、必ずしも中国全域でみられるわけではなく、出土例からみる限り、制作された地域は限られていたようだ。
角ばった顔の表現などは、必ずしも洗練された造形とは言いがたいが、逆に地域性や当時の民間の造像のありようを示すものといえようという。
光背を付けない釈迦は仰向けに臥している。頭部に触れているのは舎利弗だろうか。
背後で両手を挙げて悲しむ人々の衣装が独特。
北魏時代末期とはいえ、このような地方作のものでさえ、頭部を左側に表されている。やっぱり雲崗石窟の涅槃像は変。
寝台の下で角笛を吹いたり、足や腕の関節に編鐘のようなものを付けて踊ったりしているのは、この地方の葬送儀礼なのだろうか。
涅槃図浮彫 四面像内 砂岩 東魏時代(534-550) 大阪市立美術館蔵(山口コレクション)
『中国の石仏展図録』は、涅槃図は、双樹の間に出土が横臥し、激しい身振りで慟哭する4人の女性、釈迦の足に触れる鬚をたくわえた人物、迦葉と阿難、さらに背後に4比丘を浅く浮彫し、龕上には覆頭衣をつけて禅定に入り、火を放つ須跋を表す。ここでの涅槃図は、仏伝の一場面ではなく、三世仏中にあって仏滅を意味し、弥勒信仰と強く結びついているという。
釈迦は光背をつけず、頭部を左にして臥している。
敦煌莫高窟では隋代(581-618)に焼身自殺するスバドラは、寝台の前に表されるが、ここでは涅槃像の上に浅浮彫されている。
小さな石刻では忘れられがちな沙羅双樹は、ここでは石材の両端に高く表される。
やはりこれも地方の民間で制作されたものらしく、本来は仏弟子が頭部や足に触れたりしているだが、ここでは会衆の女性や男性に替わっている。
また、両腕と長い髪を釈迦の膝あたりに垂らした人物は、敦煌莫高窟では北周時代(557-581)にはなく、隋代に見られる。東魏時代のこの浮彫はそれらに先行する作品で、中国では早くから現れた嘆きの姿として興味深い。
敦煌莫高窟の北周時代の涅槃図はこちら
隋代の涅槃図はこちら
涅槃図浮彫 石造浮彫 北斉・天保10年(559) 東京国立博物館蔵
同書は、釈迦は向かって右に頭を向け、両手を体側に付け、仰向けに横たわる。沙羅双樹は8本、会衆11人という。
北斉時代になっても、頭部が右側にある涅槃像が造られることもあったようだ。
涅槃図浮彫 石造浮彫 唐・天授3年(692) 山西省博物館蔵
同書は、もと狗氏県文廟にあり、則天武后のために制作された。涅槃前後の諸事件とともに浮彫され、釈迦は右手枕で横たわり、光背を付けない。多くの会衆あり、釈迦の足もとに手を触れる大迦葉の姿が認められるという。
左腕は体側面よりも内側にあり、手先も衣に隠れているようで見えない。
北斉時代の涅槃像から1世紀余りで、涅槃像は涅槃図らしくなってきた。
涅槃図浮彫 釈迦如来及び諸尊仏龕 唐時代(618-907) 白檀 仏龕総高18.3㎝京都報恩寺蔵
同書は、箱形の龕の左右に扉を兼ねた脇龕が付く。釈迦浄土の上方に八つの小区画を設け、本生譚と仏伝を彫るが、涅槃像は中央龕の左端にあり、釈迦の姿は法隆寺五重塔彫像と近いという。 
ただし、2006年の重文に新指定された同寺の仏龕と同一のものなら、北宋時代とされている(文化財データベースの木造諸尊仏龕より)。初唐の頃に定形化した涅槃像の一つの形式が、長い期間続いたということになるだろう。
日本の涅槃像といえば、やっぱり法隆寺。

涅槃像 法隆寺五重塔初層 塑造 和銅4年(711)
同書は、この日本に現存する最古の涅槃像美術は、後世の涅槃図とは種々相違するところがある。まず、右脇を下にして寝台に横たわる釈迦は、右手を差し出し、耆婆大臣がその脈をとるかのごとき姿に作られる。それは京都報恩寺が所蔵する唐代白檀製の仏龕の浮彫涅槃群像の釈迦の姿と酷似し、これが唐で流行していた涅槃像の一形式であることが確認できるという。 
日本では涅槃図あるいは涅槃像が将来された最初期に、すでに沙羅双樹ではなく、山岳地帯が背景となっている。 

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
京都大学の博物館で雲崗石窟仏像の目の正体を知る
石窟で見る龕の垂飾
雲崗石窟にも二仏並坐像がいっぱい
雲崗石窟に三柱九輪塔

※参考サイト
文化財データベースの木造諸尊仏龕

※参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「中国石窟 永靖炳霊寺」 炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 雲崗石窟2」 雲崗石窟文物保管所 1994年 文物出版社
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1983年 至文堂
「中国国宝展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社編集 2004年 朝日新聞社
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「ブッダ展図録」 1998年 NHK

