お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/01/31

世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続)



今回も『熊山散策のしおり』と、案内板の説明を参考に作成しました。
熊山とは、もとは吉備の国の中心から離れた、かくれたところ吉備地方の東南の隅(くま)の霊山というところから、「くまやま」と呼ばれていた。中世の文献に、「熊山」と表記されているという。

そして、熊山遺跡は「熊山石積遺構」という奈良時代の国指定史跡だった。石積遺構を東側より反時計回りに45度ずつ回って撮ってみました。

東側 手前の開けた場所には帝釈山霊山寺というお寺があったらしい。 
帝釈天霊山寺は、建武3(1336)年、児島高徳の挙兵と戦乱によって荒廃したが、14世紀末から15世紀には再建された。その後荒廃したが、江戸初期元和8(1622)年ころ再興され、本堂と権現社を再建した。らしいが、現在建物は残っていない。左手前の石の並んだところに鐘楼跡がある。北東側より 大きさが分かるように人の写っているものにしました。北側より お昼前後だったので、逆光でまぶしい。北西側より 回っていくと、基壇の下に岩盤が見えてきた。  西側より ここまでくると、上の石積遺構の材料が平地から担いで登ったものではなく、この岩盤を砕いたものだということがわかる。南西側より 岩盤は苔むしている。南側より 龕(がん)には何も残っていない。仏塔なら仏像があったはず。南東側より  このようにすべての角は崩れることなく、整然とした形で残っている。このような熊山石積遺構は、石の材質は流紋岩、かつて磐座(いわくら)であった巨大な岩盤を取り入れたほぼ方形の基壇の上にこの巨岩を砕いた石を、幾何学的構図によって、3段に築成している。
第1段は南面が狭く北面が広い台形。第2段は南面が広く、北面が狭い台形になっている。第2段の四側面の中央に龕(がん)が設けてある。第3段は方形であるが、中央部分に大石で竪穴の蓋がしてある。
石積の中央には竪穴の石室(2m)が作られていて、その石室に陶製の筒型(5部分に分かれる)の容器(高さ1.6m)が収められていた。その容器の中から、三彩釉の小壺、皮のようなものに文字が書かれた巻物の類が出土したと言われている。陶製筒型容器は現在、天理市の天理大学にある。
3段の石積の目的について従来、戒壇説、墳墓説、経塚説などあったが、近年の研究によって、出土遺物、龕の存在などから、仏塔としての性格を備えた石積み(奈良時代前期)であることが判明した。
山頂の遺跡のほか、熊山山塊標高350m以上に規模の大小の異なりはあるが、類似の遺構が32基確認されている。国指定の石積遺構に類似しているが、築成の目的、年代、築成者などは異なるものと思われる
という。

平面図と断面図が案内板にあり、龕の奥行きがかなりあることがわかる。管理棟の南側に展望台があるらしいので行ってみた。吉井川の下流。晴れていたら児島湾が見えたかも。鉄塔の下には岩がごろごろしている。これが説明にあった32ある遺構の1つ?いや、それらは「石積遺構に類似している」らしいので、もともとあった岩かも知れないが、何かの信仰の対象だったのではないのか。
そういえば、熊山神社にあった「児島高徳の腰掛け岩」も切石を積んだものよりも古いのでは。そうだ、石積遺構の下の岩盤も、昔は大岩として信仰の対象だったのかも知れない。このようなきっちりとしていない岩の方がより古い信仰を集める岩で、熊山がそのような人々の拠り所とするものがたくさんある山だったのかも。「霊山」というのは、このような仏教以前の信仰の山ということだろう。
やがて仏教が広まると、古い信仰が忘れられ、祀られることがなくなったり、その上に仏塔が造られたりしたのではないだろうか。32もある石積遺構に類似したものは、仏教時代の塔だったり、墓だったりするのかも知れない。
このような景色をみていると、今でこそ海抜508mの山の熊山だが、いにしえの昔は島で、人々は四方からこの信仰の島へ祭祀のために舟でやって来たのかも知れないなあと空想してしまう。すっきりと晴れていれば小豆島が見えるのに。
『世界ふしぎ発見』では、この熊山石積遺構や奈良の頭塔について、ボロブドゥールからこのような階段ピラミッドが伝わったのかも知れないというようなことを言っていた。誰かがインドから南回りで帰国したので、途中でボロブドゥールに寄って見た可能性があるというような内容だったと思う。
そこでボロブドゥールについて調べてみた。Wikipediaによると、インドネシアジャワ島東部にある大規模な仏教遺跡で安山岩や凝灰岩を用いて建造されている大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ朝で、ダルマトゥンガ王の治世の780年頃から建造が開始され、792年頃一応の完成をみたが、サマラトゥンガ王(位812年から832年)のときに増築している。ということだ。
この熊山石積遺構は奈良時代前期なので、710から784年までの前半、頭塔は「史跡頭塔のご案内」によると、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧実忠が土塔(どとうがなまってずとうとなった)を築いたと古文書にあるらしいので、ボロブドゥールよりも古いことは明らか。似ているからといって、全てが伝播したものとは限らない。

