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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/04/20

アニのセルジューク朝期の建物に石のタイル

アニ遺跡の大モスクとキャラバンサライは石造りなのに平天井だった。天井を小さく分割することで、少ない木材を渡して平天井を造ったのだろう。
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大モスク(1071-72年)には複数の平天井があった(赤で示したもの)。
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1:部分的にしか残っていないが、部屋の隅から平天井になっている。
5:大モスクで一番大きな平天井。
キャラバンサライは大モスクより早い1031年の建造だが、もっと大きな正方形の平天井が架けられている。
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アーチはゴシックの飛び梁(フライング・バットレス)とは異なり、天井とアーチの間の空間は壁になっている。
左にあるのはドーム。それについてはこちら
アーチの交差するところでは、浮彫のある要石が嵌め込まれていて、下写真ではそこから下方に向かうアーチの下面に白いものが付着している。
白く付着したものを下に辿ると、①アーチは黒い柱頭で終わっている。いや黒い円柱はずれていて、②石だらけの壁のようなものが見えている。
②は赤い石や黒い石の壁面が剝がれて、コンクリートの骨材が露出しているらしい。
ローマやポンペイの遺跡では、ローマン・コンクリートといって、火山灰のポッツォラーナを使ったコンクリートが使われていた。

『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、壁として構築する場合、通常、石材や煉瓦によって仮枠を造り、その中にコンクリートを流し込んで凝固させ、石材や煉瓦による仮枠はそのまま残していたという。
コンクリートを型枠に流し込み、固まった壁面にタイルを貼り付けるといった現在の建築とは根本から違っていたのだ。
下写真はローマ、パラティーノの丘のリウィアの家の遺構である。奥の日陰のところには、外側の石が剝がれたような壁やアーチ形開口部などが見えるが、手前には網目積み(オプス・クアジ・レティクラトゥム)の壁が低く残っていて、壁はおそらく保護のために何かでコーティングされていると思われる。その中には日陰に残るような骨材のつまったローマン・コンクリートがあるのだろう。
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そのようなローマン・コンクリートが、どの程度の範囲で、いつ頃まで使われていたのかよくわからない。
しかし、アニ遺跡では、ローマン・コンクリートの流れを汲む建物の遺構があちこちにあったので、成分はわからないが、石の外装を型枠にして骨材を混ぜたコンクリートを流し込んで建物を造るということは行われていたようだ。
いや、そうではないらしい。『シルクロード建築考』は、ブハラのサーマーン廟(913-943年)は外皮化粧をコンクリート打ちの型枠としても利用した煉瓦造の装飾壁面になっているという。
イスラームでもコンクリートが使われていたのだった。
サーマーン廟についてはこちら
石灰や火山灰と砂や砕石などと混合してコンクリートを考案し、建築の構造に革新的な技術を得たのは、ローマ時代の特色である。以来、殆どの煉瓦積の壁体工法は、石灰モルタルが接合に利用され、壁体の内外煉瓦積の中へコンクリートが搗きこまれて、煉瓦積とコンクリートとの肌別れに対する工法も、各種のアンカー(定着)の工夫も考えられたらしいという。
ローマン・コンクリートという技術は、かなり早い時期に広範囲に伝播して、しかも使われ続けたものだったのだ。
サーマーン廟の壁面はかなり分厚い。
サーマーン廟は、内壁ももちろん焼成レンガで美しく装飾してあるが、これも内側の型枠だったのだ。
キャラバンサライの②は型枠となる赤や黒の色石が剝がれて、コンクリートの骨材が見えていることになる。骨材にかなり大きな石を使っている。

しかし、従来のコンクリート工法では説明できないのが①だ。型枠ならばこんな外れ方はしないはずだ。まるで白い接着剤が劣化して、被覆材の石板が外れてしまったかのようだ。サーマーン廟のように「外皮化粧をコンクリート打ちの型枠」として使われていない。
被覆材とは現在の建築で一般的に使われるタイルのようなもので、構造的な強度には関係のないものだ。ここには色石を薄く切ったタイルが、白く残った漆喰のような接着剤で貼りつけられていたのだ。
平天井にも装飾として、色石のタイルで文様を作りながら貼り付けていったのだろう。

※参考文献
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」1997年 小学館
「イスラーム建築考」岡野忠幸 1983年 東京美術選書32