お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/09/28

エジプトの王像10 エジプトの魔除けは王だったが



王が敵の神を掴み、棍棒で殴ろうとする図はナルメル王のパレット(初期王朝第1王朝、前3000年頃)にもある古いモチーフで、王の力強さを示すものだった。時代が下がってもこの図柄は神殿や葬祭殿の塔門などに表されるようになるが、それは王の力強さではなく、魔除けとなってしまった。


アスワンダムのダム湖に浮かぶ現フィラエ島(元のフィラエ島は浸水したため、隣の島に移転)にはイシス神殿がある。アスワンの地図はこちら
長い列柱廊に挟まれた幅の広い外庭を歩いて行くと第1塔門に突き当たる。
末期王朝第30王朝、前350年頃に建造されたこの門にも王が敵を打ち付ける図が浮彫されている。
やはり沈浮彫で、棍棒もラムセスⅢ葬祭殿(新王国第20王朝、前12世紀)の同様棍棒も細い威力のないものだ。ラムセスⅢは両足を地に着けていたが、イシス神殿を建立したこの王は右足を上げているので、遠くから見ると走っているような印象を受ける。魔除けも形骸化されたものになってしまったようだ。
イシス神殿には第1塔門の中央から入っていく。門の外側のイシス女神は左は削られているが、右は削られていない。ハトシェプスト女王の浮彫を削ったのはトトメスⅢだが、イシス神殿の浮彫を削ったのは後世ここを教会として使ったキリスト教徒だといわれている。
門の奥には第2塔門の浮彫が見ている。エジプトでは神殿や葬祭殿などは中心軸が通っているのが普通だが、狭いフィラエ島に収まるように、建物の位置をずらせながら造ったためという。
人を避けながら門へと近づいていくと、門の前に一対の獅子が置かれていた。正確には門の開口部の左右に並んでいるとは言えない。向かって右側のライオンが中心に寄りすぎていて、左側のものは中心から離れすぎているようだ。写す位置が悪かったのだろうか。
やっぱりライオンの位置がずれているように見えるが、この一対のライオン像には魔除けの役目を負わされていたには違いない。たてがみが平面的で妙なライオンだ。どんな顔をしていたのだろう。
それまでエジプトを旅してきて、神殿前には王の立像や倚像が置かれていることに違和感を覚えていたが、慣れるとライオン像が魔除けとして出現したことが奇異に感じられるようになっていた。
内部を見学して再び第1塔門から外に出る時、妙なことに気がついた。それは前から見ると平面的なライオン像が、背後から見るとライオンらしく表されていることだった。

一対のライオン像が神殿入口の前に置かれるようになるのは何時の頃からだろう。『地球の歩き方』は、この島では古代エジプト末期王朝時代からローマ支配時代にさまざまな神殿が建てられたという。
末期王朝になるとアッシリアやアケメネス朝の支配を受けたが、双方とも門の脇にはラマッスと呼ばれる人面有翼牡牛の像を置くので、どちらの影響でもない。かといって、写実的なプトレマイオス朝のものとも思えない。しかし、外部からの影響でこのような魔除けの動物を門の両側に置くということが行われるようになったのは確かだろう。



※参考文献
「図説古代エジプト2 王家の谷と神々の遺産篇」(仁田三夫 1998年 河出書房新社)
「地球の歩き方E02 エジプト 09-10年版」(2008年 ダイヤモンド社)

2010/09/24

エジプトの王像9 王が敵を打ち付ける



カイロのエジプト博物館で是非とも見たかったものは、サッカラの階段ピラミッド地下より発見されたファイアンス・タイルの壁面とナルメル王のパレットだった。
ナルメル王のパレットは入口近くにあったが、進路方向に平行して展示されていたために目立たず、その前で足を止める人はまれだった。ナルメル王のパレットは色が地味で浅浮彫のため、巨大な博物館にあっては存在感のないものだった。