ところで、石積遺構の竪穴の石室にあった、陶製の筒型容器に収められていた三彩釉の小壺と皮の巻物は、昭和初期に盗まれてしまったと、Wikipediaの「熊山遺跡」に書いてあった。熊山頂上に石塔が造られた時からすると、昭和初期などほんの少し前のことではないか。残念!
しかし、陶製の筒型容器の方は天理参考館に収められているので、どんなものかわかるかも。筒型の容器は埴輪の転用だったのだろうか。近くには両宮山古墳を初め、古墳がたくさんあることだし。それにしても、大きな筒型の容器をよく山の上に運んだものだ。
それに、時代は鎌倉まで下がるにしても、山の上で大きな壺や甕を焼いたのは頂上の霊山寺やあちこちに32あるという石積遺構の需要のためだったのだろうか。

また、同しおりにはあの鑑真和上と「くまやま」についても記してある。鑑真和上と「くまやま」との関わりは「しきび」の香によるものである。伝説的であるが、和上が香登(香の産地)で「しきびで製造したお香」のかおりに心ひかれ、この地に「しきび」があるのかと尋ねられた。くまやまにあると答えると、お弟子を山に登らせ、「しきび」を持って都に登られた。都での仏事法会に「しきび」を用いられた。このことから、鑑真和上とくまやまの縁が生まれ、唐招提寺の和上御影堂の傍らにくまやまのしきびが植えられている。
石積の説の1つに戒壇がある。「熊山町のはなし」では「鑑真が授戒を行うために築いたといわれ、別名「熊山戒壇」とも呼ばれています」とある。また「天平勝宝6年(754)、遣唐副使吉備真備の帰国する舟に便乗し、孝謙女帝の御世に、来朝を果たしました」ということなので、戒壇説よりは「しきび」の方が可能性があるかも知れない。しかし、歩いていてしきびの香りは気付かなかったなあ。鑑真さんは鑑真さんと戒壇院にも書いたが、東大寺に戒壇を築き、太宰府観世音寺と下野薬師寺にも戒壇を築いたらしいのだが。


関連項目
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた
頭塔を見に行ったら
再び頭塔を見に行ったら

2007/01/29

世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた



2007年1月20日の「世界ふしぎ発見」は「第994回謎の大伽藍・ボロブドゥール ピラミッド寺院は海を越えた」だった。私は仏教美術は好きだが、東南アジア系のものは好みではない。従って家事をしながらところどころ見たという程度なので、ええ加減な記憶しかない。間違っているかも知れないが、「階段ピラミッドの形が奈良の頭塔や岡山の熊山遺跡に似ている」という風に両遺跡を紹介していた。