2013/01/22

キジル石窟は後壁に涅槃図がある



敦煌莫高窟では前期窟にしか見られなかった中心柱窟だが、新疆ウイグル自治区、天山南路の中央部に位置するクチャ郊外のキジル石窟では、一般的な窟の形だ。
『キジル大紀行』は、中心柱の手前の大きな部屋は「主室」、後ろ側には「後室」と呼ばれる小さな部屋があり、この二つの空間は「側廊」と呼ばれるトンネル状の通路で結ばれている。このような主室と後室をトンネルで結ぶ石窟形式はキジルで生まれ、後に敦煌や雲崗、龍門など中国の主要な石窟寺院に受け継がれていった。
古代キジルの僧たちは、石窟の最も奥深くにある暗い後室に、決まって一つの姿を描かせた。涅槃図、つまり釈迦の死を描いた絵であるという。
そして、中心柱の奥には、窟の幅いっぱいに涅槃図が描かれ、左側の通路から右繞して涅槃図へと到達する。ただ、キジル石窟は窟の一つ一つが小さいので、体が擦れそうなほど通路も狭いため、涅槃図の前で全体を見るということはできない。通路を進みながら、涅槃図を部分的に見ていくことになる。
涅槃図 80窟後甬道後、左、右壁 6-7世紀(キジル石窟の最盛期)
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、仏は七宝の床に右脇を下にして臥し、右手で顎を支え、身体は長く平たい。足は露出する。弟子の迦葉が足側に、頭側には下部が損傷しているが、金剛力士がいる。仏の身光は上側に描かれ、背後にはクシナガラの力士が4人並ぶという。
釈迦には頭光と身光が表されるのは敦煌の涅槃図と共通する。しかし、それらの光背には火焔文は描かれず、身光の内側で、釈迦の体から火焔が出ている。
キジル石窟では、涅槃と荼毘が一つの図で表されています
そう石窟ガイドの馬さんは説明してくれたが、同書にはそのようには書かれていない。
涅槃図 17窟後甬道後壁 6-7世紀
仏は七宝床に臥し、通肩の袈裟を身に着け、右手で顎を支え、体の上方に七條の光焰が出る。仏の左側に梵天、クシナガラの力士、最も外側に弟子の阿難が並び、足下に迦葉が跪くという。
この図も釈迦の体から火焔が出ている。
涅槃図 161窟前壁上方 6-7世紀
比較的完成した様式の涅槃図。仏は臥して右手で顎を支え、頭側に諸弟子、上方に梵天・帝釈天・クシナガラの力士、足下側で大迦葉が足を撫でているという。
うっすらと釈迦の体から火焔が出ているのがわかる。
焚棺図 205窟後甬道前壁 6~7世紀 ベルリン、インド芸術博物館蔵
仏が涅槃に入った後、龍頭の金棺に納め、荼毘に付した。図中、棺の蓋の上に火焔がもうもうと上がり、棺の下には牛頭に似せた栴檀を燃やしている。棺前で棺の蓋をあげているのは弟子の阿難という。
荼毘の炎は、涅槃図で釈迦の体から出ている火焔とは全く異なっている。涅槃図では剥落していたりして、よくわからなかったが、この図では確かに頭部側(左側面)が見えている。
馬さんの説明を聞いて以来、キジル石窟の涅槃図は荼毘と同一場面だと思ってきたが、『中国新疆壁画全集克孜爾2』には、どの涅槃図にもそのような説明がないので、疑問に思うようになった。

涅槃図 第2小渓谷第2洞 8世紀
『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は右手枕し、頭光と身光を付けて横たわり、その体から数条の荼毘の火焔が立ち昇る。会衆は釈迦の両足を触れる大迦葉一人のみ。寝台は向かって左側面が見えるという。
他の窟では剥落していたりしてよくわからなかったが、当窟では、左側面から見た構図になっている。
キジル石窟では窟名には1960年代に通し番号が付けられた(『キジル大紀行』より)という。第2小渓谷第2洞がどの窟に当たるのかわからない。8世紀ともなれば衰退期に入っている(『中国新疆壁画全集克孜爾3』より)。当図だけで、他の窟の涅槃図も左側面が見える構図になっていたとは言えない。
『キジル大紀行』は、第二期で最も一般的なのは、後廊の奧壁に涅槃図を描いたり、あるいは台座を設けて塑造の涅槃像を安置するものである。
横臥する釈迦の双足を礼拝する長老大迦葉が決まって表されるのも興味深い。大迦葉が釈迦の双足を礼拝したとき、はじめて荼毘の火が燃え上がったというエピソードを表している(しばしば釈迦の体軀から荼毘の火が燃え上がる表現が見られる)が、同時に大迦葉は釈迦の衣鉢を継ぐ仏弟子とされ、弥勒菩薩の出世までの橋渡しの役割を負っているのである。第二期の中心柱窟には主室の入り口を入った上部、つまり前室上部の半円形区画には「兜率天上の弥勒菩薩」が表されることが多く、釈迦の入滅-大迦葉-弥勒菩薩という関連が暗示されているという。
キジル石窟の涅槃図は、迦葉が釈迦の足に触れて、やっと荼毘の炎が上がった瞬間を表したものだったのだ。

