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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/25

中国の涅槃像には頭が右のものがある




中国では涅槃像はわずかながら残っている。

釈迦涅槃像 甘粛省・永靖炳霊寺石窟第132窟東壁門上 長2.15m 北魏(446-530)
『中国石窟永靖炳霊寺』は、右肘の上に臥す。仏光の背後に弟子が哀悼している。頭部に跪いているのは仏弟子の一人舎利弗であるという。
永靖が北魏に統治されていた頃、すでに涅槃像が制作されていた。涅槃図よりも早い出現ということなのか、それとも涅槃図も描かれたが残っていないだけなのか。
釈迦は光背に包まれている。その光背は何色かの曲線状で構成されていて、「仏光」と呼ばれている。キジル石窟に見られるような荼毘の火というよりも、釈迦が発する光を表しているらしい。
釈迦涅槃図浮彫 山西省・雲崗石窟第11窟西壁第3層南側 雲崗中期 北魏・5世紀
『中国石窟雲崗石窟2』は、円拱龕内に一仏坐像、龕下側に仏涅槃の場面が浮彫されている。仏の前に一人の弟子が立ち、後ろに弟子が一人跪いている。その両側には二人の弟子と一頭の獅子が表されるという。
何故か釈迦は頭を右側に向けた姿で表されている。
そして光背はない。
仏坐像の下の帯状の空間の一部と、限られた面積の中で精一杯涅槃の様子を表したためか、素朴な表現となっている。他に涅槃図というものを見たことのない工人が造ったのではないかとさえ思える。
釈迦涅槃図浮彫 雲崗石窟第38窟北壁東側 北魏・6世紀
『日本の美術268涅槃図』は、挙身光を付けた釈迦が、頭を向かって右に向け、両手を体側に付けて横たわる。枕もとと足もとに各一人のほか、背後に5人の会衆がみえるという。
雲崗石窟では、涅槃の姿は頭を右に向けるのが一般的だったのだろうか。
涅槃図浮彫 河南省・龍門石窟第14窟左壁 北魏・6世紀
同書は、龍門石窟唯一の涅槃像。釈迦は右手枕で横たわるが、その姿は仰向けに近い。背景に沙羅双樹がなく、室内の帳の中に置いた寝台に横たわるという。
頭部は左側に表されているが、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した(同書より)とされる状況とはかなり隔たっている。
北魏時代、雲崗石窟でも龍門石窟でも、本来の涅槃の場面とはかけ離れた涅槃像が造られていた。それは、敦煌莫高窟にも北魏時代の窟に涅槃図がないことと関係しているのだろうか。北魏時代、涅槃図・涅槃像そのものが中国では表されることが少なかったのだろうか。

