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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/11/24

脱活乾漆は古墳の夾紵棺に


第67回正倉院で伎楽面3点が出陳されていて、その中の一つに脱活乾漆のものがあった。

見学した時は、重そうな木造の面の後にあったので、乾漆なら軽かっただろう程度にしか思わなかったが、後日図録(正倉院展では目録)の解説を読んでいて驚いた。展覧会の図録というものは買っておくべきものであるし、そのまま積ん読しないで、解説文を読んでみるものだなあ。

伎楽面 師子児もしくは太孤児 縦24.7横18.4奥行21.9㎝ 重280.1g 南倉
『第67回正倉院展目録』は、木や土などの原型の上に漆で麻布を幾重にも貼り重ね、表面を木屎漆で塑形した後に原型を除去する乾漆造の技法が用いられる。この技法は、中国では古くから夾紵といい、わが国で盛行した奈良時代には「即」「塞」などといったという。
また、同書の用語解説では、麦漆(生漆と麦粉を練り合わせた漆糊)で麻布を貼り合わせて素地とする技法。すでに古墳時代の棺に用いられており、奈良時代に仏像の技法として盛行したという。
仏像よりも棺の方が先だったとは。

考古学では夾紵棺と呼んでいて、終末期の古墳より出土しているらしい。
それを主に墓主(伝を含む)の没年順に挙げてみると、

叡福寺北古墳 伝聖徳太子墓 622年(太子の没年) 径54m高さ7.2m 大阪府南河内郡太子町
『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、叡福寺の北山麓部に所在する円墳である。古くから聖徳太子信仰の場として信仰の対象となっており、早い時期から石室は開口していたようで、鎌倉時代の『一遍聖絵』にも、その様子が描かれているという。
同書は、両袖式の横穴式石室に3つの棺があり、中央の刳抜式石棺と、左右に夾紵棺が安置されていたとされるという。
八角形に見えるが。
邪馬台国大研究竹内街道歴史資料館というページに同古墳の平面図や説明文が載っています。

『未盗掘古墳の世界展図録』は、大化2年(646)の薄葬令は、8世紀初頭の火葬の採用とともにそれまでの葬法と死生観を少なからず解体させた。大化薄葬令では、身分に応じて石室や墳丘の規模、葬具の内容、労役従事者の人数、造営の日数を規定するとともに、殉死や副葬品の埋納などの旧来の慣習の廃止を命じている。そして王(皇族)以下庶民にいたるまで、喪屋(殯屋)を建てることを禁止した。
殯を天皇の儀礼として特権化し独占することによって、中央・地方の豪族から殯儀礼を収奪し、権威の正当性を確立しようとしたのである。そうした意味において古墳をつくることの歴史的重要性はもはやなくなり、名実ともに中央集権化としての律令体制が確立したといえるのであるという。

牽牛子塚古墳 伝斉明天皇の墓 661年(没年) 径15m高さ約4m 奈良県高市郡明日香村
『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、斉明天皇の墓と推定されている牽牛子塚古墳は、明日香村の真弓丘と呼ばれる丘陵屋根上の平坦部に築造された八角形墳である。丘陵斜面に築かれる例の多い終末期古墳の中で、野口王墓古墳、中尾山古墳などとともに特徴的な立地を示しているという。
同書は、墳丘は八角形で、埋葬施設は、凝灰岩の巨石を刳り抜いた石槨で、中央に間仕切りを造り、ほぼ同じ規模の2つの槨が東西に並んでいる。ともに長さ2.1m、幅1.2m、高さ1.3mで、底面には長さ1.9m、幅0.8m、高さ10㎝の棺台を造りつけているという。
同書は、2体の埋葬を当初から計画していたことは、石槨の形態から明らかであるが、出土した夾紵棺の破片も、2棺分に相当する約100個が残っていたという。
破片でも夾紵棺を知ることができてよかった。
『飛鳥遺珍展図録』は、夾紵棺は、布を漆で固めながら何重にも布を重ね塗りし、厚みをつくって棺としたもので、最上等の棺とされる。本例は、破片の状態で出土したが、蓋を身に対して印篭状につくり、天井部にやや丸みをつける長持形のものに復原できるという。
どれもが経年劣化で歪み、丸みがあるような。全部が蓋の断片ということもないだろうに。
『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、断片の中には、金銅製八花形座金具をとりつけた痕跡や、釘穴が認められることから、当初の姿が復元されているという。
図版全体を載せてしまったが、夾紵棺に取り付けられていたのは左下の1点、八角形の金銅製八花形座金具。