ところで、キジル石窟には涅槃図だけではなく、涅槃像が残っている。

涅槃像 新1窟後壁 6-7世紀 長約5m
上半身は崩壊している。
『キジル大紀行』は、キジル大石窟群の高さ80mの断崖の最下部には、瓦礫の山がスカート状に連なっている。上から崩れ落ちた土砂が10数mの高さにまでも積もっているのである。
1975年、堆積した土砂の下から、新しい石窟が発見されたのである。調査に当たった研究者たちは、石窟を埋め尽くす土砂を、指とヘラで少しずつ慎重に掘り進んだ。やがて彼らは最奥部の後室で、粘土の塑像に突き当たった。大きさはおよそ5m。それは、釈迦の死のときを描いた粘土による涅槃像だった。しかも、造られた当時の原形をほぼ完全にとどめている。キジルの涅槃像はほとんどすべてがイスラム教徒によって破壊し尽くされているのだが、この石窟は、14世紀にこの地域がイスラム化する前に洪水で埋もれたため、異教徒による破壊を免れたのだった。
亀茲石窟研究所のトゥルスングリさんはその発見直後、クチャの町から文化財管理官として駆けつけたという。
「実に優しい顔をしていました。涅槃像のあまりの荘厳さに息をのみました」
しかし、当時は文化大革命の混乱が続いており、彼女はその後数年間ここを訪れる機会を持てなかった。80年代になって再び新1窟を訪れたとき、粘土でできた涅槃像の仏陀の顔は崩れ落ちていたという。
流れるような衣文は、緩やかに釈迦の体を表し優美だが、顔も肩も崩壊した姿は痛々しかった。 
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、本窟の後室は広く、後壁前に台を穿ち、その上に塑造の涅槃像がある。その衣文は襞が隆起した線状で表され、繊細につくられている。涅槃像の上方には巨大な頭光と身光が描かれている。続くヴォールト天井には3体の飛天が色鮮やかに舞っているという。
残った部分から、光背の外縁は涅槃図と同様に、数本の色の帯で構成されていて、そこには火焔文などの文様はない。その内側には涅槃図同様、火焔が描かれていたのだろうか。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
弥勒の大仏像は
五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあった

※参考文献
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」 主編段文傑 1995年 天津人民美術出版・新疆美術撮影出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾3」 主編段文傑 1995年 天津人民美術出版・新疆美術撮影出版社
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治 2000年 NHK出版
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健・山田樹人 1990年 里文出版

2013/01/18

敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周 



隋以前では北周時代(557-581)の涅槃図があった。

涅槃図 428窟 西壁中層北から2番目 
『敦煌莫高窟1』は、敦煌の早期窟では唯一の涅槃経変。釈迦が沙羅双樹の下で涅槃に入った情景を表す。釈迦は右脇を下にして臥し、会衆は悲嘆に暮れる。足に触れ、慟哭するのは遅れてやって来た大迦葉。沙羅双樹は白い花を咲かせているという。
日本では迦葉を「大迦葉」と呼ぶが、それは中国の影響だったのだ。
釈迦には火焔文の頭光・身光だけでなく、挙身光までもある。身光と挙身光は色を違えて圏状に表され、ますます仏像のようだ。 
両腕は体に沿って伸ばしていて、ぎこちない印象を受ける。
構図という点では、頭部側(左側面)、足下側(右側面)のどちら側から見たのでもなく、寝台の正面が広く、背面が狭くなっていて、線遠近法が用いられているように見える。
世界的にみて、この時代にはまだ前面よりも奥の方が幅広く表される逆遠近法だったのに、唐時代の阿弥陀経変や観無量寿経変などは前面が広く、奥が狭く表される、線遠近法が用いられているのは驚きだったが、その前兆が北周時代の仏画に現れている。
観無量寿経変などの遠近感についてはこちら
窟内内景
同書は、敦煌の早期では最大の中心柱窟、幅10.8m、奥行13.75m。北魏の254・257・248窟などとほぼ同じ形である。主室は人字披平天井という。
人字披頂についてはこちら
この中心柱の背後の西壁に、涅槃図がある。
428窟は中心柱窟で、10年前に見学した時は、何よりもラテルネンデッケに興味があったので、ラテルネンデッケが並ぶ平天井と中心柱の木芯塑像を眺めながら右繞したため、周壁に描かれていたものにまで目を向ける余裕がなかった。
それで今回は中心柱側ではなく、周壁の壁画、それもこの涅槃図をしっかり見ようと決めていた。ところが中心柱のある窟では、通路にガラスの仕切りが置いてあって、奥に行けないようになっていた。西壁は中心柱の奥にあるため、全く見ることができなかった。
北隣の427窟は隋時代の中心柱窟で、ここも仕切りがあったため、中心柱を回ることはできなかった。中心柱窟は隋代を最後に廃れてしまう。
西千仏洞でも涅槃図は見た。