それを見て、山の上にあるという熊山遺跡に行ってみようということになった。道路地図で熊山遺跡はすぐに見つかった。岡山県赤磐市にある。山陽自動車道和気インターをおり、国道374号線に左折で入り、和気の町を通って金剛大橋の手前で吉井川とJR山陽本線の間の道をしばらく走り、右折で北側から熊山の頂上までの道に入ったら良さそうだ。
そう見当をつけて和気の町まで行ったのだが、吉井川を渡るまでに左折で川沿いの道に入る予定なのに、行ってみるとそんな道はなく、気がついたら金剛大橋を渡っていた。直進してはいけないと思っていると、前を走る車のほとんどが左のループに入っていくので、我々も後を付いていった。吉井川の対岸の道に出てしまい、「反対方向やがな」と焦ったが、先に橋を見つけ、何とか我々の目指す道へ入ることができた。やれやれ。
ところが、段々とその道は狭くなり、どう見ても車1台通るのがやっと、と言うよりこするんではないかと思うくらい狭く、通るのは地元の人だけではないかと思うような道だった。しかしここは一方通行ではない。向こうで対向車が待ってくれている。気がつくと我々の後ろには数台の行列ができていた。あせる、あせる! こんな道をどこまで走るのかと不安だったが、ほどなく左折(実際にはヘアピンカーブの)するところが見つかり、とりあえずその道を行くことにした。カーブを曲がりながら地味な案内板を見つけた。
すぐにJRをくぐり、ひなびた集落をあっちに曲がりこっちに曲がりしながら前方の熊山だろうと思われる山に近づいていった。写真を撮り損ねたが、この集落には礫を混ぜた土壁を巡らす家屋があり、その壁は角がなく、曲線になっているのが興味をひいた。 熊山は標高508mの山である。海抜ゼロmに近いところから登っていくので、山に入ると途端に道は狭く、カーブが連続する、夫の得意とする山岳道路に。それでも前半はガードレールがあったが、後半はガードレールもなく、両端と中央部が苔むす道だった。ある程度登るとあまり高度差がなくなってきた。そして右側に池があった。こんな高いところに池が?などと話しをしたが、『熊山散策のしおり』は、山頂に近い板場池は、平成6年(1994年)の渇水で池底が現れ、祭壇様の大きな石積みや、石鏃先、壺、真っ二つに割られた茶碗の破片などが出土した。江戸時代に雨乞いをする祭場であったと推定される。
板場池の北岸で、備前焼大壺・甕の破片が採集された。鎌倉時代から南北朝期と見られ、窯が築かれていたと思われる。ここ以外に同じ標高300m以上に位置する窯は熊山南斜面に集中して10基以上確認されている
という。

雨乞いは以外と歴史が浅い。しかし、備前焼がこんな高いところで焼かれていたというのは驚きだ。麓に運ぶだけでも大変だっただろう。

話がそれてしまったが、川沿いの道から左折で熊山に向かってから、駐車場に着くまでは15分ほどだ。放送から1週間おいて行ったので、駐車場には数台停めてある程度だった。
車が入り込めないように渡してある鎖を跨いで、いざ熊山遺跡へ。 すぐに道は2手に分かれる。左手は熊山遺跡への道。右は二つ井戸へ。せっかくなのであちこち寄り道しながら行こう。二つ井戸は、井戸というよりわき水のような水たまりが2つ並んでいて、立派な屋根がついている。あまりにもまわりが狭く、レンズに収めきれない。
分岐に戻っていくと、右に別の道があった。そちらに向かうとすぐに立派な石の鳥居が見えてきた。明治の神仏分離でできた熊山神社だそうで、境内には児島高徳の腰掛け岩なるものがあるらしいので入ってみた。 
後醍醐天皇を奉ずる南朝方の武士児島高徳は、建武3(1336)年4月、新田義貞・脇屋義助と謀って熊山に兵を挙げ、尊氏方の赤松軍と戦った(太平記)。軍議の際、高徳が腰を下ろした「腰掛け岩」「旗立て岩」といわれる伝説の岩の内腰掛け岩がこれらしい。伊部に近いせいか備前焼の狛犬があった。鳥居を出て、階段をおりていくと、駐車場からの道へ出た。このあたりはヤブツバキが多い。「熊山天然杉2本」は右側に並んでいるが、あまりにも巨大すぎて、近くすぎて写真に撮りきれない。その向こうにかなり大きなヤブツバキがあった。地面にはたくさん花が落ちているが、咲いている花を探すのは難しかった。ヤブツバキは花が小さく、開ききらないところが良い。花びらの縁が黒ずんでいるのが残念。森の中を歩いていると、左手奥に何やら見えた。猿田彦神社らしい。帰りに寄ることにした。15分ほどで管理棟が見えてきた。熊山遺跡は右手の道を行くのだろう。と思ったら、右の方を向くと、熊山遺跡がすぐそこにあった。あっけないほどだった。


世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続)つづく

関連項目
頭塔を見に行ったら
再び頭塔を見に行ったら

2007/01/26

パルティアン・ショットは北方遊牧騎馬民族のもの?