阿武山古墳 伝藤原鎌足の墓 669年(鎌足の没年) 大阪府高槻市
『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、阿武山南尾根突端の標高216.8mに所在する古墳である。自然の高まりを古墳としたもので、横口式石槨内には、外面を黒漆、内面を朱塗りした夾紵棺が安置されていたという。
大化改新は中大兄皇子が中臣鎌足と組んで蘇我馬子を殺したと歴史の授業で聞いたが、近年では、中臣鎌足の方が首謀者のように言われている。その鎌足が、何故高槻という飛鳥から遠く離れた地に墓を造ったのだろう。
同書は、棺には枕を南にして60歳前後の男性が葬られていた。遺骸は衣服を着けており、頭部から顔面にかけて金糸が発見されているという。
この曲がった棺が夾紵製で、しかも内側が朱塗りだったとは。
同書は、この金糸は金の針金を平らに伸ばして糸に巻き付けた金モールと呼ばれる糸で、布製の冠帽の刺繍に使われたと考えられている。また頭部の後ろでは大中小3種類の500個余りのガラス玉を銀の針金で連ね、布を五重以上に巻いて両端を結んでつくった筒状の玉枕が見つかっているという。

野口王墓古墳 天武・持統合葬陵 686年(天武天皇の没年) 南北径約50m東西径約45m高さ約9m 奈良県高市郡明日香村
『飛鳥の古墳』は、『阿不幾乃山陵記』によると石室は内陣(奥室)と外陣(前室)からなり、その境には金銅製の扉が設けられていたことがわかりますという。
以前に見学したことはあるが、その時の写真が見つからない。古墳というには小さなもので、一周しても大して時間はかからなかった。
八角形墳の墳丘復元図  
『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、古墳が造られなくなる第二の画期は、7世紀中葉における近畿の大王墓の八角形化とされている。八角形の大王墓は、初期のものは方形壇の上に八角形の墳丘を載せた比較的大規模なものであったが、7世紀末葉の天武・持統合葬陵と考えられる明日香村王ノ墓古墳や、文武陵と想定される中尾山古墳のころには、方形壇を省略した八角墳になっているという。
横口式石槨 全長約7.5m幅約3m高さ約3m
玄室(奥室)が小さいわりに前室を設けているのは、羨道の変化したものかな。 
玄室の復元
『飛鳥資料館案内』は、持統天皇(702年歿)は、天皇として初めて火葬され、夫、天武天皇(686年歿)の陵に葬られた。鎌倉時代の記録によると、天武天皇の遺体は夾紵棺に納められ、持統天皇の遺骨は銀の骨蔵器に入っていたという。
7世紀に入っても、天皇や豪族たちは古墳に葬られていた。しかし仏教とともに火葬が伝わり、やがて天皇以下、貴族たちも火葬の風をとり入れるようになったという。
朱塗りの夾紵棺は面取りになっている。夾紵棺も骨蔵器も、朱塗りの香座間透かしのある台にのせられ、更に大きな朱塗りの台に安置されていたと見られている。

高松塚古墳 7世紀末-8世紀初 円墳、直径20m高さ約3.5m 奈良県高市郡明日香村
『飛鳥資料館案内』は、粘土と砂を交互に一層ずつつきかためて築くなど飛鳥の古墳に特有の、特殊な構造を備えた終末期の古墳の一つである。
手前に縦に走る溝は、石を運びこむための、コロのレールのあとという。
同書は、高松塚古墳の石室は、本来の横穴式石室が退化して石棺だけが残った形の、いわば石棺式石室である。これを横口式石棺とか、石槨とかよぶ人もある。壁画は、この石室の内側に描かれているという。
下の方に残っているのが夾紵棺の残骸だろうか。

『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、古墳が造られなくなる第三の画期は、7世紀の後半から末葉頃。七世紀末葉頃になると、近畿でもこうした古墳はみられなくなる。おそらく大王家や大臣・大夫など政府中枢部を構成する豪族層を除き、近畿の豪族たちも顕著な古墳を営まなくなるのであろう。そしてこれに対応するように、近畿各地で氏寺とみられる古代寺院の造営がいっせいに始まっており、関連が想定されるという。

簡単に言えば、脱活乾漆という技法は、火葬が広まると共に夾紵棺の需要がなくなって、仏像造りに変わっていったということになる。
そして、その初期の作品で、今に伝わっている貴重な仏像が、當麻寺金堂の四天王像なのだった。

         白鳳展8 當麻寺四天王像は脱活乾漆
                            →夾紵の初めはやっぱり中国

※参考サイト
邪馬台国大研究竹内街道歴史資料館

※参考文献
「第67回正倉院展目録」 編集奈良国立博物館 2015年 仏教美術協会
「仏法の初め、玆より作れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県立安土城考古博物館
「飛鳥遺珍 のこされた至宝たち-展図録」 2011年 飛鳥資料館
「未盗掘古墳の世界-埋葬時のイメージを探る-展図録」 2002年 大阪府立近つ飛鳥博物館
「飛鳥の古墳-飛鳥の黄泉の世界-飛鳥の考古学図録②」 編集明日香村教育委員会文化財課 2004年 (財)明日香村観光開発公社
「飛鳥資料館 案内」 1975年 奈良文化財研究所飛鳥資料館