涅槃図 西千仏洞第8窟 西壁後部 北周
『中国石窟安西楡林窟』は、両端に大きな沙羅双樹がり、中央に釈迦が右肘をついて臥す。火焔文舟形身光の上方に哀しむ信徒たちがいる。釈迦の前には一人の世俗の服を着た信徒が描かれる。これは釈迦最後の弟子で年老いた修行者のスバドラの可能性があるという。
釈迦と足もとの迦葉の間にあるのは何だろうと見ると、巨大な釈迦の足が下を向いて描かれているのだった。
斜めから写してあるため、足下、頭のどちらから見た構図なのかよくわからないが、頭側の寝床の辺が見えているようなので、頭部側から見た構図なのだろう。
敦煌では、北周時代にも涅槃図逆遠近法とみなすほどに奥側が広く表されることはない。このような構図は、どこから将来されたのだろう。
この火焔光背は、ひょっとすると、キジル石窟にあったような、涅槃図と荼毘の場面を同時に描くところから生まれたのではないだろうか。そしてそれが、荼毘とも釈迦の涅槃とも関係なく、火焔文として独立して、光背の縁を飾るようになっていったのかも。
光背の火焔文についてはこちら
キジル石窟の涅槃図ついては次回。

他の石窟で涅槃図を確認できたのは天水麦積山だけだった。

涅槃図 天水麦積山石窟第26窟窟頂正坡右側 北周(557-581)
『中国石窟天水麦積山』は、典型的な北周の帳形窟。壁面方形、四角尖頂、正壁に龕一つ。
窟頂に涅槃経変が描かれる。正坡は幅3.45m。左側面に釈迦が臨終前に林の中で弟子に説法する場面。
右側面に釈迦が沙羅双樹の間で七宝の床で涅槃に入る場面が描かれる。釈迦の四周で弟子たちが哀しみ続ける。一弟子が釈迦の足に触れている。これは釈迦が涅槃の後に摩訶迦葉に出した足の場面であるという。
はっきりと頭部側(左側面)から見た構図とわかる。
敦煌莫高窟では隋代でも左側面側から見た構図になっている。唐代に足下側(右側面)から見た構図になるらしいのだが、涅槃図が見つからないので確認できない。

北周時代の涅槃図は、正面向きのようで、枕もとの養母、前面には悲しんで転げ回る金剛力士も、焼身自殺するスバドラも表されない。
時代が下がるにつれ、涅槃図には登場人物が増えていくのは日本だけではないようだ。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
敦煌莫高窟7 迦陵頻伽は唐時代から
煌莫高窟10 285窟の忍冬文

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 安西楡林窟」 敦煌研究院 1997年 文物出版社
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社

2013/01/15

敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い




涅槃図について『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は29歳のとき出家し、まず山中に入って6年間苦行生活を送ったが、その空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらして、ついに前人未踏の悟りを開いた。以後40余年間、インド各地を巡歴して多くの人々を教化し、ヴァイシャーリー近くのヴェーヌ村に至って重い病にかかった。一説によると、この病はパーパー村の鍛冶屋の息子純陀の捧げた食事で中毒したのだという。病は一度回復したが、再び重くなり、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した。涅槃図はこの場面を描いた図なのである。
日本の涅槃図の第一形式は唐画をもとにしているが、中国中央の涅槃図はほとんどすべてが滅んでいるという。

しかし、残念ながら『中国石窟敦煌莫高窟3』には、唐代(618-907)の涅槃図は掲載されていなかった。

第332窟 初唐(618-712)
南壁後部には「涅槃経変」が表されているので、涅槃図も描かれていたはずだが、図版がない。同書は、図上部東段にクシナガラの沙羅双樹の間で釈迦が涅槃に入ったのち ・・略・・という。
確かに涅槃図は描かれているはずだが、足もと側(右側面)が見える構図だったかどうか確認できない。
なお、釈迦入滅の知らせを聞いて忉利天からやってきた母の摩耶夫人に説法する場面の図版はある。
その図はこちら