騎馬像をいろいろ見ていると、鐙のあるなしだけでなく、乗り方にも気になってくる。それは後漢(後100年頃)の画像石にも表されているパルティアンショットだ。

34 狩猟文夾纈絹 唐(8世紀) トルファン、アスターナ出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
獲物に向かって矢を射るというよりも、襲いかかる獅子から逃れるために振り返って矢を放とうとしているように見える。
35 四騎獅子狩文錦 7世紀後半 法隆寺蔵
『正倉院裂と飛鳥天平の染織』は、馬上の人物は半月をいただく宝冠を着け、頬髭豊かな雄偉な顔立ちをしており、乗馬もまた有翼で瑞祥性を帯びている。ササン朝ペルシャの銀器浮彫などにみえる帝王狩猟図の伝統を忠実に伝えている。主文中の馬腹に「山」「吉」の織文字があるところから中国製と考えられている。という。 36 狩せき(けものへんに昔)図 敦煌莫高窟249窟 西魏(535-557年)
『中国石窟 敦煌莫高窟1』は略字の中国語で書いてあるので解説はほとんどわからないのだが、「反身張弓、箭射猛虎」が左下隅のパルティアンショットで虎を狙っている図のことだとわかる。文字を見ていると、反弾琵琶のように、実際にはできないことのように思ってしまう。
37 狩猟図 魏晋時代(220-386年) 甘粛省嘉峪関出土
嘉峪関は河西回廊にあり、騎馬民族が古来より住んできたところなので、 パルティアンショットのような離れ業も難なくこなせたのかも知れない。
38 シャープール2世狩猟文杯 銀鍍金 ササン朝ペルシア(4世紀) ロシア、ウャトゥカ地方で偶然による発見 エルミタージュ美術館蔵
ササン朝ペルシアには王が騎乗よりライオンや虎などに矢を放ったり、直接刀で斬りつけるという図が数多くある。それらに共通するのは標的の動物と同じ種類の動物が馬の下で横たわっている。
39 騎馬狩猟図 2-3世紀 パキスタン、ガンダーラ出土
パルティアンショットだと思っていたが、よく見ると騎乗の人物は皆後ろ向きに乗り、ライオンやグリフィンと戦っている。そんなことできるのだろうか?
40 雑技図 画像磚 後漢(1-3世紀) 河南省出土 同省新野県漢画磚博物館蔵
「斜索戯車の雑技を表し、右半分が欠けている。 ・略・ ほかに馬に乗って後ろ向きに弓矢を放つパルティアンショットの曲芸も描かれる」という解説から、中国では戦いや狩猟の技ではなく、曲芸になっている。 この図は文頭で紹介した「16 墓門上部の彩色画像石」 と同じ時代のものである。
41 猪狩猟文帯飾り板 スキタイ・シベリア(前4-3世紀) ピョートル・コレクション エルミタージュ美術館蔵
私はパルティアンショットというのは、名前がわかるまでは北方遊牧騎馬民族の狩りの方法だと思っていた。ところが、どの本からも探し出すことができなかった。狩猟文そのものがほとんどなく、やっと見つけたのが、下図だった。解説には「かなり多くの象嵌が施されているが、これはスキタイではなくもやはつぎのサルマタイ時代の美術の特徴で」としている。
北方遊牧騎馬民族はパルティアンショットはしなかったようだ。
42 安息式射法? 壺絵 スキタイ・シベリア(前4-3世紀)
パルティアンショットは紀元後に行われた射法なのだろうか。

『ウマ駆ける古代アジア』は、騎射しながら進行方向と逆、うしろ向きに矢を射るのを安息式射法(英語パルティアンショット)といっている。安息(アルサケス朝ペルシア、パルティア)の名が冠されているが、これがスキュタイ系諸文化の軍事力の強さの特徴とされてきた。これはプルタルコスなどの西洋古典古代の記録に、対戦相手のアルサケス朝軍が退却(ローマ人からみたら恥ずべき行為)をしながらも、適を攻撃できる戦法をとる、という賞讃とも皮肉ともとれる記述があるのでこの名がある。
それでは安息式射法とは、何か。従来は下図のように、前向きにまたがりながら、上半身を180度ひねって後方を射ることと解されてきた。もちろんこれでも進行方向とは逆の方を射ることはできよう。しかしわざわざ特別な名をつけるほどのむつかしい技術であろうか。
最近、むしろ後方向きに馬に騎ることこそが、特筆に値する技術であるとの説が出た
という。

