ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/11/30
第62回正倉院展2 奈良時代に包み紙
今回の正倉院展ではきれいな「紙」の出陳が印象に残った。どちらの画像も濃くなってしまったが、実物はもっと明るい色です。
色麻紙(いろまし、いろがみ) 正倉院中倉蔵 縦28.5横46.5(1紙)
同展図録は、紙で包んだヒノキ製の軸木に様々な色の麻紙を巻き重ねたもの。宝庫には同種のものが19巻伝わっており、すべて未使用である。上下に7.0㎝幅の白麻紙で帯封がなされており、奈良時代当時の包装の状態を留めている。軸木を紙で包むのは、材から出るヤニを避けるための配慮であろう。配色は紅・白・白橡(しろつるばみ)・黄橡・橡という。
紙が貴重なため木簡が使われ、その上不要となった部分を削って木簡を再度使うというような時代に、包装紙というものがあったことに驚いた。軸木のヤニを心配するなら、使い古した布でも良かったのではないだろうか。
会場の解説には、製紙の時に塵などがまじってしまったものを包装紙などに使ったと書かれていたようだ。
それにしても美しい麻紙で、今作ったと言われてもそうかと思うような褪せていない色だった。経年変化しているのは包み紙や軸木に巻いた紙くらいだ。
もう1巻、帯封を解いたものも展示されていた。
白紅・淡紅・黄褐・縹褐(はなだかつ)・白の組み合わせと白紅・淡紅・褐・灰褐・白の組み合わせをそれぞれ2度ずつ繰り返しているという。
この19巻も残っている料紙は、軸木がヒノキということで日本製だろうか。それとも、平積みの状態で唐からもたらされ、日本で軸木に巻いて保存していたのだろうか。
※参考文献
「第62回正倉院展目録」(奈良国立博物館監修 2010年 財団法人仏教美術協会)
2010/11/26
第62回正倉院展1 今年のヤツガシラ
エジプトを旅していて、野鳥が多いのは意外だった。そして人が野鳥を気にしないので、野鳥も人を気にすることなく、すぐ近くに飛んできたりした。
アブシンベルでは小神殿側からの帰り道、1羽のヤツガシラが近くに飛んできて、無心にエサを探し出した。なんとかピントを合わせようとしたが、慌ただしく動き回るのに下の写真程度だった。ビデオで録画し出すと一度は飛び立ったが、もっと近くに降りてきて、地面をつつきだした。ビデオには地中のムシを引っ張り出しては食べてるところが映っていた。それまでは空中でエサを捕獲するのかと思っていたので、それも収穫の一つとなった。
新疆でもヤツガシラをよく見かけたが、警戒心が強くてすぐに飛んでいってしまうので、写真に撮ってもピントが合うことはなかった。その写真はこちら
間近でヤツガシラをゆっくり見ることができたので、今年の正倉院展ではヤツガシラは期待できないだろうと思って出かけた。
銀平脱合子(琴柱や弦の容器) 正倉院北倉 径15.1高5.1
同展図録は、蓋上面には、6本の蔓を放射状に伸ばす花文の周囲に、6羽の含綬鳥と折枝文を各6箇交互に並べ、身の立ち上がりには雲文15箇を並べている。含綬鳥の意匠には数種のバリエーションがあり、オシドリとヤツガシラの存在が確認できるほか、サンジャクと推定される鳥も含まれるという。
この作品は見えなかった。低い位置に展示されているので、人越しにまず見えず、近づいても暗いので見えなかった。年々目が見えにくくなってきたので、若い頃のように目を凝らして穴の空くほど見るということができなくなり、昨今は、見難いものは図録で確かめようと、すぐに諦めるようになってきた。
また、黒地に銀というと、作った当初、あるいは手入れの行き届いていた頃は確かに映えただろうが、銀はすぐに黒くなってしまうので、こんな作品は図録で見る方がよくわかる。
ヤツガシラは上面には2羽(矢印)いた。他の種類の鳥も点対称でそれぞれに同じ種類の鳥が配置されて、3種の鳥が2羽ずつ描かれている。ところが位置は点対称でも、向きは点対称にはなっていない。もう一つこの作品の不思議なところは、異種の鳥が向かい合う対偶文となっていることだ。おそらく異種の鳥が向かい合う対偶文を3対巡らせるとこのようになってしまったのだろう。こういう配置の仕方から、これは日本でつくられたものではないかと思う。