涅槃図 280窟 隋(581-618) 人字披頂西坡 (綴じ目部分が不鮮明です)
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、人字披西坡中央に釈迦涅槃図が描かれる。白粉を地に塗り、周囲は土紅色の地に千仏が表されているので、十分に目を惹く。沙羅双樹の下に、釈迦は赤い袈裟を着け、横臥している。釈迦の前後には、諸菩薩、弟子、天人眷属が集い、悲しみ死を悼んでいる。枕元には母方の養母が坐り、前には金剛力士が悶絶している。足下には自分に自分の体に火を付けたスバドラと諸国を伝導して戻ってきた大迦葉がいるという。
この図は、足下側(右側面)が見える構図なのか、頭側(左側面)が見える構図なのか。どちらでもなく、横たわる釈迦を真正面から捉えているように見える。沙羅の木は3本。
それよりも、日本の涅槃図と異なって、頭光・身光をつけ、蓮華座に乗る仏像をそのまま横にしたような釈迦の姿だ。それなのに、衣から右手首だけを出して、頭の下に挟んでいる。左腕は体に沿って長く伸ばしている。
釈迦の左腰あたりで髪を掴んで泣き伏しているのは誰だろう。釈迦に食事を捧げた純陀だろうか。
涅槃図 295窟 隋 人字披頂西坡 
右腕を枕にして横たわる釈迦と、その死を悼む弟子や菩薩の姿が表されるという。 
280窟の涅槃図とよく似ているが、変色しているためか、人物の仕種がよくわかる。
釈迦の身光と左腕の間の寝台部分に、何かがごちごちゃと描かれている。それは上の280窟も同じだが、何かわからなかった。しかし、この図で、釈迦の背後に立つ比丘たちを見ていくと、左の4人は頭部に何も付けていないが、右には飾り物を付けた比丘が2人いる。それを見分けて気づいた。身光の中にあるのは、左の4比丘たちがはずして身光の中に投げ込んだ頭飾だったのだ。
だから、頭飾をつけた2比丘の間で髪を左手で引っ張っている比丘は、その頭飾を外しているというのだとわかってきた。従って、髪を掴んで泣き伏しているようにみえる比丘も。頭飾を外してるだけだったのだ。
沙羅の木は2本。枝は画面いっぱいに分かれて広がっている。そこに飛天が一人?ずつ描かれている。
ここでは迦葉が足に触れているためか、蓮華座は描かれない。迦葉の前ではスバドラが焼身自殺している。
釈迦は頭光・身光をつけていて、頭側(左側面)の見える構図になっている。
この釈迦も、衣から右手首だけを出して頭と枕の間に挟み、左腕は体に沿って長く伸ばしている。
上の2つの図に登場する髪を掴んだ比丘に似た人物が、東魏時代(534-550)の浮彫には、髪を掴まずに、両腕と髪を垂らした姿で登場している。この人物は紛れもなく釈迦の死を悲しんでいる。
それについてはこちら

涅槃図 420窟 隋 窟頂北坡中部
沙羅双樹の間で、釈迦は右肘をついて臥す。顔は金彩が施される。天人・眷属、菩薩・弟子及び善男信女が釈迦を囲み、哀しみ慟哭する。釈迦の枕もとには蓮台に坐っているのは、養母のマハプラジャパーティで、涙をハンカチで拭いている。
沙羅の木は2本。
頭側(左側面)の見える構図で、やはり頭光・身光・蓮華座がある。
枕も描かれているが、衣から出した右腕で頭部を支え、左腕は体に沿って長く伸びている。
隋代には金彩が施されるようになる。404窟の菩薩のように、装身具や頭光の外縁に金彩が用いられることが多いが、ここでは釈迦の体を金で荘厳している。
隋代の涅槃図は、正面向きのものと、頭部側(左側面)の見えるものがあり、釈迦は左腕は体に沿って伸ばすが、右腕あるいは右手は顔につけている。
日本の涅槃図が唐画をもとにしたものということなので、隋代に頭部側から見た構図だったものが、唐代になると足下側から見た構図へと変化したことになる。

唐画の影響と思われるものが、日本に残っている。

涅槃石 奈良頭塔西側 奈良時代後期(767~)
『日本の美術268涅槃図』は、天平時代の涅槃美術のもう一つの作品として、奈良頭塔にある浮彫の石仏に混じって、涅槃図を線彫した涅槃石がある。釈迦の姿は見えず、寝台をあらわす三重の線彫による平行四辺形があり、後世の涅槃図とは違う床座形式のもので、前面の二脚が見え、上の床は向かって右側面を見せる。右側面を見せる寝台の表現法は古い涅槃図の特色の一つでうる。寝台の周囲には数人の会衆が見えるが、風化のためよくわからない。『東大寺要録』に、神護景雲元年(767)東大寺の実忠和尚が新薬師寺の西野に建てたと伝える石塔が、頭塔にあたるのではないかと考えられているという。
隋代の涅槃図では寝台あるいは寝床の前辺は見えているが、後辺は釈迦の体で隠れている。ところが、この涅槃石は寝台の後辺も途切れることなく残っているので、釈迦の姿は表されていなかったのだろう。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
日本の仏涅槃図
法隆寺金堂天蓋から6 内側も
頭塔を見に行ったら
再び頭塔を見に行ったら

※参考文献

「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟4」 敦煌文物研究所 1999年 文物出版社
「中国石窟 安西楡林窟」 敦煌研究院 1997年 文物出版社
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1988年 至文堂
「絵は語る2 大いなる死の造形 高野山仏涅槃図」 泉武夫 1994年 平凡社
「敦煌石窟 精選50ガイド」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局

2013/01/11

日本の仏涅槃図



昔々仏教美術を勉強していた頃、涅槃図は古い作品は足下側が見え、時代が下がると頭部側が見えるように描かれたと聞いた。以降、仏涅槃図を鑑賞する際の制作年代を判定する基準としてきた。
ところが、大和文華館で開催された「清雅なる仏画-白描図像が生み出す美の世界-」展で涅槃図が3点展観されていて、その3点とも足下側が見えるように描かれていた。最初の1点は鎌倉時代後期(14世紀)で、その頃には足下側ではなく頭部側が見えるように描かれたと記憶しているのにと不思議に思った。しかし、後の2点は南北朝時代(14世紀)にもかかわらず、やはり足下側が見えるように描かれていた。
同展図録は、本展覧会に出陳される3点の涅槃図は何れも、釈迦は両腕と身体を真っ直ぐに伸ばして横たわり、寝台は釈迦の足下の側面、すなわち画面向かって右側面を描き出すという、平安時代の涅槃図に見られる古様な図像を踏襲しているという。