ナルメル王のパレット 初期王朝第1王朝、前3000年頃 ヒエラコンポリス出土緑色片岩 浮彫 長64.0㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、王を中心とする国家理念の普及にとって図像による権威の表現は最も有効な手段となった。
王を中心とする世界観と王の威信をよりよく表現するために、図像表現のなかにもさまざまな規範が生まれた。例えば、図像表現のなかにおいてだれよりも王の姿を大きく描く手法は端的に王の権威を表すことができるという。  
ナルメル王のパレットは両面に浮彫がある。片面には長い首を交差させた動物が表されているが、もう一方の面にはナルメル王が中央に大きく表されている。王は左手で敵の髪を掴み、右手で棍棒を振り上げて、今にも打ちつけようとしている。
王が兵士に敵を倒させる権力を表すのではなく、王の力強さを誇示するというのは、セド祭で走り体力があることを示す場面と共に、エジプトらしい表現だ。
王はひときわ大きく描かれ、その他の人物は小さく描かれている。王の姿は、頭部は側面から、目と肩は正面から、腰から下は側面から見た図を合成するという、本来ありえない姿勢で描かれている。
こうした描写のスタイルは、王がひざまずく敵を棍棒で殴るポーズや、雄牛を自らの化身として力強さを表す表現方法とともに、長く後世に引き継がれることとなったという。
上段の正面向きに表された一対の牡牛は人間の顔をしている。王の顔をした強い動物の表現はスフィンクスへと繋がっていくのだろうか。
デン王のラベル 初期王朝第1王朝、前2900年頃 アビュドス、デン王の墓出土 象牙 左右5.4㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、墓に納められた副葬品には、しばしば主にその副葬品の内容と質を示すためのラベルが取りつけられた。限られた空間を仕切り、絵と文字とを巧みに組み合わせて複雑な内容を表す古代エジプト人たちの才能は、この小さなラベルのなかに遺憾なく発揮されている。ヒエログリフは文字一つ一つが絵でもある。文字の使用が始まって間もないこの頃、両者を組み合わせて表現することが不可欠であったと同時に、絵としても機能するヒエログリフの性質を生かして、文字を図像の一部として組み込むことが試みられた。柔らかい粘土の上を転がして封印するための円筒印章も、小さいながら当時の重要な表現媒体の一つであったという。
荷札に過ぎないようなものにも象牙が使われている。中央上のセレク(四角い枠の上に隼が留まった形)にデン王のホルス王名が表されているのだろう。同じ時期にやはりアビュドスの墓より出土したジェト王の石碑とよく似ている。
そしてその下に大きく表されているのは敵を棍棒で打ち付けるデン王である。すでに初期王朝時代にはこのような図像が成立していたのだ。
また、円筒印章を調べていた頃。エジプトからは見つからなかったので、エジプトには円筒印章はないものと思っていたが、初期にはすでにあったことも判明した。
円筒印章を調べるきっかけとなったものはこちら
だいぶ時代が下がって第19王朝のラムセスⅡ期(前1304-1237年)。アブシンベル大神殿(前1250年頃)の外側には4体の巨大なラムセスⅡ倚像がある。
巨大な神殿を南の地に造ったのは、エジプトの王はこれほどの神殿を造ることができる力があることをヌビア人に示し、侵入してくるなということを示すためだったとガイドさんの説明があった。王自身が登場するという伝統が続いていたのだ。
中に入ると先ほどのラムセスⅡの裏側にあたる神殿東壁北側に、多くの敵の髪を掴み、棍棒で打とうとする王が浮彫されている。ずいぶんと敵の数が増えたものだ。
ガイドさんは、輪郭を深く彫って、その中に浮彫するのを沈浮彫(しずみうきぼり)といいます。像を浮彫にするには地の部分の壁面を全て削る必要があり、時間がかかるので、ラムセスⅡは早く完成するようにこのような方法で浮彫させましたと言った。この沈浮彫という技法はアクエンアテン王期にすでにみられるものだ。テル・エル・アマルナ出土の沈浮彫の作品はこちら
ルクソール西岸には葬祭殿が並んだ場所がある。「ナイルの賜物」である緑地帯と河岸段丘の岩山との境目にそれらは建造された。現在はアスワンハイダムのおかげで緑地帯が広がり、葬祭殿ぎりぎりにまで農地が広がっているので、王たちは耕作地にまでこのような広大な面積を占めるものを造ったのかと思うほどだった。
その一番南にメディネト・ハブと呼ばれる第20王朝(前12世紀)のラムセスⅢの葬祭殿がある。第1塔門の両側の2対の凹みは旗を立てるためのもの。その外側に大勢の敵を跪かせ、髪を掴んで棍棒で殴ろうとする王がやはり沈浮彫で表されていた。右(北)側の浮彫はヤシに隠れて見えなかった。
近づいて見ると、棍棒というよりも細い杖といった程度のものだった。王の前にはそれを賛美する神が描かれている
ガイドさんは、王が敵を打ち付ける図は時代が下がると建物の魔除けになってしまいますと言った。なるほど、王の強さを示すものでなくなってしまったので、棍棒である必要性もなくなってしまったのか。

