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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/12/09

紅葉の名残を求めて石山寺へ


2016年の秋は日曜の度に雨または雨の予報が出た上に、紅葉が早くて最盛の時期を逸してしまった。この日も午後から雨が降り出すということで、午前中に拝観しようと早出した。
9時前にJR石山駅に到着、早足でバス乗り場に行くと、石山寺へは①乗り場と大きな案内板を見つけた。①乗り場は一番遠く、バスが停まっている。走って乗り込んだ。

所要8分。バスの窓から見えた瀬田川を、石山寺山門前で下車して撮影。遠いからか、紅葉が見頃のように見えた。
水面にはオオバンがちょろちょろと泳いでいるが、なかなか横向きになってくれない。のんびり待つ余裕もないので、これで良しとする。
南東の向こう岸も紅葉がきれいだが、あいにく逆光。

道路を渡り、お寺の手前の植え込みでは、楓が今が盛りと葉を染めている。その落ち葉も赤く、傍らには藤の黄葉していて、期待が膨らむ。
『石山寺の信仰と歴史』は、近世はさらに瀬田川近くに別に惣門があったが、そのあたりは今は公園になっているという。
ここはその惣門があったところらしい。


山門の右手が石山。葉を落とした木もあるが、小さな錦秋を見つけた。

この山門は東大門(重文)
同書は、寺伝では建久元年(1190)の建立と伝えているが、様式・技法からみて慶長期の造営で建て直されたと考えられる。間口3間、奥行2間、柱が12本あるが、中央の列を除いた前後の柱が8本あるところから八脚門と呼んでいる。屋根は八脚門としては例の少ない入母屋造りである。中央の柱筋に板扉を吊り、両脇は漆喰壁で閉じて、その前に二王を安置して金剛柵で決壊するという。
撮影はしなかったが、床面は正方形の石を斜め格子に並べている。
山門をくぐり、参道を眺めると、両側の樹木の3割ほどしか葉を残していない。しかし、参道に並んでいるのはほとんどが葉を早い時期に落としてしまう桜である。
同書は、本堂へ向かって、西へまっすぐな参道が延びるが、ここはまだ平坦地である。そしてその両側は土塀が続き、所々に門が開いている。これらは近世にあった8つの院家の跡である。院家とは塔頭とも呼ばれ、僧侶の住房であるという。
早朝に掃き清められた参道には落ち葉は少ない。少ない中から綺麗な葉を見つけて写す。
拝観受付の手前から撮影。楓の色は淡いが、葉は少ない。
入ってすぐに境内図がある。
その先にはくぐり岩なるものがある。
立て札があり、このあたりの岩は全部大理石である 奇岩怪石の幽遂の境内天然自然に体内くぐり状態をなすこの池は天平時代のものであるという。
大理石?!そうは見えないが、岩をくぐれるということなので、試してみた。
カメラのビデオで撮影しながら、立て札のある通路から入る。岩の中は狭く、屈んで通らねばならず、足元も岩が出ていて通りにくかった。出てきて体を伸ばしてほっとしたが、参道側には池の石を踏んで渡るのが少々危なかった。結局は手水舎(ちょうずや)の裏に出ることになった。
その先は右手に急な階段、まっすぐ進むと緩やかな斜面になっている。
ここには穏やかな色の紅葉があった。
階段を選ぶ。
途中、左手に小さな建物があったが、何とも書かれていない。お寺の境内図にも、『石山寺の信仰と歴史』の配置図にも載っていない。
登りきって階段を見下ろす。楓はまだ色づき始めたばかりのような色だ。
前方右側には小さなお堂が3つ並んでいる。

観音堂
続いて毘沙門堂と少し離れて御影堂
左側には蓮如堂。前の桜はすでに葉を落としている。
正面には岩が露出し、その上方の木々も葉はなく、常緑樹の間から姿を見せる日本最古の多宝塔が少し見易くなっている。
この岩は珪灰石(石山寺では硅灰石とされている)で、国の天然記念物になっているという。
参道にあったくぐり岩は大理石で、石灰岩が熱変成をうけて再結晶したもの。その上方にあるこの珪灰石もまた石灰岩が熱変成をうけたが、再結晶するほどでもなかったということになるのかな。