図録には文様拡大の図版があり、蹴彫と毛彫による細く丁寧な描写が確認できる。しかし、肝心のヤツガシラの体が途中で切れているのが残念。
黒柿蘇芳染金絵長花形几 正倉院中倉 縦33.6横51.5高9.8
天板側面には金泥で花枝文及び左行する蝶鳥文を描き、華足は金銀泥で葉脈を描くとともに暈かしを入れる。
天板裏面に「戒壇」の墨書が認められ、東大寺戒壇院に納められたものであることがわかるという。
鳥は尾の長いもの短いものと2種類あるが、どちらも頭の形からヤツガシラだろう。
吹絵紙(吹絵を施した紙) 正倉院中倉 吹絵紙 縦29.5横41.0
色料を霧状に吹き付けることによって彩色された装飾紙である。文様はあらかじめ型を置いて白抜きで表されている。紙は白色で、表面には磨かれた痕跡が残る。
籬(まがき)をめぐらした樹木を中心に、鳥・鹿・蝶や、花卉、軽業師(人物が頭上にのせた棒の先に、もう一人の人物が逆立ちで乗る)を配する。文様はいずれも左右対称を意識して配置されているという。
左右対称なら同じ型を2枚つくり、表裏にして置けばよいと思うのだが、左右の文様はそれぞれに切り抜いたらしく、微妙に異なっている。
軽業師は気づかなかった。解説を読んで探すと蝶の隣に見つけた。樹木だと思っていたものだったが、蝶よりも小さいので笑ってしまった。
その下に羽を広げているのが、頭の形からヤツガシラではなだろうか。
正倉院宝物は舶載品がほとんどと思っていたが、成分分析などから9割が当時の日本でつくられたものだということになってきた。今回の目録にはどちらで作られたものか明記されていないものが多い。黒柿蘇芳染金絵長花形几は紫檀に似せて作られたので日本製だろう。
吹絵紙は軽業師というモチーフが中国的なように思う。その上、こんなに小さいのにバランスを取りながら立っている様子がみごとに表されていて、直にこのような光景を見てきた人物ならではの表現だろう。従って、吹絵紙は唐で作られたものではないだろうか。
蛇足だが、上段の鹿は宙を駆け回っているようで、クリスマスのトナカイに見える。
※参考文献「第62回正倉院展図録」(奈良国立博物館監修 2010年 財団法人仏教美術協会)
2010/11/23
奈良時代の匠たち展6 木の削り痕と道具
日本では鋸がいつから使われるようになったのだろうという素朴な疑問は昔からあった。
『奈良時代の匠たち展図録』は、日本で、大工道具がみられるようになるのは弥生時代からである。弥生時代の大工道具としては、斧や鑿、鉇(やりがんな)が出土している。古墳時代になると、古墳への副葬品の中に鉄製の大工道具がみられるようになり、斧・鑿・鉇・鋸などの種類があったことが知られる。平群町の烏土塚古墳から鋸が出土した例などがあるという。
同展では飛鳥時代の鋸が展示されていた。
鋸 飛鳥石神遺跡、天武・持統朝B期遺構出土 7世紀後半 鋸身鉄製残存長44.5㎝
鉄製の鋸身の先端は欠損しているが、木製の柄は完存しており、鋸身は中茎式で木製柄に差し込んで、鉄釘で留められている。柄の端には鉄製の環状の口金がはめ込まれ、柄尻は蕨手状に加工される。同様のものは法隆寺に伝世した鋸の例があり、他の出土例などから奈良時代においても基本的には同様の型式であったと推定されているという。
鋸の刃は想像していたよりも華奢だった。こんなもので大木から板を切り出すことができたのだろうか。
竹中大工道具館というページでは、わが国の鋸は一般に引くときに切れるつくりになっています。世界の大工道具を見渡すと、ほとんどの国で鋸は押し使いですので、わが国の鋸は非常に珍しい使い方をしていることになりますという。
おそらく鋸も半島経由で日本にもたらされたのだろうが、どの時点で「引く」ようになったのだろう。
井戸枠の鋸切断痕 橿原遺跡出土 飛鳥時代
斜めに走る木目とは別に板に直交する方向の縞状の加工痕跡がみられる。これは鋸によるとみられる切断痕と考えられるという。