※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
アブシンベル神殿の絵葉書

2010/09/21

エジプトの王像8 ルクソール博物館で微笑む像を探したら



ギリシアで人の彫像がつくられるようになったのは、エジプトの彫像に影響されたからだという。ギリシアの彫像が左足を出しているのもそのためらしい。
ギリシアのアルカイック期の像は笑みを浮かべているのが特徴だが、エジプトでは微笑んでいる彫像はあるのだろうか。エジプトに行ったら確かめたいことの一つだった。
ルクソール博物館はカイロのエジプト博物館とは比べものにならない小さな博物館で、展示物も少なかったが、作品と作品の間が広く、ゆったりと見て回ることができた。果たして微笑む王の像は見つけられるだろうか。



アメン神姿のツタンカーメン立像顔部分 石灰岩 第18王朝、ツタンカーメン王期(前1335-46年) カルナック神殿の隠し場出土 全高155㎝ ルクソール博物館蔵
『ルクソール博物館図録』は、カルナックのアメン大神殿は第7塔門の前の中庭から数千もの王像が出土したが、その通称が隠し場である。2枚の羽をまっすぐに上に向けた冠を被るのは、テーベの偉大な神アメン神姿だからだという。
ルクソール博物館に入って正面にあるのがこの立像だが、説明を聞くまでこれがあのツタンカーメンの像だとは思わなかった。ツタンカーメンの墓より発見された黄金のマスクや黄金の玉座のツタンカーメンと全く似ていなかったからだ。
アメン神姿ということもあってか、表情は硬く、微笑みのかけらさえ見えない。
アメンホテプⅢの巨大な頭部 桃色花崗岩 第18王朝、アメンホテプⅢ期(前1405-1340年) ルクソール西岸クルナのアメンホテプⅢ葬祭殿出土 高215㎝(の部分) ルクソール博物館蔵
顔は均整がとれて優美である。アーモンド形の目と彼の彫像に典型的な平たい唇をしているという。
アクエンアテンの父である。博物館入口を入って右にこの巨大な頭部が展示されていた。唇の両端をきゅっと上に上げているが、微笑んでいるように思えない。
アメンホテプⅡ像(おそらく座像)
桃色花崗岩 第18王朝、アメンホテプⅡ期(前1454-19年) カルナック出土 高110㎝ ルクソール博物館蔵
吉村作治の古代エジプト講義録下』は、二重冠をかぶった王の上半身像。第18王朝時代特有の柔和な姿で表現されているという。添付の写真は斜め左から写されたもので、確かに柔和な表情をしている。
しかし、正面から見た下写真は顔に光が当たり過ぎているのか、表情の柔らかさが伝わってこない。 
トトメスⅢ立像(膝から上)
硬砂岩 第18王朝トトメスⅢ期(前1504-1452年) カルナック、隠し場出土 高90.5㎝ ルクソール博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、彫像の両眼は象嵌されていないが、柔和な微笑みをたたえた表情をしており、上半身は裸で、筋肉質の美しい若々しいフォルムに造形されている。
こうした現世を超越・昇華した理想的な顔つきや肉体表現などが、この時期の王像表現の規範であるという。
この像の前まで来た時、このような微笑みがきっとギリシアのアルカイックスマイルに繋がるのだろうと確信した。
その後、興味深い王の顔を見つけた。トトメスⅢともハトシェプストとも特定されていないらしいが、ルクソール博物館蔵のトトメスⅢ像の顔によく似ている。


王像頭部 緑色片岩(シルト岩) 新王国第18王朝、前1479-1425年頃 高45.7㎝ 大英博物館蔵
『大英博物館古代エジプト展図録』は、王像の顔は、理想化して表現されている。しかし、その顔にはハトシェプスト女王や、義理の息子で共同統治者かつ王位継承者でもあるトトメス三世の表現に見られる「トトメス時代の特徴」が、はっきりと現れている。女王は常に男性として表現されるので、王名の銘文がなければ、両者の違いを区別するのは難しい。トトメス三世の表現においては、前王のハトシェプスト女王と比べると、眉のそりは小さく、両眼はそれほど寄っておらず、つり上がってもいないが、口は大きく、鼻梁は際立ち、鼻は広く、顔の輪郭は角張っている。本像にも女性的な柔らかい表現がいくぶん認められるが、トトメス三世が単独で権力を掌握してからすぐに本像が制作された可能性もある。ハトシェプスト女王の表現法の方が、まだまだ手になじんでいたのである。本像に見られる熟練した技術と、その仕上げのすばらしさは、第18王朝初期の彫刻様式が最高潮に達したことを示しているという。
残念なことに、同展図録にもルクソール博物館の図録にも、微笑んでいるという表現がない。
ギリシア人はこのような第18王朝初期の王像に惹かれて、自分たちの人物像にも微笑ませたのではないだろうか。
ところが『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、片脚(必ず左脚)を半歩踏み出して動きを内包し、腰に当てた手は堅く握りしめて男性らしく意志の強さを示す。この立像形式が古代、とりわけ末期王朝時代のエジプトの男性像形式にのっとって発案されたことは疑いないという。
なんと、ずっと時代の下がった末期王朝時代(第27-31王朝、前525-332年)だったとは。アッシリアの支配から逃れたと思ったら、アケメネス朝ペルシアに征服されてしまった時代である。