蓮如堂と岩山の間から本堂へ。

でもその前に石段があって、人が下りているので付いていくと、本堂が懸造りなのが見えた。
本堂まで戻ったが、全体が写せる場所がない。

『石山寺の信仰と歴史』は、石山寺の本堂の創建は奈良時代にさかのぼる。天平宝字年間(756-65)に東大寺造営にかかわってその資材調達のための造石山院所が置かれ、石山寺ではその時までに建てられていた仏堂が改築され、長さ7丈の仏堂となった。この建物は承暦2年(1078)に焼失し、その後、永長元年(1096)に再建されたのが現在の本堂(国宝)であるという。
この本堂は東側から見るとこのようになっているのだが、建物や岩山があるために、その全貌は見えない。
同書の立面図で懸造りになっていることや、写真にあるように、複雑な屋根の形をしている。
同書は、桁行7間、梁間4間で寄棟造りの正堂の南側に、桁行9間、梁間4間で寄棟造の礼堂を並べ、両者の間には幅1間の作り合いをとって、正堂と礼堂の間を塞ぐように、両下造り(2方向に傾斜面のある形式)の屋根を載せて、礼堂側ではその屋根が棟を越えて、妻を正面に向けた入母屋造りになっているという。
同書は、『和泉式部日記』などの文学作品や『石山寺縁起絵巻』等の絵画史料から、焼失以前から礼堂の付いた懸造りの形態であったことが知られる。礼堂の部分だけは淀殿の寄進によって慶長年間に改築されているという。

今年は33年に一度の本尊御開帳があり、やっと行くことができたのは12月4日の最終日。しかも正午までということで、せっかくの機会を逃さないように、早出してやってきたのだった。
予想していなかったものをその本尊で見たが、それについては後日

本堂周辺図

秘仏などを拝見した後、三十八所権現社本殿へ。
立て札は、本殿は、一間社、流造、屋根は檜皮葺です。
本殿の建立は礼堂と同じく慶長7年(1602)になります。
三十八所権現社は石山寺の鎮守として創建されており、真下に位置する蓮如堂は、元は三十八所権現社の拝殿として建立されたものですという。

その裏にも短い階段があり、階段の上には校倉造の建物がある。
立て札は、経蔵は、高床の校倉でかつては国宝の淳祐内供筆聖教等を収蔵した建物です。
建物は、頭貫木鼻の意匠や垂木に反り増しがあることなどから、桃山時代の16世紀後期頃の建立と考えられますという。
正倉院だけでなく、唐招提寺でも校倉造の建物があるが、桃山時代になっても、このような造りの建物が存続していたのだ。
『石山寺の信仰と歴史』は、建物は大きな礎石と硅灰石の岩盤の上に12本の八角柱の束を立て、その上に角材で井桁を組み、その上に校木を10段積みあげ、その上に桁を載せ、組物などは用いない簡素な建物である。床束の頂部の貫の先端にだけ繰形を施した木鼻ががつき、わずかな装飾となっている。
古代の校倉は、隣り合う校木を、校木のせいの半分ずつずらして積みあげるが、石山寺の経蔵はずらさず、一段ずつ井桁を組みあげるようにつくられている。これは中世後期以降に用いられる形式であるという。

その近くには、紫式部供養塔という、何時の時代に建てられたのか、三階建ての宝篋印塔が、芭蕉の句碑とともに並んでいた。

進路正面の階段の下には鐘楼がある。鐘の音は聞こえなかったが、人は出入りしていた。

左側にはまた階段があり、その上には多宝塔が聳えていた。
階段を上がると、石山寺の中では一番広々とした平地となっているが、日陰だった。
多宝塔については以前に書いている。それについてはこちら
西側の紅葉がきれいだったので、それに惹かれて歩いていくと、
本堂の北面に出た。桧皮葺の屋根には小さな落ち葉が積もっている。
階段をおりて左側へと回っていくと、その角にこんな石が積み上げてあった。

本堂から御影堂の前の参道を通り抜け、「帰り道」という案内に従って右に折れると、御影堂と毘沙門堂の間にある宝篋印塔の周囲を右繞している人たちがいた。
石山寺の栞によると、四方に四国八十八ヶ所霊場の土が埋められており、これを廻ると八十八ヶ所を巡る同じ功徳を得るという。指導されている方に尋ねると、一回りするだけで功徳が得られるのだそう。
石段を長々と下りていく。
平地に出て出口に向かっていると、小さな大黒さんの石像があった。古いものには見えないが、
その奥は枯山水の庭になっていた。並んだ提灯と私の影がなければ良い庭かも。大黒天堂の庭のようで、その建物前の門を出ると、
向かい側の院家の紅葉と門の屋根に溜まった落ち葉が最後の写真。
木々の葉が全部落ちる前で良かった。
川沿いの方が風が強くて紅葉が早いのかと思っていたが、東大門からの比高差は50mもない(同書より)とはいえ、やはり山なので、落葉が早いのだろう。

                   →石山寺2 33年に一度の秘仏御開帳

関連項目
石山寺の多宝塔は日本最古

※参考文献
「石山寺の信仰と歴史」 鷲尾遍隆監修 綾村宏編集 2008年 思文閣出版