ラヴェンナにはイコノクラスム以前のモザイク壁画の残る聖堂が多く残る。そこには「バラツキ」あるいはゆらぎが存在するだろうか。
文様帯及びハトの図 ガッラ・ブラチディア廟堂、天井への移行部とその下のアーチ部分 424-450年
アーチ部分には緑色から紺色へグラデーションの帯に金のグラデーションが挟まっているが、縦にも1列に異なる色の線がある。
アーチから天井への移行部との境目は曲面になっていて、紺地に金の唐草文様が表される。
天井への移行部には明るい金色、暗い金色そして紺色へと変化して、地上から空への変化を表している。
早い時期に造られているにもかかわらず、ガラス・テッセラが整然と並んでいる。
聖者 正教徒洗礼堂内部 449-452年
『ビザンティン美術への旅』は、低い壁面のアーチとアーチの間にできる三角形の空間には、楕円の金の枠取りの中、聖者が表されているという。
おそらく小さな壁面のためテッセラが大きく見えるのだろうが、ガッラ・ブラチディア廟のテッセラと同じ大きさかと思うほどだ。
そんな少ない数のテッセラで、聖人の服には、衣文線も色を変え、白い布にもグラデーションのある色の変化をつけるなど、立体的な表現をしている。
そのような表現からすると、聖人の周囲を埋める金色のテッセラが色も形様々であるのは、意図的なものと考えられる。
ライオンと蛇を踏みしめるキリスト 大司教館付属礼拝堂 494-519年
壁面からヴォールト天井には黒い枠線があり、テッセラが整然と並べられている。アーチ形移行部は凹曲面となっていて、くりくりとよじれながら表と裏を見せるリボンは、グラデーションによって立体的に表現されている。この立体的な表現はキリストにも当てはまる。
しかし、キリストの背後やヴォールト天井にはそれが見られない。ただ空間を金色のテッセラで埋めただけのようで、返ってそこに「バラツキ」が感じられる。
また、ヴォールト天井の花文様のようなものは、よく見ると中央の赤い花から白い横向きの花が十字架のように出ていて、アヤ・ソフィアの天井の文様を想起させる。 アヤ・ソフィアのものが再建当時のものだとしても537年なのでこの花十字の方が早い。
テオドラと従者たち ラヴェンナ、サン・ヴィターレ聖堂アプシス 547年頃
上の人物像と同じく顔など細かい表現をしているところは小さなテッセラを使っている。ユスティニアヌスの皇妃テオドラは俗人であるが頭光が表され、その中は金色のテッセラが同心円状に埋め込まれている。
背景部分はモザイク職人が違うのではないかと思うほど、テッセラは適当に貼り付けられている。
最後の晩餐 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊側壁 5世紀末-6世紀初
テッセラの大きさがほぼ1㎝角だとすると、この絵はかなり小さなものだろう。
ローマ時代には食事は台の上に寝そべって中央のテーブルから取って食べていたらしいが、それがよく表現されている。
寝台は4つに区切られその一つ一つが色の違うテッセラが巡っている。金にもいろんな色があって、ほぼ大きさのそろったものを巧みに配置したようだ。
背景では、大きさも形も色もバラバラの金色のテッセラを水平に並べようとしてある。
変容部分 ラヴェンナ近郊、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂 549年頃
『光は東方より』は、この画面の文字通り中心になっているのは、地平線の上に浮かぶ巨大なメダイヨン(円盤)である。円の中には無数の金銀の星がまたたき、それを背景に十字架が現れる。十字架とメダイヨンの縁は宝石で飾られている。十字架の交差部分にはキリストの顔が描かれている。が、その顔はいかにも小さく、この大きな画面の中ではほとんど目につかないという。
テッセラは十字架の外側数列を除いては整然とは並んでいない。特に金色のテッセラは形も色もバラバラで、乱反射してキラキラ輝いているようだ。
イコノクラスム以前の初期キリスト教美術では、テッセラは整然と並んだところと適当に貼り付けられたような部分とが混在する。整然と貼り付ける技術もあったので、適当に貼り付けたのではなく、意図的にそのように貼り付けていたのかも。
それを考えると、「バラツキ」が「ゆらぎ」を生むことを知っていて、テッセラの角度も意図的に変えて貼り付けたのだろう。
イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
「NHK日曜美術館名画への旅2 古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」(1994年 講談社)
「ビザンティン美術への旅」(赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社)
ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2010/04/30
2010/04/27
イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ
ラヴェンナはたくさんの古いキリスト教会の残る町である。そしてその内部には当時の美しいモザイク壁画が残っている。
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、ホノリウス帝が402年にミラノからこの地に西ローマの首都を移して、ライヴァル都市ミラノと競うようにして、ラヴェンナは多くの聖堂を5世紀に建造した。西ローマ滅亡(476年)後は東ゴート族によってイタリアの首都とされ、540年にはビザンティンがこの地を征服し、7世紀半ばにランゴバルド族の手に落ちるまでビザンティンの勢力下にあった。皮肉なことにラヴェンナは7世紀にビザンティン帝国領からはずれたために、5・6世紀のきらびやかなモザイクが今日に伝わることになったという。
ガッラ・ブラチディア廟堂天井 424-450年
『ビザンティン美術への旅』は、ラヴェンナに都を移したホノリウス帝の妹ガッラ・ブラチディアは、帝の死後、帝位を引き継いだ。その廟堂(マウソレウム)と考えられる建築は、十字形のプランを採り、424-450年の間に建立された。紺青の空には金色の星が散りばめられ、中央にはキリストの再臨を象徴する黄金の十字架が表されるという。
