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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/04/03

鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式


平城宮の建物には複数の型式の鬼面文鬼瓦が用いられていた。その外形は、円頭台形で、獣身文や鬼面文が浮彫されてはいるが、平板な鬼瓦だった。
平城宮式鬼面文鬼瓦と呼ばれているもので、それについてはこちら
平城京に建立された寺院にも最初は平城宮式を飾っていたが、やがて独自の鬼瓦が作られるようになる。それらは南都七大寺式と呼ばれていて、平城宮式鬼瓦とは全く趣の異なる、鬼に近い顔貌を高浮彫にしたものだった。

まず、南都七大寺とはどの寺院を指すのだろうか。
『奈良時代の匠たち展図録』は、元興寺、興福寺、西大寺、大安寺、唐招提寺、東大寺、薬師寺の七つの寺院は現在、「南都七大寺」とも称される寺院であるが、「七大寺」の名称の初出である天平勝宝8歳(756)の時点では、元興寺、大安寺、薬師寺、興福寺、東大寺と法隆寺、弘福寺(川原寺)のことを指している。西大寺は延暦10年(791)の「十大寺で、唐招提寺は『延喜式』(10世紀に成立)の「十五大寺」で大寺の中に列せられるようになったという。
現在南都七大寺と呼ばれる寺から出土した鬼瓦を分類している。

南都七大寺式
『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、8世紀中頃になって京内の官寺において独自の鬼瓦が用いられはじめた。「南都七大寺式」鬼瓦で、平城宮式とはまた一風変わった鬼面紋鬼瓦である。団栗眼に獅子鼻で、大きく開いた口の下顎下端・下歯を欠く。外形はアーチ形で、外縁にそって珠紋をめぐらしたところを特徴とする。おおむね背面を刳って縦位の把手をつくり出す。Ⅰ-Ⅴの5型式に区分でき、Ⅰ・Ⅳ・Ⅴ式には大小の2種があるという。

南都七大寺Ⅰ式A式
東大寺の鬼瓦1 天平勝宝8歳(756)頃 高50.8幅44.5㎝ 東大寺講堂出土 東大寺蔵
『奈良時代の匠たち展図録』は、創建は天平15年(743)10月15日に出された聖武天皇の「盧舎那仏造顕の詔」に端を発する。大仏殿は天平宝勝3年正月14日には立柱上棟(751)が行われた。中門は天平勝宝4年の開眼供養の段階では既に建立されたという。
『東大寺大仏展図録』は、講堂は、大仏殿の北側に位置し、大仏殿や西塔院などよりも遅れて、天平勝宝8歳頃に完成したらしい。
講堂跡からは非常に大型の鬼瓦が出土している。南都七大寺式と呼ばれ、東大寺の創建に伴って案出されたデザインと考えられる。大きく見開いた眼や鼻孔を膨らませた鼻、牙をむき出して開く口など、鬼面文を半肉彫りで表している。大きさから見ても講堂の大棟を飾っていた可能性が高いが、釘孔も背面の把手もないため、上端に鳥衾を掛けて固定していたのであろうという。
目が丸く大きく立体的なのは、慶州付近出土の鬼神文鬼瓦に似ているが、大きく開いた口が、棟の丸瓦にのせるための刳りで、下側は犬歯のみ表すという、新たな表現となっている。
鳥衾の位置についてはこちら

南都七大寺ⅠB式
大安寺の鬼瓦 8世紀中頃 高41.0幅35.5 大安寺出土
『奈良時代の匠たち展図録』は、大安寺は『続紀』の錯簡があるものの霊亀2年(716)5月に他の諸大寺に先んじて、左京六坊四条の地に移転した。養老7年までには造営はかなり進捗した。天平17年(745)には大官大寺から大安寺に改称された。天平神護2年(766)東塔に落雷があったが、翌年に完成したという。
『鬼瓦』は、Ⅰ式は額に線鋸歯紋を飾り、顎の左右に直線的なヒゲと耳を配する。眼は倒卵形で、眉間を高く盛り上げて弧状のしわを入れる。鼻は鼻孔を上向きに大きく開け、鼻柱に段を作る。外縁にそって密に珠紋をめぐらせ、上下を凸線で画す。大型のAは東大寺所用、小型のBが大安寺から出土している。
口は耳まで裂けて4本の歯と牙が棟をがっしりと噛む形であるという。
ⅠA式は、上歯と刳りの間に空間が設けられているが、1B式ではみられない。