パルティアンショットよりも「39 騎馬狩猟図」のような乗り方の方が難しいというのは確かだろう。
しかし、パルティアンショットが北方遊牧騎馬民族によって行われてきたことが明らかとなったし、それはアルサケス朝パルティアの建国よりずっと以前のことだということもわかった。
43 騎士狩猟文ファレラ 銀鍍金 前4世紀中葉 レトニツァ遺宝 ブルガリア、ソフィア考古学研究所博物館蔵
パルティアンショットではないが、狙っている動物と同じものが馬の下に横たわっている。これは複数の動物を殺したことを示すのではなく、異時同図法による表現で、1頭の獣を狙っている場面と仕留めた場面を表しているのだろうか。ササン朝ペルシアでは「38 シャープール2世狩猟文杯」のように狩猟図はすべて同様の表現をしている。その起源はバルカン半島の騎馬民族だろうか。

※参考文献
「中国美術全集6 工芸編 染織刺繍」 1996年 京都書院
「正倉院裂と飛鳥天平の染織」 1984年 紫紅社
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国文明史5 魏晋南北朝」 羅宗真 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編2 秦漢」 1998年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 島根県並河萬里写真財団
「ウマ駆ける古代アジア」 川又正智 1994年 講談社選書メチエ11
「ロシアの秘宝 ユーラシアの輝き展図録」 1993年 京都文化博物館・京都新聞社

2007/01/24

騎馬時の服装は



「中国 美の十字路展」は珍しい俑や画像磚を見ることができたという印象が強い美術展だった。 その後買った『中国文明史5魏晋南北朝』も様々な俑・画像磚が小さな本に随所にちりばめられた本だった。当時の人々の様子を主にその2冊から、馬に乗った人々がどんな服装だったかをみていくことにする。

25 漢彩色騎馬俑-前漢(前2世紀) 咸陽市長陵陪葬墓出土 漢陽陵考古陳列館蔵
『始皇帝と彩色兵馬俑展図録』は、高祖劉邦の墓・長陵の陪葬墓で発見された。 ・略・ どの馬にも鞍の下に引く韉したぐら(革へんに薦)が朱・青・紫・緑の鮮やかな色で彩画され ・略・ 上衣は腰までの短襦で、胴には黒色の鎧をつけ、足には長靴をはいている。両手は左右対称の位置で何かを握る仕草であり、手綱と武器を手にしていたのであろうという。

2つの像で異なるのは脚の位置である。左は中国最古騎馬像はで示した前漢(前206-後8年)・後漢(後25-220年)の騎馬俑と同じように脚を前の方に伸ばしているが、右の方は脚を真横に出している。違いは何か。
服装は、戦国時代の騎馬俑の胡服と比べると少し漢化が進んだのかなと感じるのは襟のせいかも知れない。
26 外出時の貴族の儀仗図 魏晋時代(220-386年) 甘粛省嘉峪関
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、貴族が馬に乗って外出している。その周りは、鎧甲を身につけ、武器や旗指物を手にした侍従が取り巻いていて、たいへん賑やかである。北方の貴族の間では、かわらず馬に乗ってつきしたがうことが主であったことをあらわしているという。

ということは、漢民族の貴族は馬には乗らなかったということらしい。王は車馬に、貴族は輿に乗っていたようだ。
儀仗隊はかなりゆったりした衣装を身につけている。そして3列目から後方の人物は妙な格好の帽子を被っている。それにしても、皆よく太っているのは実戦部隊ではないからだろうか。
27 騎馬伎楽俑 五胡十六国(316-439年) 西安市北郊出土 陝西省考古研究所蔵
『中国 美の十字路展図録』は、南北朝に突入し北方遊牧民が政権を握るようになると、馬上楽はきわめて隆盛をみたらしく、出土する大量の騎馬楽俑がその事を物語る。馬には鞍や轡など、必要最小限の馬具がとりつけられる。騎者はフードのついた帽子をかぶり、右手を口につけて左手をその前に構える。角笛のような吹奏楽器をもっていたのだろうという。

衣装はよくわからないが、細身の体にぴったりとそったものだったようだ。 上衣にくらべるとズボンは幅広かなあ。
28 外出の図 南北朝(439-589年) 甘粛省嘉峪関
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、荘園の生産と生活のありさまを描いた墓の壁画のなかには、武装した人々が隊列を組んで行進する場面を描いたものがある。このことから、荘園の領主が武装勢力を有していたか、あるいは武装勢力と何らかの関係があり、一定の軍職を任されていたと推測できる。左上の先導する人物はかなり身分の高い先導員とのことだという。