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、ガッラ・ブラキディア(伊プラチーディア)の墓廟と通称されるが実際はそうではない。女帝によってサンタ・クローチェ聖堂(現存せず)付属の葬礼礼拝堂として建立されたが、女帝自身はおそらくローマに埋葬されたという。
この建物は5世紀の第2四半世紀というラヴェンナで最も早い時期に造られたためか、緑色は主要な場面の描かれた壁面にはあまり使われていない。むしろアーチの内側の花綱や幾何学的な文様に金と緑が多用されている。
アーチの内側のモザイク装飾はイスタンブールのアヤ・ソフィア(537年頃)、テサロニキのアヒロピイトス聖堂(5世紀)にも見られる。いずれもこのような周辺の面にさえ、1つ1つモティーフも替えて荘厳している。モザイクの壁面で更に感じるのは柔らかさである。それは『ゆらぎ モザイク考』で浅野和生氏のいうバラツキかも知れないが、壁面と壁面の境目が角が立たず、曲面になっていることで生まれる柔らかさではないだろうか。
四福音書家と天使 大司教館付属礼拝堂天井 494-519年
『ビザンティン美術への旅』は、テオドリクス治下の494-519年の間に献堂された。トンネル型の穹窿が交叉する接線上に天使の立像が配され、中央部のメダイヨン(円形の枠)を支えているという。
それぞれの天使の足元に緑の大地が表されている。ガッラ・ブラチディア廟堂でも地面付近は少し緑が使われていた。緑は大地を表す色だったのだ。
キリストの洗礼 アリウス派礼拝堂ドーム 500年頃
東ゴート王国時代のもので、テオドリクスがアリウス派の信仰を有していたことから、アリウス派礼拝堂と呼ばれる。500年頃の建設。「空の御座(からのみくら)」を、使徒ペテロとパウロの間に配しているという。
十二使徒は緑の大地にしっかりと立っているが、中央のキリストの洗礼とは何の関係もないかのようだ。緑の大地の幅が広くなって金と緑の組み合わせが目立ってきた。
サン・ヴィターレ聖堂 内陣天井モザイク 547年
『光は東方より』は、アプシスとその手前の内陣は、壁から天井までの全面がモザイクで飾られている。天井の頂点では、4人の天使たちが子羊のメダイヨンを掲げるという。
天井を対角に花綱が4分割して、金地に緑あるいは緑地に金でアカンサス唐草を表している。
もうほとんど全面が金と緑に覆われているといっても過言ではない。緑はもはや大地を表しているのではない。それほど金と緑の組み合わせが好まれたのだろう。
マギの礼拝 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊 6世紀
『ビザンティン美術への旅』は、テオドリクス時代の部分とユスティニアヌス時代の改変の部分が混在するという。
6世紀初頭か中葉か。緑の大地の面積が広い方が時代が下がるのだとすれば、マギの礼拝部分はユスティニアヌス時代になるが、花を見ていると聖母子と天使の方が後補のようだ。一概に緑の面積で時代を決められない。
キリストの変容 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂 後陣 549年
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、身廊側面の装飾は後代のもので、東壁面のみに古いモザイクが残っている。アプシスのコンク(四分の一球形)と、その下の窓の間に立つ四司教が創建当時のモザイクであるという。
後代のものにしてもオリジナルに倣い明るい緑色がかった壁面装飾になっている。
『光は東方より』は、聖アポリナリス、ラヴェンナの初代の司教で、正面を向いて両手を挙げた、いわゆる「オランス」のポーズをとる。この出来事を私たちに語ると同時に信徒の祈りをキリストに取り次ぎ、いわば天上とこの世との仲立ちをしているようだ。その足元に歩み寄る羊たちは信徒を表しているのだろうという。
撮り方によってこんなに色調が違うものかと思う。緑の大地がかなりの部分を占めているのは、「キリストの変容」だけではなく、聖アポリナリスの業績を讃えるためだったのだ。
このようにラヴェンナの教会内は金色と明るい緑色が美しい。この色の組み合わせは、イコノクラスム以降ほとんど見られなくなるので、初期ビザンティン美術の特徴だろう。
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」 赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「NHK日曜美術館名画への旅2古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」 1994年 講談社
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」 2009年 INAX出版
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、ホノリウス帝が402年にミラノからこの地に西ローマの首都を移して、ライヴァル都市ミラノと競うようにして、ラヴェンナは多くの聖堂を5世紀に建造した。西ローマ滅亡(476年)後は東ゴート族によってイタリアの首都とされ、540年にはビザンティンがこの地を征服し、7世紀半ばにランゴバルド族の手に落ちるまでビザンティンの勢力下にあった。皮肉なことにラヴェンナは7世紀にビザンティン帝国領からはずれたために、5・6世紀のきらびやかなモザイクが今日に伝わることになったという。
ガッラ・ブラチディア廟堂天井 424-450年
『ビザンティン美術への旅』は、ラヴェンナに都を移したホノリウス帝の妹ガッラ・ブラチディアは、帝の死後、帝位を引き継いだ。その廟堂(マウソレウム)と考えられる建築は、十字形のプランを採り、424-450年の間に建立された。紺青の空には金色の星が散りばめられ、中央にはキリストの再臨を象徴する黄金の十字架が表されるという。
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、ガッラ・ブラキディア(伊プラチーディア)の墓廟と通称されるが実際はそうではない。女帝によってサンタ・クローチェ聖堂(現存せず)付属の葬礼礼拝堂として建立されたが、女帝自身はおそらくローマに埋葬されたという。
この建物は5世紀の第2四半世紀というラヴェンナで最も早い時期に造られたためか、緑色は主要な場面の描かれた壁面にはあまり使われていない。むしろアーチの内側の花綱や幾何学的な文様に金と緑が多用されている。