※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「ルクソール博物館図録」(2005年 Farid Atiya Press)
「吉村作治の古代エジプト講義録下」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「大英博物館 古代エジプト展図録」(1999年 朝日新聞社)
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」(1997年 小学館)

2010/09/17

エジプトの王像7 ネフェルタリだけの透ける衣がアクエンアテンにも



ルクソール博物館2階にはアマルナ時代の大きな壁画が2面展示されていた。テル・エル・アマルナのものではなく、カルナックのゲムバアテン神殿を飾っていたものだった。
世界美術大全集2 エジプト美術』は、アメンヘテプ4世はテル・アル・アマールナに遷都する前に、テーベにおいても太陽神アテンのための神殿を建造した。その後、アテン信仰が瓦解し、アメン信仰が復興するようになって、アテン神のために造営された各地の記念建造物は破壊されたり、あるいは解体されたりしたという。
アマルナ様式に興味を持っていたのでテル・エル・アマルナに行くことができないのを残念に思っていた私には嬉しい驚きだった。
ところが石のブロックを積み上げた壁に描かれていたため、崩壊したものを復元すると石と石の間の絵が失われているのでわかりにくい。
壁面と柵の間には、当時の日用道具類が置かれていて、籠などは現在の物かと思うくらい保存状態のよいものだったのが印象に残っている。しかしながらそのような空間のおかげでわかりにくい壁画を遠くから眺めることしかできなかった。
従って人間の大きさに大中小の3種類があるなどというのも、図録を開いて判明したのだった。
大きい壁面の方は、いろんなものを作る人々や、列をなして物を運ぶ人々などがぎっしりと描かれていた。小さい方の壁面には、運ぶ人々や腰を屈めた人たちに混じってアクエンアテンが登場していた。しかもあちこちに。


壁画 アクエンアテンのゲンパアテン神殿出土 前1365年頃 砂岩・彩色 左右17.7m ルクソール博物館蔵
『ルクソール博物館図録』は、カルナックの東にアテン神のためにアクエンアテンが建てたゲムパアテン神殿の壁画の復元。日々の暮らしやアテン神殿での活動と共にアテン神崇拝の場面があるという。
物を運ぶ人々と、柱の傍で宗教儀式を行うアクエンアテン王の場面が幾つか見うけられる。王1人だけの儀式もあれば、腰をかがめた2人の従者を伴う場面もある。
供物を捧げ、太陽円盤の光に手を掲げて礼拝するアクエンアテン王と、太陽円盤から降り注ぐ光を浴びる王と腰をかがめ小さく表された人物が2人という場面があった。光の先端が失われているため、光線の1本1本に手が表されているのかどうか確認できない。
しかし、驚くべきことに、王の腰布から脚が透けて見える。暑いので薄手の衣服を身につけていただろうが、前14世紀には透けるほど薄い布が織られていたことになる。
そしてもっと驚くのは、透けて見えるように描く画工の技術と、透けるように描かせたいという意思がアクエンアテン王にはあったということだ。やっぱりアマルナ時代は写実的だったのかなあ。
透けた衣裳を身に着けて描かれるのは、第19王朝、ラムセスⅡ(前1290-24年)の王妃ネフェルタリだと思っていた。