奈良時代でさえ鋸が上図程度のものだったなら、飛鳥時代の鋸ではこのような薄い板を切断する程度だっただろう。そうすると丸太から板にするには、まず斧か何かで割ったのだろうか。
日本では縄文時代から中世半ば頃まで、木材を割って製材をおこなっていたと考えられている。奈良時代に建築用材として重宝されたヒノキやスギはまっすぐに木目が通っていて割りやすく、打割製材に適した木材であるという。
会場には打割製材模型が写真パネルと共に展示されていた。
1、木目に沿って墨線を打ち、墨線の上から全長にわたって2-3㎝の間隔で鑿を打ち込んだ後、裏からも同様に鑿を打ち込む
このような角材にするのにはどんな道具を使ったのだろう。
2、鑿を打つ過程で、木目に沿って徐々に亀裂が入っていくが、最終的には木口より楔を打ち込んで材を割った。割った面には材面からの鑿の刃痕が残り、中世の建築部材と同様の刃痕が確認できた
板をつくる場合はこのような作業を繰り返したのだろう。木材としてかなりのロスがあっただろうなあ。
斗栱未製品の鑿痕 東大寺出土
側面のうち木口面には鑿による整形の痕跡がみられるという。
鑿で凹面を削り出すのか。鉇かと思っていたが、鉇は人目につく場所を仕上げる道具だった。
3、割って製材された木材の大半は、割り肌の上から釿で削って使用される
鑿の痕が釿で簡単に平らになっていくように見えるが、実際は大変な作業なのだろうか。
建築部材、礎板 平城宮出土
表面には木目の方向に沿った釿による加工痕跡が明瞭であるという。
釿は平たい幅の広い痕ができるのかと思うが、意外と狭くて短い痕跡になるのだ。
4、さらに建築部材の中で、人々の目に触れる部分は鉇で平滑に仕上げる場合が多い
それは作業が大変だったからだろうか。それとも今でも見える箇所だけカンナで仕上げるのだろうか。
竹中大工道具館は、今日見られるような長方形の鉋(台鉋)が導入されたのは室町中期頃だと考えられています。また日本の鉋は、海外の鉋の多くが押して使うのに対し、引いて使うことでも知られていますという。
これは何かの番組で見たことがある。台鉋のように木材面にびったりと当てるのではなく、両手で持った鉇が木材に当たっているのは刃先だけだった。それで紙のように薄い削りかすができていて、道具よりもその腕前に感心した。
斗栱未製品の鉇痕 東大寺出土
側面の斗繰面には細長い削り痕跡を見るかぎり本品に関しては鉇による加工の可能性が高いように思われるという。
このような凹曲面を平滑にするのは鉋では無理だろう。
鉇は正倉院宝物にもあった。
鉇(工匠具) 5口内2口 全長30.3・28.9柄径2.2・2.0 正倉院南倉蔵
『第62回正倉院展目録』は、宝庫には工匠具が6種類21点、及び部材2点が伝えられている。いずれも実用品と考えられ、使用による摩滅が著しいものが少なくない。
鉇はいずれも木製の柄に先端を三角形あるいは木の葉形とした鉄製の刃を押したもので、刃は両刃で先上がりに反りを持たせている。建築用の鉇に比べ、小型であることから、木工用であったと考えられる。
右は柄をスギ製とし、刃先は三角形で鋒(きっさき)は左右に急角度に作られている。左は柄がヒノキ製で、刃は柳葉形で中央に刃先で二股に分かれる鎬(しのぎ)を作っているという。
大工道具ではなかった。このような道具で正倉院宝物の品々を作ったのだろうか。
※参考サイト
竹中大工道具館の大工道具の紹介
※参考文献
「奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「第62回正倉院展目録」(奈良国立博物館編集 2010年 財団法人仏教美術協会)
2010/11/19
奈良時代の匠たち展5 磚と塼、そして日干レンガ
奈良三彩は垂木先瓦だけでなく、塼にも使われていた。
緑釉塼 薬師寺西僧坊出土 長12.2㎝幅9.8㎝高5.2㎝
同展図録は、塼の中では小型の部類である。全面に緑釉が施されているが僧坊が天禄4年(973)に火災で焼失した際に被熱したため、一部を除いて変色してしまっている。僧坊の房内の仏壇などの基壇上面を飾ったのであろうという。
