石仏龕は公開されていないのかとも思ったが、お堂の中で掃除機の音が聞こえてきたので、掃除中のおばさんに声を掛けると、左端からあがるように言われた。これが本堂だったのだ。

その前に座ると、先ほどのおばさんが説明を始めた。
何故十輪寺ではなく十輪院かというと、元興寺の塔頭だからです。
真ん中の地蔵菩薩が鎌倉初期に造られました。その後にお釈迦さんと弥勒さんが造られました。
最初は野ざらしでしたが、人々の信仰を集め、やがて上に屋根がかけられました。南側に礼堂として建てられたものが今の本堂です。
お釈迦さんと弥勒さんの外側にはわかりにくいですが四天王の2体が線刻されています。残りは龕の向こう側にあります。四天王の両端には仁王さんが線刻されています
というような話だったが、線刻は、そう言われればそのようなものかなあくらいにしかわからなかった。
おっちゃんは慶州の石窟庵みたいやなあと言っていたが、説明を聞いてますます石窟庵に似たものが日本にもあるなどと確信するに至った。時代は石窟庵のほうが遙かに古く、もちろん関連はありません。

お地蔵さんの顔がええなあ。お釈迦さんは間延びがした顔で、弥勒菩薩はお釈迦さんと眉が似ているくらいで、肉付きのよい顔だ。三道も似ていない。しかし、右手や衣服の表現はよく似ているので、同時期に造られたのだろう。
弥勒さんは三道の下に瓔珞が見えるし宝冠も被っているので弥勒菩薩かと思ったが、お釈迦さんと同様偏袒右肩の衣服をまとっている。56億7千万年後に衆生を救済するために下生した姿の弥勒如来なのか、よくわからない。このあたりが、正式なお寺の本尊として造立されたのではなく、お地蔵さんの民衆の信仰から徐々にできあがった仏龕というのが頷けるなあ。



当時の衆生は外側をまわっていたらしい。説明以上にいたみがひどく、バラバラに近い。

南都には東大寺・興福寺・元興寺など立派なお寺だらけなのに、そのようなお寺では一般民衆は救われなかったんやなあ。
関連項目
十輪院4 魚養塚
十輪院3 十三重塔は鎌倉時代
十輪院の庭にあるのは石仏
※参考文献
「南都十輪院」(十輪院発行)