アーチの内側のモザイク装飾はイスタンブールのアヤ・ソフィア(537年頃)、テサロニキのアヒロピイトス聖堂(5世紀)にも見られる。いずれもこのような周辺の面にさえ、1つ1つモティーフも替えて荘厳している。モザイクの壁面で更に感じるのは柔らかさである。それは『ゆらぎ モザイク考』で浅野和生氏のいうバラツキかも知れないが、壁面と壁面の境目が角が立たず、曲面になっていることで生まれる柔らかさではないだろうか。
四福音書家と天使 大司教館付属礼拝堂天井 494-519年
『ビザンティン美術への旅』は、テオドリクス治下の494-519年の間に献堂された。トンネル型の穹窿が交叉する接線上に天使の立像が配され、中央部のメダイヨン(円形の枠)を支えているという。
それぞれの天使の足元に緑の大地が表されている。ガッラ・ブラチディア廟堂でも地面付近は少し緑が使われていた。緑は大地を表す色だったのだ。
キリストの洗礼 アリウス派礼拝堂ドーム 500年頃
東ゴート王国時代のもので、テオドリクスがアリウス派の信仰を有していたことから、アリウス派礼拝堂と呼ばれる。500年頃の建設。「空の御座(からのみくら)」を、使徒ペテロとパウロの間に配しているという。
十二使徒は緑の大地にしっかりと立っているが、中央のキリストの洗礼とは何の関係もないかのようだ。緑の大地の幅が広くなって金と緑の組み合わせが目立ってきた。
サン・ヴィターレ聖堂 内陣天井モザイク 547年
『光は東方より』は、アプシスとその手前の内陣は、壁から天井までの全面がモザイクで飾られている。天井の頂点では、4人の天使たちが子羊のメダイヨンを掲げるという。
天井を対角に花綱が4分割して、金地に緑あるいは緑地に金でアカンサス唐草を表している。
もうほとんど全面が金と緑に覆われているといっても過言ではない。緑はもはや大地を表しているのではない。それほど金と緑の組み合わせが好まれたのだろう。
マギの礼拝 サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂身廊 6世紀
『ビザンティン美術への旅』は、テオドリクス時代の部分とユスティニアヌス時代の改変の部分が混在するという。
6世紀初頭か中葉か。緑の大地の面積が広い方が時代が下がるのだとすれば、マギの礼拝部分はユスティニアヌス時代になるが、花を見ていると聖母子と天使の方が後補のようだ。一概に緑の面積で時代を決められない。
キリストの変容 サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂 後陣 549年
『世界歴史の旅 ビザンティン』は、身廊側面の装飾は後代のもので、東壁面のみに古いモザイクが残っている。アプシスのコンク(四分の一球形)と、その下の窓の間に立つ四司教が創建当時のモザイクであるという。
後代のものにしてもオリジナルに倣い明るい緑色がかった壁面装飾になっている。
『光は東方より』は、聖アポリナリス、ラヴェンナの初代の司教で、正面を向いて両手を挙げた、いわゆる「オランス」のポーズをとる。この出来事を私たちに語ると同時に信徒の祈りをキリストに取り次ぎ、いわば天上とこの世との仲立ちをしているようだ。その足元に歩み寄る羊たちは信徒を表しているのだろうという。
撮り方によってこんなに色調が違うものかと思う。緑の大地がかなりの部分を占めているのは、「キリストの変容」だけではなく、聖アポリナリスの業績を讃えるためだったのだ。
このようにラヴェンナの教会内は金色と明るい緑色が美しい。この色の組み合わせは、イコノクラスム以降ほとんど見られなくなるので、初期ビザンティン美術の特徴だろう。
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」 赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」 1997年 小学館
「NHK日曜美術館名画への旅2古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」 1994年 講談社
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」 2009年 INAX出版
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
2010/04/23
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの
ビザンティン帝国がイコノクラスム(聖像破壊運動、726年-843年、中間期を挟む)の時代に破壊を免れたモザイク壁画がある。
アプシス・モザイク シナイ山、アギア・エカテリニ修道院 565-566年 エジプト
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、バシリカ式の修道院聖堂をはじめとする6世紀の建築が残っているばかりでなく、8-9世紀の聖像破壊運動時代を生きのびてきた、貴重な前期ビザンティン時代のイコンが含まれる。アプシスのモザイクは、「キリストの変容」の場面を表している。イエスはアーモンド形の青いマンドルラ(光背)に囲まれ、白い光線を発する。背景は金地で、わずかに地面が表現されているが、同主題のほかの多くの作品とは違って山は描かれていないという。
「変容」の上の壁面には窓があり、その両側のモザイク壁画は、この地にちなんだ「燃える柴の前のモーセ」と「十戒を受けるモーセ」である。モザイクの制作は565-566年で、おそらく首都コンスタンティノポリスから派遣されたモザイク職人によると考えられているという。
なぜイコノクラスムを生き延びられたのか。『光は東方より』は、シナイ山の聖カタリナ修道院にイコノクラスム以前のイコンが残っているのは、首都コンスタンティノープルにおけるイコノクラスムが及ばなかったからであるという。
「変容」と上の天使の羽、そして燃えている柴には緑色のテッセラが使われている。深緑のテッセラはイスラームにも見られたし、イスタンブールのアヤ・ソフィアにもあったが、この聖堂では明るい黄緑色のテッセラが使われている。
ギリシアのテサロニキでもイコノクラスム以前のモザイク壁画が残っている。
『ビザンティン美術への旅』は、テサロニキはコンスタンティノープルに次ぐ帝国第二の都市である。しかし恐らくそれ故に、テサロニキにはビザンティン美術の歴史を語るモニュメントが、初期から後期にいたるまで途切れることなく遺されているという。