仏壇を荘厳するためにも緑釉の塼が使われたようだ。当時のお寺は垂木先瓦といい、堂内の塼といい、三彩釉で飾り立て、「荘厳」や「青丹よし」という言葉で思い浮かべるよりもずっと華やかだったのだろうなあ。
完成した建物基壇の上面は、土が露出したままのものもあるが、石製の磚や土製の塼を敷き詰めて基壇上面を風雨から防ぐこともあったという。
風雨にさらされる場所、つまり建物の外側に塼や磚が使われたということだろう。
塼 平城京左京五条二坊十五・十六坪出土 長30.2-30.9㎝幅16.9-18㎝厚7.6-8.6㎝
箱状の型枠に粘土を詰めて成形したようで、型枠の板の痕跡か、成形時に板状の工具でなでた痕跡と考えられる筋状の条痕が表面にみられるという。
レンガと聞けば思い浮かべる現代の赤いものよりも一回り以上大きい。
平城京左京五条二坊にはどんな建物があったのだろう。寺院跡ならばそう記されているはずなので、世俗の建物跡から出土したようだ。
磚 東大寺上院区千手堂出土 凝灰岩 29㎝の正方形、厚9㎝
断面が逆台形を呈している。建物基壇の上面もしくは建物内部の床面に敷かれていたと考えられる。側面には成形する際の鑿による加工痕が明瞭に残っているという。
凝灰岩製の磚もあった。これだけが逆台形になっている。東大寺ではこのような磚が敷き詰められていたのだろうか。
塼や塼の他、日干レンガも日本にあった。
日干レンガ(奥に積み上げられたもの)他 大安寺杉山瓦窯出土
窯体に使われた日干し煉瓦という。日干レンガも瓦を焼成中に焼けて塼のようになって残ったのだろう。
均一に成形した日干レンガを積み上げて窯を築いていたのだ。きっとこれも唐の技術だろう。
※参考文献
「奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館)
2010/11/16
奈良時代の匠たち展4 唐招提寺金堂の下成基壇に塼
塼というと、中国のものは高温で焼き締まったものを思い出す。敷地といわず、壁も家屋もライトグレーの塼で造られていた。しかし、日本の寺院では屋根の瓦と同じような焼け方の四角形のものが敷き詰められているくらいだったので、塼というのは、寺院の床面に建物の方向に対して斜めに敷き詰められるものだと思っていた。
斜め格子に敷き詰められた塼はこちら(大徳寺龍源院の方丈の庭)
ところが、奈良時代には堂を構成するためにも塼が使われていたらしい。
塼 42X41.5㎝ 厚12㎝ 唐招提寺金堂
同展図録は、 金堂の下成基壇の地覆石をのせていた塼である。正方形で大型である。箱状の型枠を用いて作られたようで、成形時に粘土を積み上げた痕跡が明瞭にみられるという。
塼が平たい瓦状のものと思っていた頃は、厚さも瓦程度だと思っていたが、このように厚さのあるものだったのだ。
創建当初の基壇外装を構成したものも検出された、塼と凝灰岩の石列で、まず整地面を掘り込んで塼を水平に据え付け、その上に凝灰岩の切石がのる。これらの規模は東西約36.4m、南北約23mと現状の基壇よりひとまわり大きく、二重基壇の下成基壇の地覆石であると推定されているという。
塼は下側の基壇の輪郭に一列に並べられていたようだが、何故硬い切石ではなく塼だったのだろう。塼の上の石が柔らかい凝灰岩なのも不思議だ。硬い石材が調達できなかったのだろうか。
それとも切石の大きさをそろえるよりも、型づくりで均一の塼を大量につくる方が、当時は容易だったのだろうか。
金堂基壇全景 東西約35.2m南北約21.8m
唐招提寺金堂は新田部親王の邸宅の跡地に伽藍が造営されているが、その当時の地面に厚さ60-70㎝の盛土による整地をおこない、その上に2種類の粘土質をそれぞれ厚さ30㎝ほど盛土し、その上から基壇上面まで10㎝ほどの厚さで2種類の土をつき固める版築が施されていたという。
版築は桜井茶臼山古墳(4世紀初)のものが私が見た中では日本最古だと思うので、かなり古くから日本に将来されていた技術だろう。
中央の三尊が安置されていた壇に敷かれているのは切石だろうか、塼だろうか。