ネフェルタリの墓は、ルクソール西岸、王妃の谷にある。南側の入口から急な階段を数段おりたところが前室になっている。剥落したところもあるが、白い壁に彩色豊かな壁画が多く残っている。ネフェルタリの墓内部は撮影は勿論、会話も禁止。ロープが張られているので壁に当たらないように注意して見学する。
前方に玄室への階段が見えるが、まず左側、南壁上部の小さな壁面に3体のネフェルタリが描かれている。中央のバー(日中自由に外に出て飛び回る魂)がネフェルタリの顔になっている。両側のネフェルタリは薄い衣を身につけている。襞がたくさんあるのか、重なっていない布を通してネフェルタリの腕や足が透けて見えている。
ここから右回りにネフェルタリが永遠の生命を得てイアルの野に行く過程が描かれている。『死者の書』第17章の内容が表されているようだ。
最初にセネトゲームをして、勝つと次の段階に進むことができる。
ネフェルタリの座っている椅子の装飾は、ウナス王のピラミッドの壁面装飾に似ている。椅子に掛けた布にこのような幾何学的な文様があったのだろう。先染めか後染めか気になるなあ。
また脱線してしまった。思えば、このような透ける布の表現が、突然完成された技術でネフェルタリの墓にだけ出現するというのも不思議だ。
西壁へと続く南壁の隅でネフェルタリは跪いて礼拝または賛美している。先ほどセネトゲームでネフェルタリが勝った神にお礼でもしているのだろうか。
脚もやや透けて表されている。
副室北壁ではトート神の前に立つネフェルタリが描かれている。膝下まである白い服を身に着けて、その上から透けた長布を羽織っている。
左脚と右脚では襞の向きが異なっているのは、衣の向きを考えてのことだろう。
同じく副室、西壁の南隅に描かれている。南璧には種類の異なった8頭の牛がネフェルタリの方を向いているのと関係があるのだろうか。
上腕全体に襞を作って分厚く透けない部分と、薄い生地のままで透ける部分を交互に描き出している。
残念なことに、現代のエジプトではこのように透けた布を見ることはなかった。綿ローンを無数に襞にたたんだ生地だったのだろうか。


※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「ルクソール博物館図録」(2005年 Farid Atiya Press)
「The Tomb of Nefertari」(Tiba Artistic Production)
「The Tomb of Nefertari HOUSE OF ETERNITY」(John K. McDonald 1996 The J.Paul Getty Trust)

2010/09/14

エジプトの王像6 アクエンアテン像は写実的?誇張?



アクエンアテン像は写実的な彫像だろうか。


テル・エル・アマルナから遠く離れたアレクサンドリア国立博物館にも、アクエンアテンの頭部があった。どこで出土したのか確認するのを忘れていた。カルナック出土の同王像は付け髭をしていたが、この像の顎にはヒゲをつけた跡はない。
同館はエジプトでは珍しく写真撮影のできる博物館で、ちょうど人の目の高さのところにこの大きな頭部が展示されていた。
特徴ある顔立ちなのですぐに見分けることができ、前からも横からも眺めてみた。異様に細長いが、こんな顔の人は実際にいそうな気もする。
アクエンアテン胸像 第18王朝、アクエンアテンの治世(前1372-55年) カルナック出土 ルクソール博物館蔵
同館図録は、カルナックのゲンパアテン神殿より出土した28の彫像の1体(一部)。前頭部にコブラのついたネメス頭巾を着けている。長い顎、V字形の唇と引き延ばされた耳という、誇張された表現だという。
アクエンアテン王のアテン神信仰はすぐに否定されたので、神殿も宮殿もアクエンアテン像も破壊されたのだろうと想像していた。カルナックのアテン神殿に28体ものアクエンアテン像が残っていたとは。
アトン信仰という一神教を打ち立てたアクエンアテン王は、自分の像もこれまでにない姿形にしたいと思い、自分に似た像を造らせたのだろうか。
アトン神を礼拝するアクナトン王一家 石灰岩 縦102㎝横51㎝ テル・エル・アマルナ出土新王国第18王朝、前1567-1320年頃 カイロ、エジプト博物館蔵
『黄金のエジプト王朝展図録』は、このアケト・アトン王宮址出土の欄干片には、アトン神を礼拝するアクナトン王とその家族が描かれている。太陽神アトンは、降り注ぐたくさんの光線の先が手の形になっている太陽円盤で表現された。アクナトン王の長い顔と細い首、異様に膨らんだ下半身などはこの様式の特徴で、以前の均整のとれたファラオの像とは異なっているという。
王の姿がこのような異様なものだったとしても、王妃ネフェルティティも王女も同じ体型とは限らない。それが「この様式の特徴」とあるように、アマルナ時代の定型化した人物像だったようだ。それは王の姿を写実的に表したものなのか、それとも特徴を誇張したものなのだろうか。
王女の頭部像 新王国第18王朝 テル・エル・アマルナ出土 赤色石英岩 高25㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
この頭部はおそらくアクナトン王の王女メリタトンのもので、別に作られた胴体にはめ込まれていちものと考えられている。アクナトン王によく似た顔をしている。この時代にたくさんつくられたアクナトン王の像や浮き彫りによく見られるように、この王女の後頭部も異常とも思えるほど細長く突き出ている。そのためアクナトン王が何かの病気にかかっていたという説もあり、王女たちも遺伝的な要因であると考えられるという。
誇張表現というよりは、特徴を写実的に表現したものと考えられているようだ。
やっぱりアマルナ様式は写実的ということだろうか。