涅槃図 絹本著色 鎌倉時代 14世紀 高山寺蔵
同展図録は、痩身に描かれた釈迦や、慟哭する会衆が穏やかな描線で表されるなど、鎌倉時代後半頃の制作を思わせるという。
何故美術様式は鎌倉後期なのに、構図は平安後期のものなのだろう。
涅槃図について『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は29歳のとき出家し、まず山中に入って6年間苦行生活を送ったが、その空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらして、ついに前人未踏の悟りを開いた。以後40余年間、インド各地を巡歴して多くの人々を教化し、ヴァイシャーリー近くのヴェーヌ村に至って重い病にかかった。一説によると、この病はパーパー村の鍛冶屋の息子純陀の捧げた食事で中毒したのだという。病は一度回復したが、再び重くなり、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した。涅槃図はこの場面を描いた図なのである。
全体に日本では仏伝美術(釈迦の伝記をテーマにした美術)はあまり発展しなかったが、それは日本の仏教がほとんど大乗仏教として受容されたことと関係があるらしく、仏伝美術は、釈迦の誕生を誕生釈迦と称して彫刻であらわし、釈迦の死を涅槃図と称して絵画であらわすことによって、仏伝を釈迦の生と死の二大事件で代表してしまった感がある。そして誕生仏と涅槃図は、日本で発展したすべての宗派が、寺の必需品として寺ごとに備え、誕生仏は4月8日の灌仏会の、涅槃図は2月15日の涅槃図の各本尊に用いたので、今日まで残る作品は両方とも多く、とくに涅槃図は現存する仏画のうちで、もっとも多いという。
涅槃図がそんなに多いものとは思わなかった。

第一形式
同書は、第一形式と呼ぶ古い形式は、応徳3年制作の和歌山金剛峯寺本を始めとする平安後期の作品、及びこの系統に属する鎌倉時代の作品をさし、次のような特色をもつ。まず、釈迦は両手を体側につける場合が多く、体を真っ直ぐ伸ばして寝台上に仰臥もしくは横臥する。そして釈迦をその足もとから見た構図、つまり寝台の向かって右側面を見せるように描く場合が多い。この形式の源流は唐時代の涅槃図にあるとみてよく、会衆の表現は、そのうちの仏弟子が一般に穏和で優美な姿に描かれ、唐画の日本化された経過がうかがわれるという。

涅槃図 応徳3年(1086) 和歌山金剛峯寺
『日本の美術268涅槃図』は、第一形式。日本に現存する涅槃図の最古の作品。釈迦は光背をつけず、両手を体側につけ、仰向けに横たわる。唐画をもとにしたのであろうが、その優美な姿は和様化の極地を示し、それに荘重な風韻が加わる。会衆の総数39、動物はシシ1頭のみ。沙羅双樹は4双8本。画面全体に清澄な趣が漂うという。
涅槃図 鎌倉中期(1224-1266) 奈良新薬師寺
同書は、釈迦は両手を体側につけて寝台に横たわり、目を半眼に開く。寝台周囲に集った会衆は、菩薩5・天4・仏弟子10・俗人4、動物はシシ・クジャク・ヒツジ・サル・トラがみえる。画面には静寂な雰囲気が漂い、第一形式の一つの特徴を示すという。 

第二形式
第二形式の涅槃図は、鎌倉時代になってあらわれたもので、第一形式と比べると、釈迦の姿は比較的小さく、周囲の会衆が多くなる。
第一形式では、例を仏弟子にとると、唐画に源をもつ古風な羅漢像に近い姿に描かれたのに対して、第二形式では、宋元の羅漢像に近い姿に描かれている。
釈迦の姿も、『仏般泥洹経』にあるとおり、右手枕し、右脇を下にして横たわり、両膝をまげて、両足を重ねる場合が多くなる。また、釈迦を頭の方から見た構図、つまり寝台の向かって左側面を見せるように描く例が多い点でも、第一形式とは対照的であるという。

涅槃図 鎌倉後期(1267-1333) 京都知恩寺
釈迦は右手枕し、両膝を曲げて横たわる。画面は横長で、悲嘆する多くの会衆のさまざまな姿を描き、枕もとの沙羅双樹からは瑞雲が盛んに昇り、足もとの沙羅双樹の葉は白変し、背後に熙連河が逆巻く。釈迦の両足に両手を触れるのは毘舎羅城の老女で、この老女は第二形式に多くあらわれるという。 
第二形式は動物の数が多い。
涅槃の場に集まった動物の名を記す40巻本『大般涅槃経』の説くところに必ずしも忠実であるわけではなく、宋元の涅槃図を手本にしてその種類を増しながら、一方で、日本に生息する身近な動物を加えて、次第にその数を増していったのであるという。 
動物の数が多いのは日本の涅槃図だけだと思っていたが、中国の涅槃図も動物が多く描かれるようになっていたのだ。