※参考文献
「奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
2010/11/12
奈良時代の匠たち展3 鈴もガラス玉も蓮弁の形
奈良時代の匠たち展では、小さなものも展示してあった。
銅鈴 薬師寺金堂基壇より出土 幡飾金具内 高5.8㎝厚3.4㎝
同展図録は、金堂の薬師三尊の前を荘厳した幡などの垂れ飾りを構成した部品である。
茄子の形のように下膨れした楕円形状のもので大型である。表面には蓮弁の文様が毛彫りされる。法隆寺に伝来した金銅製金具に同種の鈴が取り付けられいてる例があるという。
蓮弁と子葉の間に細い線が無数に彫られているのは、蓮華の花脈を表現しているのだろう。幡の垂飾ということなので、薬師三尊の近くでこのような蓮弁が舞い、揺れると鈴の軽やかな音色が聞こえてきたことだろう。
ガラス玉 荘厳具内 興福寺北円堂出土
興福寺北円堂は、中心伽藍である中金堂院の北西側に位置する八角堂である。養老5年(721)藤原不比等の一周忌に建立された。
ガラス玉は幡や垂飾などの部品であったと考えられるという。
穴が上の方にあって、溶けたガラスが下の方で膨らむのを利用してこの形に仕上げたのだろう。上の鈴同様、蓮弁形を目指したのではないだろうか。幡自体が金銅製なら揺れると音がしただろう。
「奈良時代の匠たち展」の後、学園前のきのわで開催されていた田上惠美子氏のすきとおるいのち展に行った。
あちこちに工夫を凝らしてトンボ玉を展示してあったが、床にまで作品が並んでいた。その中にコアガラスが幾つか置かれていた。以前にもこのような作品を見たことがあるが、今回のものは大きく長めだ。
タイトルは「散華」、ここにも蓮弁があった。しかも、空中から舞い落ちたものだった。
※参考文献
「平城遷都1300年祭記念秋季特別展 奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
銅鈴 薬師寺金堂基壇より出土 幡飾金具内 高5.8㎝厚3.4㎝
同展図録は、金堂の薬師三尊の前を荘厳した幡などの垂れ飾りを構成した部品である。
茄子の形のように下膨れした楕円形状のもので大型である。表面には蓮弁の文様が毛彫りされる。法隆寺に伝来した金銅製金具に同種の鈴が取り付けられいてる例があるという。
蓮弁と子葉の間に細い線が無数に彫られているのは、蓮華の花脈を表現しているのだろう。幡の垂飾ということなので、薬師三尊の近くでこのような蓮弁が舞い、揺れると鈴の軽やかな音色が聞こえてきたことだろう。
ガラス玉 荘厳具内 興福寺北円堂出土
興福寺北円堂は、中心伽藍である中金堂院の北西側に位置する八角堂である。養老5年(721)藤原不比等の一周忌に建立された。
ガラス玉は幡や垂飾などの部品であったと考えられるという。
穴が上の方にあって、溶けたガラスが下の方で膨らむのを利用してこの形に仕上げたのだろう。上の鈴同様、蓮弁形を目指したのではないだろうか。幡自体が金銅製なら揺れると音がしただろう。
「奈良時代の匠たち展」の後、学園前のきのわで開催されていた田上惠美子氏のすきとおるいのち展に行った。
あちこちに工夫を凝らしてトンボ玉を展示してあったが、床にまで作品が並んでいた。その中にコアガラスが幾つか置かれていた。以前にもこのような作品を見たことがあるが、今回のものは大きく長めだ。
タイトルは「散華」、ここにも蓮弁があった。しかも、空中から舞い落ちたものだった。
※参考文献
「平城遷都1300年祭記念秋季特別展 奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
2010/11/09
唐三彩から青花へ
奈良三彩も唐三彩も今まで見てきた作品は緑色・褐色・白色の3色だったが、唐三彩には奈良三彩にはない藍色釉もある。
三彩双魚壺 西安市長安南里王村唐墓出土 唐、7-8世紀 器高25.2㎝胴部幅20.0㎝ 陝西省考古研究院蔵