壁画部分(大きな人々が物を運ぶ場面) アクエンアテンのゲムパアテン神殿出土 砂岩 第18王朝アクエンアテン王期(前1372-55年) 
『世界美術大全集2エジプト美術』は、アメンヘテプ4世(アクエンアテン)の宗教改革および遷都によってもたらされた新しい時代(アマールナ時代)に、古代エジプト美術は大きく変化した。アクエンアテン王像やカルナク神殿出土の浮彫りに見られるように後頭部が大きく張り出し、腹部が誇張ともとれるほど強調された、この時代独特のものになったのであるという。
王族と思えない人々も後頭部が出ているが、この程度では誇張とまでは言えないような気もする。
カイロ、エジプト博物館蔵のアクエンアテン像はこちら
舗床断片 新王国第18王朝、前1365年頃 テル・アル・アマールナ出土 漆喰・彩色 28.5X55.5㎝の鴨部分 カイロ、エジプト博物館蔵
鳥や植物などが、それまでの記号的な図形から目に映る実際の像に近いものとなり、型にはまったような表現から躍動感あふれる表現へと目覚ましい変化を遂げた。テル・アル・アマールナ出土に建設された王宮には、このような生き生きとした舗床画や壁画が描かれ、古代エジプト美術史上の特異な自然主義的作例となっている。しかしこれらに先立つマルカタ王宮にも、こうした作例に近い表現の壁画が確認されており、アマールナ様式の萌芽はこの時代までさかのぼれる可能性も指摘されているという。 
そういえば、アマルナ出土のタイルにも花の咲くパピルスの群落の中にいる牛という場面が表されていた。こちらはススキの茂みから飛び立つカモを表している。
同様に、人物像も自然主義的な表現ということで良いのでは。


※参考文献
「黄金のエジプト王朝展 -国立カイロ博物館所蔵-図録」(1990年 ファラオ・コミッティ)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「ルクソール博物館図録」(2005年 Farid Atiya Press)

2010/09/09

エジプトの王像5 足を出さない立像はオシリス型



エジプトではといえば立像が左足を前に出すが、両足をそろえた立像もある。


アクエンアテン像 新王国第18王朝、前1365年頃 ルクソール東岸 カルナク、アテン神殿出土 石灰岩 高396㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『吉村作治の古代エジプト講義録上』は、カルナックのアテン神殿から発見されたこの巨像は、エジプトの伝統的な彫像の中にあって異彩を放っている。第18王朝の諸像は自らの像を、優雅な、それでいて力強い理想的な王の姿で表されることを好んだが、アクエンアテンは「マアト」にしたがって自己の像を刻ませた。この分厚い唇ととがったあご、細い眼、こけた頬など王の特徴が見事に表現されているという。
力の象徴ヘカ笏と権威の象徴ネケク竿を持ち両腕を胸で交差させている(『ルクソール博物館図録』より)。
残念なことにこの像は膝下が失われているのだが、両膝が揃っているので、左足を前に出した立像ではないことがわかる。
エジプトの人物像といえばどの時代のものも同じようなものばかりで退屈と思っていたが、あるときふと「黄金のエジプト王朝展」というものに行ってみた。そこで見つけたのがこの像だった。
妙な顔をした像がエジプトにはあるものだと思ったものだが、この像がエジプト美術に関心を持つきっかけとなった。展覧会の解説パネルには「写実的」という言葉があった。アマルナ時代の美術は写実的ということが頭に残った。
その後20年も経ってやっとエジプトの土を踏んだ。
その間の長い期間にはエジプト美術について多少の知識も得た。足を並べて立っているオシリス神姿の王像があることも知ったが、アクエンアテン像は足を並べているし、オシリス神のように、物を握った両腕を胸で交差させているものの、包帯を巻いた姿とはほど遠い格好だ。それがアテン信仰と関係があるのだろうか。


ルクソール西岸のハトシェプスト葬祭殿は第18王朝、前15世紀前半に建造された。その第3テラスには角柱を背にしたオシリス神像がところどころ残っている。
第3テラス中央の至聖所への通路右側にはオシリス神像が3体並んでいた。両足をそろえたというよりも、ミイラ棺のようだ。
非常に大きな立像なので、岩を切り出して角柱と像を彫りだしたのかとも思ったが、角柱は幾つかの部材を積み上げてあり、オシリス神像は別に造られて取り付けられたことがわかる。
しかし、この像はオシリス神像というだけではない。ハトシェプスト女王がオシリス神の姿をして立っているのだ。
ハトシェプストも両腕を胸で交差させているが、持物は何だろう。
いつから王の像がオシリス神の姿で表されるようになったのだろう。その手がかりはルクソール博物館でみたセンウセレトⅠ像の胴体部分だった。


