ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2012/09/18
唐の順陵6 西門にも獅子
北門の獅子と仗馬を見たところで順陵の見学は終了。
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陳家村の門の前で王さんのタクシーに乗り込んだのが8時50分。
北門と順陵の墳丘の間にある舗装された道路に入ると、小さく石人や石獣が見えた。
次に見えたのは一対の石獅子だった。王さんによると西門があったところらしい。東門跡にも同じように石獅子が一対あるという。
ここでも車を停めてもらい、獅子を撮すことになった。
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北門の獅子によく似ている。門に向かって左が口を開いた雄獅子で、右側が口を閉じた雌獅子という配置も似ている。
9時半にはホテルに戻らなくてはならないので、これ以上獅子には近づけなかった。
道脇に小さな天帝廟。新しいものらしく、右からではなく、左から読むようになっているが、素朴な建物で、隋時代の明器を思い出した。
韓家村で斜めの道路へ左折で入った。
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村をはずれると、両側が柳並木になっていた。そうそう、咸陽で柳の葉を撮さなくては。
王さんにタクシーを停めてもらった。
有名な唐の詩人王維の「送玄二使安西」という詩に出てくる柳の葉がどんなものか確かめたかったのだ。
渭城朝雨潤輕塵 渭城の朝雨 軽塵を潤す
客舎青青柳色新 客舎青青 柳色新たなり
勸君更盡一杯酒 君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西出陽関無故人 西の方陽関を出づれば故人無からん
唐の時代には、南の長安から渭水(下図左下から右中ほどに流れて黄河に合流している川)を渡って、渭城のところから西に向かう人を見送る習慣があったらしい。
また安西というのは安西都護府で、王維の時代には亀茲城(現クチャ)に置かれていた。現在では亀茲故城と呼ばれ、版築の城壁跡が崩れながらも残っている。
一方陽関の方は、洪水で流されてしまい、遺跡は残っていないが、今年に入って陽関の道路跡が出土したという記事を読んだ。
陽関についてはこちら
咸陽市には渭城区というのがあるが、グーグルアースで探しても、渭城の位置がわからない。
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ガイドの宋さんは、西安は暑かったですが昨日雨が降って涼しくなりましたと言っていた。
その雨のお陰で、文字通り「青青柳色新」な葉を写すことができた。日本の柳と比べても、特に違いは感じない。同じ種類だろうか。
斜めの道から右折で再び東西の道に入った。この集落は西江村というらしい。市場には人と様々な乗り物が集まっていた。
王さんがこの先にスモールスクールがあると言ったのを思い出した。王さんは少し英語を話すが、我々にいろんなことを教えてくれようとして、英語が浮かんでこないと、中国語でしゃべり出すのだった。
小学校は右のアイスクリーム屋の向こうの空き地の右奥にあった。
少し先で左折し西江村を出て、右折でホテルへの道路に入った。ホテルまではすぐだった。
9時10分頃にホテルに着くと、一対の金色の獅子がお出迎え。この獅子はきっと順陵の獅子を模したものに違いない。
ガイドの宋さんに言われたとおり、ホテルに着いてから料金の150元を王さんに支払った。
10時前に西安空港に向けて出発する時も、王さんはまだホテルに出入りしていた。我々の他にも、近くの陵墓を見学する物好きがいたのだろう。