『大唐皇帝陵展図録』は、この壺は、二匹の摩羯(まかつ)が、腹部を合わせて直立し、尾びれ部分を底部とする二耳壺である。
釉は、淡黄色を基本として、藍色と褐色が外面全体に施され、とこどころ緑に発色している。胎土は白色で軟質であるという。
こちらの作品も魚の形とは関係なく藍色と褐色が流れるようにかかっている。右の摩羯の尾に藍色の点々があるので、全体に褐釉を掛けて、その上に藍釉を散らしたのだろう。
黄冶窯は唐三彩が作られた主要な窯の一つである。『まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見展-図録』には、奈良市大安寺旧境内から大量に出土した唐三彩枕の施釉法とよく似た器が出土している。
三彩洗 河南省鞏義市小黄冶窯跡Ⅱ・Ⅲ区出土 黄冶窯第3期(唐代中期、684-840年)
陰刻した文様の輪郭が、ほぼ色釉の境目となっている。類似の模様印判も出土しているので、土が軟らかいうちに印判を押したものだとがわかる。
そして、地には褐釉や緑釉の上に白釉を点々と置いて、点描のようだ。同展図録は、点彩、画描、まきちらし、注ぎがけなどの施釉手法も様々であるという。「点彩」と表現するのか。
同時期に、もっとあっさりとした色彩のものも作られている。
白釉藍彩碗 黄冶窯跡Ⅱ・Ⅲ区出土 黄冶窯第3期(唐代中期、684-840年)
同展図録は、出土した少なからずの白釉藍彩の資料は、胎土がよくしまり、細質で、釉色も濁りがなく、色鮮やかで、青花瓷の起源に重要な実資料による証拠を提供したという。
ほとんどのものが素焼きの前に厚い化粧土を1層かけるというように、白く硬い磁器の青花(染付)とは異なっているが、白い地の部分を見せ、その上に点描で文様を描くというのは青花へと繋がりそうだ。
唐青花瓷器 河南省鞏義市黄冶窯跡Ⅱ区出土 黄冶窯第4期(唐代晩期、841-907年)
唐代中晩期の地層と土坑内から検出した、多くの白釉藍彩瓷器は、硬くきめ細かい胎質で、色に濁りがなく、色艶も鮮やかな釉がかかるなど、青花の起源に関する貴重な実資料となった。
この時期のものである少量の匣鉢(さや)が発見されている。このことは、この時期に匣鉢を窯道具として使用することが、黄冶窯ではじめられたことを示していようという。
第4期になると胎土も白くなって磁器らしくなるが、文様は筆の先から滴を垂らした程度だが、これが磁器の青花へと繋がるものらしい。
また、窯の中で器を保護するための匣鉢が使われるようになったのと、青花瓷器の生産とは関係があるのだろうか。
中国の青花瓷器については、欧米の研究者を中心に、9-10世紀の青花瓷器が少なからず発見される中東イスラム地区を起源とし、14世紀の元代に中国へ伝わったとする考えが有力であった。しかし、1975年に江蘇省揚州農学院の唐代晩期の地層から青花枕片と青花破片が、また、1983年に揚州市区文昌閣付近でも、これらとよく似た青花瓷器が、それぞれ出土し、この中東イスラム地区起源説は、再考を迫られることになった。
その後、胎釉成分の理化学分析により、これらの唐青花瓷器片のものと鞏県唐三彩窯の藍釉瓷の成分が近似することが判明した。1999年には、インドネシア海域で発見された9世紀の沈没船「黒石号」から引きあげられた67000点もの唐代の陶瓷器類の中に完形の青花瓷器3点が含まれていたことから、唐青花瓷器の存在が実証されるとともに、それが貿易品であった可能性を示したという。
9-10世紀の唐の青花瓷器と中東イスラーム圏の青花瓷器、どちらが早かったのだろう。
また、唐青花瓷器と、元代(1271-1368年)の青花磁器の間にはあまりにも長い期間がある。唐で青花という技術が生まれたとしても、それが元にまで繋がったかどうか。
関連項目
定窯の白磁で蓮華文を探す
※参考文献
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見展-図録」(2008年 飛鳥資料館)
2010/11/05
唐三彩には繧繝はあるか
西大寺出土の三彩垂木先瓦は繧繝彩色を目指したように思える。唐三彩に繧繝やそれに繋がるような技法はあったのだろうか。