オシリス姿のセンウセレトⅠ像 石灰岩 第12王朝、前1971-28年 カルナック出土 高157㎝幅106㎝ ルクソール博物館
同館図録は、カルナックの円柱に取り付けられた状態で発見された。
王はミイラとして表現されている。生命の象徴アンクを握った両腕を胸で交差させ、白い麻の包帯で巻かれた体はオシリス神の定型的な表現であるという。
オシリス神の持物は時代と共に変わるのか、前20世紀には両方ともアンクを握っている。
カイロのエジプト博物館にはセンウセレトⅠの全体像があった。


センウセレトⅠのオシリス神柱 中王国第12王朝、前1950年頃 テーベ カルナック、アメン大神殿出土 石灰岩・彩色 高470㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、第11王朝では、古王国の墓内部のシルダーブ(彫像安置室)に納められていたものが野外の陽光のもとに姿を現すようになったのである。これらの王像のなかにはオシリス神の姿を象ったものも多く含まれている。
第12王朝時代になると王像表現は新たな段階に入る。自然主義的傾向が強い作品がとくにテーベやその付近から知られていることから、これらを「テーベ派」の工房の作品と称し、古王国時代の彫刻家の活動の中心の場であり、第4王朝以来の伝統的な様式を理想とする作品を「メンフィス派」の名で区別しているという。
ルクソール博物館蔵のトルソが円柱に取り付けられていたのに対して、こちらは角柱あるいは壁面に取り付けられていたもののようだ。
出土状況によって、幾つかの部分を繋いで復元されているが、幸いこの像は足元まで残っている。気になる足元はというと、包帯で巻かれたのは膝までで、その下は足が出ている。裸足かどうかこの像からはわからないが、小さな台か石の上にのっている。
第12王朝時代のオシリス神はこのように全身ではなく膝までしか巻かれなかったのだろうか。
では、これらの像はいったいどこから出土したのか。それは、ルクソール(ギリシア人はテーベと呼んだ)東岸の巨大なカルナック神殿の大半を占めるアメン大神殿のセンウセレトⅠの神殿址という。
カルナック神殿の中心軸を東の方に進んでいくと、トトメスⅢ祝祭殿が、低いながらもどっしりと存在感を見せている。大抵はこのような構図でトトメスⅢ祝祭殿が紹介されているのだが、その前の広大な空き地については説明がないことが多くて残念である。この空間にセンウセレトⅠの神殿があったのだ。
中央に残る石は床と角柱だろうか。
その残骸はしかしながら、風化がひどくて、石というよりもマンモスの歯の化石のようだ。
向こうのぞろぞろと人が出てくるところがアメン大神殿の至聖所(プトレマイオス朝)、その右(北)側にはハトシェプスト小祠堂が残っている。そうそう中央に見える高さ30mのオベリスクもハトシェプスト女王が立てたもの。
誰もがセンウセレトⅠの神殿跡を暑い暑いと言いながら(2月で朝から37度、といっても9月になっても35度以上の酷暑日が続く日本と比べると、湿度がないのでずっと楽)、この石に注意を向けずにトトメスⅢ祝祭殿へと向かっていくのが寂しかったが、センウセレトⅠ像が博物館に残っていて幸いだった。

※参考文献

「黄金のエジプト王朝展 -国立カイロ博物館所蔵-図録」(1990年 ファラオ・コミッティ)
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「吉村作治の古代エジプト講義録上」(吉村作治 1996年 講談社+α文庫)
「ルクソール博物館図録」(2005年 Farid Atiya Press)

