お知らせ

忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/11/15

タフティ・サンギン遺跡オクス神殿


加藤九祚氏がテルメズで2016年9月12日に他界された。
実は2015年秋にタジキスタンとウズベキスタン南部のテルメズを旅して、やっと一年後に旅編でまとめている。加藤氏がテルメズのカラテパ遺跡を発掘されていることは知っていたので、発掘調査中に見学できればと内心期待していた。テルメズに着くと、氏は毎年6月に来られると聞いて、暑いウズベキスタンの中でも最も暑いテルメズに、しかも6月に行く覚悟ができたというのにこの訃報。

加藤九祚氏の近著『シルクロードの古代都市』には「アムダリヤに響くフルートの音-タフティ・サンギンのオクス神殿」という章がある。せっかくなのでこの章を引用させて戴く。

同書は、この神殿遺跡は古代においてオクス神(つまりアムダリヤ河神)に献げられたので、ロシア語ではオクス神殿とよばれている。タフティ・サンギンとは、タジク語で「石の玉座」の意味であり、神殿のある地名である。したがって、正しくは「タフティ・サンギンにあるオクス神殿の遺跡」とすべきであろうが、一般には「タフティ・サンギン遺跡」とよばれている。
タフティ・サンギンの場合には、住民は現地の宗教を信じるバクトリア人であったが、部分的にはギリシア人も住んでいた。これらのギリシア人はギリシア語と現地語の両方を話し、ギリシアとバクトリアとの文化的統合が進んだ。建築においては、オクス神殿の場合、西アジア、とりわけアケメネス朝の伝統が強く、ギリシア的伝統は祭壇と柱頭に見られる。
宗教的にはかなり複雑で、アケメネス朝時代は火神だけでなく水神も信仰されたようであるが、ある段階では典型的なギリシア風祭壇がつくられ、ギリシアの神々が祭られた。バクトリア的信仰および儀礼とギリシア的神々の信仰とが平和的に共存していた。これは大きな意味をもっている。
タフティ・サンギン遺跡はタジキスタン名、ピャンジ川(アムダリヤの上流部)とその北支流ワフシュ川との合流点付近、山膚にも河岸にも樹木はほとんどない荒れた土地にある。遺跡はカフィルニガン川水域とワフシュ川水域との間にあるアクタウ山脈の南端、テシク・タシュ山脈の南斜面、アムダリヤの右岸に位置しているという。
同書は、どうしてこんな荒涼とした河岸に神殿を建てたのだろうか。筆者は、神殿がアムダリヤの渡河点にあることも大きな意味があると考える。この遺跡から5㎞ほど南に、文献によく出てくるタフティ・コバド都城址があり、今も国境守備隊の兵舎がある。タフティ・サンギンも都城址であり、その中央に濠に囲まれた238X167mの長方形の内城(ツィタデリ)の跡が残っている。これはグレコ・バクトリア期または大月氏の時代のものといわれているという。
同書は、オクス神殿の本体はこの内城の中にあり、東正面は51m、裏の西側は32m、前庭(テメノス)をのぞく東西両正面の間の距離は49mであった。平面図では、テメノスをのぞく神殿の構造は、17mの間隔をおいて17m四方の「箱」を二つおき、その二つの「箱」の中央上部に32m四方の大箱をのせた凸形に見える。これが神殿本体である。東正面には広い玄関(プロピレイ)がアムダリヤに向かって開かれ、その前には51X21.6mの壁に囲まれたテメノスがあった。テメノスの規模については稲垣肇は、60X25mとしている。外側の回廊部分を加えているのかも知れない(稲垣肇、2012年)。
神殿の建築のあらましはつぎの通りである。4本円柱のある中央広間は神殿の中核で12X12m、正確に東西南北を向いており、壁の厚さは3.4-4m、残存部分は高さ5.5m以内、南北と東に門があり、主な出入口は東側であった。この広間の北西隅あたりに2個の円形の基礎をもつ祭壇部分があった。この広間は、南側、西側、北側は2列の鍵型の回廊と結ばれていた。一列目は、南側の回廊(1)と西側の回廊(2)が、1号の西側通路によって結ばれていた。2列目は、北側から中央広間に連絡する回廊(3)と2号に平行した西側回廊(6)とが通路によって結ばれていた。
中央広間と2列からなる回廊は神殿の構造的中核を形づくっていた。中央広間の入口は東向きで、入口の前はアイワン(テラス)風の列柱玄関(ポルティコ)を形成し、その天井は2列の列柱(各列は4本)によって支えられた。柱頭は正面の幅が約1mのイオニア式であった。ポルティコの南北両翼には3室からなる建物があり、ポルティコと連絡する各1室に拝火祭壇(アティシュガー、永遠の火の保管所)があった。祭壇とその壁は内部まで焦げており、床には混じり気のない灰が積もっていた。中央の祭壇は大きく、部屋の隅のものは小さかった。ポルティコの外側の壁の隅には突出部があり、便宜的に「塔」と名づけられた。その内部の部屋の出入口はテメノスの方に開かれ、塔は防御施設ではなかった。ポルティコの内側、建物の外壁の近くにヘレニズム的型式の祭壇があった。それはギリシア文字のような印のある石のブロックで、積まれていた。神殿の建物全体は塔状の突出部のある強力な壁で囲まれていた。
神殿の建物はすべて、最初からプランをもって一度に建てられたもので、壁は切れ目なく接合されていた。建物の主要部分、つまり中央広間とそれをとりまく回廊の外側は32X32mの正方形であった。これに接する南北両翼部分は、先に述べたように17X17mの正方形をなすが、その建物の壁もテメノスの壁も直接砂岩上に乗っており、砂岩のレベルは西から東へ、つまりアムダリヤの方へ著しく傾いていた。
建築材料は50X50X14㎝の日干煉瓦であった。これは東部イラン、バクトリア、パルティアの一部で使われていたことが知られており、正確な年代は不明である。前5-前3世紀にも用いられたという。