人物はゆったりした衣装を身につけている。26の儀仗隊の描き方と比べるとかなりええ加減にも見えるし、厚手の服なのかなとも思う。やはり先の尖った丸い帽子を被っている。29 人物画像磚 南朝5世紀後半 河南省鄧州市南朝墓出土 中国国家博物館・河南博物院蔵
上図は楽器を演奏する楽隊、下図は故事を主題にしたもの2点漢民族の兵士の服装と一般人の服装がうかがえるものかと思う。
30 伎楽騎馬俑 北魏、太和元年(477) 山西省大同市宋紹祖墓出土 大同市考古研究所蔵
『中国 美の十字路展』は、頭に鶏冠形の装飾をつけた風帽をかぶる。上衣は袖口の締まった服を前あわせにし、袖口や縁には紅色で縁取りする。ズボンも裾が締まっており、乗馬に適した装いであるという。

馬も人物もずんぐりしている。北魏の孝文帝が洛陽に遷都し、漢化政策を進めるのが494年、胡服も禁止された。それまでの北魏の都が平城、現山西省大同。31 馬に乗った文官の俑 東魏、武定8年(550) 茹茹公主墓出土 河北省文物研究所蔵
図説中国文明史5魏晋南北朝』は、戦争が頻発したため、文官にも軍馬と体を保護する鎧が配備された。ただ、文官の甲冑は軽装で、馬にも甲冑を着けていないという。
29図下側の人物と同様に袖口が開いている。
32 騎馬俑 北斉、天保4(553)年 山西省太原市賀抜昌墓出土 太原市考古研究所蔵
中国 美の十字路展図録』は、太原は北斉の重要拠点晋陽。髪型は鮮卑族など北方遊牧民に特有の弁髪で、額を剃り上げ、長い頭髪は13条に結って、先の部分で一束ねに括っている。ズボンをはいた上に、膝まで届く長い上衣を着る服装も、遊牧民のものであるという。
楽器を吹く姿らしい。 服装の描き方が簡素なのは、同時代の仏像にも繋がるかも知れないが、この人物が馬に乗る時には、鐙だけでなく、台が必要だったかも知れない。
33 騎馬俑 隋、開皇17(597)年 山西省太原市斛律徹墓出土 山西省考古研究所蔵
美の十字路展』は、儀仗騎馬兵の姿を表したもので、墓主人の乗る牛車を中心に前後に騎馬行列が並ぶ出行俑の一部をなす。兵は縁の反った帽子をかぶり、上衣には葉形の飾りを付け、左腰には武器を帯びている。よく似た騎馬俑が、30年ほど前の北斉の婁叡墓(570年葬)から出土しているという。
婁叡墓には鐙はどこで、何のために発明されたのか? の20 騎馬回帰図が墓道東壁に描かれている。
このように馬に乗る人々は、漢化政策が進んでも、動きやすい胡服が多いが、 甘粛省嘉峪関の墓壁画の26・28は胡服なのか漢族の服装なのかよくわからない。

※参考文献
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国文明史5魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社

2007/01/22

鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて



『ウマ駆ける古代アジア』で川又正智氏は、鐙は馬に乗る時に足がかりとして便利という理由で発明され、最初は左側だけだったという。
ところが、南京博物院研究員の羅宗真氏著『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、魏晋時代、騎兵が北方から南方へと広まっていきました。騎兵が最初に生まれたのは北方です。土地が広く馬も多く産出したのが、北方で騎兵の戦術が発達した理由です。南方は騎兵による戦争には向いていませんでしたが、長い防衛戦に対応するためには、騎兵の設置を軽視するわけにはいかず、独立した部隊を組織し歩兵と共同で戦いました。
騎兵の装備も、軽装から重装のものへと変化しました。秦漢時代に流行したのは、装備が軽くて動きやすく、機動戦術に適した軽装騎兵でした。魏晋時代になると、騎兵と軍馬に防御力の高い重装の甲冑を装備させるようになりました。この種の重装騎兵(鉄騎)は、装備が重く、動きも鈍かったので、単騎で白兵戦をおこなうのに適していました。注目すべきことは、この時代の騎兵がすでに鐙を用いていたことです。騎兵は両足を踏んばることが可能で、馬上で格闘しやすくなり、戦闘力が高まりました
という。