唐招提寺の鬼瓦1 残存長35㎝ 唐招提寺出土
『奈良時代の匠たち展図録』は、講堂は『建立縁起』に平城宮大極殿院の朝集殿を施入されたことが記されており、天平宝字7年(763)の鑑真入寂以前にはあったと想定されている。今回の解体修理で行われた年輪年代測定法によって天応元年(781)の伐採年代が与えられた。このことによって金堂完成の上限が781年となる。唐招提寺の伽藍は一つの造営機関が集中的に建立したのではない。
左目辺りと縁は平縁で密な珠文と線鋸歯文が巡らされる。唇がめくれ上がり直線的な犬歯を剥き出す。笵型から起こして細部を削り出して製作する。両面には刳り込みを入れて板状把手の固定装置をつけた痕跡がある。南都七大寺Ⅰ式は造東大寺司の製品として考えられるものである。このほか境内からは平城宮Ⅰ-A・B2型式が出土しているという。
線鋸歯文は眉を表しているのかも。
東大寺の鬼瓦2 東大寺出土
『奈良時代の匠たち展図録』は、笵型から成型して細部を削って製作される。毛利氏分類の南都七大寺Ⅰ式B1型式である。造東大寺司が天平勝宝年間から製作したものとされているという。
同じ型式の鬼瓦でも、欠け方によっては、全く別のものに見えてしまう。

南都七大寺Ⅱ式 
法隆寺の鬼瓦5 8世紀中頃 高35.8幅29.5㎝ 法隆寺西院伽藍出土
『鬼瓦』は、Ⅱ式はⅠ式に似るが、下顎位置を突出させ、口端にしわを寄せる。額の鋸歯紋はⅠ式より細かく、珠紋もさらに密。耳は渦巻状で、瞳を高く突出させる。今のところ、法隆寺西院伽藍に限られるという。
Ⅰ式と比べるとかなり薄造りに感じる。
突出していたという瞳や鼻が欠けているので、かなり平板な鬼瓦のようで、一見、他の南都七大寺式鬼瓦とは別の種類のようだ。
下端の刳りの上に口全体が表されていたことが、左下犬歯の位置で推察できる。

南都七大寺Ⅲ式
唐招提寺の鬼瓦2 唐招提寺南大門付近出土 唐招提寺蔵
『鬼瓦』は、Ⅲ式は額に鋸歯紋がなく、かわりに眉を付す。顎ひげは細かい巻き毛である。瞳を高く突出させ、瞼・眉を弧状に表す。鼻柱から眉間にかけて弧状のしわをつらねる。平城京右京の薬師寺・唐招提寺・西大寺で使用されたという。
顔の他の部品は高浮彫なのに、ヒゲだけは浅浮彫と、極端に表現が異なっている。
西大寺の鬼瓦 推定全長約47㎝、最大厚さ約7.5㎝ 西大寺出土
『奈良時代の匠たち展図録』は、創建は『西大寺資材流紀帳』によれば、天平宝字8年(764)に起こった藤原仲麻呂の乱に単著が求められる。神護景雲3年(769)頃には薬師金堂、宝亀2年(771)頃には弥勒金堂が完成したと考えられている。
額の線鋸歯文は省略され、珠文帯の内側に巻毛が頬の辺りに表現される。上下の犬歯は表現されるが、下顎は省略されるという。
唐招提寺のものが顔だけ、西大寺のものが周辺だけ残っていて、2つを見ることで、Ⅲ式の全体像が捉えられる。

南都七大寺ⅣA式
平城京の鬼瓦 平城京東三坊出土 奈良文化財研究所蔵
『鬼瓦』は、Ⅳ式は額の鋸歯紋・顎ひげ・耳の表現を欠いた簡略な表現で、三角形の眉が特徴である。眼は円形に近く、眉間を瘤状に盛り上げる。珠紋は小さく密で、周囲を環状に窪ませて竹管を突き刺したようにつくる。大安寺・東大寺のほかに平城宮・京からも出土しているという。
眉間に深い皺が刻まれていないので、穏やかに感じられる。
Ⅲ式では浅浮彫だったヒゲもなくなっている。
三角形の眉については、鋸歯文の名残のようにも思える。