三彩貼花文鍑 陶製 高18.0 中国、唐(8世紀) 東京出光美術館蔵
『大遣唐使展図録』は、「鍑(ふく)」とは本来、脚付きの鍋を指す名称で、中国古代の銅器に慣用されている。唐三彩では、主に短頸で丸底の壺に3本の獣脚を付けたものをこの名で呼んでいる。
胴部の地には緑釉、口縁部に褐釉をそれぞれ単色で塗り、貼花の上にだけ緑色・褐色・白色の3色をまだらに転じているという。
青銅の鍑について調べたことがあるので、このように丸く口のすぼんだ器形を鍑と言われても、別の名称にしてくれと思ってしまう。鍑についてはこちら
どちらかというと、唐三彩の色づけはこのように大まかなものが多い。貼花が何を表しているかが分かるような色の付け方というよりも、緑色・褐色・白色の3色を適当に筆で置いて行ったようで、しかも焼成中に釉薬が流れてよけいに何かわからくなっている。
繧繝とはほど遠いなあ。
唐三彩は日本には割合早い頃に入っていた。
三彩蓋付滴足円面硯(蓋部分のみ) 飛鳥時代(7世紀中葉前後の終末期古墳) 斑鳩町竜田御坊山3号墳出土 最大径6.75㎝ 橿原考古学研究所附属博物館蔵
『大唐皇帝陵展図録』は、ややクリーム色がかった白い硬陶質の器壁に、透明度の高い淡い緑色の釉を全面にかけ、その上に筆先などを使って濃緑色の釉を部分的にかけている。釉薬の一部はアルカリ成分が不透明化してしまい、銀化して不透明化している。
このような淡い色の上に同色の濃い色の点で模様を描く三彩は、河南省黄冶窯跡や江蘇省揚州城跡など、近年の中国国内での発掘調査でも出土している。御坊山3号墳の築造時期が初唐に含まれることから、濃淡2色の緑釉を用いた装飾法も初唐に遡る技法であるとわかるという。
同色の濃淡で何を表現しようとしたのかがわからない。墨流し(マーブル文様)のようなものをねらったのだろうか。
淡い緑色の上に濃緑色釉を置くという初唐(7世紀)からある技法が、西大寺出土の軒垂木先瓦(8世紀後半)の蓮弁に繋がるのだろうか。
8世紀の唐三彩で繧繝彩色に見えるものは日本では出土していないようだ。
唐三彩枕 奈良時代(8世紀) 奈良市大安寺旧境内出土 奈良文化財研究所蔵
1966年に講堂南面地域(前庭)の発掘調査で、延喜11年(911)の講堂の焼失によると考えられる焼土灰層から一括で出土したものである。これほど大量の唐三彩陶枕が大安寺で使用されていたのは、数多くの渡来僧や帰国僧が居住していたこととかかわりがあろうという。
一部の破片は文様の輪郭を陰刻し、それが色が施釉時の輪郭となって隣と混ざらない工夫をしているようだ。
それ以外は点描のように3色を置いていき、それらが溶けてぼんやりと混ざり合っている。同色の濃淡というのは見られない。どうも繧繝文様として施釉された唐三彩はなかったようだ。
ところで、唐三彩が明器(副葬品)として作られたものなら、何故それが日本に入ってきたのだろう。
『まぼろしの唐代精華展図録』は、唐三彩の多くは墓の副葬品として出土している。これは、先に示した唐三彩出土地点317か所でも279か所(88%)が墓であることからも分かる。このことから、かつては、唐三彩を明器専用のものと考える傾向もあった。
しかし、近年の発掘調査では、長安城大明宮含元殿遺跡、洛陽城皇城などの宮殿、長安城大明宮太液池遺跡、洛陽城九州池遺跡や上陽宮苑池遺跡などの宮殿苑池、長安青龍寺跡、揚州市師範学院寺院跡などの寺院、長安城西市跡や揚州城内などからも唐三彩は出土している。このため、唐三彩は、仏具や明器としても使用される一方、皇族・貴族・商人などの富裕層が使う高級実用品であったと考えられるようになってきたという。
唐三彩は副葬品として作られただけではなかったのだ。三彩蓋付滴足円面硯(硯部分も残っている)も唐枕も、実用品として日本にもたらされたものだったのだ。
※参考文献
「平城遷都1300年記念 大遣唐使展図録」(2010年 奈良国立博物館他)
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見-展図録」(2008年 飛鳥資料館)