同書は、オクス神殿の列柱の柱礎は2段になっていて、取りはずしできる円環面(トーラス)があり、トルクメンの古ニサとペルセポリスでも見られるものであった。最もよく年代を示すものは、中央広間で発見されたイオニア式の柱礎であった。これに近いものはプリエネ(小アジアのミレトス湾にあるイオニアの都市)のアテナイ神殿に見られたという。
そんなものとは知らず、柱礎全体を撮っていなかった。
古ニサの赤い建物跡より出土の柱礎。確かに2段の柱礎の上にトーラスが置かれている。
2016年初夏にペルセポリスを訪れたが、柱礎のことは記憶してない。ペルセポリスについてまとめるのは、ずーっと後のことになりそう。
同書は、柱頭は正面の幅が約1m、高さ42㎝、円柱を受ける部分の直径が58㎝のイオニア式の小アジア型であったという。
しかし、別の面を見てもあの渦巻はなく、下部中央から蔓のようなものが左右上方に伸びて渦巻いているだけだ。その上蔓の根元にはアカンサスの葉らしきものも。
蔓が上方に伸びたり、アレクサンドロスの葉がある柱頭といえば、コリント式だ。

コリント式柱頭 前360-320年頃 ギリシア、エピダウロス、トロス出土
やはり博物館の展示室隅に置かれた円柱の上にのる柱頭はコリント式。オクス神殿出土の柱頭ではなかった。

イオニア式柱頭 前300年頃 前300年頃 トルコ、サルディス、ある程度神殿跡出土
『世界美術大全集4ギリシア・クラシックとヘレニズム』は、前300年頃の制作とされる周柱のイオニア式柱頭で、クラシック期の作品ながら柱頭部に施された卵舌文や大きめの渦巻装飾(柱頭の幅のほぼ1/3に達する)にアルカイック的な特徴を残しているという。
やはりタジキスタン民族考古博物館にあった柱頭はイオニア式ではない。