第二の都市ならコンスタンティノポリスの次に聖像破壊運動の手が迫ったのではなかったのか。
内部モザイク テサロニキ、アヒロピイトス聖堂 5世紀 ギリシア
聖母に捧げられたこの聖堂は、ディミトリオス聖堂に次ぐ規模の5世紀のバシリカである。大理石の円柱をつなぐアーチの内側には、それぞれ異なった意匠のモザイク壁画が描かれ、さながら文様の展示場といった風情。
見事に咲く蓮の花を表している。蓮は極楽を象徴する、という仏教思想がシルクロードを通って、遠くギリシアのキリスト教聖堂にまで伝わったものであろうという。
アヤ・ソフィアのアーチ内側のモザイクよりも古いが、それぞれ異なった意匠を表すという点では共通している。
金地モザイクもよく残っているがバラツいているように見えるのは、テッセラが剥落したからだろうか。金に黄緑や黄色が配色されて、アヤ・ソフィアのものよりずっと明るい。
西壁モザイク テサロニキ、聖ディミトリオス聖堂 6世紀 ギリシア
聖堂西壁に描かれたモザイクパネルで、6世紀の作と考えられる。聖ディミトリオスに2人の人間が寄進をしている。
聖者の正面観と、寄進者の動的なポーズが対照的だが、この聖者はイコンに描かれた聖者であり、いわば画中画であるという。
この聖堂にこのような寄進を表したものだけでなく、聖人像など小さなモザイクのパネルがたくさんあるのは、聖職者や政治家が聖者と共に表され、あるいは子供の無事の成長を願った親が、我が子を聖者とともに描かせた。これらのパネルは、日本における絵馬と似た意味と機能を担っている。かつて聖堂の壁はこうした壁画で埋められていた。イコノクラスム(聖像破壊運動)以前の貴重な絵画という。
聖ディミトリオスの頭光と立っている台座に金のテッセラが使われている。衣服も金かも知れないが、台座の金色とは輝きが全然違う。
右の寄進者の背景は地面を表したようでもあるが、その影が緑色になっている。聖堂内部が暗いのだろうが、図全体の暗い中に黄緑色が映えている。
壁面モザイク デュレス、古代の円形劇場に設けられた礼拝堂 6-7世紀 アルバニア
デュレスはエーゲ海岸のテサロニキとエグナティア街道で結ばれた交通の要衝であった。中央の人物は、聖母マリアかと思われるがはっきりしない。両側には天使が立つ。左側の聖人は聖ステファノスである。聖人の掌が金のテッセラで描かれているのも、テサロニキの奉献モザイクに類例がある。皇帝や主教といった高位の人物ではない、個人によって作られた小規模な聖堂壁画の例として興味深いという。
聖人の掌が金色というのは解説を読むまで気がつかなかった。個人の礼拝堂なので高価な金のテッセラを背景に使うことができなかったのだろう。色の薄いところなど、ガラスではなく舗床モザイクのように石のテッセラを用いたのではないかと思うほどだ。
しかし、背景には緑色から黄緑、そして薄茶色のようなテッセラが使われ、グラデーションになるよう配置されいる。
聖堂ではなく個人のものだったので人目に付くことなくイコノクラスムを免れたのだろう。
このようにイコノクラスム期以前のモザイク壁画を見てると、美しい緑色、あるいは黄緑色が目に付く。特に金地の中に明るい緑色は映える。
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」(赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社)
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
「NHK日曜美術館名画への旅2古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」(1994年 講談社)
アプシス・モザイク シナイ山、アギア・エカテリニ修道院 565-566年 エジプト
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、バシリカ式の修道院聖堂をはじめとする6世紀の建築が残っているばかりでなく、8-9世紀の聖像破壊運動時代を生きのびてきた、貴重な前期ビザンティン時代のイコンが含まれる。アプシスのモザイクは、「キリストの変容」の場面を表している。イエスはアーモンド形の青いマンドルラ(光背)に囲まれ、白い光線を発する。背景は金地で、わずかに地面が表現されているが、同主題のほかの多くの作品とは違って山は描かれていないという。
「変容」の上の壁面には窓があり、その両側のモザイク壁画は、この地にちなんだ「燃える柴の前のモーセ」と「十戒を受けるモーセ」である。モザイクの制作は565-566年で、おそらく首都コンスタンティノポリスから派遣されたモザイク職人によると考えられているという。
なぜイコノクラスムを生き延びられたのか。『光は東方より』は、シナイ山の聖カタリナ修道院にイコノクラスム以前のイコンが残っているのは、首都コンスタンティノープルにおけるイコノクラスムが及ばなかったからであるという。
「変容」と上の天使の羽、そして燃えている柴には緑色のテッセラが使われている。深緑のテッセラはイスラームにも見られたし、イスタンブールのアヤ・ソフィアにもあったが、この聖堂では明るい黄緑色のテッセラが使われている。
ギリシアのテサロニキでもイコノクラスム以前のモザイク壁画が残っている。
『ビザンティン美術への旅』は、テサロニキはコンスタンティノープルに次ぐ帝国第二の都市である。しかし恐らくそれ故に、テサロニキにはビザンティン美術の歴史を語るモニュメントが、初期から後期にいたるまで途切れることなく遺されているという。
第二の都市ならコンスタンティノポリスの次に聖像破壊運動の手が迫ったのではなかったのか。
内部モザイク テサロニキ、アヒロピイトス聖堂 5世紀 ギリシア
聖母に捧げられたこの聖堂は、ディミトリオス聖堂に次ぐ規模の5世紀のバシリカである。大理石の円柱をつなぐアーチの内側には、それぞれ異なった意匠のモザイク壁画が描かれ、さながら文様の展示場といった風情。
見事に咲く蓮の花を表している。蓮は極楽を象徴する、という仏教思想がシルクロードを通って、遠くギリシアのキリスト教聖堂にまで伝わったものであろうという。
アヤ・ソフィアのアーチ内側のモザイクよりも古いが、それぞれ異なった意匠を表すという点では共通している。