2010/11/02
奈良時代の匠たち展2 三彩の尾垂木先瓦にも繧繝
もう一つの驚きは三彩の尾垂木先瓦だった。
三彩尾垂木先瓦片 西大寺東塔と西塔で使用 復元径15㎝厚1.1㎝
同展図録は、型板からヘラで粘土を切り出して製作された。釉薬は濃緑・淡緑・褐・白の4種を使用するが、濃緑釉が輪郭用に用いられる。型紙で枠取りして、褐・淡緑・白の順に彩色された。
六角形の中房に、6弁の複弁風の花弁を表す。六角形の各辺に対して花弁が1葉対応するように割り付けられる。輪郭は濃緑色釉で描かれ、その内側に淡緑釉、外側に褐釉が彩色される。子葉は褐釉で縁取りされた内側に淡緑釉が配されるという。
輪郭が濃緑色釉で描かれているとはいえ、花弁は外側から濃緑、淡緑、白色の順に繧繝彩色を目指したのではないだろうか。
『菅谷所長と語る!平城京とその時代 連続ミニ展示図録』は、奈良三彩には、唐三彩のように人物や動物を象った俑や墓室におさめる明器としてつくられたものはなく、その形態は全く異なっていました。奈良時代の金属器や土器と同様の形をした器の例が最も多く、瓦も焼かれました。
中国から輸入された唐三彩は、貴重な存在でした。唐三彩に比べ、奈良三彩の出土量は多いですが、それでも貴重な存在でした。平城京内では、宮や寺院、貴族の邸宅を中心とした拠点で出土していますという。
三彩釉以前に日本では釉薬をかけた焼き物はなかったにもかかわらず、こんなに手の込んだ作品が作られたとは。
三彩有蓋短頸壺 伝岡山県津山市出土 陶製 総高21.3口径13.6 奈良時代(8世紀) 岡山県倉敷考古館蔵
『大遣唐使展図録』は、奈良三彩は、中国の唐三彩の影響を受け、日本で作られた三彩陶器である。坏や盤、鉢、壺など様々な器種があり、主に寺院における法会、神への奉納など非日常的な場所で使われることが多かった。
奈良中期頃の須恵器壺にも一般的に見られる姿である。唐三彩にこのような器形はなく、この製作には明らかに伝統的な日本の須恵器工人が関わっていることか分かる。釉薬は緑釉を基調としながら、褐釉と白釉を寄り添えた斑文を、胴部におよそ4段、上下で互い違いになるように点じているという。
こちらの濃緑色に見える箇所は、緑釉と褐釉が溶けて混ざったのだろう。唐三彩でもこのように釉薬が流れて他の色と混ざっているのはよく見かける。
その製作は少なくとも奈良時代の初め頃にまで遡り、神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓には三彩小壺の副葬が確認されている。奈良三彩は中央の官営工房で作られた特注品の性格が強く、天平6年(734)の「造仏所作物帳」(正倉院文書)には、興福寺金堂の造営に関わる資料として「瓷坏料土」、「瓷坏燃料薪橡」(釉をかけた坏を作るための粘土や薪)、釉の原料となる黒鉛などが書き上げられている。遣唐使の一行には技術者も含まれており、「玉生(ぎょくしょう)」と呼ばれる工人(主にガラス玉作りの工人か)も見られる。ガラスと同成分の三彩釉について、素材や調合の知識を持ち帰り、奈良三彩の製作に応用したのであろうという。
唐から三彩の技法がもたらされたのではなく、遣唐使船に同行した「玉生」が唐三彩の窯元で釉薬の素材や調合法を持ち帰って生まれたのが奈良三彩だったのだ。
田上惠美子氏は工人ではなく作家であるが、奈良時代だったら「玉生」と呼ばれていたかも。
※参考文献
「平城遷都1300年祭記念秋季特別展 奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「平城遷都1300年祭記念 菅谷所長と語る!平城京とその時代 連続ミニ展示図録」(2010年奈良県立橿原考古学研究所及び附属博物館)
「平城遷都1300年祭記念 大遣唐使展図録」(2010年 奈良国立博物館他)
「平城遷都1300年祭記念 大遣唐使展図録」(2010年 奈良国立博物館他)
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