同書は、オクス神殿には奉納品が多く、回廊と中央広間がその収納場所となった。また奉納品の増加とともに敵の来襲が迫ったとき、貴重品を、神殿外部に穴を掘ってかくすこともあったとみられる。リトヴィンスキーとピチキャンは、大英博物館収蔵のオクサス(アムダリヤ)遺宝(The Treasure of the Oxus)の起源が、このオクス神殿のこうした隠匿物の一部である可能性を考えている。オクス神殿内の回廊などに掘られた多くの隠匿穴から奉納品が掘り出されているという。
出土物のうちタジキスタン民族考古博物館に展示されているものについてはこちら

同書は、リトヴィンスキーは、4本円柱のある中央広間の起源に関連して青銅器時代以後多くの遺跡について検討し、この構造が古代イランでかなり広まっていたことを指摘している。またポルティコについても同じくイランのハッサンル遺跡で前900年頃に出現したが、これが西方からの影響だとする研究者の説を紹介している。このほか、アレクサンドロスの東征以前からの古代ギリシア文化の東伝による文化的刺激についてもくわしく述べているという。

4本円柱のある中央広間といえば、ニサ遺跡の正方形の広間のラテルネンデッケ(三角隅持ち送り)天井を思い起こす。中央アジアでは、4本円柱と言えばラテルネンデッケだと思っていた。
しかしながら、ペンジケントでは4本円柱のある広間には、その上に女人像柱があり、台形の浮彫板を積み重ねたドームだった。故に、オクス神殿の4本円柱のある中央広間がラテルネンデッケだったとは断定できないし、研究者もそれについては言及していない。

ところで、加藤九祚氏のいうアムダリヤに響くフルートの音とは何だろう。
同書は、発掘したオクス神殿の帰属を定めるものとして、オクスの神である2本に分かれた縦笛(ディアウロス)を吹くシレノス-マルシアスの青銅の小像が発見された。これは古代ギリシア語の銘文が彫られた白い石灰岩の基台上に立てられていた。
マルシアスの吹く2本に分かれた笛はフリギアの双笛(アウロス)で、「1本はまっすぐで高音を発し、1本は先に曲がった角をつけたもので低音を発したという」(前田耕作、1992年)
オクス神とマルシアスを同一と見る観念は小アジアのイオニア系ギリシア人の間にあった。イオニア人はアレクサンドロスの軍隊に加わり、またその後のヘレニズム期には移民としてソグディアナに現れた。オクス川(アムダリヤ)とマルシアス川がともに砂金とフルート用のアシを産したことも、両者を同一視する要因になっただろうとピチキャンは述べている。
献げものは自らの中にヘレニズムとバクトリアの伝統を併せ持っている。銘文の言語と形式と書体はギリシア的で、その内容となる名前はバクトリア的である。バクトリアのオクス(ワフシュ、アムダリヤ)神に献げた祭壇上にギリシア的なマルシアス神(その一つの機能は水流の保護)が載っている。つまりひとつの献げものの中にふたつの異なった宗教の神話的形象が入っている。ここにはバクトリアとギリシアの文化的・民族的統合が見られる。
まきれもなくギリシア式であるこの祭壇は、人びとがオクス神殿において現地神の前で礼拝しただけでなく、ギリシアの神々にもいけにえを捧げたことを意味している。マルシアスはそのような神ではなかっただろうか。このオクス神殿で、他のどのギリシア神殿よりもはるかに多くのフルートが発見されたことは、マルシアス信仰におけるフルート演奏の重要度を示していると考えられるという。
アムダリヤに響いていたのは、ギリシア風だったり、バクトリア風だったり、あるいはそれが融合した新たな音楽だったのだ。

                          →アイ・ハヌム遺跡

関連項目
タジキスタン民族考古博物館2 タフティ・サンギン出土品
ギリシア建築8 イオニア式柱頭

※参考文献
「シルクロードの古代都市-アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)
「偉大なるシルクロードの遺産展図録」 2005年 株式会社キュレイターズ
世界美術大全集4 ギリシア・クラシックとヘレニズム」 1995年 小学館