涅槃図浮彫 五層四面塔2層目 石造浮彫 1976年甘粛省荘浪県水洛城徐家碾出土 北魏時代・6世紀前半 荘浪県博物館蔵
『中国国宝展図録』は、仏伝には九龍灌水、出家踰城、アショーカ王施土、涅槃がある。この他、過去七仏、二仏並坐など図像はさまざまで、また迦陵頻伽やヒンドゥーの影響を受けた多頭の神像など、多様な造形がみられる。
山西省涅水でやはり6世紀の制作にかかる同じタイプの作例が大量に発見されており、一つの流行があったことをうかがわせるが、必ずしも中国全域でみられるわけではなく、出土例からみる限り、制作された地域は限られていたようだ。
角ばった顔の表現などは、必ずしも洗練された造形とは言いがたいが、逆に地域性や当時の民間の造像のありようを示すものといえようという。
光背を付けない釈迦は仰向けに臥している。頭部に触れているのは舎利弗だろうか。
背後で両手を挙げて悲しむ人々の衣装が独特。
北魏時代末期とはいえ、このような地方作のものでさえ、頭部を左側に表されている。やっぱり雲崗石窟の涅槃像は変。
寝台の下で角笛を吹いたり、足や腕の関節に編鐘のようなものを付けて踊ったりしているのは、この地方の葬送儀礼なのだろうか。
涅槃図浮彫 四面像内 砂岩 東魏時代(534-550) 大阪市立美術館蔵(山口コレクション)
『中国の石仏展図録』は、涅槃図は、双樹の間に出土が横臥し、激しい身振りで慟哭する4人の女性、釈迦の足に触れる鬚をたくわえた人物、迦葉と阿難、さらに背後に4比丘を浅く浮彫し、龕上には覆頭衣をつけて禅定に入り、火を放つ須跋を表す。ここでの涅槃図は、仏伝の一場面ではなく、三世仏中にあって仏滅を意味し、弥勒信仰と強く結びついているという。
釈迦は光背をつけず、頭部を左にして臥している。
敦煌莫高窟では隋代(581-618)に焼身自殺するスバドラは、寝台の前に表されるが、ここでは涅槃像の上に浅浮彫されている。
小さな石刻では忘れられがちな沙羅双樹は、ここでは石材の両端に高く表される。
やはりこれも地方の民間で制作されたものらしく、本来は仏弟子が頭部や足に触れたりしているだが、ここでは会衆の女性や男性に替わっている。
また、両腕と長い髪を釈迦の膝あたりに垂らした人物は、敦煌莫高窟では北周時代(557-581)にはなく、隋代に見られる。東魏時代のこの浮彫はそれらに先行する作品で、中国では早くから現れた嘆きの姿として興味深い。
敦煌莫高窟の北周時代の涅槃図はこちら
隋代の涅槃図はこちら
涅槃図浮彫 石造浮彫 北斉・天保10年(559) 東京国立博物館蔵
同書は、釈迦は向かって右に頭を向け、両手を体側に付け、仰向けに横たわる。沙羅双樹は8本、会衆11人という。
北斉時代になっても、頭部が右側にある涅槃像が造られることもあったようだ。
涅槃図浮彫 石造浮彫 唐・天授3年(692) 山西省博物館蔵
同書は、もと狗氏県文廟にあり、則天武后のために制作された。涅槃前後の諸事件とともに浮彫され、釈迦は右手枕で横たわり、光背を付けない。多くの会衆あり、釈迦の足もとに手を触れる大迦葉の姿が認められるという。
左腕は体側面よりも内側にあり、手先も衣に隠れているようで見えない。
北斉時代の涅槃像から1世紀余りで、涅槃像は涅槃図らしくなってきた。
涅槃図浮彫 釈迦如来及び諸尊仏龕 唐時代(618-907) 白檀 仏龕総高18.3㎝京都報恩寺蔵
同書は、箱形の龕の左右に扉を兼ねた脇龕が付く。釈迦浄土の上方に八つの小区画を設け、本生譚と仏伝を彫るが、涅槃像は中央龕の左端にあり、釈迦の姿は法隆寺五重塔彫像と近いという。 
ただし、2006年の重文に新指定された同寺の仏龕と同一のものなら、北宋時代とされている(文化財データベースの木造諸尊仏龕より)。初唐の頃に定形化した涅槃像の一つの形式が、長い期間続いたということになるだろう。
日本の涅槃像といえば、やっぱり法隆寺。

涅槃像 法隆寺五重塔初層 塑造 和銅4年(711)
同書は、この日本に現存する最古の涅槃像美術は、後世の涅槃図とは種々相違するところがある。まず、右脇を下にして寝台に横たわる釈迦は、右手を差し出し、耆婆大臣がその脈をとるかのごとき姿に作られる。それは京都報恩寺が所蔵する唐代白檀製の仏龕の浮彫涅槃群像の釈迦の姿と酷似し、これが唐で流行していた涅槃像の一形式であることが確認できるという。 
日本では涅槃図あるいは涅槃像が将来された最初期に、すでに沙羅双樹ではなく、山岳地帯が背景となっている。 

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
京都大学の博物館で雲崗石窟仏像の目の正体を知る
石窟で見る龕の垂飾
雲崗石窟にも二仏並坐像がいっぱい
雲崗石窟に三柱九輪塔

※参考サイト
文化財データベースの木造諸尊仏龕

※参考文献
「中国石窟 天水麦積山」 天水麦積山石窟芸術研究所 1998年 文物出版社
「中国石窟 永靖炳霊寺」 炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国石窟 雲崗石窟2」 雲崗石窟文物保管所 1994年 文物出版社
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1983年 至文堂
「中国国宝展図録」 東京国立博物館・朝日新聞社編集 2004年 朝日新聞社
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「ブッダ展図録」 1998年 NHK