金地モザイクもよく残っているがバラツいているように見えるのは、テッセラが剥落したからだろうか。金に黄緑や黄色が配色されて、アヤ・ソフィアのものよりずっと明るい。
西壁モザイク テサロニキ、聖ディミトリオス聖堂 6世紀 ギリシア
聖堂西壁に描かれたモザイクパネルで、6世紀の作と考えられる。聖ディミトリオスに2人の人間が寄進をしている。
聖者の正面観と、寄進者の動的なポーズが対照的だが、この聖者はイコンに描かれた聖者であり、いわば画中画であるという。
この聖堂にこのような寄進を表したものだけでなく、聖人像など小さなモザイクのパネルがたくさんあるのは、聖職者や政治家が聖者と共に表され、あるいは子供の無事の成長を願った親が、我が子を聖者とともに描かせた。これらのパネルは、日本における絵馬と似た意味と機能を担っている。かつて聖堂の壁はこうした壁画で埋められていた。イコノクラスム(聖像破壊運動)以前の貴重な絵画という。
聖ディミトリオスの頭光と立っている台座に金のテッセラが使われている。衣服も金かも知れないが、台座の金色とは輝きが全然違う。
右の寄進者の背景は地面を表したようでもあるが、その影が緑色になっている。聖堂内部が暗いのだろうが、図全体の暗い中に黄緑色が映えている。
壁面モザイク デュレス、古代の円形劇場に設けられた礼拝堂 6-7世紀 アルバニア
デュレスはエーゲ海岸のテサロニキとエグナティア街道で結ばれた交通の要衝であった。中央の人物は、聖母マリアかと思われるがはっきりしない。両側には天使が立つ。左側の聖人は聖ステファノスである。聖人の掌が金のテッセラで描かれているのも、テサロニキの奉献モザイクに類例がある。皇帝や主教といった高位の人物ではない、個人によって作られた小規模な聖堂壁画の例として興味深いという。
聖人の掌が金色というのは解説を読むまで気がつかなかった。個人の礼拝堂なので高価な金のテッセラを背景に使うことができなかったのだろう。色の薄いところなど、ガラスではなく舗床モザイクのように石のテッセラを用いたのではないかと思うほどだ。
しかし、背景には緑色から黄緑、そして薄茶色のようなテッセラが使われ、グラデーションになるよう配置されいる。
聖堂ではなく個人のものだったので人目に付くことなくイコノクラスムを免れたのだろう。
このようにイコノクラスム期以前のモザイク壁画を見てると、美しい緑色、あるいは黄緑色が目に付く。特に金地の中に明るい緑色は映える。
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので←
→イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」(赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社)
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
「NHK日曜美術館名画への旅2古代Ⅱ中世Ⅰ 光は東方より」(1994年 講談社)
2010/04/20
イコノクラスム以前のモザイク壁画 聖像ではないので
ビザンティン帝国では726年から843年まで、中間期を挟んでイコノクラスム(聖像破壊運動)があったために、それ以前のモザイク壁画はことごとく破壊されてしまった。
イスタンブールは当時のビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルだったために、いち早く壊されてしまっただろうが、聖像でなかったモザイク壁画は一部残っている。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、ユスティニアヌス帝は威信をかけてただちに再建に着手し、5年後の537年12月27日に現在のアギア・ソフィア大聖堂の献堂式が行われた。
ナルテクス天井モザイク イスタンブール、アヤソフィア大聖堂 トルコ
6世紀にはドームに十字架のモザイクが施されていたらしいが現存しない。装飾文様のモザイクの一部が、6世紀のオリジナルであるといわれているという。
アヤ・ソフィア(と呼びなれているので、引用以外はアヤ・ソフィアとする)を再訪してすでに15年になる。その時もモザイク壁画についてはほとんど知識がなかったが、偶然「6世紀のオリジナルの装飾文様」を撮っていた。6世紀当時モザイクを埋め込むのにバラツキをもたせたかどうかわからないが、、ヴォールト天井の壁面がかなりゆがんでいるために「ゆらぎ」が生じている。
蕾に羽が生えたものを十字に組み合わせ、更にその内側に対角にも同様のモティーフを描いていて、不思議な文様だ。
こちらはどのあたりにあったヴォールト天井かわからないがかなり剥落しているて古そうに見える。やはり十字から発展したような文様を2種類交互に配している。
アーチの内側のモザイク イスタンブール、アギア・ソフィア大聖堂階上廊 537年
2階ギャラリーなどのモザイクは中期以降のものであるというが、キリストや皇帝などを主題としたモザイクはともかく、植物文様のような聖像ではないものは破壊を免れたのではないだろうか。
アーチの内側が3つ見えるが、どれも異なった植物文、あるいは唐草文様のようで、力強い表現だ。こんなに人目につかない場所でも1つ1つデザインを変えている。どれだけの種類の文様があるのか、ゆっくりと1つ1つ見て回りたいものだ。
植物文様の縁には上のヴォールト天井の文様と同じモティーフが巡っている。
アヤ・ソフィアの近くにアギア・イリニ聖堂がある。トプカプ宮殿を観光する時に、そばを通ったのに中に入れず残念だった。公開されていなかったのかも。
アプシスのモザイク イスタンブール、アギア・イリニ聖堂 8世紀中頃 トルコ
『ビザンティン美術への旅』は、アギア・ソフィアに次いで巨大な聖堂。現存する聖堂はユスティニアヌス帝の奉献になるが、740年の地震で大破し、再建された。内部、アプシス(後陣)にはイコノクラスム(聖像破壊運動)時代のモザイクによる巨大な十字架装飾が残っているという。
イコノクラスムで以前にあった素晴らしいモザイク壁画が壊され、十字架だけが表されたのだと思っていたが、地震で崩壊したとは。
周囲の装飾帯もモザイクのようだが幾何学文の文様帯くらいにしか見分けられない。
イコノクラスム以前のモザイク壁画2 破壊を免れたもの←
関連項目
イコノクラスム以前のモザイク壁画7 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 モティーフいろいろ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