魏晋時代は220-317年なので、鐙はどこで、何のために発明されたのか? にも記したように、川又氏が最古の鐙の証拠としてあげている「青磁騎馬俑」(300年頃)と年代的には合う。また『ウマ駆ける古代アジア』が1994年発行、『図説中国文明史5魏晋南北朝』が2005年発行なので、その間に新しい発見があったのかも知れない。しかし、鐙が1つでは重装騎兵は踏んばることができないだろう。上馬用に発明された左側だけの鐙が、戦闘用に両側につけられるようになったと考えた方が自然だろう。

21 具装馬 五胡十六国(316-439年) 陝西省西安市北郊出土 陝西省考古研究所蔵
『中国 美の十字路展図録』は、馬に甲冑を着せる意匠は、中国東北の慕容鮮卑墓の出土品をはじめ中国北方から中央アジアにかけて広範囲にみとめられる。なかでも北方騎馬民族が政権を左右した五胡十六国時代は、馬の重要性がいよいよ増大し、戦闘以外の儀礼的な行列でも甲冑をつけた馬が登場するようになった。この馬も、ともに出土した俑との関連から儀礼的な行列に居並ぶ馬であると推測するという。

この甲冑をつけた馬には鞍が取り付けられているが、鐙はない。儀礼的なものなので鐙がなかったのだろうか。22 重装備の軍馬を描いた画像磚 南朝、5世紀後半 河南省鄧州出土
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、当時の南朝がすでに北方の影響を受け、防御力の高い騎兵の部隊を組織していたことがわかる。重装備の甲冑を着けた軍馬は全身が保護されたが、重量がかかりすぎるため、軍馬の俊敏さが失われ、騎兵の突撃による殺傷力も弱まった
という。

ウマの左側は見えているが、ウマを引く人物が鞍のあたりにいるため、鐙があるかどうかが見えない。南朝なので漢民族の兵士がウマを引いていると思われる。身軽な服装をしている。23 五百強盗帰仏因縁図 敦煌莫高窟285窟壁画 西魏(535から557年)
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、王の軍隊と盗賊たちの戦闘の場面は鎧に身を包んだ騎馬の兵の姿が生き生きと表され、やがて捕らえられた盗賊たちが目を刳貫かれる場面では、楼閣の中に坐って盗賊を裁く中国式衣装の国王 ・略・という。

国王は中国式の服つまり当時の仏像と同じ褒衣博帯なのは、北魏の後半に胡服を禁止して中国化を推し進めたからだ。しかし、鉄騎に乗った兵は動きやすい胡服のようだ。鐙の有無はわからない。強盗相手なら鉄騎が出撃するほどでもないように思うのだが。24 甲騎具装俑 北周、天和4(569)年 寧夏回族自治区固原県李賢墓出土 固原博物館蔵
『中国 美の十字路展図録』は、馬、武士ともに同種の小札甲を身につけ、武士はその上から外套を羽織る。北魏が洛陽に遷都して以降、騎馬俑は相対的に減少するが、北周では騎馬俑が再び多く副葬されるようになった。北周政権は復古主義で知られ、また鮮卑など胡族を重用した。北周墓の副葬俑にみられる古風は、北魏推進した漢化政策に反発する意志が、如実に表されているようでもあるという。

23のように西魏時代には服から建物まで漢化どっぷりだった国王とはうって変わって、西魏の後建国された北周では復古調となるのが面白い。北魏・西魏・北周、いずれも鮮卑族が建てた国だったのだ。このように鉄騎の図版を製作年代順に並べてみたが、鐙の有無はわからなかった。 鐙が発明されて依頼、その便利さが軽視されたとは思えない。有事の時には甲冑と同じくらい重要なものになっただろうと思う。それがこれらの像に表されていないのは何故だろうか。俑や磚の作り手には、靴と鐙が別のものという意識がなかったのだろうか。

※参考文献
「ウマ駆ける古代アジア」 川又正智著 1994年 講談社選書メチエ11
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社

2007/01/19

鐙はどこで、何のために発明されたのか?

中国最古騎馬像はで後漢になっても中国では鐙をつけていないことがわかった。ではいつ頃から鐙が使用されるようになったのか?