南都七大寺Ⅴ式
出土地不明の鬼瓦 8世紀後半 出土地不詳 天理大学附属天理参考館蔵
『鬼瓦』は、Ⅴ式はⅣ式に似るが、まぶたの幅が広く、鼻翼に沿って強く曲折している点で異なる。興福寺および奈良塀や東南部の加守寺からの出土が知られるという。
更に簡略化、あるいは退化している。
興福寺の鬼瓦 興福寺出土
『奈良時代の匠たち展図録』は、眉が三角形に表現され、瞼が鼻翼によって曲げられ、犬歯が短いことが特徴的である。また珠文の周囲は凹線が巡らされる。興福寺荒池瓦窯で製作されたと考えられるという。
こちらも珠文は竹簡を押しつけて作ったように見えるが、幾つか欠失しているのは、土台に別の土を置いて、それを竹簡で刺していったからではないだろうか。土を十分になじませていなかったので、ポロッと落ちてしまったような印象を受ける。

南都七大寺Ⅵ式は図版がないので、その系統といわれるもので代替とする。

河内国分寺の鬼面文鬼瓦 河内国分寺出土 大阪府教育委員会蔵
『鬼瓦』は、畿内においては、河内国分寺からは南都七大寺Ⅵ式の系統をひく鬼瓦が出土しているが、山城・播磨・和泉などではしられておらないという。
牙の歯茎が長く、直線的に表現されている。

興福寺の鬼面文鬼瓦 天平6年(734) 縦約50横約50㎝ 西金堂跡出土 興福寺蔵
『奈良時代の匠たち展図録』は、藤原不比等が和銅3年(710)に遷都とともに移転したと想定される。『続紀』には養老4年(720)に「造興福寺仏殿司」設置の記事が登場する。
『興福寺』は、興福寺の鬼瓦は、出土品で5種類が知られる。このうち3種類は平城宮の鬼が転用され、2種類は興福寺独自の顔を持つ。
この鬼瓦は天平6年に創建された西金堂に用いられたもので、興福寺独自の鬼瓦である。顔面の右上半部と左目・眉の部分が出土した。眉間に瘤を造り皴を描き、釘穴を開ける。眼球は丸く大きく突き出す。目尻は吊り上がり、眉は「へ」の字形。鼻は高く鷲鼻。顔の周囲に巻毛、外縁に大粒の珠文を密に配置する。顔面中央や左側の縦方向に粘土の突帯が走る。これは鬼面の彫刻面の凹凸が激しいために、笵を左右に分割した合わせ目であるという。
年代からみて、南都七大寺式鬼面文鬼瓦が作られる以前に製作されたらしい。
南都七大寺式と比べると浅浮彫である。顔面の周囲を巻き毛が囲むのは平城宮式だが、平城宮式には連珠文はない。平城宮式から南都七大寺式へと繋がる過渡期の鬼面文鬼瓦ということになる。

また、南都七大寺式の鬼面文鬼瓦はは長岡宮へと受け継がれていった。

長岡宮の鬼面文鬼瓦 8世紀末 長岡宮出土 京都大学蔵
『鬼瓦』は、宮殿用の鬼瓦をそのまま借用していた段階から、次第に寺院独自の鬼瓦をつくり出してゆく、その過渡期の様相を示すものであろうという。
珠文が疎らになってきた。

          鬼面文鬼瓦2 平城宮式←    →鬼面文鬼瓦4 国分寺式

関連項目
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦5 平安時代
鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代
鬼面文鬼瓦7 法隆寺1
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
馬具の透彫に亀甲繋文-藤ノ木古墳の全貌展より

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂

「天平展図録」 1998年 奈良国立博物館
「興福寺」 興福寺発行
「東大寺大仏 天平の至宝展図録」 東京国立博物館・読売新聞東京本社文化事業部編 2010年 読売新聞東京本社 
「奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」 2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館