イコノクラスム以前のモザイク壁画4-「ゆらぎ」は意図的に
イコノクラスム以前のモザイク壁画3 ラヴェンナ
※参考文献
「ビザンティン美術への旅」(赤松章 益田朋幸 1995年 平凡社)
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」(1997年 小学館)
2010/04/16
イスラームにもガラスモザイク
ガラステッセラを意図的にバラツキをたせる施工をしたという点で思い出したのが、コルドバのメスキータである。それは、ミヒラーブのガラスモザイクは職人の力量が劣っていたため、平坦に仕上がってしまったというものだった。残念ながらどの本の文なのか見つけることができないでいる。
ミヒラーブのモザイク コルドバ、メスキータ 961年 スペイン
『世界美術大全集東洋編17イスラーム』は、ミヒラーブと2つの戸口の周りの壁面、ミヒラーブ直前の最も重要なヴォールトの表面を飾るモザイクは、それまでイベリア半島ではほとんど知られていない装飾技術であった。マグリブの歴史家イブン・イザーリー(13世紀後半-14世紀初)によれば、ハカム2世はビザンティン帝国皇帝に書簡を送り、ダマスクス(シリア)の大モスクに見られるようなモザイク装飾を造ることのできる、すぐれた職人を求めたという。
モザイク片は1片が約1㎝の立方体で、その多くはガラスであるが、一部に石灰石と大理石を含む。ガラスの間に金の薄片を挟んだ金のモザイク片は、とくに多用されている。建築家によってモザイク職人に与えられた複雑な形の表面を、うまく考慮してモザイクの背景の色彩が変化させられているという。
この図版だけではバラツキがあるのかないのかわからないが、もし平坦に仕上がっているのだとすれば、当時のビザンティン皇帝があまり腕のよくないモザイク職人を送ったか、腕の良い職人にわざと平坦に施工させたかだろう。 ミヒラーブ上部の多弁アーチ内にも植物文のガラスモザイクがある。そう言われるとアヤ・ソフィアのアヤ・ソフィア南玄関上のリュネット(10世紀末)よりもバラツキが少ないようにも見えるなあ。
同書で桝屋友子氏は、金彩ガラスを含む多色のモザイクで描写された植物は、2世紀前にウマイヤ朝カリフが同じくキリスト教徒に造らせたダマスクス大モスクのモザイク装飾を想起させる。これは、後ウマイヤ朝カリフが意図的に祖先の行為を再現し、祖先の記念碑的建築物の装飾を復元したためであるという。 そんなことも知らずに10年数年前にウマイヤモスクを見学していたのだった。
モザイク外壁 ダマスクス、ウマイヤ・モスク ウマイヤ朝(705-715年) シリア
ウマイヤ朝の首都ダマスクスの大モスクは、715年にキリスト教聖堂の一部を改築して完成した。父帝アブダル・マリクに次いで、造営事業に熱心であったワリードⅠ世(在位705-715年)は、ダマスクス大モスクの装飾にあたり、「岩のドーム」の荘厳なモザイク装飾に遜色のない豪華なモザイクを施した。
「岩のドーム」と同様に金色を基調としている。しかしモザイクで表現されたモティーフは、「岩のドーム」とはかなり違っている。大モスクの主要モティーフは、家屋と樹木である。家屋はあたかも実存する町並みを表現しているかのように写実的であり、モザイクは精緻なグラデーションで陰影が明確にされ、また遠近法も用いられている。
色調は金地に緑が基調色で、濃淡による多数の緑の色調が巧みに使い分けられているという。
ウマイヤ・モスクもまた手本とするモザイク壁画があったのだ。全体に金地がのっぺりしているように見えるのは後世の補修部分が多いためだが、、8世紀初期というとビザンティンでは残っていないイコノクラスム以前のモザイク壁画である。 中庭回廊の外壁にも一面にガラスモザイクが施されている。金地のバラツキはあるように見える。
コルドバのメスキータにはこのような写実的な表現が乏しく、植物をあまりにもデザイン化してしまっているように感じる。それはモザイク職人の力量というよりも、年代の違いかも知れない。
イスラームの方が写実的な表現よりもデザイン化された植物文様を好むようになったのか。或いはビザンティンの方がイコノクラスム以前は写実的な表現をしていたが、以後は写実性のある表現を求めなくなっていたのか。 「岩のドーム」のモザイク エルサレム 687-692年 イスラエル
アブダル・マリクは692年に、エルサレム(イスラエル)に「岩のドーム」(クッバトッサハラ)を建設した。
内部の壁面は、イスラームを象徴するに相応しい金色を主体とした豪華なモザイクで、美しく装飾された。装飾モティーフには、ビザンティン様式の宝石飾りのある花瓶や杯、王冠、コプト様式の葡萄唐草、サーサーン朝様式の翼や合成植物文様など、さまざまな美術の影響が見られる。しかし、それらの複数の異文化に属する文様は巧みに構成され、新しいイスラーム世界独自の文様に変容しているという。
コルドバのメスキータもダマスクスのウマイヤ・モスクもイスラームの工人ではなくビザンティンのモザイク職人によって造られたが、それに先行する「岩のドーム」は誰の手によって造られたのだろう。
モティーフにはコプト様式やサーサーン朝様式が組み込まれているかも知れないが、ガラスモザイクという壁面装飾はコプトやサーサーン朝にはなかったように思う。第5代カリフアブダル・マリクが使用されるモティーフについて注文をつけたのかも知れないが、施工はビザンティンのモザイク職人だったのではないだろうか。 さて、「岩のドーム」の金地のバラツキだが、あまり拡大した図版がないので、金ぴかの補修部分と比べると、バラツキはあるのかなという程度にしかわからない。
バラツキはともかく、エルサレムの「岩のドーム」、ダマスクスのウマイヤ・モスク、コルドバのメスキータのモザイク壁画に共通するのは植物文様だけではなく、金色と緑色という組み合わせだろう。
※参考文献
「芸術新潮 全1冊スペインの歓び」 2004年 新潮社
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」 1999年 小学館
2010/04/13
ゆらぎとバラツキのあるモザイク
ウルクのエアンナ神域に残っていたモザイク柱を見てINAXミュージアム学芸員の後藤泰男氏は、形状と大きさ、そしてモザイクとしての仕上がりにバラツキを感じ、それを世界のタイル博物館に再現したという。それについてはこちら