涅槃図 宋末期(13世紀後半) 京都長福寺
彩色には日本の涅槃図とは異なる白濁したような色調がある。寝台は向かって左側面を見せるように構図され、釈迦は蓮台を枕にし、右手を前に出す。足もとに坐るのは大迦葉であろう。この図は日本の第二形式涅槃図の発生に重要な地位を占めるという。
左下に迦陵頻伽(矢印)が登場する。迦陵頻伽については後日。
また、涅槃図にも信仰の違いが現れているようだ。
『日本の美術268涅槃図』は、鎌倉時代は、第一形式の涅槃図と、鎌倉時代になって新しく発生する宋画の影響を受けた第二形式の涅槃図が、徐々に交代する時期にあたる。前の平安後期の涅槃図が末法思想と固く結び、来世の幸福を願う浄土教信仰の一環として生まれたのに対して、それに代わるべく、奈良興福寺の僧で後に笠置寺に入った貞慶や、京都で華厳宗を復興した高山寺の明恵上人が、南都の僧たちとともに、とかく戒律を無視しがちな法然上人開宗の京都の浄土宗に対抗して、釈迦へ回帰する運動を興し、その一環として、新しい涅槃図に対する信仰を燃え上がらせたのであるという。

大和文華館で見た3幅の鎌倉後期の第一形式の涅槃図は、浄土宗系の寺に掛けられたものかというと、高山寺は真言宗なのでそうとも言えない。
京都高山寺の涅槃図や、京都清涼寺の涅槃図が、いずれも第一形式にきわめて近い涅槃図であるのを見ても、明恵上人による第二形式の涅槃図の導入によって、日本の涅槃図が一挙に第一形式から第二形式へ転換したものではないことが理解できるであろうという。

『清雅なる仏画展図録』は、天皇や貴族たちによる密教修法の盛行や、盛んな造寺造仏は、図像への高い関心を集めることとなった。自ずと僧侶たちには、修法の次第のみならず、高い図像の知識も求められるようになった。12世紀半ば頃から、仏の姿を記した図像集が編纂されるようになる。
経典や儀軌とは異なる点を知るために始まった図像研究が、図像を収集し解析することによって、結果として、経典や儀軌に縛られない図像の存在を際立たせ、そこに聖性を見出すようになったといえるのではないだろうかという。
宗派が異なっても、寺や僧侶の好みの図様を選ぶことができたということだろうか。

次回は敦煌莫高窟の涅槃図について

関連項目
応徳涅槃図の截金
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
新羅の誕生仏は右手をあげていない
統一新羅にも右手をあげた誕生仏があった
インドの誕生仏は
手をあげた誕生仏は中国にも

※参考文献
「清雅なる仏画-白描図像が生み出す美の世界展図録」 2012年 大和文華館
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1988年 至文堂
「絵は語る2 高野山仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館

2013/01/08

敦煌莫高窟14 飛天2 西魏以後


西魏時代、描かれる場所によって西域風飛天と南朝風飛天が表された。
その後の飛天はどちらが主流になっていくのだろう。

北周時代(557-581)

428窟北壁前部
『敦煌莫高窟1』は、初期では最大の中心柱窟で、縦13.75m横10.8m。
北壁人字披は木造建築の用に表現されており、その下の三角形の空間に説法図が描かれている。北魏の第259窟以降、この部分には大型の説法図が占めていたが、北周になって再び小型説法図が出現したという。
小型のため、仏三尊像の両脇には蓮台に坐る姿勢で供養菩薩が表され、本来は仏の頭部両側あたりに舞う飛天は、両端で仏の説法が素晴らしいと讃美している。
飛天の表現は、南朝風ではなく、第一期以来の重そうな体つきで、空間の都合で、お腹が下がった形にはなっていない。
頭光もあって西域風の飛天が描かれている。
同窟人字坡
同書は、敦煌石窟の中でも出色の人字披の図案。忍冬の間には蓮華、草花、飛天、馳鹿、飛鳥、猿などが華麗多彩に描かれるという。
描かれた丸地垂木の間に忍冬文が表される。左右の手にそれぞれ何かを持っている。両膝を開いて飛んでいる。 
腕に複数回巻き付け、風にあおられて鋭く翻る天衣は、北魏以来の様式だ。
頭光はなく、中原風の飛天が描かれている。

北周末隋初(6世紀後半)

301窟窟頂南坡
飛天は秀骨清像的な細身ではなく、仁王のような逞しさがある。
天衣は一度腕を通しただけだが、その端が2~4本に分かれていたり、頭飾の紐が長く風になびいたりしている。
頭光はないが、天衣を何度も腕に巻いていない。これは新しい飛天かも。

隋時代(581-618)