2010/09/04

エジプトの王像4 メンカウラー王は立像で左足を出す



カフラー王は座像がたくさんあったが立像は発見されていない。次のメンカウラー王は立像が残っている。


メンカウラー王と二女神立像 古王国第4王朝(前2500年頃) アル=ギーザ、メンカウラー王の河岸神殿出土 片岩 高92.5㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
第3ピラミッドの河岸神殿からは、王の彫像がいくつか出土している。なかでも、ノモスの主神とハトホル女神とともに表現されたメンカウラー王の三体像が特徴的な作品である。
石像加工技術水準はほぼ完成の域に達しており、形を確実に造形していく熟練した技巧を看取することができる。ただし、カフラー王座像で見られた神王としての表現は後退しているという。
やっぱり河岸神殿にはたくさんの彫像が置かれるもののようだ。彫像は1m以内と小さい。祠堂に安置された状態で発見されたという(同書より)。
メンカウラー王は上エジプトの白冠を被り、大きく左足を踏み出し、手には何かを握っている。これが王像の基準になっていくのだろうか。
ノモスの主神は足を並べて立ち、ハトホル女神はやや左足が前に出ている。2人の女神は王を守護するために両側に立っているのだろうか。よく見ると王の両腕には人の手が回っているが、右のハトホル女神は王の左腕、左の主神は王の右腕をそれぞれ掴んでいる。どうも腕が長すぎるように思うが。
カフラー王座像はこちら
しかし、最初に左足を前に出したのはメンカウラー王ではない。第1王朝にすでに見られる。


王像 象牙 高8.5㎝ 初期王朝、第1王朝(前3000年頃) アビュドス、オシリス神殿出土 大英博蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、小さな像であるが、王像のポーズとして定着する左足を踏み出して立つポーズによって、王としての威厳を備えた姿に仕上げられている。憂いを帯びた表情のような写実的表現は、かつての像には見られなかったという。
王のポーズとは思わなかった。しかも前3000年という時代にすでに左足を出した像があったとは。
そしてもう1つの驚きは着衣の文様だ。菱形を縦に並べたり、ギローシュと呼ばれる組紐文がすでに表されている。組紐文は今まで調べた中ではマリ出土の幾何学文の石製容器に表されているが、それは前3千年紀(前3000-2000年)のもので、製作年代にかなりの幅がある。この王像は前3000年頃に制作されているので、組紐はメソポタミアではなく、エジプトが先かも。
カイロエジプト博物館では右足の出ている像を見かけたが、一般にエジプトの立像は、展覧会で見ても、現地の神殿などで見ても、左足が前に出ている。
しかも、第5王朝になると、左足を前に出すのは王の像だけでなくなった。


カーアベル立像 古王国第5王朝(前2475年頃) サッカラ、カーアベルの墓出土 無花果の木・彩色 高112㎝ カイロ、エジプト博物館蔵
ひじょうに写実的な像で、生前のカーアベルの姿を見事に表現している。故人の姿を忠実に再現することは、永遠なる生命を来世に祈った古代エジプト人にとって必要不可欠なことであった。
第5王朝初期のものとされているが、研究者によっては第4王朝末期に比定する場合もあるという。
第4王朝末期にしても第5王朝初期にしても、前25世紀前半にはすでに王でないものも左足を前に出す私人像を作るようになっていたようだ。
当時は太っていることが富や権力の象徴だったのだろうか。 
官吏立像 古王国時代末期、前2250年頃 大英博物館蔵
『大英博物館古代エジプト展図録』は、古代エジプト人が考えた復活には魂と肉体が再び結合することが不可欠であった。ミイラ化してあるとはいえなお脆弱な遺体が損なわれたり失われたりしたときに備えて、より堅牢な木や石などで作った似姿の像を用意した。儀礼に使う像である。王の似姿の像は必ず等身大以上の大きさで作られたが、一般人の場合は等身より小型である。このような点でも、ファラオの偉大さは区別されていた。
似姿の像は、いったん肉体を離れた魂が戻ってくるための重要な受け皿である。失われることも考えて、できるだけ複数の制作が望ましかった。さらに念入りに、盗掘者らの貪欲な目にさらされないよう、考古学語では「セルダブ」と呼ぶ密室に置いて、像の安全をはかったという。
カーアベルと同様に杖を突いているが、対照的に細身の像だ。この官吏は若くて痩せているので、墓主ではなく、王の墓の守衛かと思った。エジプトでは鎮墓獣というのがないので、王以外の者が墓や神殿を守ることがあったのかと驚いた。
図録にはこの像についての説明はないが、何故王の像がたくさんつくられたかがわかった。
供物を運ぶ女立像 中王国第11王朝、前2000年頃 ルクソール、ディール・エル・バハリー メケトラーの墓出土 木・彩色 高112㎝ メトロポリタン美術館蔵
『世界美術大全集2エジプト美術』は、第11王朝の木製彫像の水準をよく示しており、的確な人体の表現と様式美に彩られた作品という。 
前2000年にもなると、左足を前に出す使用人の像が作られるようになった。
どちらかと言うと、左足を前に出す像が元来王を示すということを知らなかったので、エジプトの立像と言えば左足を一歩踏み出しているものと思い込んでいた。


※参考文献
「世界美術大全集2 エジプト美術」(1994年 小学館)
「大英博物館 古代エジプト展図録」(1999年 朝日新聞社)