16 墓門上部の彩色画像石(かつては1枚だったものが中央部で割れた) 後100年頃(後漢) 陝西省北部(オルドス高原)出土 陝西省考古研究所蔵
世界四大文明 中国文明展図録』は、日と月の間には狩猟の様子が彫られ、馬上で弓を構える3人の人物、獲物を捕まえた鷹、了見や虎・鹿なでがいる。馬上で後方を向き、弓を引き絞る人物がいるが、これはパルティアン・ショットと呼ばれる射法であるという。
ここでも鐙について触れられていないが、鐙は見えない。
17 狩猟図 西晋(後4世紀前半) 嘉峪関市7号墓前室東壁 嘉峪関市文物管理所蔵
前漢と後漢の騎馬俑は脚を曲げていないが、戦国時代のものは下図と同じように曲げている。この馬上の人物が鐙をつけているようには見えない。18 飾馬 北魏太和元年(477) 山西省大同市出土 大同市考古研究所蔵
「出行儀仗の隊列にのぞむ飾られた鞍馬」と「中国★美の十字路展」図録の解説にある。馬の背にあるものが鞍のようだが、鐙がないのはあきらかだ。19 人物故事図漆絵木棺 北魏(5世紀後半) 寧夏回族自治区固原県北魏墓出土 同区固原博物館蔵
この絵を見ても、靴を履いているだけなのか、黒い鐙なのかはっきりしない。
20 騎馬回帰図 北斉、武平元年(570) 山西省太原市婁叡墓、墓道東壁出土 同市、山西省考古研究所蔵
この図にははっきりと鐙が描かれている(矢印)。やれやれ、やっと中国で鐙が見つかった。
しかし、日本で最古の鐙は3世紀末から4世紀初めの木製輪鐙(あぶみ)が箸墓古墳から出土している。それについては箸墓古墳から国内最古の馬具出土でどうぞ。
ということは、中国ではそれ以前に鐙があったはずである。何故中国かというと、鐙は中国で発明され西漸したということが記憶の片隅にあったからだが、検索してみるといろんな時代にいろんなところで鐙が使用されているようで、混乱してしまった。
それで騎馬の歴史がわかりそうな本を探してみると、『ウマ駆ける古代アジア』(川又正智 1994年 講談社選書メチエ11) くらいしかなさそうだった。あいにく本屋にはなく、その上廃版となっていることがわかったので、図書館から借りてきた。長い道のりだった。
鐙の発明は中国らしい。 ・略・ 現在、後4世紀西晋時代の湖南長沙金盆嶺21号墓に副葬された騎馬俑と、河南安陽孝民屯154墓出土の金銅装馬具一式の鞍と鐙実物が最古の鐙として確認される。
ただし片側(左)のみなので、上馬時に足をかけるだけのためのものかと推定されている。 ・略・ そんなに足かけが必要だったのだろうかと思うが、片側にしか鐙のついていないものが同じころいくつか存在する以上、そう考える他はない。湖南長沙21号墓と同じころらしい南京象山王氏墓地7号墓の馬俑では、すでに両側に鐙がある。樋口隆康氏は、騎馬の苦手な民族が発明したものであるという。5世紀になると朝鮮や日本でもたくさん出土する。ヨーロッパでは7世紀ころから確認されている。まだわからない点もあるのだが、ユーラシアでも東の方が古いのは確かである。
足をかけることなど簡単に考えつきそうであるが、なかなか発明されなかったらしい。ともかく鐙は鞍から吊り下げるのだから、鞍と腹帯がしっかりしてからの発明である
という。

やれやれ、私が探していた方向としては間違っていなかったのだ。しかし、どの遺物も私の書庫にないものだ。

湖南長沙金盆嶺21号墓出土の騎馬俑については、東京国立博物館で2007年に開催された「悠久の美―中国国家博物館名品展」で、「青磁騎馬俑」(300年頃)として2躯出品されているようだ。関西にも巡回してほしいなあ。河南安陽孝民屯154墓出土の金銅装馬具に関しては全くわからない。

樋口隆康氏が、騎馬の苦手な民族が発明したものとする説は、湖南長沙金盆嶺21号墓出土の騎馬俑の300年以降に作られた17から19には鐙がなく、それは騎馬民族出身の騎兵や騎馬を表したものと考えると納得できる。騎馬に長けた者にとって、馬上からの攻撃に鞍や馬は必要なかったようである。
要するに、騎馬が得意でない漢民族が鐙を発明したということは、不思議でもなんでもないことなのだ。しかし、鐙の用が上馬時に足をかけるためのものだったとは驚いた。 

※参考文献
「バクトリア遺宝展図録」 2002年 MIHO MUSEUM
「世界四大文明 中国文明展図録」 2000年 NHK
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「ウマ駆ける古代アジア」』 川又正智 1994年 講談社選書メチエ11