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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/04/07

鬼面文鬼瓦4 国分寺式



『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、畿内における獣身紋鬼瓦の登場とほぼ軌を一にして、北部九州では大宰府政庁を中心にいわゆる「大宰府式」の鬼面紋鬼瓦を用いはじめた。平城宮よりわずかに先んじており、鬼面紋鬼瓦としてはわが国最古のものといえる。
一般に7世紀後半代の統一新羅に源流を求めることができるとされる。しかしながら、大宰府式は角を生やしておらず、頭上に何もともなわないどころか、鳥衾のかかりとする部位は半円形の無地となっていて、下顎を欠く点からも、新羅の鬼瓦とは異なる。むしろ中国あるいは渤海からの影響を考慮すべきであろうという。

太宰府の鬼面文鬼瓦Ⅰ式 7世紀末-8世紀初 高47.1幅43厚15.5㎝ 太宰府政庁東北台地出土
『鬼瓦』は、歯が6本。口唇の側辺が内側に彎曲し、下顎が牙の下端で断ち切られる。鼻は下向きで、下端をわずかに窪ませ、眼は強くつり上げる。珠紋は大粒。高さ47㎝の大型と33㎝の小型とがある。図は大型だが、下底部の珠紋帯を削り取ってある。
Ⅱ式はⅠ式によく似ているが、高さ44㎝とやや小ぶりで、歯も4本と少ないという。
高浮彫の、いわゆる鬼瓦らしい鬼瓦は、当時の都ではなく、太宰府政庁で出現したのだった。


大宰府Ⅲ式の鬼面文鬼瓦 8世紀、天慶4年(941)以後 高43㎝ 大宰府政庁跡出土
『鬼瓦』は、大宰府政庁Ⅲ期、941年、藤原純友の乱で炎上した後の再建の時期の製作と考えられる。
歯が6本で、口元にしまりがなく、下方に向かって広がる。眼はほぼ水平。珠紋は小粒でまばらであるという。
Ⅰ式を真似ようとしたが、技術が伴わなかったといったところだろうか。

『鬼瓦』は、大宰府式の鬼面紋鬼瓦は、大宰府政庁地域のほか、その付帯施設である水城・福岡県三宅廃寺・豊前国分寺、大分県弥勒寺跡・虚空蔵寺、佐賀県肥前国分寺、熊本県立願寺、鹿児島県薩摩国分寺などから出土しており、その広がりはほぼ九州全域に及んでいる。初期には眉がつり上がり、頬を膨らませた忿怒の形相が迫力にみちていたが、次第に形式化して、8世紀末の薩摩国分寺に至っては、当初の面影はないという。

虚空蔵寺の鬼面文鬼瓦 大分県虚空蔵寺跡出土 慶応大学蔵
この鬼面は憤怒の形相をしているので、奈良時代初期の鬼瓦ということになる。

薩摩国分寺の鬼面文鬼瓦 鹿児島県薩摩国分寺出土 新田神社蔵
円頭台形の外形、まばらに並んだ珠文という点では大宰府式の鬼面文鬼瓦の系統だが、顔の作りには独特のものがある。

『鬼瓦』は、天平13年(741)、聖武天皇は詔勅を発し、諸国に国分寺の設立を命じた。天平9年に仏像造立の命が出されており、すでに各地で堂塔の建立は始まっていたと考えられる。したがってこの詔勅は、各地に僧寺と尼寺をあわせおくことを確認し、その正式名称を「金光明四天王護国之寺」「法華滅罪之寺」と定め、東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とするなど、国分寺制の最終決定であったと評価される。
諸国の国分寺・尼寺で使われた軒瓦の系統を調べると、おおよその当時の政治の中心であった平城宮系と、在地的要素が強いばあいに二大別できる。しかし、使われた鬼瓦は、大宰府式の使用で比較的統一された九州をのぞき千差万別の様相を示し、中央の系譜にのっとるものはきわめて少なく、地域的なまとまりさえ認められないという。

河内国分寺の鬼面文鬼瓦 河内国分寺出土 大阪府教育委員会蔵
『鬼瓦』は、畿内においては、河内国分寺からは南都七大寺Ⅵ式の系統をひく鬼瓦が出土しているが、山城・播磨・和泉などではしられておらないという。
南都七大寺Ⅵ式の図版はないのだが、眉が三角形で表されるⅣ式・Ⅴ式の流れを汲むものであることは確かだろう。
南都七大寺式鬼瓦についてはこちら

『鬼瓦』は、鬼面紋の系統は地域的に隔たった分布を示すという。

武蔵国分寺の鬼面文鬼瓦 武蔵国分寺出土
同書は、肩が角張り、側辺が垂直と、鬼瓦の外形の特異性しか述べていない。
鬼面も独特で、まず歯が5本、丸瓦に組み込むための刳りと上歯の間には充分な距離があるのに、下歯はない。
顎ヒゲ、頬ヒゲ、眉が数本の凸線で表される。その線には肥痩があり、かなり熟れた技倆を示す。それにもかかわらず、額から鼻にかけて1本、鼻孔から顎にかけて2本、下書きのような線が残っている。
頬の2つの盛り上がりは、他では見られないものだ。

上野国分寺の鬼面文鬼瓦 群馬県上野国分寺出土
同書は、武蔵国分寺の鬼面文鬼瓦と同形という。
上図の外形がこの鬼瓦で理解できた。しかしながら、鬼面の表現は全く異なる。
こちらは歯は4本だが、鼻の両側に2つずつ丸い突起がある。おそらく内側のものは鼻孔で、外側は頬を表しいてるのだろう。目も丸い。
これまで見てきた鬼面文鬼瓦は、角のような眉も含めて眉は上に向かって表されていたが、この鬼面は2本の眉が下がっている。そして、4本の上歯のすぐ下に顎ひげが描かれているなど、鬼面文鬼瓦として特異なものである。鬼面と連珠文の間に3本の細い凸線の鋸歯文の退化したような文様帯が巡るなど、鬼面文鬼瓦を見たとこのない人が作ったような出来上がりだ。

尾張国分寺の鬼面文鬼瓦 尾張国分寺出土 妙興寺蔵
同書は、尾張、駿河などの国分寺から出土する鬼瓦は、下牙の表現を欠き、鬼面も迫力がない。よくいえばのびのびとした自由な作風といえようかという。
連珠文もなく、顔の輪郭もないが、眉・目・鼻・上歯は高浮彫に表される。
目の外側にたてがみのような毛、口髭、口の周りにも毛が生えて、毛むくじゃらだ。
額の3本の皴の上にコブのようなものがある。

甲斐国分寺の鬼面文鬼瓦 甲斐国分寺出土
同書は、憤怒の形相があらわで、一見大宰府式に似るという。
まず、形が円頭台形ではない。上に突起があるのは、鳥衾と組み合わせるためのものだろうか。
大宰府式のような高浮彫ではないが、各部位との境目ははっきりと切り込まれている。目を囲んだような眉は吊り上がり、上の牙は長く外に反って、口の形がその牙に合わせて盛り上げて表され、牙の先は口から出るど、大宰府式よりも迫力がある。下牙も小さいが表現されている。
上の歯は5本並んだものが、ここにもあった。
国分寺の鬼面文鬼瓦の中では、完成度の高い方だろう。

それぞれの地で、笵型も与えられずに、四苦八苦しながら鬼面文鬼瓦を作ったことが窺えるような、鬼面文鬼瓦ばかりだった。


        鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式←  →鬼面文鬼瓦5 平安時代

関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式
鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代
鬼面文鬼瓦7 法隆寺1
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