ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/02/15
武人が鎮墓獣に?
前にも書いたかも知れないが、2006年にMIHO MUSEUMで開催された「中国 美の十字路展」はそれまで見たことのないような俑がたくさん展観されていた。その中でも特異なのが次の武士俑の顔だった。
1 武士俑 加彩陶 北魏(386-534年) 蒙古自治区フフホト市北魏墓出土 内蒙古自治区博物館蔵
同展図録は、目鼻を大きく作り、口に牙をのぞかせて見る者を威圧しつつも、どこか愛嬌がただよう。 ・略・ 同墓からは、同形の俑がもう1体出土している。この俑は単なる武士俑としてではなく、墓あるいは墓主を守護する鎮墓俑として作られた。甲冑をまとう鎮墓俑は西晋以降に多く見られる。 当初は一つの墓につき1体のみの副葬であったが、北魏以降は1対での副葬が慣例化する。本例はその先駆けともいえる。出土状況は判然としない。おそらくは墓室の入口付近に置かれていたのであろうという。
同展には稚拙な造形の俑も見受けられたが、このように表情を誇張したものはない。魔除けのためにこんな顔にしたのだろうか。 残念なことに西晋時代の武人俑の図版がないのだが、『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』には陶俑を機能面から分類していて、武士俑と鎮墓俑がどう違うのかを知ることができる。
1)墓を悪鬼から守る役目のもの(鎮墓武人俑、鎮墓獣俑)
2)墓主の出行儀仗に関するもの(騎馬俑、武人俑 ・略・) 以下略
先程の俑に似たものを『図説中国文明史5魏晋南北朝』でも見つけた。
2 陵墓を守る北方異民族の俑 北魏 山西省大同平城鮮卑貴族墓出土 大同博物館蔵
副葬された陶俑のなかで最大(高さ80cm)のものである。顔立ちは兵士の勇猛さを誇張したものとなっている。鮮卑軍のなかには多くの北方異民族がいた。墓を守護する俑を北方異民族のものにするのは、北朝時代から始まったものである。隋唐時代には、北方異民族の顔に獣のイメージを加えるようになったという。
鮮卑そのものが北方異民族なのだが、中原が鮮卑族に支配されていたこの時代の北方異民族とは、柔然か?
なんと、柔然の武士は、隋唐になると次のような鎮墓獣になってしまうのか。
3 鎮墓獣 塑造彩色・木 唐時代(8世紀) トルファン市アスターナ216号墳出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
『シルクロード 絹と黄金の道展図録』は、鎮墓獣は、中国において、古来、悪霊などから墓を守るために設置された獣形の神像のこと。
頭が獅子、体が豹、蹄が牛、尾が狐のそれのような形に表され、頭頂と背中に1本ずつ、左右の肩上に2本ずつの羽状の突起が挿入されているという。
もともと獣形の鎮墓獣があったような書き方だ。
では、柔然人の顔をした武人俑はこちらの鎮墓獣になってしまったのだろうか。
4 鎮墓獣 塑造彩色・木 唐時代(8世紀) トルファン市アスターナ224号墳出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
人頭になり、体躯は豹のようで、長い尾を備える。上図が開口して威嚇するかのような表情を示すのに比べ、こちらは静的で威厳をたたえた顔立ちを見せ、人頭獣身という奇怪な姿ながら、強い実在感を与えるという。
1・2の武人俑の顔が唐になるとこのように整ってしまうのだろうか?
出土地のアスターナは麹氏高昌国時代から漢民族の墓地だった。同じトルファンに、唐時代に交河郡(県)の官署を置いたのが、かつて車師前国があった交河故城。車師人はイラン系だったと言われている。柔然人よりは深目高鼻の車師人に似ているように思う。
口の開閉について記述があるが、阿吽のことを言っているのだろうか。4・5の鎮墓獣はそれぞれ別の墓より出土したもので、大阪歴史博物館でみた時には、別々のもの、あるいは1対で出土したものの1点ずつと思っていた。
ところが、トルファンの博物館にも3と4に似たものが1点展示してあり、ガイドの丁さんが、「墓室の前に、獣面のものと人面のものが1つずつ置いてあります」と説明してくれた。この時阿吽についての説明があったかどうかは覚えていないが、そんな並べ方をするとは思わなかった。
次にこれらの像を繋ぐものはないか探してみた。
5 鎮墓武人俑 灰陶加彩 北魏、正光元年(520) 陝西省西安市任家口M229号墓出土 陝西省歴史博物館蔵
1・2の詳しい製作年代がわからないので、どちらが先に作られたのかわからないが、この俑の方が表現が控えめだ。ここで気がついた。1・2もこの像も、歯が見えていても、口は閉じている。吽形という点では4の方に通じる。
6 鎮墓武士俑 加彩陶 北周、天和4(569)年 寧夏回族自治区固原県李賢墓出土 固原博物館蔵
北周政権下の俑は総じて小型であり、ほかより大きく作られる鎮墓俑でさえ20cmに満たない。目をむき出しにして開口する様は、いかなる鎮墓俑にも共通の表現である。しかし、腹を出して体をくねらせた造形は西魏・北周鎮墓俑の特徴であり、直立姿勢が常の北斉鎮墓俑と好対照をなしている。着ている甲冑は、筆描きによって小札が入念に描き込まれる。正面部は型作りし、背面は板状の粘土をあてがう。そのため、堂々と迫力のある正面にくらべ、側面からは頼りなさが漂うほどであるという。
こちらの像は阿形だった。口の開閉では決められないようだ。
※参考・引用文献
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「図説中国文明5 魏晋南北朝」 羅宗真 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館