407窟東壁門上 説法図
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、東壁門上の説法図は北魏にできるが、隋代中期に再び採用されるという。
丸い天蓋の左右で釈迦の説法を讃美する飛天は、天衣を一度腕に通しただけだが、その天衣は細く、表が見えたり裏返ったりしながら後方にたなびいている。
頭飾や裙の紐なども白色で、もっと細く風に翻っている。
北周末隋初に出現した新しい様式の飛天だが、天衣・頭飾、裙の紐が長々と伸びていて、隋時代に完成した新しい飛天といっても良いだろう。
飛天の周りの雲気も、西魏の285窟のものからはかなり変化している。
西魏の雲気文はこちら
窟頂藻井
同書は、この窟の窟形、龕形、窟頂の天井装飾の様式は隋代中、晩期に流行する。
八弁の大蓮華には回りながら追う三兔の文様が描かれる蓮華の周囲には、藍地に飛翔する飛天が8体、藍色の天空を仰ぎ見るているのを彷彿とさせるという。
三兎の図は隋時代特有の意匠で、407窟のウサギは緑色だ。当窟は前回も今回も未公開窟だったが、他の窟で白いウサギが駆け巡っているのを見た。
407窟の三兎についてはこちら
大蓮華の周りを8体の飛天が流されるように描かれている。やはり天衣が頭飾や裙の紐と共に後方に長く伸び、その間にも新様式の雲気が入り込んでいる。手には開敷蓮華や未敷蓮華など様々な蓮華を持っている。
下図中央の飛天は天衣を着けておらず、着衣も偏袒右肩となっている。持物は蓮華の花弁をのせた華鬘だろうか。

隋末唐初(7世紀初頭)

390窟北壁中央 説法図
菩薩の背後には双樹、上には宝蓋、左右に脇侍菩薩が描かれる。壁画は弥勒菩薩説法図で、これは隋代の新しい題材であるという。
宝蓋の外側に一対の飛天が舞っている。正面を向いた顔は口以外はわからない。手に持っているのは双樹の花かな。
頭飾の紐はますます長くなり、裙の紐よりも長いくらいだ。
天衣は表裏を見せながら、優雅に翻っている。
南壁上部
こちらの飛天も説法図中の飛天と同じような表現になっている。
北周時代までは、描かれる場所によって西域風の飛天と北朝風の飛天が描き分けられていたが、遅くとも隋時代(581-618)には、新しい姿の飛天が登場する。
その姿は細身で顔は卵形、頭光はない。
天衣は両腕に一度通しただけで、頭部の上に丸く風を受け、その両端と頭飾や裙の長い緒が体に沿って流れ、表裏が翻っている。
そしてその飛天は、以前とは異なって、どの位置、どの図中にかかわらず、同じ様式で描かれるようになった。

初唐(618-712)

220窟 
北壁薬師経変
『中国石窟敦煌莫高窟3』は、貞観16年(642)の紀年銘があり、初唐で最も早い時期の窟という。
説明がないのでよくわからないが、仏三尊が飛地味な飛雲に乗って東方薬師浄土に戻ってきている。
その横に、薬師如来の宝蓋を囲むように、左下から1体の飛天が雲と共に上昇し、左上から伸びた雲と共に、もう1体の飛天が下降している。天衣よりも飛雲の方が目立つ。
上昇する飛天の天衣は体に密着していて、スピード感を表している。下降する飛天は飛び込むように両手を頭上で合わせている。その天衣は右上に細く描かれるが、隋時代までの天衣と比べると地味な表現にとどまっている。
飛雲に乗る仏三尊の方が、それぞれに風に翻る天衣を着けている。
57窟 伏斗式天井西坡
隋様式の飛天とさほど変わらない。
南壁中央説法図
隋時代までは、大きな宝蓋の左右に飛天が大きく描かれていたが、この説法図では宝蓋は樹木の間から見え隠れするように小さく表され、飛天も左右両端にかろうじて描かれる程度になってしまった。
というよりも、一見して飛天だとは思わなかった。裙と天衣はわかるが、弧を描く天衣の内側を探して、ひょっとしてこれが飛天の頭部かなという程度にしか見えない。
この飛天も飛雲と共に描かれている。
321窟 西壁龕頂南側
『中国石窟敦煌莫高窟3』は、長い飄帯は隋風に伸びたり巻いたりしている。洗練された表現という。
長々と伸びる天衣、いや飄帯が印象的だ。初唐期を代表する飛天らしい。
初唐期の飛天はそれぞれに異なった表現となっているが、こらちの飛天も飛雲に乗っていて、これが初唐期の新様式といえるだろう。

盛唐(618-712)

39窟西壁龕頂
同書は、涅槃像龕内には、横になった仏塑像の上方に5体の散華する飛天が描かれている。『大般涅槃経・機感荼毘品』に従って、七宝真珠香花瓔珞が虚空に浮かぶ。図中の飛天は両手で香花を捧げて供養し、長い裙と披巾は花文で飾られるという。
ここでは天衣でも飄帯でもなく、披巾と呼んでいる。その披巾には花文まで描かれている。
盛唐になっても飛天は飛雲に乗っている。
初唐期には窟内の飛天は少なくなり、飛天ではなく、楽器や装身具が天衣をつけて虚空に浮かぶようになった。そして、盛唐期になると飛天の数はますます減っていく。
それは、壁画のテーマが様々な経変を主とするようになったことと無関係ではないだろう。
それとも飛天に飽きたのだろうか。

関連項目
敦煌莫高窟13 飛天1 西魏まで
敦煌莫高窟12 285窟は飛天が素晴らしい
法隆寺金堂天蓋から1 敦煌にも

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌研究院 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌研究院 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌研究院 1987年 文物出版社