そのバラツキという言葉や、クレイペグ装飾壁の一見つるんとしているように見えながら、細部を見ると凹凸のある壁面になっていることから頭に浮かんだのは、ビザンティンの聖堂の壁面を飾ったガラスモザイクだった。金箔ガラスが多用され、きらきらと輝くのを見ていると、当時の信者は教会の中に天国を体感したのではないかと思うほどだ。
聖母子とコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝 モザイク壁画 10世紀末 イスタンブール、アヤ・ソフィア南玄関上のリュネット
『天使が描いた』は、ビザンティン帝国では726年以来100年以上にわたって、聖像画是か非かの論争が政治レヴェルで闘われていた。いわゆるイコノクラスム(「イコン」すなわち「聖像画」の破壊運動)の時代である。その論争は787年から815年の間の聖像肯定の中間期を挟んで、再度の聖像画破壊の後、最終的に843年に聖像肯定で決着するという。
このような歴史のため、558年にユスティニアヌス帝によって再建されたアヤ・ソフィアにはイコノクラスム以前のモザイク壁画は残っていない。
首都コンスタンティノープルの技術の水準は確かに低下したのである。10世紀末のモザイクは9世紀のモザイクとのデッサン力の差はあきらかであり、しかも洗練された人物の表情はさまざまな感情移入を可能にするという。
モザイク壁画の制作が再開されて150年ほど経過すると技術も確立されたのだろう。金色のガラステッセラがはがれた箇所もあるだろうが、のっぺりと均一な金色の背景ではない。きらきらと輝くところと輝いていないところの「バラツキ」が感じられる。 もう何時どこで聞いた話か、それとも読んだ本か思い出せないが、テッセラを壁に埋め込むときにわざと凸凹にして乱反射の効果を狙ったということだった。しかし、「貼り付けていくと凸凹に仕上がるものなんです」という声も聞き、いったいどちらなのだろうと疑問だった。
不器用な私は後者ではないかと想像していたが、後藤氏の文から熟練した工人がつくると形状も壁面もそろってしまい、バラツキを意図的に施工しなければならなかったことを知り、やっとガラステッセラも乱反射を狙って貼り付けられたのだと確信できた。
『ゆらぎ モザイク考』には<輝きの変遷-素材から見た「モザイク史」>という浅野和生氏の章がある。壁面やアプスのモザイクのテッセラには、ガラスも使われた。特に注目すべきは、金のテッセラの使用である。これは、ガラスが熱くて柔らかいうちに金箔を張り付けて作られた。金のテッセラは、ガラスが外側に向くようにして、しっくいに埋め込む。金は美しいだけでなく、キリスト教の教えが内包している現世からの超越や神秘性を表現し、聖堂の内部をこの世とも思えぬ空間に演出したという。
のっぺりとした金色の背景ではなく、少し目を移動させただけで、バラツキによってキラキラと光って見えると、さらに神々しさが増しただろう。
モザイクのテッセラ 東地中海岸域 9-12世紀頃? 1辺0.9㎝厚さ0.6㎝ 薄緑色の透明ガラス、金 岡山市立オリエント美術館蔵
『ガラス工芸-歴史から未来へ展図録』は、ビザンティン時代に壁画や天井の装飾に用いられた金地モザイクのテッセラ(モザイクの素材の石片やガラス片)のひとつ。これを作るには、吹きガラスで膨らんだガラスを割いて開くと板ガラスができるが、これへ薄くのばした金とガラス膜を熔着させて、冷却後にガラス切りで1㎝角ほどの大きさに切断する。裏面に壁面へ取り付けたモルタルが付着しているという。
ガラス切りで切断すると多少のゆがみや大きさの違いは出るだろう。 金のモザイクは光を反射する。モザイクは表面に凹凸があるため、画面にちらちらとした細かな動きが生まれる。モザイク職人はこれを意図していたらしく、テッセラはわざと微妙に角度を変えてしっくいに埋め込まれているという。
浅野氏もわざと角度を変えたと見ている。こんなに小さくしかも薄いガラステッセラをで壁画を作り上げるのも大変だが、わざと平坦に埋め込まないというのは、熟練工にとってもっと大変だったのた。
※参考文献
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」(2009年 INAX出版)
「ガラス工芸-歴史から未来へ-展図録」(2001年 岡山市立オリエント美術館)
「NHK名画美術館名画への旅3中世Ⅱ 天使が描いた」(1993年 講談社)
2010/04/09
世界のタイル博物館4 バラツキを再現するのは難しい
『ゆらぎ モザイク考』の<「バラツキ」と「ゆらぎ」のあるモザイク>で後藤泰男氏は、紀元前3500年ころ、文字を発明したことで知られるシュメール人は、メソポタミアの古代都市ウルクに円錐形のやきもので表面を装飾した円柱と壁を構築しました。この表面から見ると円形のやきものによる幾何学的なパターンは、人類が最初にデザインしたモザイク文様として知られていますという。
ウルクのクレイペグ装飾壁(復元図 出典 A.Noldekeほか:ウルク発掘調査概報第4集図版8)ではかなり高い壁面となっている。 この壁の実物は、ドイツの考古学隊によって発見され、現在はベルリンの「ペルガモン博物館」に展示されています。
円形の幾何学パターンとして描かれたジグザグ模様やひし形模様は、波や大地を表しているという研究結果もあるという。
三角はさざ波、横のジグザグは大きな波、そうすると菱形は大地だろうか。舗床モザイクなどに興味を持っていた頃はこれがモザイクと言われてもピンとこなかったが、今では確かにモザイクに見える。 これを見て、ジョーンズが「秩序と混沌」と表現したこのバラツキの再現こそが、復元に最も重要なポイントであると私たちは考えました。基本形状を底面の直径20㎜で高さが108㎜の円錐形としながらも、形状と大きさにバラツキを持たせながら復元していきます。
しかし、しばらくして職人たちが一定のリズムを持ち出すと、乾燥台の上にはまったく同じ形のペグが並びはじめました。
施工の職人たちにも、復元ポイントはバラツキであることを伝え、「5000年前の人たちになったつもりで施工してほしい」とお願いしました。意図することは理解していただけるのですが、いつも綺麗な仕上げを求められてきた彼らにとって、バラツキが必要なことはわかっていても体が動いてくれないようでした。
「ペルガモン博物館」に展示されている本物の壁に比べると、ジョーンズが評した秩序と混沌の両極端が存在するといった荒々しさはないかもしれません。しかし、適度にバラツキを持ったクレイペグに落ち着きを感じているのは私一人ではないと確信しています。この適度にバラツキを持った表情を「ゆらぎ」と表す人もいますという。
実際に見ていて浮き出たところやへこんだところが確かにあった。しかし、それが意図的に施工しないとできないものとは思わなかった。熟練した工人の技術はすごい。
そう言われると両側が幾何学的な文様に埋め尽くされた空間にいても圧迫感はなかった。それは直線や鋭角なものが丸い形からできているからだと思っていた。 当時も入手可能であった酸化鉄とマンガンで赤や黒に着色し千度の温度で焼き上げましたという。
白と赤と黒(青に見えた)の3色がバラツキによって生じた陰影で、もっと多彩に見えたのかも。
※参考文献
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」(2009年 INAX出版)
2010/04/06
世界のタイル博物館3 クレイペグでモザイク
色のついたクレイペグで文様を作るのは、斜めの方が容易だったのかも知れない。
INAXライヴミュージアムでは古いものを再現したところの後に収蔵品の展示があった。
粘土釘 メソポタミア出土 前4-3千年紀 INAXライヴミュージアム蔵
風化による変色なのか、元々多色に作ったのかわからないが、クレイペグにはいろんな色がある。
その中に頭部だけ色のついたもの(下段中央寄り)があった。これはクレイペグによるモザイクの壁のレプリカ展示の端にあったものと同じだ。 写真を取り損ねたので、ここからは「ゆらぎ モザイク考」の図版から、クレイペグを作ってモザイク壁を積み上げるまでの過程をたどります。
①粘土で円錐形に成形する ②大きさをそろえてたくさん作り、乾燥させる ③クレイペグに色をつける ④窯で焼成する
③は色をつけたというよりも釉薬にクレイペグの頭部をつけていたのでした ⑤クレイペグをデザイン通り積んでいく
鉛筆か何かで文様の下絵をつけている。
メソポタミアでもこのように下絵を描いていたのだろうか。きっと楔形文字を書く葦の筆で土壁に彫り込んだのだろう。 それとも見本帳のようなものがあって、このように見ながら色の違うクレイペグを積み上げていったのだろうか。
※参考文献
「ゆらぎ モザイク考-粒子の日本美」(2009年 INAX出版)
2010/04/02
土器に格子文を探すと
格子文や石畳文が土器にあったかどうか気になってきた。
編み細工と建物の装飾のある二連石製容器 イラン、スーサ出土 前2500年頃 緑泥石 高さ6.2㎝長さ18.5㎝ ルーヴル美術館蔵
『メソポタミア文明展図録』は、外面全体の薄い浮彫の装飾はきわめて数が多い。最も一般的なのは様式化したモチーフで、それらは渦巻きや鱗、煉瓦、そしてここで見られるような筵のような編み細工、および戸と窓に木を組んだような菱格子の装飾のある木造(に違いない)家などである。
いくつか工房が存在したが、最も著名なのはテペ・ヤヒャの工房で、アッカド語で「マルフシュ」と呼ばれた緑泥石の大鉱床のあるイラン南東にあった。この石製容器がその工房の作品であることはほぼ確実であり、スーサでの出土は、この異国産品の広い普及を物語っているという。
土器ではなく石製。籠などを網代に編むとできる文様は格子状だが編み上がりは斜めだ。日常見られるものを写すと、自然に斜めの文様になるのだろうか。 台付坏 イラン、カズヴィン出土 後期銅石器時代(前4千年紀後半) 径10.8㎝高18.4㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
ホームページの解説は、表面はクリーム色の化粧土上に黒い水平の彩文が施されている。口縁部分も彩文されている。胴部中央部にはパネル文があるという。
縦横に並ぶ格子文があった。縦横交互に四角の中を塗りつぶすと、市松文様または石畳文と呼ばれる文様になる。パネル文という名称があるのか。 山羊流水彩文坏 イラン、伝テペ・シアルク出土 後期銅石器時代(前4千年紀後半) 口径13.8㎝高11.7㎝ 岡山市立オリエント美術館蔵
表面は白い化粧土上に黒い彩文が施され、上部には雄山羊、下部には格子状の文様がみえる。山羊は角を大きく前に伸している。尾は先端が波状文になっている。ロクロ製という。
ほぼ格子文だが、塗りつぶした四角を斜めに並べている。斜めというのは安定感があるのだろうか。 「櫛の形の動物」とギリシャ十字の装飾のある小鉢 スーサ、アクロポリス出土 スーサ1期、前4000年頃 彩文土器 高さ6.3㎝直径13.2㎝ ルーヴル美術館蔵
「メソポタミア文明展図録」は、鉢の中央にギリシャ十字が見える。太い線が2つの左右対称の半円空間を区切り、格子縞の菱形と波形モチーフを載せた「櫛の形の動物」は種類は特定できないが、おそらくふさふさした毛をもつ動物の極度に様式化した表現であろうという。
菱形の石畳文があった。 矢羽十字、格子縞、矢筒の装飾のある鉢 スーサ、アクロポリス出土 スーサ1期、前4000年頃 彩文土器 高さ9.8㎝直径22㎝ ルーヴル美術館蔵
この鉢は焼成で変形している。中央に矢羽十字が見える。前の例と同様、太線が半円空間を区切る。そこには格子縞があり、三角モチーフと組み合わされているという。
細かい石畳文がすでにこの時代にあった。 高坏 イラン、イスマイラバード出土 前4500年頃 岡山市立オリエント美術館蔵
菱形を間隔をあけて並べている。目の粗い籠を反転させて穴だけ描いたような感じがする。 石畳文は古くから見られるが、菱格子文の方が古くから、また多く見られた。
ウルクのクレイペグ装飾壁(前3500年頃)と同年代の土器を見つけることができなかった。当時のスーサはメソポタミアの一地域といってもよい地域であるが、他の地域はウルクとはかなり離れているので、これだけで決めてしまうことはできない。
しかし、ウルクの人々は石畳文よりも斜めの線で表した文様を好んだというよりも、クレイペグの円形の頭を斜めに並べるとできる文様をいろいろと作り出したように思う。
※参考文献
「世界四大文明メソポタミア文明展図録」(2000年 NHK)
「岡山市立オリエント美術館館蔵品図録」(1991年 岡山市立オリエント美術館)
※参考サイト
岡山市立オリエント美術館の収蔵品検索-土器
同館の館蔵品図録には解説がないため、ホームページの解説を参考にしました。
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